8月は暑かった。
現場は6時から動く。日が高くなる前に終わらせたい作業があるからだ。俺は6時半に合流して、荷下ろしの立ち会いをして、検収して、伝票を切る。
10時を過ぎると、コンクリートの上が40度を超える。ヘルメットの中に汗が溜まって、顎の線を伝って落ちる。安全靴の中も濡れる。
8月の3週目、酷暑が続き、A街区では熱中症が2人出た。うちの人間じゃなくて、施工側の職人さんだ。救急搬送されて、その日は午後の作業がストップした。
その夜も、俺は飲んでた。
現場が止まった話が出ると、所長が、暑いからな、とだけ言った。誰かが、最近は5時起きで昼から寝るのが正解らしいですよ、と言って笑いが起きてた。
俺はビールを一口飲んだ。
その日、俺は5時に起きて、22時に、まだ席にいた。
数えるようになったのは、仕事を始めてからだ。
昔は遅刻日数すら数えなかった。
高校の頃なんて、俺は本当に何も数えてなかった。金がなければ貸し借りしたし、腹が減ったら早弁して、眠くなれば昼寝してた。
デュエルの時も、相手のライフを細かく引き算しながら闘うやつを見て、よくやるなと思ってた。俺だって計算はしたが、基本、攻められる時に攻めた。やってみて、削り切れるかどうかはやってから分かった所もある。
それが、営業になって変わった。
見積りは数字だ。単価に数量を掛けて、掛け率を掛けて、端数を落とす。
納期は日数だ。搬入は台数と時間だ。伝票の数字が1つ違えば、あとで全部やり直しになる。
一日中数字を見てたからか、数字で考えるようになった。
サンプルケースの重さを量ったのも、きっとそのせいだ。8.2キロ。量る前は、ただの重いケースだった。量ってからは、8.2キロになった。
8.2キロだと分かると、少し楽になった。
分かってるものは、耐えられる。
分かってないものが、しんどい。
だから俺は、色んなものを数えるようになった。駅から現場までの道のりが14分で、信号が2つ。事務所を出るのが19時20分。飲みの席が終わるのが22時半。二軒目に行くと24時。
数えて、分かって、それで、どうにかなってるんだと思ってた。
8月の終わりに、財布を開けた。
コンビニで千円札があまりなかった。
小銭を探して、レジで手間取って、後ろの人が並んだ。すいません、と軽く頭を下げた。
外に出て、ベンチに座って、財布の中を確認した。
レシートとかでぐちゃぐちゃだったけど、三千円と少しあった。
給料日は10日後だ。
スマホで口座を確認した。
4万2千円あった。
家賃は先月分が落ちてる。次は来月の27日で、その前に給料は入ってる計算だ。光熱費と通信費は、来週引き落とされる。合わせて1万5千円くらいだろう。
回るけど、おかしい。なんでこれだけしかないんだ、と思った。
給料は手取りで22万ある。固定残業だから残業代はつかない。けど、去年もそうだった。
去年の今頃の月末の残高が、いくらだったかは覚えてない。それでも、こんなに気にした記憶がない。
だから、確実に減ってる。
何で減ってるんだ。
家賃は変わってない。光熱費は夏だから少し上がってるけど、そんな額じゃない。飯はほとんどコンビニだが、大抵そうだ。飲みに行く金は、店で払ってない。
店で、払ってない?
そこで、手が止まった。
俺はスマホのメモを開いた。立て替えた分は、全部メモしてる。日付と、金額と、名目。現金で戻すと言われてるから、記録がないと困る。
上から足していった。
7月の分。2件で、4万6千円。
8月の分。3件で、6万1千円。
10万7千円。
そのうち、戻ってきたのは。
7月の一件、1万2千円。
それだけだった。
もう一度足したが、同じだった。
10万7千円のうち、1万2千円だけ。まだ戻って来てない9万5千円。
俺は画面を見ながら、去年の分はどうだったかを考えた。
去年も立て替えはあった気がする。でも、そんなに多くなかった。基本は会社のカードを持たされて、それで払ってたからだ。
誰かが立て替えることが増えたのは、4月からだ。
4月。是正計画の話が出て、経費で落とすとまずいと言われるようになった時期だ。
つまり、記録に残せない飲み代を、俺が肩代わりしてると言うことになる。
俺の口座から出ていて、戻ってくることになってる。
なのに、戻ってきてない。
課長は忘れてるんだと思う。きっと、悪気があるわけじゃない。忙しいからだ。俺だって伝票を切り忘れることがある。そう思った。
言えばいいだけのことだ。
課長、あの立て替え分お願いします、と言えばいい。
なのに、なんで俺は今まで言わなかったんだろう。
そうか。言うタイミングがなかったからだ。朝は現場で、昼は事務所で、夜は飲んでる。課長と2人になる時間がなかった。
いや、ある。
飲みの帰りとか、タクシー待ちの間。事務所でも、皆が外回りで2人だけになることは、月に何回もあった。
その時に、俺は言わなかった。
言わなかったのは、俺が金の話をするのが嫌だったからだ。
親父が金の話をする人間だった。誰それに貸してる、誰それが返さない、あいつは俺から取っていった。酔うとその話になった。酔ってるから、何回も同じ話をした。
俺は金の話をしない。
それで、9万5千円出てる。
ベンチから立ち上がった。
立ち上がって、歩き始めた。数えるのをやめようとした。でも、頭が勝手に続きを計算してた。
9万5千円は、家賃1.2ヶ月分だ。
9月の第1週、課長に呼ばれた。
パーテーションの中だ。座れとは言われなかったので、立ってた。
「城之内、最近、KCの人間と何か話してるか。」
「何かって?」
「向こうの、上の方だ。」
「上の方って、平野さんとかじゃなくて、っすか。」
「そうだ。」
俺は少し考えた。
考えるまでもなかった。数えられる回数しかない。
「海馬なら、少し。」
課長の顔が明るくなった。かと言って、話せるようなことは話してないけど。
「いつだ。」
「2回あります。5月と、6月っす。」
「順番に言え。」
「5月は、飲んで潰れた時です。課長が水買いに行った時の。」
「あの日か。」
「あの日っす。俺が座り込んでる前で、車が止まって、窓が下りて、多分あいつでした。窓ごしだったんで、多分っすけど。」
「話したのか。」
「向こうが何か言いました。こんな所で何をしている、みたいなことを。」
「お前は。」
「覚えてないっす。何か言ったかもしれないっすけど。」
課長が黙った。
「そのあと窓が閉まって、黒服の人が降りてきて、水渡されました。車はそのまま行きました。」
「……それが5月か。」
「はい。6月は、KCの24階です。応接室に行く途中の廊下で、向こうから歩いてきて、すれ違う所で。」
「話したか。」
「二言三言っす。」
「何話した。」
「5月の水の礼を言おうとしました。そしたら、その話はいい、って言われて。」
「それだけか。」
もう1つあった。
自分の未来のロードくらい考えろ。
口を開きかけて、閉じた。
なんでだか、言いたくなかった。
隠すようなことじゃない。むしろ、意味が分かってない言葉だから、報告した所で課長も困る。で、どう言う意味だ、って言われて俺が困る話だ。それで、なんだそれ、って終わる話だ。
終わる話なのが、どうしてか嫌だった。
「……それだけっす。」
「そうか。」
課長が暫く天井を見て、椅子の背にもたれた。
「城之内。5月の件、なんで言わなかった。」
「言いましたよ。あの時、KCの人ですって黒服の人が言ったの、課長も聞いてたじゃないすか。」
「そうじゃなくて。社長本人が来たって話だ。」
「本人かは分かんないっすよ。……多分、そうだったと思いますけど。」
「他に誰が乗ってんだよ、あの会社の車に。」
言われてみればそうだった。
6月の時も、止まったのは、向こうだ。俺が呼び止めたからだけど、止まる義理はなかった。
課長が椅子の背にもたれて、天井を見た。
暫く黙ってた。
「城之内。」
「はい。」
「お前、海馬社長と同級なんだろ。」
3回目だった。
1回目は去年の秋、居酒屋の座敷だ。安藤部長が言った。海馬社長と同級なんだって?その時は誰も何も要求しなかった。俺は同級っすけど、と言って、話は別の所に流れた。
2回目は去年の10月、この部屋でだ。課長が言った。営業なら、そういうの使うもんだ。俺は、そういうもんかと思った。
3回目は、疑問形じゃなかった。
確認だった。
もう分かってることを、確かめるための言い方だった。
「……同級っすけど。」
あいつの情に訴えかけようなんて、無茶な話だ。
「C街区の話は聞いてるな。」
「9月着工の。」
「あれの二次に、うちが入る話が動いてる。今は元請けの選定中で、そこが決まってから下が決まる。だがな、上から名前が挙がってると、選定の時に効く。」
「はあ。」
「向こうの上の方に、南設備って名前を入れといてほしいんだよ。」
「俺がっすか。」
「他に誰が行くんだ。」
俺は課長の顔を見た。
「アポは取れます?」
「取れるならとっくに取ってる。」
去年と同じ言葉だった。
一字一句、同じだった。
「じゃあ、どうやって。」
「お前は向こうに顔が利くだろ。」
「利かないっすよ。」
「利くんだよ。」
課長が身を乗り出した。
「城之内。お前、自分がどこ通されてるか分かってんのか。」
「24階っすけど。」
「小林は受付脇の小部屋だ。狭いパーテーションのとこだ。同じ書類渡しに行って、あっちは10分、お前は40分だ。コーヒーが出る。菓子も出る。平野さんが自分で降りてきてお前を迎える。あれはな、普通じゃないんだよ。」
俺は黙ってた。
「1年だ。1年、お前が行くたびに俺は同じこと聞いてきた。どこ通された、誰が出てきた、何分いた。分かるか。ずっと確かめてたんだよ。」
「……何を。」
「お前に値打ちがあるかどうかだ。」
課長がそう言って、自分でその言葉に驚いたみたいに、少しだけ止まった。
けど、訂正はしなかった。
「悪い意味じゃない。うちみたいな会社が、KCみたいなとこに入り込むには、そういうもんがいるんだ。ツテだよ。営業ってのはそういうもんだ。」
「はい。」
「頼むぞ。」
「はあ。」
俺はパーテーションを出て、自分のデスクに戻って、座った。
パソコンの画面を見た。見積りの途中だった。数字が並んでる。
その数字が、1分くらい、読めなかった。
19時に事務所を出た。
その日は飲みがなかった。8月の最終週から9月の頭は、盆明けの調整で席が少ない。
家に帰って、電気をつけて、シャツを脱いだ。
シャワーを浴びて、出て、水を飲んだ。
流しの横に、ペットボトルが立ってた。
5月のやつだ。空のまま、4ヶ月置いてある。埃をかぶってきてる。
俺はそれを見て、その場に座った。
ずっと確かめてたんだよ、と課長は言った。
1年だ。
去年の11月、初めて呼び出しが来た日から、課長は毎回聞いてきた。どこ通された、誰が出てきた、何分いた、コーヒーは出たか。
俺はそれを、仕事のうちだと思ってた。報告するのが仕事だと思ってた。
違った。
比べてたんだ。
小林さんの回。1月に小林さんが行って、受付脇で10分で終わって戻ってきた。課長が聞いた。どこ通された、上には、コーヒーは。
小林さんが答えて、課長は黙ってた。
そんで、何も言わなかったけど俺の方を見た。
あの時に、答えが出てたんだ。
そこから課長は、俺しか行かせなくなった。2月に2回、3月に3回、4月に2回、5月に1回。全部俺だ。
一度、小林さんじゃなくていいのかって聞いた。
お前が行け、と言われた。
現場が入ってると言ったけど、現場は誰かに振る、と言われた。
振れるんだ、と思って驚いた。
3年、振れないと言われてきた。城之内しか行けない、体力がいる、朝が早い。3年ずっとだ。
それが、振れた。
なんで振れたんだ。
俺が行くと40分かかって、コーヒーが出るからだ。
40分の価値が、現場より上だと課長が判断したからだ。
俺は床に座ったまま、両手を見た。
指の関節が汚れてる。現場で触ったやつだ。洗ったのに落ちてない。
もう1つあった。
去年の11月8日。デュエルの前の10日間。
接待がゼロだった。
3年で、あんなことは一度もなかった。体調管理だと課長は言った。経費で落とすからスーツを作れと言った。当日は社名を出せと言ってた。
あれは、俺のためじゃなかった。
俺が壊れると困るから、10日だけ止めたんだ。
10日で足りると思ったから、10日だけ止めた。
11日目からは戻した。4月からは増やした。その上、記録から消した。
消えた分は、俺の口座から出てる。
今日も言い忘れてた9万5千円。
飲みの回数を数えてみる。4月からで、4月が9件、5月が7件、6月が8件、7月が6件、8月が7件。4ヶ月半で37件。
一件で4時間として、148時間。
それだけの時間、俺は酒の席に座ってた。
その時間は、どこにも記録されてない。
残業申請は出してない。出せないからだ。あれは仕事じゃないことになってる。
じゃあ、あれは何だ。
俺は、あの148時間を何だと思ってたんだ。
今までは仕事だと思ってたのに、今は仕事だと言えなかった。
言えないってことは、多分、そういうことなんだ。
有給は32日ある。3年で1日も使ってない。
32日休めてたら、俺は何をしてただろう。
思いつかなくて、暫くぼんやり座ってた。
思いつかないのは、休日って何をするものなのかを、忘れてるからだ。
去年の連休に3日休んだ。3日目の午後まで殆ど寝てた。起きて、飯を食って、また寝た。あれが休みだと思ってた。
違う。
あれは、回復だ。
減った分を戻してるだけで、何も増えてない。
楽しかったり、増えるほうの休みって、どういうものだっただろうか。
高校の時、休みの日は何をしてたんだっけか。
そうだ、カードショップに行った。遊戯の家に行った。本田と自転車で川まで行った。理由もなく歩いた。
腹が減れば食って、眠くなれば寝た。
何も数えてなかった。
あの頃は。
そこで、息が止まりそうになった。
数えてない生活を、俺は3年前まで送ってた。3年前まで送ってて、今は、駅から現場まで14分だと知ってる。信号が2つだと知ってる。サンプルケースが8.2キロだと知ってる。有給が32日だと知ってる。立て替えが9万5千円だと知ってる。
全部、俺が数えたものだ。
数えないと、耐えられなかったからだ。
分かってるものは耐えられる。分かってないものが、しんどい。だから数えた。
数えたら耐えられるようになって、耐えられるようになったから、3年続いた。
逆だ。俺が数えたせいで、3年続いたんじゃないのか。
床が冷たかった。
9月なのに、台所の床が冷たく感じた。
俺は膝を抱えた。
未来のロード、とあいつは言った。
説教だと思った。腹が立つ筈だと思った。腹が立たなかったのは、意味が分からなかったからだと思ってた。
違った。
意味が分からなかったんじゃない。
俺には、そこに乗っけるモンがなかった。
──未来のロード。
俺の未来のロードは、どこに行くやつなんだ。
来月は何をするんだ。C街区の話を通しに行く。けど、それは会社の未来だ。
来年は何をする。多分、同じことをしてる。D街区があるならD街区だ。
3年後はどうだ。3年後も、多分同じだ。
同じで、俺は24になってる。
24になって、まだ数えて耐えてるんだろうか。
その先は。考えても、その先は、真っ白だった。
真っ白なんじゃない。真っ白だと思ってたのは、見てなかったからだ。見たら、そこに何もなかった。
俺は立ち上がった。
立ち上がって、流しの横のペットボトルを見た。
4ヶ月置いてあって、少し埃をかぶってる。
こいつは、なんで俺に水を渡したんだ。
去年から、なんで俺を呼び出してるんだ。
考えてみると呼び出しは、いつも夜の予定がある日だった。
いつも、とは言い切れない。3月の一回は火曜の午前だった。2月の一回は接待のない木曜だった。
でも、大半はそうだった。
去年の11月から今年の5月まで、9回か10回。そのうち7回か8回は、夜に席が入ってた。
偶然だと思ってた。
思ってたっていうか、そういう見方を一度もしなかった。
俺が考えてたのは、KCに行くと一日が短くなる、ってことだけだ。事務所にいる時間が減る。電話を取らなくていい。楽だと思った。
楽だと思うことに、少し引っかかった。仕事なのに楽だと思っていいのかと思った。
引っかかっただけで、そこで止めた。
止めたのは、その先を考えるのが怖かったからじゃない。
考える体力がなかったからだ。
俺はペットボトルを手に取った。軽い。
これを持たせたのは黒服だが、指示したのは車の中の男だ。
車は止まった。通り過ぎなかった。
俺は、そのことを一度も深く考えなかった。
夜の道で、酔った男が座り込んでる。それを車が通り過ぎない理由は、ない。あいつなら尚更だ。
何にせよ、あいつが止まる理由はない。
止まったってことは、理由があったってことだ。
理由が何かは、分からない。
聞けば良かったのに、俺は聞かなかった。
5年前も、聞かなかった。
埠頭で海に沈んで、鍵が落ちてきて、誰が落としたのかは誰も言わなかった。
俺も聞かなかった。
なんで聞かなかったんだろう。
聞いたら、答えが返ってくるからだ。
そしたら、こっちもそれに何かを返さなきゃいけない。
ペットボトルを流しに置いた。
蛇口をひねって、コップに水を入れて飲んだ。
2杯飲み干してから、声に出した。
「転職するか。」
台所で、誰にでもなく言った。
転職。言ってみたら、思ったより普通の言葉だった。
普通の言葉なのに、3年間、一度も言わなかった。
俺はスマホを出して求人サイトを検索した。
いくつか検索して、開いて、閉じて、また開いた。
気付けば、夜11時を過ぎてた。明日は6時半に現場だ。
俺はスマホを充電器に挿して、電気を消した。
布団に入って、目を閉じる。
眠りに落ちる前に、もう一回だけ、考えた。
──未来のロード。
あの男は、あれをどういう意味で言ったんだ。
