出産後、アテムは知った。
子を産めば終わり。そんなことはありえなかった。
むしろ、そこからが本番だった。
「痛い。」
起きて、朝一番、第一声がそれだった。
「どこが痛い。」
「全部だ。」
瀬人は即座に水を差し出し、座る角度を調整して、背に枕を押し込んだ。
「乳も張る。痛い。」
「温めるか冷やすか、どちらが楽だ。」
「…その前に泣きたい。」
「泣け。」
「即答ばかりだな。」
「今は許可制ではない。」
アテムは、産後の身体でぼろぼろだった。
良く見積もっても、大体、全治2ヶ月程だった。
立つだけで疲れる。座っても痛い。寝ても細切れ。情緒も乱高下する。
「何故、急に泣けるんだ。」
「疲れているからだ。」
「何故急に腹が立つんだ。」
「疲れているからだ。」
「何故お前の顔を見ると少し安心するんだ。」
瀬人は一瞬黙った。
「…それも疲れているからだ。」
「…照れたな?」
「黙れ。」
まだ名のない小さな娘が泣いた。
瀬人が抱き上げる。 だがその瞬間、アテムの胸の奥が妙にざわついた。
「……。」
「どうした。」
「…分からない。」
言葉にしようとすると、急に涙が溢れた。
「俺は、ちゃんと母親をやれているのか…?」
瀬人は否定しなかった。 代わりに、娘を抱いたまま言う。
「昨日は3時間寝かせた。」
「……。」
「今朝は乳も飲んだ。」
「…うん。」
「生きている。」
アテムは黙った。
「それで充分だ。」
静かな声だった。
その時、扉が2度叩かれた。
「失礼します。」
「帰れ。」
セトだった。
「助産婦長から伝言です。“産後10日は情緒が壊れて当然なので、深刻そうな顔をするな”とのことです。」
「雑なアドバイスだな。」
「特効の経験則だそうです。」
セトは続けた。
「なお、“泣ける内は、溜め込んでいないのでまだ安心”とも。」
「…そういうものか。」
「そういうものです。」
アテムは暫く黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「母は、大変だな…。」
「今更か。」
「今までは知らなかった。」
瀬人は少しだけ視線を落とした。
「…知ったなら、それでいい。」
もちろん、セトは記録に書き記した。
『御子は元気。王は泣いたが、瀬人殿が対応。問題なし。』
夜泣きが始まると、瀬人の真価が発揮された。
赤子がふえ、と声を出す。
アテムが起きようとするよりも早く、既に瀬人が立っている。
控えている乳母よりも早かった。
「寝ていろ。」
「だが。」
「寝ろ。」
現世から取り寄せた粉ミルクを、正確な温度で調乳し、抱き上げ、飲ませ、背をとんとんと叩く。
けふ、と小さくげっぷが出る。
「よし、出たな。」
「見ていた。」
「重要だ。」
当然、おむつ交換も素早かった。
「何故、お前はそんなに手際が良いんだ。」
「マニュアルを読み、試した。」
「試したのか。いくつ。」
「36種類。」
「…多いな。」
首が座る頃には、娘は瀬人の腕の中にいることが多くなった。
筋力がある。体温も安定している。抱き方も上手い。
更には、片腕で抱いたまま、もう片方で書類にサインをしていた。
「お前な、育育と経営を同時進行するな。」
「効率化だ。」
「娘を業務の一環みたいに言うなよ。」
だが、娘は瀬人の腕でよく眠るのだ。
アテムが少し悔しそうに言った。
「…俺が抱くと起きる。」
「動揺しているからだろう。」
「誰が。」
「お前が。」
「否定はしない…。」
王宮の女達はざわついた。
「瀬人様、本日も夜間対応完遂らしいです。」
「昨日は王に薬湯も運ばれたとか。」
「赤子を抱いたまま荷物まで。」
「顔は怖いのに。」
「ええ、顔は怖いのに。」
その年、冥界の各種人気投票で海馬瀬人は多部門を総なめにした。
「どうぞ。」
「何の用だ、帰れ。」
読み上げましょう、と、セトが淡々と読み上げる。
『配偶者にしたい男部門 1位』
『育児を任せたい男部門 1位』
『荷物を持たせたい男部門 1位』
『深夜2時に呼んでも来そうな男部門 1位』
『顔は怖いが当たりの男部門 殿堂入り』
「最後のは何だ。」
言いながら、瀬人の表情は、無だった。
セトが書簡を見ながら答える。
「民意です。」
「どこのだ。」
「なお、女性支持率が高いです。」
「話を聞け。もしくは帰れ。」
そのやり取りを眺めながら、アテムは、やはり笑っていた。
「当たりの男だな、お前。」
「…当然だ。」
「自分で言うのか。」
「外れたことなどない。」
「その自信は、嫌いじゃないぜ。」
暫くした頃。夜。
娘がようやく寝た。アテムは寝台へ沈み込むように座っていた。疲労はやはり残っている。
「瀬人。」
「何だ。」
「…少し聞きたいことがある。」
瀬人は、声が妙に静かだと気付いた。
「何だ。」
「その…。」
アテムは少し視線を逸らした。
「セトの薬だが。」
「…ああ。」
「赤子に影響はないのか?」
瀬人は少し黙った。今更不安になったのだと理解した。
「何故今になって言う。」
「忙しかった。」
それはそうだった。
欲張りセットの辺りからアテムは忙しそうに情報収集をしていた。
「それに…。」
アテムは小さく続ける。
「お前が何も言わないから、大丈夫だとは思っていた。」
瀬人は息を吐く。アテムからは、そういう信頼のされ方をするのだ。
「結論から言う。」
「うん。」
「問題ない。」
アテムが瀬人を見る。
「分析済みだ。」
「…いつ?」
「最初の時点で。」
「最初?」
「お前が“甘かった”と言った翌日だ。」
アテムは少し目を丸くした。
「現世へ持ち帰った。」
「持ち帰ったのか。」
「当然だろう。箱の中の他の薬も全てだ。」
「そんなことまでしていたのか。」
「お前は“飲んだ”で済ませたが、俺は済まさん。」
瀬人は淡々と続ける。
「毒性なし。」
「うん。」
「依存性なし。」
「うん。」
「遺伝的影響なし。」
「うん。」
「胎児への悪影響なし。」
「うん。」
少し間。
「…ただし。」
アテムが身構える。
「極めて性質が悪い。」
「何故だ。」
「効果設計が、妙に洗練されている。」
瀬人は嫌そうな顔をした。
「段階的に心理抵抗を下げ、幸福感と信頼感へ接続する構造になっていた。」
「難しい。」
「つまり。」
瀬人は低い声で続けた。
「お前向けに最適化されていた可能性が高い。」
アテムが静かに言う。
「…セトめ。してやられた。」
「今更か。」
少し沈黙。そしてアテムがぽつり。
「だが、あの子に問題がないのなら、良かった。」
瀬人はそこで初めて少し表情を緩めた。
「そうだな。」
アテムは寝台へ寄り掛かる。
「不思議だな。」
「何がだ。」
「怖いことも沢山あったのに、今は幸せだ。」
穏やかな声。瀬人は暫く黙った。
「…なら良い。」
その時。扉が2度叩かれ、部屋の外から静かな声がした。
「失礼します。」
「帰れ。」
「分析結果は良好でしたか。」
セトだった。
「セト。」
「確認に来ました。」
セトは静かに続ける。
「なお、第二世代への影響も。」
「帰れと言っている。」
「長期観察のためには。」
「帰れ。」
アテムが小さく笑う。
「瀬人。」
「何だ。」
「2人目が欲しくなったら、別の薬はまだあるのか?」
瀬人は無言で立ち上がった。
「全て処分するのが適切だ。」
「何故だ。」
「お前が全く懲りていないからだ。」
娘の半年の祝いの日。
大広間には人が集まり、2人の娘は金の飾り布に包まれていた。
よく見ると、眉間に少し皺を寄せている。
「…瀬人にそっくりだな。」
アテムが吹き出した。
「機嫌が悪い時の顔は似なくていいんだぜ。」
「誰が不機嫌になった。」
「笑うと俺に似ている。可愛いな。」
その時だけ、娘はにこ、と笑った。
「…異論はない。」
瀬人の声が、少しだけ柔らかくなった。
「王、御子の御名を。」
アテムが娘を抱き上げた。
「王女の名は、ソティス。」
広間に祝福の声が満ちる。
瀬人は何も言わず、ただソティスの額に指先で触れた。
「やはり、悪くない名だ。」
「お前にしては、珍しく素直だな。」
「うるさい。」
そこへ、何かが2度叩かれた。
「失礼します。」
「来たな。」
セトだった。柱を叩いた音だった。
手には細長い箱がある。
「出産祝いです。」
「今更か。」
「半年の祝いも兼ねています。」
「中身は何だ。」
セトは静かに蓋を開けた。
中には艶やかな小瓶と、どこか見覚えのある怪しい道具が整然と収まっている。
「2人目のための、愛を育む品々です。」
「帰れ。」
アテムの目がきらりと光る。
「へえ。」
「見るな。」
「前回は結果が出た。特にこれは飲んだら…。」
「偶然だ。」
「験が良いかもしれないぜ。」
「違う。」
セトは淡々と続ける。
「今回は育児疲れにも配慮し、短時間高効率型です。」
「説明するな。」
「なるほど、興味深いな。」
「お前も乗るな。」
ソティスがきゃっ、と笑った。
3人の視線が集まる。
瀬人は深く息を吐いた。
「…教育に悪い。」
アテムが肩を揺らして笑う。
「瀬人。」
「何だ。」
「2人目はまだ、先でいいよな。」
「…2人目だと?戻る気はないのか?」
「ん?うん、まあ、箱は取っておこう。」
「捨てる。」
「何故だ。」
「父親の勘だ。」
セトは満足げに一礼した。
「では1歳祝いに改めて。」
「来るな!」
ソティスは父の指を握り、母の衣を掴み、楽しそうに声を上げた。
冥界で一番騒がしく、一番愛されている家族だった。
ソティスのお披露目が盛大に終わった翌週、王宮はようやく静けさを取り戻しかけていた。
花は片付けられ、祝宴の名残の菓子も消え、侍従たちの足音も通常運転へ戻る。
その午後、アテムは中庭でソティスを膝に乗せ、ふと考え込み、遠くを見るような顔をした。
「瀬人。」
「何だ。」
瀬人は隣で冥界の書類を読んでいる。
「俺は大事なことに気が付いた。」
「またか。嫌な予感しかしないな。」
「ソティスは大々的にお披露目した。」
「そうだな。」
「だが、お前はまだだ。」
瀬人はゆっくり顔を上げた。
「…何を、言っている。」
「俺の夫だ。」
「違う。」
「違わない。」
アテムは真顔だった。
「民はソティスの父が誰なのかを知っているが、正式な場はまだない。」
「不要だ。」
「何故だ。」
「誰もが俺を知っているだろう。」
「論点が違う。」
「違わん。今さら紹介など必要ない。」
「紹介じゃない。」
アテムは少し俯き、小さく呟いた。
「…婚姻。」
瀬人の手が止まった。
「何だと。」
「いや、別に。」
「今、何と言った。」
「いや、別に、その…。」
「……。」
瀬人は深く息を吐いた。
「失礼します。」
その時、背後から声がした。
セトだった。
「帰れ。」
「婚姻の手続き、および祝典の計画書です。」
セトは一礼し、すでに完成しているパピルスの束を差し出した。
「何故そんなものがある。」
瀬人の声に、セトは微動だにせず淡々と答える。
「王が世継ぎを意識された時点で、法務、および財務上のシミュレーションは完了しております。」
アテムが不思議そうに首を傾げた。
「どうなるんだ?」
「現時点で瀬人殿は『暫定、王の配偶者』という、極めて曖昧な位置付けにあります。しかし、正式に婚姻の儀を執り行い『王の配偶者』として明文化すれば解決します。」
「なるほど。」
「お前はまた…、乗せられるな。」
瀬人は不機嫌な顔で睨みつけた。
「…貴様、それだけではないだろう。」
だが、セトは真顔のまま、手元の書簡へ静かに視線を落とした。
「何の話ですか。」
セトにとっては、この婚姻は極めて合理的な『冥界補強計画』でしかなかった。
瀬人の有する現世の莫大な財力、および超一級の技術力が、全てオプションとして王の私有財産となり、冥界へ帰属する。
これは冥界の永続的な繁栄においては、究極に実効性の高い経済対策だった。
「なお、公的手続きを完了させることにより、両者の関係性は『確定事項』として歴史に登録されます。民への心理的安定、および王家の基盤強化を鑑みても、これ以上の最適解はございません。本日より即座に、最高規模での式典準備へ移行すべきかと。」
瀬人は額を押さえた。一番理不尽な方向で、またしても外堀が完璧に埋められている。
言うだけ言って、セトは去った。
資料も置いていった。
瀬人は不機嫌だが、アテムは目を輝かせて資料を捲っている。
「必要なことらしい。」
必要なことではなかった。
だが、瀬人は理解した。
これは公的手続きでも名分でもない。
アテムがやりたいだけだが、満足させるべき願望だ。
「お前。」
「何だ。」
「最初からそう言え。」
「それは流石に、照れるだろ。」
「今更か。」
アテムは耳を赤くしながら言った。
「分かった。お前と並んで、皆に祝われてみたいんだ。それに…婚期が遅れると良くないと発言◯町に…。」
瀬人は数秒黙った。
その後、諦めたように他所を向いて言う。
「…準備をしろ。」
「良いのか!」
「2度言わせるな。」
王宮の静けさは、長くは続かない。
