海馬邸を出たのは、土曜の11時前だった。
車を出すと言われたけど、断って、門から出て、歩いた。
歩いてみたら、駅まで30分かかった。
途中で、コンビニに寄って水を買って、飲みながら歩いた。
礼を言ってない、気付いたのは、駅に着いてからだ。
使用人の人には言った。ありがとうございましたと言って、頭を下げて出た。モクバにも言った。ありがとな、と言った。何にありがとうなのかは分からないまま言った。
でも、あいつにはまだ言ってない。
言う相手が家にいなかった。
土曜の朝から働きに出てた。
俺はホームで電車を待ちながら、スマホを見た。
磯野さんからの連絡は、来てなかった。
次の日程は決まってない。
自分から連絡したらいいのだろうか、それで、なんて言う。
昨日はありがとう、と打つのか。
打とうとして、やめた。去年の6月を思い出したからだ。
廊下で、水の礼を言おうとして、その話はいい、と言われた。
多分同じことになる。礼は受け取られない。
俺は電車に乗った。
磯野さんから連絡が来たのは、日曜の夜だった。
『2月23日火曜、19時、本社地下テストプレイルーム。ご都合いかがでしょうか』
『行きます』
返事を送ってから、少し考えた。
デュエルの日に、礼を言えばいいのか。
デュエルをしに行くんだから、デュエルをすればいい。礼は、そのついでに言えばいい。
そう思ったのに、その三日間、俺は一度もカードを触らなかった。
月曜と火曜は、家にいた。
有給の残りだ。あと五日ある。数えるのをやめたから正確じゃないけど、多分それくらいだ。
月曜に一度、電話が鳴った。
課長からじゃなかった。事務の子だ。
「城之内さん、すいません、離職票の住所って今のままで大丈夫ですか。」
「大丈夫っす。」
「あと、ロッカーの鍵、返してもらってましたっけ。」
「返しました。最終日に。」
「あ、ありました。すいません。」
「いいっすよ。」
切ってから、少し座ってた。
金曜の夜のことを、誰も言ってこない。
課長からは、あの朝の五件のあと、連絡がない。俺が大丈夫ですと返して、それで終わってる。
送別会の途中で俺がいなくなったことを、あの人たちはどう処理したんだろう。
酔って先に帰った、で片付いてるんだと思う。
そんなもんだろう。
俺は部屋の掃除をした。
4年分の書類を捨てた。給与明細は取っておいた。手帳も取っておいた。
捨てるものと取っておくものを分けてるうちに、夕方になった。
夜、カードを触ろうとしたけど、また触らなかった。
火曜の朝、シャツにアイロンをかけた。
デュエルしに行くのに、アイロンをかけてる。
なんでアイロンなんかかけてるんだろう、と思った。
2月23日、火曜。
18時40分に、KCのビルに着いた。
受付でカードをもらう。もう慣れた手続きだ。
エレベータで地下に降りた。
廊下を歩いて、扉の前に立った。
扉が開くと、既にあいつがいた。
既にデュエルディスクを装着していて、コートは着てない。
「来たか。」
「おう。」
俺は部屋に入って、リュックを下ろした。
けど、まだデュエルディスクを出さなかった。
「準備をしろ。」
「あー。」
俺はリュックを見た。
デッキは入ってる。デュエルディスクも入ってる。持ってきてる。
あいつがこっちを見てた。
「今日はやる気がないようだな。」
「そういうわけじゃねえよ。」
「ではなぜ立っている。」
俺は口を開いた。それからまた、閉じた。
「……先に、話がある。」
「話?」
「話だ。」
あいつは何も言わなかった。
壁際のテーブルセットに向かい、椅子を引いた。反省会をやるところだ。
座った。
俺も向かいに座った。
「言え。」
俺は膝の上で手を組んだ。
「先週、ありがとな。」
礼は言えた。
あいつは何も言わなかった。
その話はいい、とも言わなかった。
黙って、俺を見てた。
「あの日、俺、覚えてねえんだ。店出たとこまでしか。だから、何があったかは知らねえ。けど、お前が乗せてくれたんだろ。」
「そうだ。」
「お前の家まで運んでもらった。」
「それがどうした。」
「だから、そのことだよ。」
俺は言葉を探した。
「なんつうか、その、悪かったし、ありがたかった。」
「……。」
「あと、朝も、飯食わせてもらった。」
「あれは俺ではない。」
「お前の家だ。だから、お前だ。」
あいつが少し黙った。
「そうか。」
それだけだった。遮られなかった。俺は、少し拍子抜けした。これだけのことで、体の力が抜けた。
去年の6月に言えなかったやつを、言えた。
「あとな。」
「まだあるのか。」
「ある。」
俺は続けた。
「モクバに、有給のこと言われた。」
「そうか。」
「有給なのにおかしいって言われた。」
「事実だ。」
「ああ、事実だった。モクバが正しかった。」
俺は頷いた。
「事実なんだけどよ。俺、4年、それがおかしいと思わなかったんだよ。周りが全員そうだったから。」
「知っている。」
「知ってんのかよ。」
「調べさせた。」
さらっと言った。
俺は顔を上げた。
「調べたって、何を。」
あいつが立ち上がった。
歩いていって、壁際のデスクから何か取ってきた。
紙だ。
2枚ある。
テーブルに置いた。
俺の前に置いた。
「読め。」
一枚目を見た。
タイトルが目に入る。『合意書』とあった。
その下に、当事者の欄がある。
甲、株式会社南設備。乙、城之内克也。
俺は読んだ。
未払い時間外手当の精算に関する条項があった。金額が書いてある。過去2年分だ。
その下に、年次有給休暇の未消化分の買取に関する条項。日数と、単価と、合計額。
その下に、立替金の精算。
金額が書いてあった。
9万5千円。
これは、俺が去年の8月に、コンビニのベンチで数えた金額だ。
なんで、こいつが知ってるんだ。
一番下に、署名欄があった。
甲のところには、既に判が押してある。南設備の社印と、代表者の判だ。
乙のところが、空白だった。
俺の名前を書く欄だ。
「……なんだこれ。」
「読んだ通りだ。」
「いや、なんでこんなもんが。」
「二枚目を読め。」
二枚目は、別の紙だった。
『覚書』
甲、大和設備工業株式会社。乙、城之内克也。
内容は短かった。
入社日を、3月1日付から4月1日付に変更する。それだけだ。
俺は読み返した。要するに、入社が一ヶ月遅れるということだ。
3月が、丸ごと空く。
署名欄を見た。
こっちも、甲のところには既に判が押してあった。大和設備工業、代表取締役の判。
乙のところが、空白だった。
「……お前。」
「なんだ。」
俺は紙を持った。
持った手が、少し震えた。
この町で、こんなことができる人間は1人しかいない。
南設備の社印と、大和設備の社印。どっちも俺が押させたわけじゃない。押させることの出来る人間が、目の前にいる。
「勝手に決めんなよ。」
「決めていない。署名がない。」
「そういう話じゃねえだろ。」
俺は紙をテーブルに置いた。
「これ、俺の会社だぞ。俺が受けた会社だ。俺が面接受けて、俺が返事して、それで決まったやつだ。」
「そうだ。」
「そこに、お前が入ってきて。」
「それで?」
「なんで入るんだよ!」
そう言ってから、自分でも驚いた。
あいつは驚かなかった。
黙って、俺を見てた。
「俺、まだ1日も行ってねえんだぞ。」
俺は言った。
「面接で1回会っただけだ。挨拶もまだしてねえ。それで、入社日ずらしてくださいって、誰が言ったんだよ。」
「俺だ。」
「そうだ、お前だ!違う、そのことじゃねえ!」
自分でも何を言ってるのか分からなくなってた。
それでも、続けた。
「向こうからしたらどう見えると思う。まだ来てもねえ新入りのために、日程動かしたんだぞ。人繰りだって組んであるだろ。3月に入るって話で、席も机も用意してあるだろ。」
「用意してあるようだ。」
「じゃあ分かるだろ!」
「分かる。」
「分かってて、なんでやったんだよ。」
あいつは答えなかった。
答えずに、テーブルの上の一枚目を指した。
「城之内。一枚目を見ろ。」
「見たよ。」
「有給の項目を読んだか。」
「読んだ。買取って書いてある。」
「意味は分かるか。」
俺は口を開いた。
開いて、閉じた。
「……金にすんだろ。」
「そうだ。それだけか。」
「……。」
分からなかった。
有給が金になる。それは書いてある通りだ。
でも、なんで金になるのかが分からない。
「退職金と何か違うのか?」
聞いてから、間抜けなことを聞いた気がした。
あいつは笑わなかった。
「別のものだ。退職金は勤続に対して支払われる。会社の制度による。有給の買取は、貴様が持っていた権利の代金だ。」
「権利って。」
「年次有給休暇は労働者の権利だ。付与された時点で貴様のものになっている。」
「……はあ。」
「貴様には31日残っていた。」
「あった。」
「そのうち10日を使った。残りは21日だ。」
「21日。」
「その21日は、2月28日をもって消滅する。」
俺は顔を上げた。
「消えるのか。」
確か、課長がそんなことを言ってた気がする。
「消える。有給は在職中の権利だ。退職すれば行使できない。」
「……じゃあ、21日分は。」
「何もしなければ消える。」
俺はテーブルを見た。
21日。
丸1ヶ月分だ。4年働いて、そのうち21日分、俺は休む権利を持ってた。
1日しか、自分から使わなかった。
「消えるものを、金に換えることは認められている。」
あいつが続けた。
「有給の買取は原則として違法だ。休ませない代わりに金を払う、という運用を許すと、制度の意味がなくなるからだ。」
「そりゃそうだな。」
「ただし例外がある。退職時の未消化分は、消滅が確定している。消えるものを買い取ったところで、休ませない結果にはならない。その為、認められている。」
「……なるほど。」
「義務ではない。会社の任意だ。応じない会社も多い。」
「南は応じたのか。」
「応じさせた。」
さらっと言った。
俺は少し黙った。
「どうやって。」
「時間外手当の未払いが2年分ある。労働基準監督署が動けば、それだけで是正勧告の対象になる。加えて、貴様が有給期間中に業務に従事した記録がある。」
「記録?」
「電話の着信履歴、貴様が事務所に入った日の入退館記録、接待での店側の記録。全て残っている。」
俺は口を開けた。
「そんなの、どうやって。」
「この町は俺が管理している。加えて、貴様の会社は我が社の取引先の取引先だ。」
多分、それだけで理由は足りるのだろう。
「南設備には2つの選択肢を提示した。」
あいつが言った。
「1つは、精算に応じること。もう1つは、応じずに調査を受けること。」
「……脅したのかよ。」
「事実を並べた。」
「同じだろ。」
「違う。」
あいつが俺を見た。
「脅迫は、事実でないことを言う場合に成立する。あるいは、正当でない要求を通す場合だ。俺が要求したのは、正当な労働対価の支払いと、消える権利の買取だ。どちらも法が認めている。」
俺は言い返せなかった。
「城之内。」
「なんだよ。」
「一枚目の金は、貴様のものだ。」
「……。」
「時間外手当は、貴様が働いた分。有給の買取は、貴様が持っていた権利の代金だ。立替金は、貴様が立て替えた金だ。」
「分かってる。」
「分かっていない顔をしているから言っているのだ。貴様は今、それを施しだと思っている。」
俺は黙った。
思ってた。
思ってたことを、当てられた。
「返されるべきものだ。貰うものではない。」
「……。」
「そのうえで、二枚目だ。」
あいつがもう一枚を指した。
「3月は空く。金は一枚目から出る。21日分の買取と、2年分の未払いだ。一ヶ月生活するには足りる。」
計算が合ってしまった。
反論すべきこともない。
俺は、一枚目の金額をもう一度見た。
見て、それから、ペンを取った。
いつの間にか、テーブルの上に置いてあった。
一枚目にサインした。
城之内克也。
書いた。
書いて、二枚目に手を伸ばした。
しかし、手が止まった。ペンが持てなかった。
「何故書かない。」
「……無理だ。」
「なぜだ。」
俺は二枚目を見てた。
『甲、大和設備工業株式会社』
「働いてねえ金の話じゃねえんだ。それは分かった。分かったけど。」
「言え。」
「向こうに、何もしてねえんだよ、俺。」
言った。
「面接受けて、採ってもらった。それだけだ。まだ1日も働いてねえ。何の役にも立ってねえ。それで、日程だけ動かしてもらうんだぞ。」
「そうだ。」
「大体、なんで俺が休むことになってんだよ。」
俺は紙をテーブルに戻した。
「金は分かった。返してもらうもんだって話も分かった。だったら、金だけ受け取って、3月から普通に働きゃいいじゃねえか。なんで休みまでセットになってんだ。」
「休め。」
「だから、なんでだよ。」
「貴様は先週、路上に座っていた。」
俺は黙った。
「その前は、去年の5月にガードレールの前に座っていた。」
「……。」
「二度だ。俺が見たのは二度だが、それが全てだとは思っていない。」
俺は何か言おうとした。
でも、やっぱり言葉が出なかった。
「貴様の体は、この4年で消耗している。記録に出ている。」
「記録って。」
「4年で、貴様は1日も欠勤していない。」
「……それの何が悪いんだよ。」
「悪いとは言っていない。」
あいつが言った。
「風邪も引かなかったのか。」
「引いたよ。引いたけど、出た。」
「熱は。」
「あったな。38度くらいの時は、あった。」
「出たのか。」
「出た。」
「何度ある。」
「……二回か、三回。」
「それを、健康だと呼ぶのか。」
俺は黙った。
「1日も休まなかったのは、体が丈夫だからではない。休まない仕組みの中にいたからだ。」
「……。」
「貴様が4年で使った有給は11日だ。そのうち10日は退職が決まってから消化したもの。実質、1日だ。」
「……そうだな。」
「その1日に、貴様は俺のビルの前に15時間立っていた。」
俺は顔を上げた。
「休みの日に、貴様がやったのはそれだ。」
言い返せなかった。
「それから、健康診断だ。」
「健康診断?俺は元気だ。」
「貴様の記録は入社時のものしかない。」
俺は少し考えた。
考えて、思い出した。
1年目の秋に受けた。バスが事務所の駐車場に来て、順番に呼ばれて、身長と体重を測って、血を採られた。
2年目は。
「……あれ。」
「思い出したか。」
「2年目、現場だった気がする。」
「3年目は。」
「……。」
覚えてない。
覚えてないってことは、受けてない。
「年に一度、実施する義務がある。事業者の義務だ。貴様が受ける受けないの話ではない。」
「知らなかった。」
「知らせなかったのだろう。」
そうかもしれない。
そう言われれば、そうだ。あの日、バスが来た日、俺は現場にいた。誰も呼び戻さなかった。
「けど、普通に生活出来て……。」
「3年分の記録がない。」
俺の言葉を遮って、あいつが言った。
「貴様の体がどうなっているのか、書類上は誰も知らん。貴様も含めてな。」
「……。」
「文句があるのなら、健康診断を受けてから言え。」
俺は口を閉じた。返す言葉がなかったからだ。
「3月から働けば、貴様は同じことを続ける。新しい会社で、また同じように働く。」
「あそこはそんなとこじゃねえよ。」
「だろうな。」
あいつが言った。
「だが、貴様は4年かけてその働き方を覚えた。環境が変わっても、体に入ったものは残る。定時で帰れる会社に行って、貴様は何をする。」
俺は答えられなかった。
「1ヶ月あれば抜ける。」
「抜けるって。」
「働かない時間に耐えられるようになる。今の貴様は、休むと落ち着かぬ筈だ。」
図星だった。
有給に入って1週間、俺は落ち着かなかった。電話が鳴るのを待ってた。鳴ったら安心した。
あれ、安心したんだ。
「……なんで、そこまで分かんだよ。」
「見れば分かる。」
「そんなことっ……。」
「そんなことはない、と言えるのか。」
言えなかった。
「そんなん、最初の印象が最悪だろ。」
俺は話を戻した。
戻したのは、そっちのほうがまだ何かを言えたからだ。
「面接で、専務さんに言われたんだよ。勢いで決める人は勢いで辞めるって。1週間考えろって言われて、俺は6日で電話した。あの時点でもう、軽いやつだと思われてる。」
「……。」
「そこに今度は、入社日ずらしてください、だ。若いのがお前に泣きついたって思われる。」
「そう思うか。」
「思うだろ、普通。」
あいつはこっちを見て、少し黙った。
それから、内ポケットに手を入れた。
紙を出した。4つに畳んである。折り目は新しいハンカチみたいにきっちり揃ってた。
開いて、テーブルに置いた。
「これも読め。」
今度のは契約書じゃなかった。
メールの出力だった。
差出人の欄に、大和設備工業、専務取締役の名前があった。
宛先の欄に、アドレスが1つ。
@kaibacorp.co.jp
その前の部分に、seto.kaibaと書いてあった。
俺は、そこを見てた。次に、本文を読んだ。
『海馬社長
ご連絡ありがとうございました。
入社日の変更、承知いたしました。3月中の人繰りはこちらで調整いたしますので、ご懸念には及びません。
当社としても、疲弊した状態の人間を現場に出すことは望みません。城之内君には4月からしっかり働いてもらいます。
1つだけ申し上げますと、あの人は面接の翌日に電話をかけてきました。1週間は考えろと言ったのに、6日で返事をしてきました。そういう人です。
3月は休ませます。休ませますが、多分休まないと思います。
そのつもりで、こちらも見ておきます。
大和設備工業専務取締役中原』
俺は何度か読み返した。
そういう人です。
3月は休ませます。休ませますが、多分休まないと思います。
そのつもりで、こちらも見ておきます。
そう書いてあった。
専務の言葉だ。
面接で、駄目です、と言った人。勢いで決める人は勢いで辞める、と言った人だ。
軽いやつだと思われてる、と俺は思ってた。
思ってたけど、この人は、6日で電話してきたことを覚えてた。
覚えてて、それを、そういう人です、と書いてる。
面接の時にしか会ってないのに、こうして書いてくれてる。
俺は紙を置いた。
暫く、何も言えなかった。
「……。」
「サインをしろ。」
俺はペンを持って、それから、顔を上げた。
「なんで、そこまですんだよ。」
言ってから、俺は、あ、と思った。
とうとう、聞いたことに気付いたからだ。
5年前、埠頭の海の中で鍵が落ちてきた時に聞かなかった。去年の5月、水を渡された時に聞かなかった。先週、車に乗せられた時に聞かなかった。
今、それを聞いた。
「何で、ここまでしてくれるんだ?」
あいつは、俺を真っ直ぐ見詰めてた。
すぐには答えなかった。
一秒か、二秒か。その程度だったけど、こいつにしては長かった。
こいつは、いつも即答する。何を聞いてもそうだ。デュエルの話でも、仕事の話でも、間を置かない。
それなのに、今は置いてる。
俺も、その様子を見詰めてた。
そしたら、自分の中で、何かが動いた気がして、慌てて目を逸らした。
逸らしたけど、遅かった。
何かが間に合わなかった。
「……。」
「……。」
どっちも何も言わなかった。
俺は、顔を落として二枚目にサインした。
城之内克也。
書いて、ペンを置いた。
置いた時に、手汗をかいてた。
あいつが立ち上がって、一枚目と二枚目を取った。三枚目には触らなかった。
「デュエルは出来るのか。」
「……悪い、今日は、頭がこんがらがってて。」
「そうか。」
「明日から、やる。時間ができるからな。」
「そうしろ。」
あいつが紙を揃えて、俺の横を通った。
通り過ぎる前に、立ち止まった。
コツ、と床が鳴った。
俺は座ったままで、顔を上げようとした。
途中で、影が落ちた。
ただ、近かった。
唇に、何か当たった。
1秒もなかったと思う。
そして離れた。
俺は動けなかった。
あいつは何も言わなかった。
そのまま身を起こして、紙を持って、扉のほうに歩いていった
扉の所で、振り返った。
なんでか知らないけど、面白そうに笑ってた。
「十分休んだら挑んで来い。」
扉が開いて、閉まった。
俺は座ってた。
テーブルに残ってた三枚目の紙を眺めてた。読んでいたわけではない。
専務のメールの出力。
紙を見てただけの筈が、顔が熱いことに気づいた。
手で押さえて確かめると、顔だけじゃなくて手も熱い。
何が起きたのかは分かってる。
分かってるけど、処理ができない。
長く息を吐いてから、俺は紙を見た。
宛先の欄で、目が止まった。
seto.kaiba@kaibacorp.co.jp
指を伸ばして、文字をそっとなぞった。
インクが乗ってるだけの紙。指で触ってもそれは熱くないし、何も変わらない。
それでも、なぞった。
s、e、t、o、の部分を。
こいつが、専務に連絡した。
俺の会社の、俺が面接を受けた会社の、俺を採ってくれた人に、こいつが連絡した。
俺のためにだ。
何も頼んでないのに、こいつは調べて、数字を出して、判を捺させて、専務にメールを送ってて。
そのメールに、専務が返事を書いた。
3月は休ませます。休ませますが、たぶん休まないと思います。
俺は指を止めた。何でこんなことしてんだ。
思わず指を外して、それでもそのまま、暫く宛先を眺めて座ってた。
部屋は静かで、機材のファンの音だけがしてた。
俺は紙を折り直した。四つに折って、リュックに入れた。
立ち上がって、扉に向かった。
扉の前で止まって、振り返った。
誰もいなかった。
テストプレイルームは広い。誰もいない。
俺は口を開いた。
「……次のデュエル、いつだよ。」
俺も多分、笑ってたと思う。
声が、天井のほうに消えた。
