最終出勤日は2月12日の金曜だった。
「約4年間、お世話になりました。」
朝礼で挨拶をした。それだけ言った。他にも色々と言うことを考えてきたけど、いざ立ってみたら出てこなかった。
課長が拍手を始めて、事務所が拍手した。
事務の子が小さい花束をくれた。
「城之内さん、有給ちゃんと申請してくださいね。」
「するする。」
「本当ですか。」
「本当だよ。」
荷物を持って、その日は17時に帰った。
帰りに、祝いとして駅前でラーメンを食った。
家に帰って、花束を流しに立てた。花瓶はペットボトルを切って使った。去年の5月から置いてある、KCのロゴが入ってるやつだ。
9ヶ月ここに置かれていた空のボトル。水を入れて、花を入れた。
やっと使い道ができた。
花束を挿した夜、磯野さんから連絡が来た。
『急ですが、明日、19時、いつもの場所で。ご都合いかがでしょう。』
いつもの場所というのは、テストプレイルームのことだ。
行ったけど、デュエルは負けた。11ターンだった。11ターンの壁が高い。
あいつが「食事だ」と言ったのが19時台だった。
車で数分の、近くの店に入った。個室じゃなくてカウンターだった。8人分の席があって、他には誰もいなくて、だけど2人で並んで座った。
飯を食いながら、反省会の続きをやった。5ターン目の話をしてる途中で、料理が来て、その間だけ話が止まって、また続きになった。
いい感じで続いてた。
締めの椀を置いたところで、あいつがスマホを出して、どこかに電話をかけた。
「開けろ。」
それだけ言って、切った。
「なんだ?」
「行けば分かる。」
店を出て、歩いてすぐのところに目的の場所はあった。
角を曲がると、見覚えのあるビルがあった。
3丁目の角、あの裏道の先だ。高校の頃、毎日走った道の先にある建物だった。それに、4年間、俺はここの前を仕事で何度も通ってる。シャッターが下りてるのしか見たことがない。
シャッターが、今日は開いていた。
「なんだここ。」
「ワーキングスペースだ。」
それだけだった。
後について中に入った。
高そうなラウンジみたいな作りだった。ソファがいくつかと、低いテーブル。照明が落としてある。
奥のほうに、デスクとモニターが見えた。パソコンが2台、並んでる。
誰もいなかった。
シャッターが空いてるってことは、管理してる人間がいるはずなんだろうけど、姿は見えない。開けるだけ開けて、いなくなったんだと思う。
「座れ。」
ソファを示されて座った。
壁の端には、酒のボトルが並んでた。ウイスキーかワインか何か思う。ラベルは見たことのないやつだ。
あいつは何も酒には目もくれなかった。
ボトルを眺めていたら、あいつが言った。
「飲むか?」
「いや、飲まねえ。」
「そうしろ。場所に合わせて飲む必要はない。」
それだけだった。
20歳を過ぎて、飲み始めてからの2年、酒がある場所は、必ず誰かが注いでくる場所だった。断る間もなく来る。断れば場が悪くなる。
ここに酒はあるけど、誰も注いでこない。
飲むかどうかを、俺が決めていいらしい。
あいつは酒の代わりに水のボトルを出してた。KCのやつだ。
「城之内。5ターン目の話だ。」
それから、軽く身を乗り出して、続きを始めた。
反省会は、そこから1時間は続いた。
1時間、誰も来なかった。誰も歌う必要はなかったし、誰も何かを注文する必要はなかった。
ふと、入り口に近いほうを選んで座ってたことに、後で気付いた。
ずっと、そうしてきたからだ。注文が通しやすい席、動きやすい席。
ここには注文する相手がいない。
気づいたけど、座り直さなかった。
有給は2月15日から28日までだ。
14日間のうち、土日を抜いて10日分。
初日の月曜、俺は10時まで寝た。
起きて、飯を食って、カードを触った。
昼から、駅裏のカードショップに行った。平日の昼で、誰もいなかった。店主が1人でカウンターにいた。
「珍しいっすね、この時間。」
「休みなんだよ。」
「へえ。」
夕方まで、そこにいた。やってきた相手を掴まえては挑んで、全部で四戦して、三勝一敗だった。
家に帰って、久しぶりに飯を作った。作ったといっても卵を焼いただけだ。4年ぶりに焼いた。焦がした。
夜は10時に寝れた。
いい一日だった。そう思った。
火曜の朝、電話が鳴った。
課長だった。
「城之内、悪い。C街区の資料な、Bのフォルダに入ってるって書いてあるけど、見つからねえ。」
「Bの、3番のとこっす。」
「3番にねえんだよ。」
「じゃあ、4番かも。すいません、見てもらっていいっすか。」
「今どこだ。」
「家っす。」
「悪いけど、ちょっと出れねえか。」
俺は少し黙った。
「……今日っすか。」
「今日じゃなくていい。明日でも。」
明日でもいい、ってことは、明日は出ろってことだ。
「分かりました。」
水曜、事務所に行った。
資料は4番にあった。3分で見つかった。
3分で終わるはずだった。
「城之内、来たなら悪いけど、これも聞いていいか。」
「あー、はい。」
「あとこれも見てくれるか。数量が合わないんだ。」
結局、昼までいた。
帰り際に、課長が言った。
「悪いな。有給中に。」
「いいっすよ。」
「今度飯おごるわ。」
「いいっす。」
木曜も鳴った。電話で済んだから行かなくて済んだ。
けど、俺は数えるのをやめた。
有給が何日残ってるか、どう使おうか、そういうのをもう数えなくなった。
数えても、意味がなかったからだ。
送別会は2月19日の金曜だった。
有給期間の、1週目の終わりだ。
課長から連絡が来たのは、その日の午前だった。
「城之内、夜、空いてるか。」
「はあ。」
「送別会だ。安藤部長も来る。」
「安藤部長がっすか。」
「向こうから言ってきた。城之内君を送ってやりたいって。」
俺は電話を持ったまま、暫く黙った。
安藤部長は大宮の人だ。うちの取引先で、見積もりを通す方だ。
送別会に取引先の部長が来る。
それはもう、送別会じゃないってことだって分かった。
「行きます。」
断る理由がなかったわけじゃない。
引き継ぎも済んだし、有給中。もう社員じゃないようなもんだ。3月からは同業の会社にいるし、行かないほうが筋が通る。
でも、断ったら、揉めるんじゃないかと思った。
4年働いた場所を、最後に揉めて出たくない。
それだけだった。
18時。
駅前の店だった。いつもの座敷。
8人いた。うちから課長と部長と、俺と、あと二人。大宮から安藤部長と、若手が二人。
俺は当然、入り口に一番近い席に座った。
いつもそこに座ってきた。
「城之内君、今日は主役なんだから、奥に座りなさい。」
安藤部長が言った。
「いや、俺はここで。」
「いいから。来なさい。」
奥の席は、出入り口から遠い。トイレに行くのにも、全員の前を通る。
ビールが来て、乾杯した。
「城之内君、4年間ご苦労さん。」
「ありがとうございます。」
「次はどこだっけ。」
「北の、大和設備です。」
「ああ、あそこか。」
安藤部長が笑った。
「あそこもうちの取引先だよ。」
「そうなんすか。」
「だから、これからもよろしくね。」
グラスに注がれた。
ここは飲まなきゃなんねえ。あいつのワーキングスペースを思い出した。飲まなくていい場所。
場所に合わせて飲まなくていい、って言ってたのも覚えてる。
けど、今日でこれっきりに出来ると思って、俺は飲んだ。
そこから、注がれるたびに飲んだ。
1時間くらいで、日本酒に変わった。
「城之内君は強いからね。」
安藤部長が言った。
何度も聞いた言葉だった。
「いや、そんな。」
「本当に強い。俺は何回も見てるよ。若いのが潰れてる中で、最後まで座ってるのは君だ。」
課長が笑って、俺も笑った。
グラスを持った。
その前に、一瞬の間があるはずだった。いつもある。飲む前の儀式のようなもの。それが、その日は、なかった。
なくなってた。
いつからなくなったのかは、分からない。
飲んだ。
二軒目に移ったのは20時半だった。
歩いて5分の店だった。
そこでも飲んだ。
若手の1人が潰れた。トイレに行って、戻ってこなかった。もう1人が見に行って、2人で戻ってきた。
「すいません、こいつ帰します。」
「おう、気をつけてな。」
2人減った。
俺は座ってた。
三軒目の話が出たのは、22時だった。
「城之内君、まだ行けるでしょう。」
「はい。」
答えてから、なんでそう言ったんだろうと思った。
でも、もう遅かった。あの一瞬の間は、ない。
店を出ると、外の空気が冷たかった。
2月の夜だ。冷たいのが顔に当たって、少し酔いが冷めてきた気がした。
前を課長と部長が歩いてる。安藤部長がその横だ。
俺は後ろについて歩いてるつもりだった。
道が、傾いてる気がした。
傾いてるわけがない。舗装された歩道だ。4年間、この道を何回も歩いた。傾いてない。
俺は立ち止まって、街灯の柱に手をついた。
前の4人が、気づかずに歩いていく。
交差点で、1人になった。
俺は電柱にもたれた。そっから動けなくて、そのまま、しゃがんだ。
歩道の縁石のところだ。
地面が冷たい。
去年の5月も、同じことをした。その時は課長が水を買いに行った。
今日は誰も気付いてない。
そのうち、いないことに気づくだろう。戻ってくるかもしれないし、戻ってこないかもしれない。
どちらでもいい。俺は膝に顔を伏せた。
とにかく回ってた。
目を開けても閉じても回った。
なんで俺は、ここにいるんだ。
今日は有給だの筈だ。申請した書類には、そう書いてある。
なのに、俺は今、歩道に座ってる。
書類ってのは、なんなんだ。
車が何台か通り過ぎていく。
一台、通り過ぎずに、俺の少し前で止まった。
エンジンの音が静かだった。
俺は顔を上げなかった。そんな気力はなかった。
ドアの開く音がして、足音が、近づいてきた。
それが俺の前で止まった。
「貴様、またか。こんな所で何をしている。」
顔を上げた。
上げたけど、焦点が合わなかった。
黒い。黒い中に、白い。
白いコート。
「……海馬?」
「立て。」
「立てねえ。」
「立てと言っている。」
「立てねえっつってんだろ。」
手が伸びてきて腕を掴まれた。そのまま引き上げられた。
思ってたより、ずっと強かった。俺は自分の足で立ったんじゃない。引き上げられて、立たされた。
立ったけど、体が前に倒れた。それでも、揺らがなかった。
「乗れ。」
「……は?」
「乗れと言っている。」
俺は前を見た。
黒い車が停まってて、後部座席のドアが開いてた。
運転手が降りてきて、立ってた。
「いや、いいって。俺、歩いて……。」
「歩けるのか。」
「歩ける。」
一歩踏み出したけと、ガクッと膝が落ちた。
また腕を掴まれた。
「乗れ。」
3回目だった。
俺は乗った。
乗ったというか、押し込まれて座席に落ちた。座席が柔らかかった。
反対側のドアが開いて、あいつが乗ってきた。
ドアが閉まると、外の音が全部消えた。
「……すげえ静かだな、この車。」
「当然だ。」
何かが差し出された。
ペットボトルだった。冷たい。
受け取ったけど、キャップが開かなかった。指に力が入らない。
手が伸びてきて、ボトルを取られた。キャップが開く音がした。
返された。
「飲め。」
言われるままに飲んだ。冷たいのが喉を通っていった。
「吐くな。」
「……へ?」
「この車で吐くな。」
変なことを言う奴だって思って、俺は笑ったつもりだった。声が出たかどうかは分からない。
「吐かねえよ。」
「過去に車で吐いた者が居る。……廃車にしたがな。」
「誰だよ。」
「言うと思うか。」
車が動いた。
窓の外が流れていく。童実野町、毎日見てた町だ。
見てるうちに、瞼が重くなった。
「海馬。」
「なんだ。」
「送別会だったんだよ、今日。」
「それで。」
「……俺、今日、有給なんだ。」
自分が何を言ってるのか、分からなくなってた。
この状況もよく分かってない。有給で、送別会で、取引先がいる。
有給。
書類の上では、休みだ。
休みなのに、飲まされてた。
「有給か。」
それきり、何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。話す気力はなかった。
窓の外が流れていく。
信号で止まった時に、体が前に揺れた。
戻る時に、傾いて、何かに当たった。
固かった。
肩だ。
これ、肩だな、と思った。
思ったところまでは覚えてる。
車内は静かだった。
信号が青に変わり、車は再び動き出した。
肩に重みがかかっている。
海馬瀬人は動かなかった。
視線を窓に向けたまま、姿勢を変えなかった。腕も、脚も、動かさなかった。
重みは、そのままそこにあった。
呼吸の音がしていた。深く、間隔の長い呼吸だ。眠っている。
「瀬人様。」
運転手が言った。
「城之内様のご自宅は、いかがいたしましょう。伺っておりませんが。」
すぐには返答をしなかった。だが。
「ならば貴様が運び込むのか。」
「は。」
「この状態の男を、階段のある建物に運び入れ、鍵を探し、部屋に置いてくるのか。そして俺に遠回りをしろと?」
「……いえ。」
「では聞くな。」
「かしこまりました。」
「出せ。」
「はい。」
車は交差点を右に折れた。
右に折れたことで、肩にかかっていた重みが少し増した。
海馬瀬人は動かなかった。
窓の外の景色が変わった。商業地区を抜け、街灯の間隔が広くなり、道の両側に塀が続くようになった。
速度が上がった。
肩の重みは、そのままだった。
