4月になった。俺も4年目を迎えた。
そんなことは関係なく、東地区が動き出した。
A街区の着工が4月12日、B街区が6月、C街区が9月。工程表が事務所の壁に3枚並んだ。
うちの納入も本格化した。3月までは仕様の確認と数量を詰めてる段階だったのが、4月からは現物が動く。搬入の立ち会いから、検収、不良の交換、次の週の予定調整も。
仕事の量が変わった。めちゃくちゃ増えた。
朝は5時に起きるようになった。5時20分だと間に合わない日が出てきたからだ。事務所に戻るのは19時を回る。そこから見積を作って、21時に帰れれば早いほうだ。
それでも、接待は減らなかった。
減るどころか、A街区が動いた分、関係する会社が増えた。安藤部長の所だけじゃなくて、施工の元請けとか、他の資材屋とか、そういう所との席が入るようになってた。
4月は9件だった。
登録してあったわけじゃなくて、あとで手帳を見返して数えた。
5月の連休は3日休んだ。
3日目の午後まで、殆ど寝てた。起きて、飯を食って、また寝た。
夕方に起きて、部屋を見た。休みに入る前と大して変わらない。
流しに何日分か分からないけど、皿が溜まってた。カーテンは連休中一度も開けなかった。
棚の上にデッキケースがあった。去年の11月から、開けてない。
大会が終わって、あいつと一戦やって、それでケースに戻した。そのまま棚に置いて、それきりだ。3月に一度、拭いただけだ。
俺は座って、ケースを開けた。
1枚ずつ床に並べた。
40枚、全部ある。持ち出してすらいないんだから、当たり前だ。
順に見ていった。半年前、この40枚で400人の大会で勝った。
勝ったんだよな、と思った。
何故か、そのことを、疑ってる自分に気付いた。
優勝したのは確かだ。目録もあるし、副賞のディスクだって、箱のままだけど、そこに置いてある。結局、箱は一度も開けてない。
俺は並べたカードを、暫く見てた。
それ以外は、試しに引いてみることすらしなかった。
集めて揃えてケースに戻して、棚に戻した。
その日は、それだけやって終わった。
5月の3週目の火曜だった。
呼び出しはなかった。4月に2回、5月に1回来てたけど、その週は来てなかった。
接待は相変わらず入ってた。18時から、安藤部長と、そこの若いの。施工の元請けの現場所長と、副所長と、あと2人。うちからは俺と課長。
一軒目は駅前の焼鳥屋だった。
現場所長は酒が強かった。自分も飲むし、飲ませる人だった。気に入られたらしく、空になると注いできて、でも飲むまで見てる。とても断れる空気じゃない。
課長は途中から俺の方を見なくなった。
ビールから焼酎に変わって、20時に日本酒が出てきた。
グラスを持つ前の一瞬の間が、上手く機能しなかった。
いつもならある筈の儀式が、その日は薄くなってた。
俺は注がれるままに飲んだ。
何杯飲まされたのか、最早、数えてなかった。
21時半にやっと一軒目が終わって、二軒目移ることになった。歩いて5分の場所だと誰かが言った。部長のお気に入りの店だ。
俺はそこで、いつも誰も聞いてない曲を歌ってる。古い曲で、俺はその曲をその店で覚えた。
部長のお気に入りの曲のリストを思い出しながら、店を出た。
外の空気が火照った顔には冷たくて、気持ち良かった。それが最後にはっきり覚えてる部分だ。
皆について、歩いてた。
歩いてるつもりだった。
なのに、道の途中でぐらっときて、ガードレールに手をついた。そこから、膝が落ちた。
「城之内君?」
誰かが言った。
「大丈夫かい。」
大丈夫っす、と言おうとした。
言えたかどうかは分からない。
「先に行っててください、こいつ座らせときますんで。」
課長の声だった。
「いや、うちの若いのも潰れてますから、お互い様ですよ。」
これは所長の声だ。
笑い声が遠ざかっていく。
俺はガードレールの柱にもたれて座ってた。地面が冷たかった。
「城之内。」
課長が屈んだのが分かった。
「立てるか。」
「立てます。」
立てなかった。
「ちょっと待ってろ。水買ってくる。」
課長が離れていった。
俺は目を閉じて柱に頭を預けた。
目を閉じたらぐるぐる回ったから、目を開けた。開けても回ってるもんは回ってた。
車が通り過ぎるのが眩しい。ヘッドライトが右から来て、左に抜けていく。
一台、通り過ぎなかった。
俺の少し前で止まった。
救急車でも来たかと思って目を開けたら、大きい黒い車だった。エンジンの音は静かだった。
そのまま眺めてたら、後部座席の窓が下りた。
「……。」
中にいる人物の顔が見えた。俺はそれを、見間違いだと思った。
「こんな所で何をしている。」
聞いたことのある声で、そう聞こえた。これも聞き違いだと思った。
俺は、何か言おうとしたと思うが、何を言おうとしたのかは覚えてない。
よお海馬、と言ったかもしれないし、言ってないかもしれない。
車の中の顔は、動かなかった。
溜息ついたっぽいのは、動きで分かった。多分。
窓が閉まった。
だけど、車は動かなかった。
助手席のドアが開いて、黒いスーツの人が降りてきた。俺の前に来て、屈んだ。
「失礼いたします。」
体を起こされて、歩道側でガードレールに背中をつける形にされた。
「水です。」
ペットボトルを持たされた。
「お連れの方はいらっしゃいますか。」
「……課長が、水買いに。」
「かしこまりました。こちらでお待ちいただけますでしょうか。」
黒スーツが立ち上がって、車の方に戻って、窓ごしに何か言ってた。
それで、車は発進した。
俺はペットボトルを持ったまま、ガードレールにもたれてた。
黒スーツは一緒に残ってた。少し離れた所に立って、こっちを見てた。
課長が戻ってきた。
「城之内、水。」
「……もらいました。」
「は?」
課長が黒スーツに気付いて、止まった。
黒スーツが会釈した。
「失礼いたしました。通りかかりまして。」
「あの、どちら様で。」
「海馬コーポレーションの者です。」
課長の顔が変わったのを、俺はただ、下から見てた。
黒スーツはそれ以上何も言わずに、一礼して、歩いていった。
課長は暫く黙ってた。
「……城之内。」
「はい。」
「今の、どういうことだ。」
「……分かんないっす。」
分からなかった。
本当に何も分からなかった。
翌朝、6時に目が覚めた。
床で寝てた。玄関入ってすぐの所だ。靴は片方だけ脱いでた。
体が痛くて起き上がったら、今度は頭がめちゃくちゃ痛かった。
台所まで行って、水を飲もうとして、自分が何か持ってるのに気付いた。
空のペットボトル。
昨日の課長が買いに行ってくれてたやつか。なんとか水を飲んで帰ってきたらしい。
ラベルを見たら、KCのロゴが入ってた。
4月の呼び出しの時、応接室で出されたのと同じやつ。去年の秋、あの控室で放られたのと同じやつ。
市販されてないもの。
コンビニですら、売ってるのを見たことがない。
俺はそれを、暫く眺めてた。
出勤の時間が迫ってた。今日ばっかりは流石にシャワーを浴びて、シャツを着た。ボトルは流しの横に置いた。
捨てる理由も、置いとく理由も、特になかった。
6月の第1週に、呼び出しが来た。
B街区の仕様確認。木曜の15時。
俺は行った。もう慣れたものだった。受付でカードをもらって、ゲートを抜けて、エレベータに乗る。今回は24階だった。
エレベータを降りて、応接室に向かう廊下を歩いてた。
案内は結構前からついてない。受付で部屋番号を言われるだけだ。
角を曲がると、正面から人が来た。
4人いて、前を歩いてるのは背の高い白いコートだった。
4ヶ月ぶりだった。
一応頭下げて挨拶しといた方がいいのか、それも今更な気もするし、と考えてたら、向こうが俺を見た。
目はあったけど、歩く速さは変わらなかった。
話すつもりはなかった。けど、俺は口を開いた。
「海馬。」
足が止まった。
止まったのは向こうだけだ。後ろの3人が遅れて止まって、そのあと少し下がった。
「あの、この前、さ……。」
多分、間違ってない。こいつに世話を焼かれた。
ありがとう、と言えばいいだけだった。助かった、で終わる話だった。
「要らん。」
遮られた。
「え。」
「その話はいい。」
俺は口を開けたまま止まった。
礼を言われることを、面倒だと思ってる。俺にはそう見えた。
いや、そもそも、礼を言われて思い出すようなことだと思ってない。
こいつの中で、あの件は終わってるんだ。水を持たせて、それで処理が済んだ。済んだ話に返事をするのは、書類を二回出すのと同じだ。
「……そうかよ。」
「城之内。」
名前を呼ばれた。
初めてだったかもしれない。貴様、とかその他、不名誉なあだ名で呼ばれてきてた。名前で呼ばれた記憶なんて、ない。
「なんだよ。」
「自分の未来のロードくらい、考えろ。」
そう言った。意味は分からない。それだけだった。
「は?」
「聞こえなかったか。」
「聞こえたけど、なんだよ、それ。」
「言葉通りだ。」
歩き出した。
「おい、待てって。」
止まらなかった。
3人が後ろについて、4人分の足音が遠ざかった。
俺は廊下に立ってた。
はっとして時間を確認すると、約束の15時まで、あと5分だった。
応接室に入って、書類を確認して、押印して、質問に答えて、40分で出た。
その間、ずっとあいつの言葉が引っかかってた。
未来のロード。
もしかして説教か。
説教だとしたら、お前に言われる筋合いはねえ、と言っとくべきだった。言い返す時間はあった。
けど、言い返さなかった。
何も言えなかったんじゃなくて、言葉が出てこなかった。
俺は今、何をしてるんだ。
考えられなかった。
考えるための材料が、頭の中になかったからだ。
その2週間後だった。
朝礼の前に、課長が部長と話してた。2人ともパソコンを見てた。
朝礼が始まって、課長が紙を読み上げた。
「大宮設備工業さんから通達がきた。取引先各社の労務管理体制について、確認と是正を求めるものだ。」
事務所が静かになった。
「発注元、つまりKCさんからの要請に基づくものだそうだ。下請法と労働関係法令の遵守状況について、7月末までに現状報告と是正計画を提出しろとある。」
誰かが咳をした。
「これを出さない場合、または、内容が不十分な場合。次期の発注については見直しがあり得ると書いてある。」
紙を置いた。
「ってことで、今日から定時退社を徹底する。」
事務所がざわついた。
「残業申請は事前に出せ。当日は認めない。休日出勤も同じだ。あと、有給の取得状況も報告項目に入ってる。」
有給。
その言葉を、久しぶりに聞いた。
入社の時に説明を受けた。年に10日から始まって、勤続で増えていく。今の俺は何日あるんだろう。
考えたことがなかった。
「城之内。」
「はい。」
「お前、有給何日残ってる。」
「分かんないっす。」
「調べとけ。」
「はい。」
朝礼が終わって、事務の子に確認してもらった。
32日、と言われた。
「32。」
「はい。去年の分の繰越が20で、今年度の分が12です。」
「使ってねえのか、俺。」
「使ってないです。」
使った記憶はないんだから当たり前だ。
けど、事務の子が申し訳なさそうな顔をした。
なんでこの子が申し訳なさそうな顔をするんだろう、と思った。
7月に入って、事務所の雰囲気が変わった。
定時退社は徹底された。18時に電気が消える。
でも、消えるだけだった。
俺は18時に事務所を出て、現場に向かうようになった。検収は現場の都合で夜になることがある。事務所にいなければ残業にならない。
見積は家で作るようになった。毎日ノートパソコンを持ち帰った。就業時間じゃないから、申請もいらない。
仕事量が減るわけじゃないから、そうしないと間に合わないし、皆がそうやって何とか仕事を捌いてた。
接待も減らなかった。
というか、それは記録から消えた。
「城之内、これ経費で落とすとまずいから、今日は一旦立て替えといてくれ。後で現金で戻す。」
時々、そう言われるようになった。
飲む回数は変わらない。なのに、書類の上には何も残らない。
7月の終わりに、是正計画が提出された。
課長が朝礼で言った。
「無事、通ったそうだ。皆の協力のおかげだ。」
拍手が起きた。
俺も手を叩いたけど、何に対して拍手してるのかが分からなかった。
紙の上では、うちの会社はまともになった。
俺の生活は、4月より悪くなってた。
