06 ことのは

大人達が、何かに敗北していく


ソティスが1歳を過ぎた頃、最初の言葉が出た。
朝、アテムが抱き上げると、ソティスが瀬人を見て言った。
「ぱぱ。」
アテムは固まった。瀬人も固まっていた。
「…今、何と言った。」
「ぱぱ、と。」
瀬人はソティスを見た。瀬人はソティスをアテムから受け取った。
「もう一度言ってみろ。」
「ぱぱ。」
瀬人は黙った。
アテムは少し離れた場所に座っていた。
「…俺は。」
「黙れ。」
「俺の方が乳をやった…。」
「黙れ。」
ソティスが瀬人を見て、にこ、と笑った。アテムを見ていない。
当然のことだが、その日の瀬人の機嫌は良かった。
書類にサインする手は早く、コーヒーは美味しく、窓の外の景色が悪くないと感じていた。
セトが報告書を持って現れた。
「瀬人殿、今日は機嫌がよろしいですね。」
「普通だ。」
「ソティス様が初めて何かお話しになったとか。」
「誰から聞いた。」
「侍女が。」
「……。」
「『ぱぱ』だそうですね。」
瀬人はサインの手を止めた。
「だから何だ。」
「祝着でございます。」
「帰れ。」
セトは一礼して去った。しかし、しっかり手帳に書いていた。
『父親、勝利。』

夕方、アテムが廊下でソティスを抱いていた。
「ソティス。」
「……。」
「俺は?」
「……。」
「ままだ。ははでもいい。」
ソティスは父を探していた。
「ま?」
「違う。」
「ま、ま。」
アテムは少し希望を持った。
「言えるか?」
「ぱぱ。」
希望は消えた。

夜、寝室。
アテムは瀬人と並んで寝台に横になり、天井を見ていた。
「瀬人。」
「何だ。」
「俺は。」
「分かっている。」
「世話はかなりしている。」
「している。」
手が繋がれた。
「夜泣き対応はお前の方が多いが。」
「そうだな。」
「だが、抱っこの時間は俺の方が長い。」
「そうだな。」
「では何故だ。」
瀬人は少し間を置いた。
「お前がいつも『ぱぱを呼んでこよう』と言っているからだ。」
「……。」
「ソティスの中では、お前が呼ぶ『ぱぱ』が重要なのだろう。」
アテムは天井を見続けた。
「俺のせいか。」
「お前のせいだ。」
「……。」
「だが、悪くない。」
「何が。」
「お前がそう呼ぶから、ソティスが『ぱぱ』を覚えた。」
アテムは黙った。少し笑った気配があった。
「お前は時々、ずるいな。」
「うるさい。」

そんな会話があったが、翌朝、ソティスはすんなり言った。
「まま。」
教えた通りだった。
しかし、実際に言われるとアテムは固まった。
「……。」
「まま。」
アテムは何も言わずにソティスを抱き上げた。
瀬人は横でタブレットを見ていたが、スクロールは止まっていた。
「言えたな。」
「ああ。」
「まま、か。」
「うん。」
セトが廊下で記録に書いた。
『順調に発語を確認。』
部下が覗いた。
「それは何ですか。」
「家庭内の記録だ。」
「業務外ですね。」
「業務だ。」
部下は何も言わなかった。






午後。冥界の居間。
ソティスは積み木を掴んで遊んでいた。アテムはそれを横目に、タブレットで◯よこクラブを見ていた。
「瀬人。」
「何だ。」
「『言葉が増える時期は、遊びを通して好奇心を刺激しましょう』とある。」
「普通だな。」
「あと『誤飲にも注意』。」
「それも普通だ。」
その時。扉が2度叩かれた。
「失礼します。」
瀬人が即答する。
「帰れ。」
セトだった。両手に箱を抱えている。
「知育用品です。」
「やはりお前か。」
アテムが少し身を乗り出す。
「知育?」
セトは箱を開けた。
見た目がまず、綺麗だった。
木製、角は丸く、誤飲の危険のないサイズで、彩色は落ち着いている。そして、妙に高級感がある。
アテムが感心する。綺麗だったからだ。
「美しいな。」
瀬人は嫌な顔をした。
「お前は、何故毎回“見た目が良いもの”を持ってくる。」
「王が興味を示されやすいためです。」
「分析するな。」
ソティスが置かれた箱を覗き込んだ。途端に目が輝いた。
恐らく、綺麗なものに対する遺伝的な反応だろうと瀬人は結論付けた。そうあってほしかった。
「お。」
セトは即座に中身を床へ配置した。
「年齢別発達段階に合わせています。」
「何故そこまで調査している。」
「記録がありますので。」
瀬人は一瞬黙った。いつも通りの嫌な予感しかしなかつた。
「…何を、どこまで読んだ。」
「現世育児論文、236件ほど。」
アテムが瀬人を見る。
「お前より多いんじゃないか?」
「競うな。」
ソティスは積み木を持ち上げた。少し考えて、そして、ポンと穴へ入れた。
アテムが小さく息を呑む。
「入った。」
瀬人も見ていた。
「偶然だ。」
ソティスは、もう一度入れた。アテムが瀬人を見た。
「天才では?」
「早計だ。」
「だが賢いぞ。」
「…否定はしない。」
セトは静かに記録へ書き込む。
『子:形状認識の開始、反復行動を確認、父母の情緒反応:極めて良好』
部下が後ろで小声になる。
「また業務記録ですか。」
「王家運営の一環だ。」
「知育もですか。」
「当然だ。」
ソティスが今度は積み木を2つ重ねた。アテムは完全に目を輝かせていた。
「瀬人。」
「何だ。」
「凄い。」
「まだ1歳だ。」
「だが、凄いものは凄い。偉い。」
瀬人は口元を押さえた。少しだけ顔が緩んでいた。
セトは満足そうだった。
良好な発達環境が形成されている。
瀬人がセトを睨んだ。
「お前は、楽しんでいるだろう。」
セトは一瞬だけ沈黙した。
「…業務です。」
アテムはフラットだったが、喜んでいるのは確かだった。
「セトは子供が好きなんだな。」
セトは、否定はしなかった。ソティスは冥界の王室の宝である。






午後。居間。
ソティスは床に座って積み木を積んでいた。
瀬人はタブレット。アテムは隣で絵本を読んでいた。
そこへ、扉が2度叩かれた。
「失礼します。」
セトだった。
いつものように現れた。
当然、瀬人が即答する。
「帰れ。」
しかしソティスが顔を上げた。
「あ。」
小さな指がセトを指す。
「とと。」
部屋の空気が止まった。
アテムがゆっくりと顔を上げる。
「…今、何と言ったんだ。」
ソティスはというと、嬉しそうだった。
「とと!」
セトも、停止していた。本当に停止していた。
瀬人も止まっていた。
アテムがソティスを見る。
「セトのことだな?」
「とと!」
セトは数秒黙った後、静かに確認した。
「…私、でしょうか。」
瀬人が低く言う。とても嫌そうだった。
「他に誰がいる。」
ソティスは、にこにこしている。完全に好意だった。
「とと!」
セトは、もう一回止まった。ほんの僅かに、しかし、確実に処理落ちしていた。
アテムは少し笑い始めていた。
「良かったな、セト。」
「……。」
「呼ばれているぞ。」
セトは慎重に口を開く。
「発音の揺れではないでしょうか。」
「現実逃避をするな。」
ソティスはもう一度呼ぶ。
「とと!」
セトは、何かに敗北し、その場で静かに膝をついた。
「…呼称を、認識しました。」
瀬人が顔を覆う。
「何故報告書のようになる。」
アテムは、完全に面白がっていた。
「セト。」
「はい。」
「返事をしてやってくれ。」
セトは数秒考えた。かなりじっくり考えた。
王宮の、姫である。だが、それだけではない、何かが積み上がっていた。
「…ここにおります。」
ソティスは大喜びだった。
「ととー!」
セトは、目に見えない何かに致命傷を受けていた。悪いものではなかった。
その後。冥界の一部で噂が流れた。
「セト様が最近少し機嫌が良い」
理由は誰も知らない。ただ1つ確かなのは。後日、知育玩具がまた増えたことだった。







ソティスが庭で遊び、アテムがその姿を眺めながら、ぽつりと漏らした。
「…もう1人いても賑やかかもしれないな。」
その瞬間。
「失礼します。」
「うわっ。」
背後にセトがいた。
「気配を消すな!」
「王の願望を察知しました。」
「怖いな。」
セトは懐から小瓶を取り出す。
琥珀色の液体が入った、いかにも怪しい瓶だった。
「子が出来やすくなる秘薬です。」
「胡散臭い。」
セトから貰うものには気を付けろ。
アテムは瀬人から散々言われていた。
「由緒正しい調合です。」
「何に効くんだ?」
「端的に申し上げますと、非常に艶っぽい気分になります。」
「つまり、それはただの媚薬だな。」
「言い方の問題です。」
「本質の問題だ。」
しかし、セトは少しも動じない。
「弁明しましょう。」
「聞きたくない。」
「試行回数が増えれば期待値は上がります。」
「数字で押し切るな!」
「理にかなっています。」
「最低だ!」
「しかし、効果は絶大です。」
効果は絶大。一瞬、アテムの目がキラリと光った。
「甘いです。」
眉間の力が抜けた。
「…甘いのか…。」
そこへ瀬人が通りかかった。
「何の騒ぎだ。」
「セトが…良いものを…。」
瀬人はアテムの手の中の瓶を見るなり顔を顰めた。
「没収だ。」
「判断が早い。」
「前科がある。」
セトは淡々と反論する。
「今回は明確に少子化対策です。」
「冥界に少子化はない。」
「家庭内人口増加策です。」
「帰れ。」
「なお、即効性があります。」
「帰れ!」
アテムは瓶を見つめ、少し興味深そうに言った。
「…これ…そんなに凄いのか?」
「お前はまた…食いつくな!」
「学術的興味だ。」
「嘘を吐くな。」
セトは一礼する。
「では予備はこちらに置いておきます。」
「置いていくな!」

その夜。
寝室で瀬人は腕を組んでいた。
「言っておくが、あの薬は使うな。」
「そうか。」
「何だその顔は。」
「別に。」
「言え。」
アテムは寝台に座り、少し笑った。
「使わなくても、お前は効くと思ってな。」
瀬人は数秒沈黙した。
「…意味が分からん。」
「分かってる顔だぜ。」
「黙れ。」

翌朝。
小瓶はなくなっていた。
セトは遠くから満足げに頷いた。
「不要でしたか。」
そして記録に記した。
『成功要因:薬剤ではなく既存感情。』
ろくでもなく、だが妙に正確だった。

また別の夜。
瀬人は書類を閉じ、ふと視線を上げた。
「…アテム。」
「何だ。」
寝台の端に座るアテムは妙に静かだった。
頬が僅かに赤い。姿勢が良い。目が合うとすぐ逸らす。
明らかに怪しい。
「…あの薬はどうした?」
「何のことだ。」
「アレが置いていった瓶だ。」
「さあな。」
「アテム。」
「……。」
「こちらを向け。」
「嫌だ。」
「飲んだな。」
「飲んでない。」
「即答が早すぎる。」
瀬人が立ち上がり、近付いた。
アテムはじり、と半歩下がる。
「何故逃げる。」
「逃げては居ない。」
「後退している。」
「戦術的移動だ。」
「飲んだな。」
沈黙。
瀬人が低い声で呼ぶ。
「アテム?」
「いい匂いがして…甘そうで…。」
「飲んだな。」
「少しだけだ。」
「量の問題ではない。」
「味は良かった。」
「味の問題でもない。」
瀬人は額を押さえた。
「何故お前は結局、危険物を味見する。」
「好奇心だ。」
「子供か。」
「王だ。」
「王がやることではない。」
アテムは少しむっとした。
飲んだら好みの味で、甘かったからだ。むっとする理由になっていなかった。
「だが、何も起きていないぜ。」
「本当にそうか?」
「……。」
「何故黙る。」
「少し…。」
「何だ。」
「妙に、お前の声が良く聞こえる。」
「それは薬のせいだ。」
「歩く姿も良い。」
「薬のせいだ。」
「今すぐ触れたい。」
「薬のせいだな。」
瀬人は深く息を吐いた。
「アレを埋めて来る。」
「待て。」
「止めるな。」
「先に俺を何とかしろ。」
「他人事のように言うな。」
アテムは真顔で手を差し出した。
「責任を取れ。」
「何の。」
「没収しなかった責任だ。」
「またお前は、理不尽だな。」
その頃、遠く離れた回廊でセトは記録に記していた。
『経過観察:王、予想通り好奇心で服用。追加所見:瀬人殿、間もなく巻き込まれる。』
隣の部下は震えた。
「そこまで分かるのですか。」
「昨日の顔色で。」
「怖い。」
「経験だ。」

翌朝。
瀬人は不機嫌そうに茶を飲み、アテムは妙に機嫌が良かった。
「瀬人。」
「何だ。」
「昨夜の件だが。」
「言うな。」
「効いたな。」
「黙れ。」
「実はもう1本予備がある。」
「今すぐ捨てる。出せ。」
「甘いからな。断る。」
アテムは声を上げて笑った。
その笑顔を見て、瀬人は少しだけ視線を逸らした。
結局、当分の間、瓶は見つからなかった。
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