12 朝食


天井が高かった。
目を開けて、最初にそれを思った。
天井が高い。俺の部屋の天井は、立ち上がって手を伸ばせば届くが、ここは届かない。3メートルはある。
壁は白くて、周りに細い装飾の入って部分がある。どこで仕入れんだろ。
俺はそこで寝ていた。
柔らかいベッドと、暖かい布団。空調も効いてて頭も寒くない。
ゆっくり体を起こしてベッドに手をついた。
頭が痛い。割れそうな、ってほどじゃない。とりあえず、喉が渇いてる。
部屋を見回した。
俺の部屋が3つは入りそうなぐらい広い。ベッドが1つと、テーブルに、椅子が2つ。
大きいカーテンが引いてあるから、窓も広いんだろう。その隙間から光が入ってる。
床は絨毯が敷いてある。
自分の格好を確認した。
昨日のままのシャツを着てる。ジャケットは椅子の背にかかってて、ネクタイはテーブルの上に置いてあった。その隣に水のボトルが置いてある。
靴下もズボンもそのまま履いてる。靴は、部屋の入り口の扉の脇に揃えて置いてあった。
自分で脱いだんだかどうだか、覚えてない。
そこで、止まった。
──覚えてない。
俺は昨日のことを思い出そうとした。
送別会だった。
駅前の店、部屋は座敷で、8人いた。安藤部長に、奥の席に座らされた。途中でビールから日本酒に変わった。安藤部長が、城之内君は強いからね、って言ってた。
二軒目に移った。若手が1人潰れて、そいつを帰らせるからと2人が帰った。
三軒目の話が出た。店を出たら外が冷たかった。後をついて歩いてた。
辿れるのはそこまでだった。そこから先の記憶が、ない。
俺はテーブルの上を見た。
スマホも、財布もある。それだけ持って出たから、揃ってる。
時計を探したが、置いてない。スマホを取って画面を見た。それから、腕時計をしてたのに気付いた。
8時50分。
慌てて立ち上がったが、ふらついて、ベッドに座り込んだ。
出勤は8時半だ、連絡も入れてない。
いや、待て。
俺は今日、出勤なのか。
違う、有給期間中だ。2月15日から28日まで。今日は20日で、土曜だ。
土曜なら、出勤じゃない。じゃあ、なんで焦ってるんだ。4年間、土曜に現場が入ってたからだ。入ってなくても、電話が鳴るからだ。
違う、そうじゃない。有給の筈だ。
俺はスマホを見た。
通知が並んでた。表示は14件。
課長から5件、事務所から3件、あとは知らない番号と、メッセージが来てた。
一番上のを見た。
課長。今朝の7時12分。
『昨日は悪かった。連絡くれ』
次。
『大丈夫か』
『城之内、連絡くれ』
その下は、6時台だ。
昨日の夜のもある。23時、24時。
スマホの画面を消した。
俺は昨日、一体何をやらかしたんだ。
考えても思い出せない。
覚えてないってことは、何かやらかしてる。
親父の顔が浮かんだ。
台所で寝てた朝のことだ。俺が学校に行く時間に、あいつは床にいた。流しの下のところで、横向きに丸まってた。缶がいくつか転がってた。
跨いで出ようとしたら、目を開けた。
そんで、俺を見て、言った。
「なんで俺はこんなとこにいるんだ。」
俺は何も言わずに、家を出た。
その日は、一日中それを考えてた。
授業中も考えてた。
なんで俺はこんなとこにいるんだ、って聞かれて、俺が知るかよ、と思った。
その時、あいつは本気で分かってなかったんだろうな、って考えてた。
自分で勝手に寝てたくせに、朝起きて、どうやってそこに来たのかも分からなくて、自分がどこにいるか分からなくて怖がってる。それが毎日続いた。
めちゃくちゃ、腹が立った。
なんで俺が、あいつの気持ちを考えてやってんだ。
あいつは俺の金を持っていった。俺が高一の夏にバイトして貯めた金を財布ごと持っていって、翌朝には覚えてないと言った。
覚えてないで済むと思うな、と言ったら、嘘を言うな、と殴られた。
記憶はあいつにとって都合よく書き換えられてて、財布を取られて殴られただけだった。
何故か殴ったことは覚えてた。
でもあれは、殴ったことがあるのを知ってただけかもしれない。何回もやってるから、それを覚えてることにしてたのかもしれない。
俺が反抗するたびに喧嘩になっていたから。
本当のところは分からない。
18の春、そのまま家を出た。就職が決まって、部屋を借りて、荷物を運んだ。
あいつが家に居ない内に出た。置き手紙もしなかった。連絡先も消した。
あれから4年、一度も連絡してない。こっちの番号も変えたから、向こうからも来ない。
生きてるかどうかも知らない。
あいつと決別することを選んだ。なのに、たまに考える。
捨てたのは俺だ。捨てられたのは俺でもある。俺もあいつも、互いに捨て合ったんだ。
ふと我に返ると、俺はボトルを持ったまま止まってた。
昨日の夜の記憶がない。
店を出て、歩いて、そこから先がない。
その、ない部分で、俺は何かを言ったかもしれない。何かをしたかもしれない。
肝心な部分を、俺は知らない。何かやらかしてたとしても、謝れない。
謝れないってことは。
そこで、手が震えて、ボトルをテーブルに置いた。
手汗を膝に擦り付けて拭った。
同じじゃねえか。
俺は、あいつと同じことをやってる。
2年、俺は数えてきた。飲んだ次の日も出勤する。人を殴らない。物を壊さない。自分の家で寝る。家賃を滞納しない。誰にも借りない。
飲むようになってから、2年だ。20歳になって、2ヶ月してから飲まされるようになったて、それから今日まで、後ろめたいことは何もやっていない。
それは俺の証明だった筈だ。
あいつがやったことの何もかもを、だ。俺はやってない。俺はあいつじゃない。だから、今日も大丈夫なんだ。
そうやって数えてきた。
昨日、俺は自分の家で寝てない。
昨日の夜のことを、俺は覚えてない。
分かってるだけでも、2つ崩れてる。
残りは。
人を殴ったか、分からない。
物を壊したか、分からない。
分からないって、それはもう、崩れてるってのと同じじゃねえか。
俺は自分の手を見た。
汚れてない。怪我もない。喧嘩をしたなら傷がある筈だ。でも、綺麗だ。
だから何だ。
あいつだって、殴った次の日に手が汚れてたわけじゃない。
俺は目を閉じた。
瞼の裏に、あの台所が出てきた。床に丸まってる背中だ。俺が大きくなってく頃には、だんだん痩せてた気がする。
俺が中学生の頃には、もうあんな体だった。飯を食わないで酒ばっか飲んでたからだ。
通り道に寝てるから、あの背中を跨いで学校に行った。
一回だけ、起こしたことがある。小学生の時の冬。その日は寒かったからだ。台所の床で寝てたら死ぬと思った。
肩を揺すったら、あいつが目を開けて、俺を見て、それから、笑った。
「おう、克也。」
その顔だけは、はっきり覚えてる。
俺は目を開けた。
やめろ、今それを思い出すな。くそ。
あいつは俺の金を持っていったし、俺を殴ったし、俺が言ったことを全部忘れた。
忘れたやつに、こっちが覚えててやる義理はない。
なんで、覚えてるんだ。
俺はテーブルに手をついて立ち上がった。大きく息を吸って、吐いた。
考えるな。
今は、帰ることだけ考えろ。
ジャケットを着て、ネクタイはポケットに入れた。
扉の前で靴を履いて、部屋を出た。

部屋を出ると、左右に伸びてる長い廊下があった。同じような扉が並んでる。数えたら、片側に6つあった。
歩いても、カーペットに吸われて足音がしない。
壁には大きな額に入った絵が掛かってる。
どっちに行けばいいか分からなかった。
とりあえず、左に向かった。
突き当たりに階段があって、とりあえず降りた。また廊下だった。
それでも進むと、天井が高い開けた場所に出た。シャンデリアがある。
これ、家なんだろうけど、規模がでかすぎる。
廊下を歩いてたら、人が来た。年配の女の人で、エプロンをしてる。
「城之内克也様ですね、おはようございます。」
「あ、おはようございます。」
「お目覚めでしたか。遅れて申し訳ありません。朝食はこちらです。」
そう言って歩き出した。
「あの、すいません。」
「はい。」
「ここ、どこすか。」
聞きながら、半分は分かってた。
女の人が止まって、少しだけ笑った。
「海馬邸でございます。」
海馬邸。
やっぱり。この規模の家なんて、海馬邸以外に知らない。
「……あの。」
「はい。」
「俺、なんでここに。」
「昨夜、瀬人様がお連れになりました。」
「海馬が?」
「はい、さようにございます。」
昨日の夜。
車。静かなエンジン。海馬瀬人。
断片的に、だけど思い出した。
貴様、こんな所で何をしている、と言われた。
乗れ、と何回か言われた。
水を渡されたけどキャップが開かなくて、開けてもらった。
吐くな、と言われた。
思い出せたのは、それだけだった。
そこから先が、ない。
「あの、俺、何かしましたか。」
「と、おっしゃいますと。」
「いや、その、迷惑かけたんじゃねえかと。」
女の人が首を振った。
「お車でお休みになっていらっしゃいましたので、瀬人様がお部屋に、と。」
「……そうすか。」
俺は聞き返そうとしたけど、やめた。
「朝食の支度は整っております。どうぞ。」
「あ、いや、俺、帰ります。」
「よろしいのですか。」
「仕事が。」
言ってから、止まった。
仕事。
今日は土曜だ。
土曜だけど、電話が来てる。14件だ。
いや、でも有給の筈でもあって。
「仕事があるんで。」
女の人が、少しだけ間を置いた。
「その件につきましては、瀬人様より、気にするな、とお伝えするようにと仰せつかっております。」
俺は口を開けた。
「……は?」
「仕事の件については気にするな、と。」
「気にするなって。」
「そのようにお伝えするようにと。」
俺はスマホを出した。
14件の通知が並んでる。
課長から5件。
『昨日は悪かった』
『大丈夫か』
『連絡くれ』
気にするな。
そんなわけあるか、と思った。
これは俺の仕事の話だ。うちの会社の話だ。
こいつが気にするなと言って、それで消える話じゃない。
「あの。」
「はい。」
「海馬は。」
「瀬人様は、朝から出ておられます。」
「……そうすか。」
「モクバ様が食堂にいらっしゃいます。」
モクバ。
「朝食はこちらです。」
3回目だった。
俺はついていった。



食堂もやはり、広かった。
長いテーブルがあって。10人は座れる。
その端に、1人座ってた。
今、中学生くらいだろうか。前より少し短い黒い髪、スーツじゃなくて、私服のシャツを着てる。
トーストを食ってたけど、こっちに気付いて顔を上げた。
「よお、城之内。」
「……モクバ。」
「久しぶり。」
「久しぶりだな。」
モクバがフォークで向かいの席を指した。
「座れよ。」
座った。椅子が重かった。
すぐに皿が来た。
トーストと、卵と、サラダと、あとスープ。
コーヒーも来た。
俺は皿を見てた。
「起きてるか?とりあえず食べろよ。」
「おう。」
食った。うまかったけど、それより、頭が回らなかった。
「あのさ。」
「うん。」
「俺、昨日。」
「ああ、兄様が連れてきてた。」
「……なんで?」
「さあ。」
モクバがトーストを噛んだ。
「俺も今朝聞いた。運転手が言うには、寝てる城之内を運んできたって。」
「運んできた?」
「うん。」
「俺が、運ばれて来たのか?」
「詳しくは知らないけど、人手はあるから何とかなったんじゃない。」
そう言ってモクバはコーヒーを飲んだ。
「……そうか。」
「城之内、前より重いだろ。」
「重くねえよ。」
「重いだろ。今、何キロあんだよ。」
「70くらいだ。」
「それ、増えてるだろ。腹が出てるからな。」
俺は自分の腹を見た。
高校の時は62だった。4年で8キロ増えた。増えたのは、たぶん酒だ。
「なあ、モクバ。」
「うん。」
「俺、昨日、なんか言ってたか。」
「さあ。」
「そっか。そうだよな。」
「聞きたいなら兄様に聞けよ。」
「……。」
聞いたら、答えが返ってくると思って、聞くのをやめた。
俺もコーヒーを飲んだ。
「城之内さ。」
「なんだよ。」
モクバがカップをソーサーに戻した。
じっとこちらを見てた。
「無茶な飲み方、やめろよな。」
俺は顔を上げた。
モクバは笑ってなかった。けど、怒ってなかったし、呆れてもなかった。
「城之内が飲むと、世話焼けるからな。」
「世話って……。」
「2回目だろ。」
「2回目?」
「去年もあったって聞いてるよ。道で潰れてたって。」
去年の5月だ。
あれ、こいつに伝わってるのか。
「あれは、その。」
「言い訳すんなよ。」
「してねえよ。」
「してるじゃん。」
モクバがまたコーヒーを一口飲んだ。
「別にさ、飲むのはいいんだよ。俺は飲めないけど、大人はそういうもんなんだろ。」
「まあ。」
「でも、道で寝るのは駄目だろ。」
「……そうだな。」
「危ないだろ。」
危ない。
その言葉が、変な感じで刺さった。
危ない、と誰かに言われたのは、いつぶりだろう。
課長は言わなかった。安藤部長も言わなかった。城之内は強いからね、と言った。
強いからね、というのは、大丈夫だね、という意味だ。
あれだけ飲ませても、危ないとは、誰も言わなかった。
「悪かったな。」
俺は言った。
「俺に謝ってどうすんだよ。」
モクバが言った。
「……そうだな。」
「まあ、いいけど。今後は程々にしろよ。」
モクバがトーストの最後を食った。それを飲み込んでから、思い出したみたいに言った。
「そういえばさ。」
「うん。」
「城之内、今って有給休暇中じゃなかったか?」
俺は止まった。
「……なんで知ってんだ。」
「え、聞いたけど。」
「誰に。」
「兄様に。」
俺は口を開けたまま、モクバを見てた。
「今朝、出勤する前にそう言ってた。あいつは有給休暇中のはずだ、って。」
「……。」
「違うのか。」
「……あってる。有給だ。」
「じゃあなんで会社の行事で飲んでんだよ。」
答えられなかった。
「送別会だって聞いたけど。」
「そうだ。」
「送別会って、会社の行事だろ。」
「……そうだな。」
「有給って、休みのはずだぜ。」
「ああ。」
「じゃあおかしいじゃん。」
中学生副社長が言った。
俺は皿を見てた。卵が半分残ってた。
おかしい。おかしいんだ。
分かってた。分かってて、行った。断ったら揉めるから行った。4年働いた場所を、最後に揉めて出たくないから行った。
それを、おかしいじゃん、で終わらせた。
何も言えなかった。反論出来ないしする気もない。
反論がないってことは、正しいってことだからだ。
「その様子だとさ。」
モクバが続けた。
「電話とかもめっちゃ来てるんじゃねえの。」
「……来てる。」
「今日、土曜だろ。」
「土曜だ。」
「有給で、土曜で、なんで電話が来るんだよ。」
俺はスマホを見た。
14件だった。さっきより増えてるかもしれないから、見なかった。
「……なんでだろうな。」
「変だろ。」
「変だな。」
言ってみた。
言ってみたら、そうだった。
変だ。
4年、変だと思わなかった。
それは、比べる相手がいなかったからだ。事務所の全員が同じだった。小林さんも、事務の子も、課長も。全員が同じだったから、それが普通だと思ってた。
比べる相手が、今、目の前にいる。
中学生が、変だろ、と言ってる。
「城之内。」
「なんだよ。」
「とりあえず食べろよ。冷めるぞ。」
俺は卵を食って、スープを飲んだ。
美味いな、と思ったら、なんか、変な感じになった。
「……モクバ。」
「うん。」
「ありがとな。」
モクバが顔を上げた。
「なんだよ急に。」
「いや。」
「メシのことなら、作ったの俺じゃねえぞ。」
「そうじゃなくて。」
「じゃあ何だよ。」
俺は言葉を探した。
探して、見つからなかった。
「……分かんねえ。」
「なんだよそれ。」
モクバが、笑って、立ち上がった。
「俺、今日午後から予定あるからさ。」
「おう。」
「城之内は、ゆっくりしてけよ。誰もいねえけど。」
「いや、帰るわ。」
「そっか。」
モクバが食堂を出ようとして、扉のところで止まった。
顔だけ振り返った。
「城之内。」
「なんだよ。」
「兄様、朝早く出てったんだけどさ。」
「うん。」
「今日、土曜だぜ。」
俺は顔を上げた。
「あの人、土曜も日曜も働くんだよ。ずっとそう。」
「……。」
「心配するこっちの身にもなってほしいよな。俺が言うことじゃないけどさ。」
それだけ言って、出ていった。
俺は1人になった。
長いテーブルに、1人で座ってた。
皿がある。コーヒーがある。
窓から光が入ってる。
俺はコーヒーを飲んで、スマホを出した。
14件の通知を、全部開いた。
課長のを読んだ。
『昨日は悪かった』
『大丈夫か』
『城之内、連絡くれ』
『昨日、途中でいなくなっただろ。探したんだが見つからなくて』
『とりあえず連絡くれ』
7時12分から、7時40分まで。
探したんだろうか、連絡がつかないから、朝になってもまだ連絡を待ってた。
俺は返信を打とうとして、指が止まった。
なんて打つ。
すいません、と打つのか。
4年間、そう打ってきた。
すいません、遅れます。すいません、確認します。すいません、有給中に。
暫く、指を止めたまま固まっていた。
それから、打った。
『大丈夫です』
それだけ送った。
送信を押して、画面を消した。
スマホはテーブルに置いて、コーヒーの残りを飲んだ。
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