ソティスが1歳を過ぎた頃、最初の言葉が出た。
朝、アテムが抱き上げると、ソティスが瀬人を見て言った。
「ぱぱ。」
アテムは固まった。瀬人も固まっていた。
「…今、何と言った。」
「ぱぱ、と。」
瀬人はソティスを見た。瀬人はソティスをアテムから受け取った。
「もう一度言ってみろ。」
「ぱぱ。」
瀬人は黙った。
アテムは少し離れた場所に座っていた。
「…俺は。」
「黙れ。」
「俺の方が乳をやった…。」
「黙れ。」
ソティスが瀬人を見て、にこ、と笑った。アテムを見ていない。
当然のことだが、その日の瀬人の機嫌は良かった。
書類にサインする手は早く、コーヒーは美味しく、窓の外の景色が悪くないと感じていた。
セトが報告書を持って現れた。
「瀬人殿、今日は機嫌がよろしいですね。」
「普通だ。」
「ソティス様が初めて何かお話しになったとか。」
「誰から聞いた。」
「侍女が。」
「……。」
「『ぱぱ』だそうですね。」
瀬人はサインの手を止めた。
「だから何だ。」
「祝着でございます。」
「帰れ。」
セトは一礼して去った。しかし、しっかり手帳に書いていた。
『父親、勝利。』
夕方、アテムが廊下でソティスを抱いていた。
「ソティス。」
「……。」
「俺は?」
「……。」
「ままだ。ははでもいい。」
ソティスは父を探していた。
「ま?」
「違う。」
「ま、ま。」
アテムは少し希望を持った。
「言えるか?」
「ぱぱ。」
希望は消えた。
夜、寝室。
アテムは瀬人と並んで寝台に横になり、天井を見ていた。
「瀬人。」
「何だ。」
「俺は。」
「分かっている。」
「世話はかなりしている。」
「している。」
手が繋がれた。
「夜泣き対応はお前の方が多いが。」
「そうだな。」
「だが、抱っこの時間は俺の方が長い。」
「そうだな。」
「では何故だ。」
瀬人は少し間を置いた。
「お前がいつも『ぱぱを呼んでこよう』と言っているからだ。」
「……。」
「ソティスの中では、お前が呼ぶ『ぱぱ』が重要なのだろう。」
アテムは天井を見続けた。
「俺のせいか。」
「お前のせいだ。」
「……。」
「だが、悪くない。」
「何が。」
「お前がそう呼ぶから、ソティスが『ぱぱ』を覚えた。」
アテムは黙った。少し笑った気配があった。
「お前は時々、ずるいな。」
「うるさい。」
そんな会話があったが、翌朝、ソティスはすんなり言った。
「まま。」
教えた通りだった。
しかし、実際に言われるとアテムは固まった。
「……。」
「まま。」
アテムは何も言わずにソティスを抱き上げた。
瀬人は横でタブレットを見ていたが、スクロールは止まっていた。
「言えたな。」
「ああ。」
「まま、か。」
「うん。」
セトが廊下で記録に書いた。
『順調に発語を確認。』
部下が覗いた。
「それは何ですか。」
「家庭内の記録だ。」
「業務外ですね。」
「業務だ。」
部下は何も言わなかった。
午後。冥界の居間。
ソティスは積み木を掴んで遊んでいた。アテムはそれを横目に、タブレットで◯よこクラブを見ていた。
「瀬人。」
「何だ。」
「『言葉が増える時期は、遊びを通して好奇心を刺激しましょう』とある。」
「普通だな。」
「あと『誤飲にも注意』。」
「それも普通だ。」
その時。扉が2度叩かれた。
「失礼します。」
瀬人が即答する。
「帰れ。」
セトだった。両手に箱を抱えている。
「知育用品です。」
「やはりお前か。」
アテムが少し身を乗り出す。
「知育?」
セトは箱を開けた。
見た目がまず、綺麗だった。
木製、角は丸く、誤飲の危険のないサイズで、彩色は落ち着いている。そして、妙に高級感がある。
アテムが感心する。綺麗だったからだ。
「美しいな。」
瀬人は嫌な顔をした。
「お前は、何故毎回“見た目が良いもの”を持ってくる。」
「王が興味を示されやすいためです。」
「分析するな。」
ソティスが置かれた箱を覗き込んだ。途端に目が輝いた。
恐らく、綺麗なものに対する遺伝的な反応だろうと瀬人は結論付けた。そうあってほしかった。
「お。」
セトは即座に中身を床へ配置した。
「年齢別発達段階に合わせています。」
「何故そこまで調査している。」
「記録がありますので。」
瀬人は一瞬黙った。いつも通りの嫌な予感しかしなかつた。
「…何を、どこまで読んだ。」
「現世育児論文、236件ほど。」
アテムが瀬人を見る。
「お前より多いんじゃないか?」
「競うな。」
ソティスは積み木を持ち上げた。少し考えて、そして、ポンと穴へ入れた。
アテムが小さく息を呑む。
「入った。」
瀬人も見ていた。
「偶然だ。」
ソティスは、もう一度入れた。アテムが瀬人を見た。
「天才では?」
「早計だ。」
「だが賢いぞ。」
「…否定はしない。」
セトは静かに記録へ書き込む。
『子:形状認識の開始、反復行動を確認、父母の情緒反応:極めて良好』
部下が後ろで小声になる。
「また業務記録ですか。」
「王家運営の一環だ。」
「知育もですか。」
「当然だ。」
ソティスが今度は積み木を2つ重ねた。アテムは完全に目を輝かせていた。
「瀬人。」
「何だ。」
「凄い。」
「まだ1歳だ。」
「だが、凄いものは凄い。偉い。」
瀬人は口元を押さえた。少しだけ顔が緩んでいた。
セトは満足そうだった。
良好な発達環境が形成されている。
瀬人がセトを睨んだ。
「お前は、楽しんでいるだろう。」
セトは一瞬だけ沈黙した。
「…業務です。」
アテムはフラットだったが、喜んでいるのは確かだった。
「セトは子供が好きなんだな。」
セトは、否定はしなかった。ソティスは冥界の王室の宝である。
午後。居間。
ソティスは床に座って積み木を積んでいた。
瀬人はタブレット。アテムは隣で絵本を読んでいた。
そこへ、扉が2度叩かれた。
「失礼します。」
セトだった。
いつものように現れた。
当然、瀬人が即答する。
「帰れ。」
しかしソティスが顔を上げた。
「あ。」
小さな指がセトを指す。
「とと。」
部屋の空気が止まった。
アテムがゆっくりと顔を上げる。
「…今、何と言ったんだ。」
ソティスはというと、嬉しそうだった。
「とと!」
セトも、停止していた。本当に停止していた。
瀬人も止まっていた。
アテムがソティスを見る。
「セトのことだな?」
「とと!」
セトは数秒黙った後、静かに確認した。
「…私、でしょうか。」
瀬人が低く言う。とても嫌そうだった。
「他に誰がいる。」
ソティスは、にこにこしている。完全に好意だった。
「とと!」
セトは、もう一回止まった。ほんの僅かに、しかし、確実に処理落ちしていた。
アテムは少し笑い始めていた。
「良かったな、セト。」
「……。」
「呼ばれているぞ。」
セトは慎重に口を開く。
「発音の揺れではないでしょうか。」
「現実逃避をするな。」
ソティスはもう一度呼ぶ。
「とと!」
セトは、何かに敗北し、その場で静かに膝をついた。
「…呼称を、認識しました。」
瀬人が顔を覆う。
「何故報告書のようになる。」
アテムは、完全に面白がっていた。
「セト。」
「はい。」
「返事をしてやってくれ。」
セトは数秒考えた。かなりじっくり考えた。
王宮の、姫である。だが、それだけではない、何かが積み上がっていた。
「…ここにおります。」
ソティスは大喜びだった。
「ととー!」
セトは、目に見えない何かに致命傷を受けていた。悪いものではなかった。
その後。冥界の一部で噂が流れた。
「セト様が最近少し機嫌が良い」
理由は誰も知らない。ただ1つ確かなのは。後日、知育玩具がまた増えたことだった。
ソティスが庭で遊び、アテムがその姿を眺めながら、ぽつりと漏らした。
「…もう1人いても賑やかかもしれないな。」
その瞬間。
「失礼します。」
「うわっ。」
背後にセトがいた。
「気配を消すな!」
「王の願望を察知しました。」
「怖いな。」
セトは懐から小瓶を取り出す。
琥珀色の液体が入った、いかにも怪しい瓶だった。
「子が出来やすくなる秘薬です。」
「胡散臭い。」
セトから貰うものには気を付けろ。
アテムは瀬人から散々言われていた。
「由緒正しい調合です。」
「何に効くんだ?」
「端的に申し上げますと、非常に艶っぽい気分になります。」
「つまり、それはただの媚薬だな。」
「言い方の問題です。」
「本質の問題だ。」
しかし、セトは少しも動じない。
「弁明しましょう。」
「聞きたくない。」
「試行回数が増えれば期待値は上がります。」
「数字で押し切るな!」
「理にかなっています。」
「最低だ!」
「しかし、効果は絶大です。」
効果は絶大。一瞬、アテムの目がキラリと光った。
「甘いです。」
眉間の力が抜けた。
「…甘いのか…。」
そこへ瀬人が通りかかった。
「何の騒ぎだ。」
「セトが…良いものを…。」
瀬人はアテムの手の中の瓶を見るなり顔を顰めた。
「没収だ。」
「判断が早い。」
「前科がある。」
セトは淡々と反論する。
「今回は明確に少子化対策です。」
「冥界に少子化はない。」
「家庭内人口増加策です。」
「帰れ。」
「なお、即効性があります。」
「帰れ!」
アテムは瓶を見つめ、少し興味深そうに言った。
「…これ…そんなに凄いのか?」
「お前はまた…食いつくな!」
「学術的興味だ。」
「嘘を吐くな。」
セトは一礼する。
「では予備はこちらに置いておきます。」
「置いていくな!」
その夜。
寝室で瀬人は腕を組んでいた。
「言っておくが、あの薬は使うな。」
「そうか。」
「何だその顔は。」
「別に。」
「言え。」
アテムは寝台に座り、少し笑った。
「使わなくても、お前は効くと思ってな。」
瀬人は数秒沈黙した。
「…意味が分からん。」
「分かってる顔だぜ。」
「黙れ。」
翌朝。
小瓶はなくなっていた。
セトは遠くから満足げに頷いた。
「不要でしたか。」
そして記録に記した。
『成功要因:薬剤ではなく既存感情。』
ろくでもなく、だが妙に正確だった。
また別の夜。
瀬人は書類を閉じ、ふと視線を上げた。
「…アテム。」
「何だ。」
寝台の端に座るアテムは妙に静かだった。
頬が僅かに赤い。姿勢が良い。目が合うとすぐ逸らす。
明らかに怪しい。
「…あの薬はどうした?」
「何のことだ。」
「アレが置いていった瓶だ。」
「さあな。」
「アテム。」
「……。」
「こちらを向け。」
「嫌だ。」
「飲んだな。」
「飲んでない。」
「即答が早すぎる。」
瀬人が立ち上がり、近付いた。
アテムはじり、と半歩下がる。
「何故逃げる。」
「逃げては居ない。」
「後退している。」
「戦術的移動だ。」
「飲んだな。」
沈黙。
瀬人が低い声で呼ぶ。
「アテム?」
「いい匂いがして…甘そうで…。」
「飲んだな。」
「少しだけだ。」
「量の問題ではない。」
「味は良かった。」
「味の問題でもない。」
瀬人は額を押さえた。
「何故お前は結局、危険物を味見する。」
「好奇心だ。」
「子供か。」
「王だ。」
「王がやることではない。」
アテムは少しむっとした。
飲んだら好みの味で、甘かったからだ。むっとする理由になっていなかった。
「だが、何も起きていないぜ。」
「本当にそうか?」
「……。」
「何故黙る。」
「少し…。」
「何だ。」
「妙に、お前の声が良く聞こえる。」
「それは薬のせいだ。」
「歩く姿も良い。」
「薬のせいだ。」
「今すぐ触れたい。」
「薬のせいだな。」
瀬人は深く息を吐いた。
「アレを埋めて来る。」
「待て。」
「止めるな。」
「先に俺を何とかしろ。」
「他人事のように言うな。」
アテムは真顔で手を差し出した。
「責任を取れ。」
「何の。」
「没収しなかった責任だ。」
「またお前は、理不尽だな。」
その頃、遠く離れた回廊でセトは記録に記していた。
『経過観察:王、予想通り好奇心で服用。追加所見:瀬人殿、間もなく巻き込まれる。』
隣の部下は震えた。
「そこまで分かるのですか。」
「昨日の顔色で。」
「怖い。」
「経験だ。」
翌朝。
瀬人は不機嫌そうに茶を飲み、アテムは妙に機嫌が良かった。
「瀬人。」
「何だ。」
「昨夜の件だが。」
「言うな。」
「効いたな。」
「黙れ。」
「実はもう1本予備がある。」
「今すぐ捨てる。出せ。」
「甘いからな。断る。」
アテムは声を上げて笑った。
その笑顔を見て、瀬人は少しだけ視線を逸らした。
結局、当分の間、瓶は見つからなかった。
