03 当たりの男


翌日。
"欲張りセット"は完遂された。
市場を歩き、甘味処でおやつを食べ、髪を結い、アテムは終始楽しそうだった。
そして夕刻、部屋へ戻った。
しかし。
「…戻らんな。」
アテムは女の姿のままだった。元からそうだったかのように、何の気配もない。
瀬人は腕を組んでアテムを見据えた。
「アテム。」
「何だ。」
「説明しろ。」
「俺にも分からない。」
「嘘を吐くな。」
「…少しは分かる。」
「言え。」
アテムは視線を逸らし、耳を赤くした。
「…このままだったら。」
「……。」
「お前と、子を成せるかと思った。」
沈黙。
流石に瀬人も一旦黙り、小さく息を吐いて目を閉じた。
「…なるほど。」
「怒ったか。」
「いや。」
静かに、椅子へ座る。
「座れ。」
「うん。」
アテムが素直に座ると、すぐさま、瀬人の講義が始まった。
「まず、説明する。妊娠中は体調変化がある。吐き気、倦怠感、浮腫み、睡眠障害。更に出産は痛みも出血も伴う。命の危険もゼロではない。産後も回復には時間がかかる。育児は睡眠不足との戦い。産後鬱のリスクもある。現世にも産休や育休という制度があるが休みとは名ばかりのものだ。」
「うん…。」
「母親の負担は大きい。俺は知っている。軽い気持ちで望む話ではない。」
モクバが生まれた頃の記憶が、声の奥に滲んだ。
アテムは見る見るうちに姿勢を正した。
「…怖いな。」
「そうだ。」
「痛いのか。」
「相当。」
「血が出るのか。」
「出る。裂ける。当然、楽ではない。」
「やはり怖いな。」
瀬人は内心で安堵した。
よし、伝わった。と。
その時、扉が2度叩かれた。
「失礼します。」
「帰れ。」
セトだった。
入ってきた。
「瀬人殿は、良い父親になるタイプですね。」
瀬人が固まる。
「何?」
「事前調査を怠らず、制度設計にも理解があり、現実的な負担も把握している。」
「……。」
「王。」
セトがアテムへ向き直る。
「かなり当たりの男です。」
「煽るな!」
瀬人が叫ぶ。
アテムの目がきらりと光った。手遅れだった。
「そうか…。」
「そうか、ではない。乗せられるな。」
「頼もしいな、お前は。」
「やめろ。」
「子育ても真面目に…。」
「それ以上考えるのをやめろと言っている。」
「恐らく、夜泣きにも起きます。」
「なるほど。」
「アテム。」
アテムは頬杖をつき、楽しげに笑う。
「少し、前向きに検討したくなった。」
「検討するな。」
セトは満足げに頷いた。
「では、私は失礼します。」
「置いていくな!」
扉が閉まる。
静寂の中、瀬人は額を押さえた。
「…お前達は…揃いも揃って…。」
アテムは立ち上がり、後ろから抱きついた。
「だが、そんなお前だからいいんだぜ。」
「話を逸らすな。」
「好きなんだ。」
「……。」
「瀬人?」
「…狡猾な奴め。」
「知ってるさ。」
その夜も、アテムの姿はまだ戻らなかった。
理由は、2人とも何となく分かっていた。

最初の3日は、瀬人も余裕があった。
「そのうち戻る可能性がある。」
「そうかもな。」
女の姿のまま寝台で果実を食べているアテムも、のんびりしたものだった。
7日目。
まだ戻らない。
10日経った。
瀬人の私室で、アテムが真剣な顔でタブレットを見ていた。
「何を読んでいる。」
「現世の資料だ。」
「資料?」
画面にはタイトルが大きく書かれていた。
『◯まごクラブ はじめての妊娠特集』
瀬人は黙って手を出した。
「…返せ。」
「断る。勉強になる。」
「何故そこへ行く。」
アテムは真顔だった。
「可能性を見ている。」
「願望を育てるな。」
「瀬人。」
「何だ。」
「つわりとは何だ。」
「お前には関係ない。早く諦めて戻れ。」
瀬人はタブレットを取り上げた。
だがアテムは別の端末を出した。
「予備がある。」
「周到だな。」
その時、扉が2度叩かれた。
「失礼します。」
「帰れ。」
セトだった。
「王、北区画の報告書です。…あと、一言だけ。」
「嫌な予感しかせんな。何も言わずに出ていけ。」
しかしセトは淡々と言った。
「子は父親でも育てられます。」
アテムが顔を上げる。
「そうなのか。」
「はい。制度と覚悟があれば可能です。」
「つまり、産んでから戻るのでも遅くはないのか…。」
「そうです。」
「煽るな!」
瀬人が叫ぶ。
セトは一礼した。
「では失礼します。」
「置き土産だけして帰るな。」
アテムは戻らなかった。
2週間経っても戻らない。
3週間経っても戻らない。
瀬人は深く考え、そして諦めた。
「…アテム。」
「何だ。」
「お前は本気なのだな。」
「今ではかなり。」
「そうか。」

翌日。
現世から大量の荷物が届いた。
「何だこれは。」
「必要物資だ。」
箱の中にはパンツ、栄養補助食品、体調管理本、体温計、記録ノート、各種サプリメント。
「…瀬人。」
「何だ。」
「切り替えが早くないか。」
「決断した。」
「怖いな。」
「妊活をする。」
アテムが固まった。
「そんな真顔で言うなよ。」
「するものはする。」
「もう少し照れろ。」
「言い出したのは誰だ。」
その日から、王宮の空気が妙に変わった。
アテムは毎朝、真剣な顔で基礎体温を測る。
暦を見て日を数える。
瀬人は食事内容を管理し、睡眠時間を記録し、何故かシートで排卵予測まで作った。
「お前な、恋人との子作りを事業計画書にするなよ。」
「成功率を上げる。」
「そういうとこだぜ…。」

数日後。
アテムが小さな器具を持って洗面所へ向かう。
「何だそれは。」
「現世の婦人科用品らしい。KCネットで買った。」
「名称を言え。」
「ドゥーテス◯と書いてある。」
「それをどこで覚えた。」
「たまご◯ラブ。」
「た◯ごクラブ…。」
扉が2度叩かれた。
「失礼します。」
「帰れ。」
セトだった。回り道をして通りがかったついでだった。
「熱心で結構です。」
「お前のせいだ。」
「半分ほどは。」
「認めるのなら責任を取れ。」
当然、セトは一礼して出ていった。



やがて、ある朝。
洗面所から妙な気配が流れた。
そして、
「…瀬人。」
呼ぶ声は震えていた。
瀬人が入ると、アテムは検査薬を見詰めていた。
「線が2本ある。」
「……。」
「これは、そういうことか。」
瀬人は暫く何も言わず、やがて静かに頷いた。
「そういうことだ。」
アテムはぽかんとした後、じわじわと笑い、次の瞬間、泣いた。
「忙しい奴だな。」
「感情が、追いつかない…。」
瀬人はその肩を抱き寄せた。
「俺もお前のことは言えんがな。」

そこからの日々は、想像以上だった。
「う…気持ち悪い…。」
「水だ。」
「うーん、眠い…。」
「寝ろ。」
「足が浮腫むな…。」
「横になれ。」
「…何故、急に泣けるんだ…。」
「知らん。だが泣け。」
公務はすでに産休制度へ組み替えられていた。
数ヶ月前、瀬人が、セトと王宮の法務官を呼びつけていた成果である。
「王の体調変化に対応した休暇制度、代理決裁権限、産後復帰プラン、育児補助人員配置案…全て機能している。」
要は、産休、育休、そしてセトへの仕事の押し付けだった。
「何故先に出来ているんだ。」
アテムが驚く。
「お前がやると言い出した時点で着手した。」
「怖いほど有能だな。」
「今更か。」

冥界助産婦達の瀬人への評価は非常に高かった。
「瀬人様、夜間の付き添い完璧です。」
「当然だ。」
「記録も正確です。」
「当然だ。」
「腰の支え方も上手です。」
「当然だ。」
「少し鼻につきますね。」
「何だと。」
だがアテムは知っていた。
瀬人が人知れず何冊も本を読み、寝顔を見ていることを。
そして、夜中に、腹をさすりながら小さく言うことを。
「…無事でいろ。」

ある日、情緒不安定なアテムが泣き出した。
「俺は太った。」
「当然だ。」
「即答するな。」
「必要な変化だ。」
「髪もまとまらない。」
「結ってやる。」
「歩くと疲れる。」
「抱える。」
「…瀬人。」
「何だ。」
「お前はずるい奴だ。」
「どういう意味だ。」
「そうして全部先回りして、俺を安心させる。」
瀬人は少し黙った。
「不安にさせる方が無能だ。」
「そこで照れないのがずるいと言っているんだ。」
そこへ、扉が2度叩かれた。
「失礼します。」
「帰れ。」
セトだった。
「助産婦チームからの評価表です。」
「評価表?」
「総合評価S+。“理想的配偶者、ただし態度が硬い”」
アテムが吹き出した。
「はは!」
「笑うな。」
「最後だけ的確だ。」
セトは書簡を閉じた。
「なお、冥界女性陣からは“貸してほしい”との声もあります。」
「貴様、処刑するぞ。」
「人気者ですね。」
「帰れ!」
扉が閉まる。
アテムは腹を抱えて笑い、それから穏やかな顔で瀬人の手を取った。
「瀬人。」
「何だ。」
「やはり、お前との子で良かった。」
瀬人は、視線を逸らした。
「…当然だ。」
「ふふ。」
「笑うな。」
「嬉しそうだぜ。」
「黙れ。」
冥界の王宮は今日も騒がしかった。
だが、その中心で、2人は確かに幸福だった。

臨月に入ってから、瀬人は日に3度は真顔で言うようになった。
「歩け。」
「命令か?」
「推奨だ。」
「言い方と顔が怖いな。」
そんなこともあり、アテムは王宮の回廊を散歩していた。
腹は大きい。足取りはゆっくりとしたものだ。
女の姿にもすっかり慣れてしまったが、情緒だけは慣れなかった。
「…何故だ。急に泣きたい…。」
独り言が漏れる。
「正常です。」
背後から声がした。
「ひっ。」
セトだった。
いつの間にか隣に並んでいる。
今日は「帰れ」と言う者が居ない。
「脅かすなよ。」
「王の気配察知能力が鈍っているだけです。」
「お前だけは察知できないぜ?」
セトはアテムの顔を見て、即座に言った。
「どうせ男は痛い目に遭いません。色々肩代わりさせれば良いのです。」
「急に過激だな。」
「事実です。荷物を持たせる、夜中に起こす、背をさすらせる、手を握らせる、泣き言を聞かせる。使えるものは使ってください。」
「お前の話か?」
「現代の子です。」
「そんなことを言えるかよ。」
「では一生うじうじしていてください。」
「辛辣だな!」
「では失礼します。」
「言うだけ言って去るな!」
去っていった。
残されたアテムは、暫く考えた。
「…手は握らせるか。」
ついでに、セトに対する瀬人の気持ちも少し分かった。



ある日。
それは急にやって来た。
「瀬人。」
「どうした。」
「痛い。」
瀬人は一瞬で立ち上がった。
「どの程度だ。」
「かなり。」
「間隔は。」
「分からない。」
「そうだろうな。」
次の瞬間には外套で包み、アテムを抱き上げていた。
「歩けるぜ?」
「却下だ。」
「恥ずかしいだろ。」
「知ったことか。」
王宮の廊下を、瀬人が妊婦を抱えて早足に歩く。
侍従たちは慣れた顔で道を開けた。
「医務室を開けろ。」
「もう開いております!」
「湯は!」
「沸いております!」
「何故先回りしている。」
「瀬人様が最近ずっと騒いでいたので!」
ついでにセトの指示でもあった。
医務室にはベテランの助産婦チームが待機していた。
「来たね。」
年嵩の助産婦が落ち着いた声で言う。
「まだ時間はかかるよ。今は耐えるしかない。」
「耐えるしか…。」
アテムが青褪める。
「そう。まずは呼吸だね。」
「王、吸って吐いてください。」
「吸って…痛い!」
「吐いてください。」
「今それどころじゃないぜ!」
瀬人は隣に椅子を引き寄せた。
「手を出せ。」
「何故だ。」
「握れ。」
アテムは黙ってその手を掴んだ。
数秒後、瀬人の顔が僅かに歪む。
それから長い時間が続いた。
痛みの波が来る度に、アテムは瀬人の手を握る。
瀬人は水を飲ませ、背を支え、額の汗を拭き、何度も時間を確認した。
途中、アテムが涙目で言った。
「瀬人。」
「何だ。」
「たまごクラ◯には、男は逃げる者もいるとあった…。」
「誰が逃げるか。」
「痛いらしい。」
「お前ほどではない。」
「だが、怖いぜ?」
「俺も変わらん。」
アテムが一瞬、目を見開いた。
「お前も怖いのか。」
「当たり前だ。」
「…そうか。」
その言葉で、少し呼吸が整った。
やがて助産婦が立ち上がる。
「さあ、そろそろだね。」
「そろそろ?」
「王、本番です。」
「嫌な言い方だな。」
準備が始まる。
助産婦達は的確に動き、瀬人は言われるまま、位置を変えた。
とうとう、本番だった。

「瀬人!」
「何だ。」
「鼻からスイカとは、このことか!」
「鼻?」
「例えだ!」
「今そこに拘るな。」
アテムは耐えた。耐えたが、限界だった。
「くっ…これまでか…。」
「王、これからです。」
結局、耐えられず、叫び、怒り、泣き、そして、最後には王の威厳をかなぐり捨てて全力で産んだ。
その間、瀬人の手首にはくっきりと指の跡が増えていった。
程なくして、産声が響いた。
小さく、しかし力強い声だった。
「おめでとう。女の子だよ。」
助産婦が笑う。
赤子を抱かされ、瀬人が固まった。
アテムは涙で濡れた顔のまま、笑った。
「…瀬人。」
「何だ。」
「見せてくれ。」
抱かれた赤子は、眉間に微かな険しさを宿し、しかし目元は柔らかい。
誰が見ても、2人の子だった。
そっとアテムに抱かせる。
瀬人がそっと指先を差し出すと、小さな手が掴んだ。
「…軽いな。」
「当たり前だ。」
「だが重い。」
「どういう意味だ。」
「俺にも分からない。」
暫くして、アテムがふと思い出したように自分を見る。
「…瀬人。」
「何だ。」
「戻っていないな。」
瀬人も見る。
女の姿のままだった。
沈黙。
そこへ、扉が2度叩かれた。
「失礼します。」
「帰れ!」
セトだった。
「ご出産、おめでとうございます。」
「入って来るな。今はそれどころではない!」
「何故戻らないんだ。」
セトは穏やかに赤子を見てから答えた。
「満足の基準が更新されたのでしょう。」
「更新?」
「“子を成す”が叶った結果、次の願望へ移行したと推測されます。」
「次?」
セトはアテムを見る。
「家族3人で過ごしたい、など。心当たりはありませんか。」
アテムははっとした。
「…それだ。」
「増えるな!」
瀬人が叫ぶ。
助産婦達は笑いを堪えている。
「では、当面そのままですね。」
「軽く言うな。」
アテムは疲れ切った顔で、それでも嬉しそうに赤子を抱いている。
「瀬人。」
「何だ。」
「3人だな。」
瀬人は深く息を吐き、そして観念したように頷いた。
「…ああ。」
赤子が小さく欠伸をする。
王宮の夜は騒がしい。
だがその騒がしさは、確かに幸福の音だった。
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