23 王、自分磨きをする


朝の光は、童実野町を薄金色に染めながら、海馬コーポレーションの巨大なビルを照らしていた。
アテムが入社1年の“節目”を迎えて数日。珍しく少しだけ疲労の影を瞳に宿していた。
新人賞という栄誉の余韻は確かにあるが、それ以上に、日々、「学ぶべき世界の広さ」に胸を踊らせ続けていた。
その“踊り”が、どうやら体にまで来たらしい。
出社直後、すれ違った若手社員が声をかけてきた。
「アテムさん、疲れてます?癒しが必要ですね。そろそろ“ケア”とか行った方がいいですよ。疲れ残るとパフォーマンス落ちますし。」
アテムは瞬く。
「ケアとは、癒しの儀のことか?」
「儀?まぁ、そういう感じです! ネイルとか、マツエクとか、整体とかスパとか…いろいろありますよ。」
アテムの脳裏に、朝の通勤路が蘇る。
道端に立つカフェの窓、大型スクリーンに映る広告、歩く女性たちの手入れされた指先、艶のある髪。
そして社員の会話に出てくる聞き慣れない単語たち。
「ネイル。まつ毛。スパ…うん。現代では体の“部位ごとに”儀式があるんだな。」
『補足しましょうか?』
耳に装着しているイヤホンからA.R.E.S.が耳元で囁く。
「頼む。この時代の体は、どのように敬われているんだ?」
A.R.E.S.は即座に各ジャンルのケア事情を解析し、画面に一覧を展開した。
ネイルケア、ラッシュリフト、オイルマッサージ、メンズフェイシャル、ヘッドスパ、ボディメンテナンス。
さらに、アテムの購読履歴を密かに把握している“ピンクの表紙の雑誌”からも情報が流れ込む。
『王子様だってケアする時代!』
『記念日ケア特集:大切な人の手を取る前に』
『愛されメンズは爪とまつ毛で決まる♡』
「…これは、何かの呪文か?」
アテムは眉を微かに顰める。
「まつ毛で愛されが決まるとは、随分と繊細な文明だな。」
『肯定します。現代は総合的美意識社会です。ちなみにアテム様のまつ毛は、すでに平均値の250%です。強化の必要は…。』
「だが、さらに整えることも可能なんだろ?」
『…可能です。』
アテムは小さく頷いた。
王は常に“磨く”存在だ。磨かれることを怠る理由は無い。
そして何より、瀬人がどう感じるだろうか。
その問いが、胸の奥に静かに火を灯す。
アテムは、ケアの一覧を眺めながら呟いた。
「ケアとは、己を整え、誰かに触れるための準備…。良い、これは研究する価値がある。」
A.R.E.S.の光が嬉しそうに明滅する。
『必要であれば、最適なサロンの予約も可能です。』
「まずは知ろう。この時代の“美の儀式”を、余すところなく。」
その足取りは軽い。
王の知的好奇心が、また新たな領域を見つけたからだ。
そして、この日、瀬人はアテムの“ケア研究レポート”を目にして、深く溜息を吐くことになる。
また妙な方向に理論化している、と。



アテムが駅前の交差点で信号待ちをしていた時だった。朝の街は、冬の光を細かく散らしながら、どこか麗しいざわめきをまとっていた。
海馬コーポレーションの社員証を胸元に下げた人々がビルへ吸い込まれていき、A.R.E.S. の広告塔が今日の稼働率を誇らしげに表示している。
そして、アテムの視界に、妙に可愛らしいピンク色の冊子がひらひらと差し込んだ。表紙右上に小さく「特集:理想の記念日」。どう見ても◯クシィの増刊号だった。
「…また特集をしているのか。」
微かに眉を顰めながら歩き出しつつ、アテムは端末を取り出した。
疲れを癒せ、と別部署の社員に言われた一言が、ずっと尾を引いていたからだ。
“癒し”とは何だろう。
“ケア”とは何が含まれるのだろう。
海馬邸での生活は整いすぎていて、むしろ世間一般の“ケア”という概念を知らない。というより、そもそも知らない。
検索欄の予測変換にふと目が止まる。
そして、アテムは見てはならないものを見つけてしまった。
“◯ットペッパービューティー”
「…なるほど、これが噂に聞く総合ポータルか。」
アテムは通勤途中のカフェに入り、端末に指を滑らせた。
童実野町のサロンを片っ端からチェックしていく。
ネイルケア、まつ毛パーマ、眉スタイリング、ヘッドスパ、よく分からない機械の施術まである。
それぞれのメニューと内装写真が、好奇心を試すかのように輝いて見えた。
「施術時間…価格…予約状況…。」
その横顔は、完全に“神の審査の目”だった。
検索結果に載っている一般サロンは、今まさに世界最強クラスのチェックを受けている。

日が暮れた童実野町。
アテムは帰り道に、実店舗の外観を一軒ずつ確認して歩いた。
隅から隅まで、清掃状態、照明の色温度、看板のデザイン、扉の重さ、入店動線まで“査定”する。
道すがら、すれ違った何人かが「え、今のアテムさん…?」と気付いたようだが、アテム本人は気付くどころか視界にも入れていない。
アテムは真剣だった。
“ケアとは何か。”
その問いの答えに向き合い続けていた。

海馬邸の玄関を開けた瞬間、アテムは静かに固まった。
エントランス一面、セルフケア用品の山。
化粧品、高機能美容液、香水、スチーマー、マッサージガン、ヘッドスパ機器、ボディメンテ用の機械、爪を整える専用のツールセットまで。
恐らく“最高級品だけを選び抜いた”ラインナップである。
どれもパッケージからして異常に上質だった。
そして玄関の奥から、淡々とした声。
「帰ったか。」
瀬人が腕を組み、壁にもたれかかっていた。
「…お前が“ケアとは何か”などと検索していたログが上がったからな。」
「…見たのか。」
「見えるように設定してある。」
「いつの間に?」
「最初からだ。」
アテムは微かに目を見開いた。
瀬人は肩を竦め、続ける。
「お前が不必要な場所で疲れる前に、先に全て用意した。好きに試せ。…どうせ、そのうち“理想のセルフケア特集”などと取り上げられるのだろう。」
「俺達、そんなに頻繁に雑誌に載っているのか…?」
「お前が気付かんだけで、世間は勝手に騒ぐ。」
静かに笑みが浮かぶ。
その笑みには、アテムの成長を誇らしく思う気配と、もう諦めに近い悟りの気配が美しく混じっていた。
アテムは瀬人の方へ歩き、わざと真面目な表情で告げた。
「瀬人。まずは、これら全ての“取り扱い説明”が必要だ。」
瀬人は目を細めた。
「…結局、俺がやるのか。」
「お前が揃えたんだぜ?」
「…仕方ない。それもケアの一環か。」
アテムは静かに笑い、その笑みは灯りを受けて僅かに柔らかく揺れた。
こうして、“ケア”は、2人の日常に新たな章としてそっと組み込まれていくのだった。



アテムがビジネスバッグをソファ横に置き、書類を揃えながら深く息を吐いた。
瀬人は隣のテーブルで端末を操作していたが、横目でそのため息を捉える。
「…瀬人。少し、相談がある。」
瀬人は端末を閉じ、アテムの方へ体を向けた。
“話せ”とさりげなく促すようだった。
「海馬コーポレーションの福利厚生で、“リラクゼーション制度”があるだろ。」
「ああ。社員が休暇に加えて利用できるアレか。使いたいのか?」
アテムは真剣な顔で頷いた。
しかしその目には、何やら複雑な迷いが潜んでいる。
「以前…リラクゼーションやヘッドスパを言い出した時があっただろ?」
瀬人は軽く笑う。
「あの時か。外部の施術者に任せる気などなかったがな。」
「それで結果的に、お前がやってくれた。」
「当然だ。他人が触れる必要はない。俺が最適だ。」
その“当然”が、さらりと王者の響きを持っているのが瀬人らしい。
アテムは静かに顔を伏せ、思案を挟む。
「…お前の施術は、俺が自分でやるより遥かに良い結果になった。それで、俺は思ったんだ。“誰かの手”によるケアは、精神的な信頼の表れだ、と。」
瀬人は目を細めた。
それは、アテムが自ら気付いた答えを誇らしげに見つめる眼差しだった。
「だから、福利厚生の“リラクゼーション”を、瀬人にしてもらおうと思ったんだ。制度は制度として使って…“実施者”はお前で。」
瀬人は喉の奥で低く笑った。
「新しい。福利厚生を俺が直接付与するのか?」
「実際、一番効果が出るんだろ? 誰か知らない人より。」
「それは否定しない。」
その一言が、またさりげなく傲慢で、優しい。
だが、アテムの眉間にまた影が落ちた。
「…ただ、気付いてしまった。このケアは“瀬人に触れる為の自分磨き”だろ?そのケア自体を瀬人から受けたら…目的と手段が循環して、訳が分からなくなるんじゃないか?」
瀬人は一瞬だけ言葉を失った。
次に、信じられないというように息を吐き、ゆっくりアテムの顎先を指で上げる。
「アテム。ケアとは、“結果として触れたい人にふさわしくあること”だ。だが“触れたい人に触れられること”もまた別種のケアだ。」
アテムの瞳が揺れる。
迷宮に入り込むように混乱しかけていた思考が、静かにほどけていく。
「…つまり?」
「簡単だ。お前がやりたいのなら、俺はいつでもやる準備がある。…この手は器用だからな。」
アテムは吹き出しそうになりながらも、それを堪えた。
瀬人は本気で言っているのだから、笑ってしまうと怒られる。恐らく怒りはしないが。
「じゃあ…頼んでいいのか?」
「良い。制度の利用申請の備考欄に“担当:海馬瀬人”とでも書いておけ。承認は俺が出す。」
「そんな自由記述欄はあったか?」
「作らせる。」
アテムは、肩の力が自然と抜けていくのを感じた。
信頼という概念は、抽象的で複雑で掴みにくい。
しかし、手の温度だけは誤魔化せない。そう気付かせてくれる存在が、目の前にいる。
「…じゃあ、今日は“ネイルケア”から任せる。」
瀬人は微かに笑った。
その笑みは、アテムだけに向けられる、最も柔らかい形のものだった。
「いいだろう。徹底的にやる。」
その声に、アテムは深く身を委ねた。
こうして、“福利厚生:海馬瀬人”という前代未聞の制度利用が、静かに始まったのだった。

アテムはリビングの柔らかい灯りに身を落ち着け、ソファへそっと腰を下ろした。
瀬人は既に準備万端で、爪磨きセットを整然と並べている。
「始めるぞ。」
「頼む。」
瀬人はアテムの背後にまわり、腕を回すようにして包み込むように座った。
アテムは当然のように身体を預ける。
その姿勢は、世間一般でいう“対面で向かい合う位置”など微塵も考慮されていない。
背後から抱き締められる形で、ゆっくり手を取られ、爪先を光の角度にかざされる。
「…これは、普通と違うんじゃないか?」
「普通?」
「向かい合って座るらしい。」
アテムは振り返り、瀬人の胸元に頬が触れそうな距離で瞬きをした。
「だが、対面にすると、瀬人の顔が近すぎるから落ち着かないし、この方が集中できるのかもしれない。」
瀬人は喉の奥でふっと笑う。
「なおさら、この形が“正しいやり方”だ。」
その落ち着いた声に合わせて、瀬人の指がアテムの指先を包む。
軽やかな動きで甘皮を整え、ファイバーで丁寧に光を引き出す。
温度と力加減は完璧で、まるで専属の高級サロン。
いや、正確には、“専属”どころか“独占”である。
アテムはその手際の良さに目を細め、微かな息を漏らす。
「瀬人。これは…すごくいい。爪が輝いている。」
「お前の爪が曇っている方が不自然だ。」
「豪胆な褒め方だな。」
そんなやり取りをしている間に、十指は見事に磨き上げられた。
瀬人はアテムの両手を包み、満足げに見つめる。
「これで完了だ。」
アテムは少し誇らしげに頷いた。

翌朝。
海馬コーポレーションのエントランス。
アテムが社員証をかざして入ると、すぐに後輩社員が気付いた。
「わあっ!アテムさん、その…爪!めちゃくちゃ綺麗ですね!ケア行かれたんですか? 」
「どこのサロンです?」
アテムは即座に止まり、すっと手を見つめた。
確かに光を反射して眩しい。
だが、“どこでケアを受けたか”という質問は想定外だった。
ケアを受けた場所…?
アテムの思考は数秒で導き出した答えを、そのまま真顔で口にする。
「海馬邸だ。」
「えっ!?えっ、あの…ご自宅…?」
「そうだ。瀬人の膝の上で。」
社員は固まったが、アテムは続ける。
「爪は、後ろから包まれる形で磨かれると安定する。ああ、これは便利な姿勢で…。」
「え、え、え、えええええ!?」
控えめに言って社内騒然である。
エントランスにいた数人が振り向き、ざわめきが起こり始める。
その空気を敏感に察したA.R.E.S.が横からソリッドビジョン表示で現れた。
『アテム様。“後ろから包まれて磨かれる”という発言は、一般的なネイルケア工程と著しく乖離しています。社内混乱の予測指数、上昇中です。』
アテムは真顔のままA.R.E.S.へ向き直る。
「おかしいか?」
『おかしい……というより、“瀬人様がアテム様に密着して爪を磨いた”という結論に誰もが到達します。』
「事実じゃないか。」
『事実なのが問題です。』
その瞬間、エレベーターの扉が開き、瀬人が姿を現した。
アテムとA.R.E.S.のやり取り、ざわつく社員、怪訝な視線。
全て一瞥して状況を察したらしい。
「…何を言った。」
低い声に社員達がビクッとする。
アテムは素直に答えた。
「爪が綺麗だと言われたので、瀬人がケアしてくれたと話した。」
瀬人は深く息を吐き、額に手を当てた。
「…どこまで話した?」
「後ろから抱えられていた辺りまでだ。」
瀬人は天井を仰いだ。
エントランスは、もはや“事件現場”のような静寂に包まれる。
そして瀬人は諦めたように肩をすくめ、アテムの背へ手を添えた。
「…お前が満足なら、それでいい。」
アテムは穏やかに頷いた。
「とても良かった。瀬人の手は信頼できる。」
その言葉の“威力”で、社員たちの心臓は一斉に跳ね、A.R.E.S.の混乱指数はさらに跳ね上がった。
こうして、“ネイルケア事件”は社内で伝説となった。



アテムの肌はもともと光をよく弾く。
瀬人は、その“ポテンシャル”をさらに引き上げることに、躊躇いなど一切なかった。
夜。
照明を落とした海馬邸の寝室。
アテムはベッドに腰掛け、タオルを肩にかけて静かに待っている。
瀬人はローション、乳液、クリーム、シートマスクまで整然と並べていた。
「爪の次は肌だ。全身のメンテナンスを怠る特別顧問など、聞いたことがない。」
アテムは頷き、横向きにベッドへ倒れた。
「任せた。眠くなったら寝てもいいか?」
「そのつもりでベッドに誘導している。」
淡々とした瀬人の声が、息を奪うほど優しい。
まずは温めたクリームを指に乗せ、アテムの頬へ。
瀬人は必要以上に触れないのに、なぜか触れられている感覚が強い。
丁寧で、緻密で、まるで傷つきやすい宝石に触れるような手つき。
「…瀬人。手が、気持ちいい。」
「当然だ。お前の肌が荒れるなど、世界の損失だからな。」
アテムは微笑み、瞼を少し下げた。
「そんな世界のことまで思わなくても…お前が喜ぶなら、それでいい。」
瀬人の手が一瞬止まり、そして何も言わず作業に戻る。
その沈黙こそが、アテムを落ち着かせる。
やがてシートマスクを乗せられ、その重みと瀬人の指の圧でアテムは瞼を閉じた。
「眠いなら眠れ。」
「…うん。」
そのままアテムはすっと眠りに落ちた。
瀬人は静かにマスクを外し、美容液を塗布し、乳液を薄く伸ばし切るまで手を止めなかった。
「…眠ったか。」
頬に触れ、満足そうに息を吐く。

翌朝。
海馬コーポレーション エントランス。
昨日の“ネイル事件”を引きずらない、いつものアテムだった。
「アテムさん!えっ…肌っ、めちゃくちゃ綺麗…っ!」
またしても、女子社員がアテムを見て叫んだ。
そしてその声を聞いた別の女性社員がもれなく寄ってくる。
「え、何このツヤ…反射してません!?」
「特別顧問、昨日より綺麗になってません?何使ってるんですか?」
「化粧水、社のブランドのやつですか?」
アテムは少し考え、頷いた。
「使っている化粧品は、全部、海馬コーポレーションのものだ。」
「わっ! 一緒です!」
「なのにこの仕上がりの差は何!?」
「特別な使い方してます? 分量? 順番?」
アテムは真面目に答える。
「特別な使い方というより…特別な“人”がいる。」
女性陣がざわつく。
「え…特別な…人?」
「瀬人だ。」
その瞬間、全員の動きが同時に止まった。
アテムは続ける。
「瀬人が夜、肌の状態を見てくれる。ローションの温度も、圧も、塗る速度も完璧で…眠くなるほど心地いい。」
「…あっ。」
「えっ。」
「はっ?」
アテムは淡々と、誰にも真似できない美の秘訣を語る。
「美肌の秘訣は、瀬人の手でスキンケアをしてもらいながら眠ることだ。」
一同は、固まった。
A.R.E.S.が背後でディスプレイを震わせる。
『アテム様。それは“一般再現性ゼロ”です。むしろ全社員の希望値を上げるだけです。』
アテムは首を傾げる。
「再現性がないのか?」
『ないです。瀬人様限定仕様です。』
女性社員たちは、もはやうっとりとため息を漏らしていた。
「…社長、そんなことまで…。」
「尊い…。」
「プロじゃなくて恋人にやってもらうスキンケアって最強すぎる。」
「ていうか特別顧問、勝ち組すぎる…。」
そうして“美肌の秘訣:海馬瀬人”という社内伝説が、また1つ更新されたのだった。



アテムのまつ毛は、もともと影を落とすほど濃く、長く、密度がある。
A.R.E.S.は常々こう評価していた。
『アテム様。あなたのまつ毛は既に“バッサバサ”であり、物理的補助は不要と判断します。』
しかし、その言葉はむしろアテムの探究心を刺激した。
「…だが、さらに整えれば、瀬人も喜ぶかもしれない。美は上限を持たないからな。」
美学に対しては異様に勤勉なアテムである。
夜の海馬邸。
スキンケアの翌日、アテムは瀬人の書斎へ現れた。
「瀬人。まつ毛をどうにかしたい。」
瀬人は視線を上げずに返す。
「その“どうにか”の必要性が分からんが?」
「綺麗な方がいい。」
瀬人はわずかに息を吐き、書類を閉じた。
「…アテム。俺にできないケアがあるとでも思っているのか?」
アテムは少しだけ黙り、慎重に言った。
「いや、ネイルケアの時に驚いたが…流石の瀬人でも、美容師免許までは…。」
「取得済みだ。」
「…………。」
『“こんなこともあろうかと”フォルダに分類されています。』
瀬人は無言で立ち上がり、アテムの手を取り寝室へ向かう。
「座れ。」
アテムはベッドに腰掛け、瀬人は後ろから抱え込むようにして座る。
アテムにとってこれは“いつも通りの姿勢”であり、世間とズレていることには気付いていない。
瀬人は精密機器のように丁寧に、アテムのまつ毛を持ち上げ、角度を調整し、ロッドを当て、薬剤を塗布する。
動きに迷いはない。
「そのまま目を閉じていろ。」
「器用だな…。」
「必要だからだ。」
必要性の基準は瀬人にしか理解できないが、とにかく完璧だ。
しばらくして薬剤を拭き取り、角度を整え、瀬人は満足げに指先でアテムのまぶたを撫でた。
「開けていい。」
アテムがそっと瞳を上げると、視界の縁がわずかに光をすくった。
もともと長いまつ毛が、扇のように開いている。
「瀬人、これは…。」
「よりお前の瞳がはっきり見えるようになる。完璧だ。」
アテムは静かに頷き、わずかに頬を染めた。

翌朝。
海馬コーポレーションの廊下。
新たな事件が起きるのに、アテムは全く気付いていない。
「アテムさん、おはよ…えっ!? えっ、なにその…目!?」
「雰囲気変わりましたよね? えっ、絶対何かしたでしょ!」
「マツパですか? マツパやりました?」
アテムは素直に答える。
「瀬人にしてもらった。」
「「………………は?」」
アテムは続ける。
「昨夜、瀬人がまつ毛の角度を整えてくれた。美容師免許を持っていると聞いて驚いたが…非常に上手かった。」
「え、社長が…?」
「ま、まつ毛を…巻いた…?」
『これは“社長専用まつ毛ケア事件”として記録します。』
アテムはさらに誠実に語る。
「美の秘訣は、瀬人の技術と、瀬人の手にある。」
女性社員達は震えた。
「…特別顧問、それは…。」
「…再現不可能すぎる…。」
「…羨ましさで吐きそう…。」
そして本日の社内ネットワークのトレンド1位:《特別顧問、今度は“マツパも社長”だった件》
またしても、海馬コーポレーションに静かに衝撃が走ったのだった。



爪、肌、まつ毛。瀬人の手が触れる度に、アテムという存在は研ぎ澄まされ、光を帯びていった。
その変化は、社内だけでなく、遠く外の世界にまで静かに波紋を広げる。
とある午後。
会議室の扉が開き、久しぶりに海馬コーポレーションを訪れた有名写真家・◯クシィの専属カメラマンが、無言のままアテムを“見詰めた”。
まるで、目の前の現象を脳が理解するのに時間が必要だと言うように。
「……。」
少しして、沈黙に小さなひび割れが入った。
「…すみません、ちょっと…もう一回、こちらを向いてもらえます…?」
アテムは首を傾げ、素直に顔を向ける。
その瞬間。
「撮らせてください! 今! 今すぐ! この状態で!」
会議室に轟音のような声が響いた。
アテムは瞬きをし、瀬人はこめかみを微かに顰める。
「おい、会議中だ。控え…。」
「海馬社長! この顔は罪です!以前の写真集の段階で“謎の美貌王モデル”だの“時代の顔”だの言われたのに…何があったんですか!? どうやってこうなったんですか!? 人間にこの光沢発生します!?」
「落ち着け。」
「落ち着けません! これは光の暴力…!」
アテムは困ったように瀬人を見上げる。
「瀬人…撮らせてやった方がいいか?」
瀬人は浅く息を吐き、しかしその声音はどこか誇らしげだった。
「好きにしろ。…どうせ断っても勝手に撮る奴だ。」
「社長、それは否定できないです!」
そして撮影は行われた。
控室も背景も整っていない、ただの会議室で。
にもかかわらず、レンズ越しのアテムは1枚ごとに“作品”へと昇華していく。
カメラマンは半泣きだった。
「…何ですかこの表情の可動域…。同じ人物で、なんでここまで世界観が変わるんですか…。光がアテムさんに吸い寄せられるんですけど…。海馬社長…この方、しっかりモデルになってません?」
瀬人は無言で視線を逸らす。
アテムは「ああ、そういえば」と思い出したように口を開いた。
「昔、勝手にアイドルにされていた気がする。何も分からないまま撮られ、気付けば写真集になっていた。」
「その“気付けば”の結果がベストセラーだったんですよ!」

撮影した膨大なデータは、編集部の全会一致で“フォトブック化”された。
それは発売前から話題となり、世間は騒然となる。
「アテム、ビジュアル進化しすぎでは?」
「天使か? 王か? いやもう概念か?」
「海馬コーポレーションに美の神が住んでるの?」
「写真見たら数分思考停止した」
など。SNSのトレンドを総なめにし、書店には専用コーナーが組まれた。
そしてアテム本人は、なぜ自分が騒がれているのか分からないまま、瀬人の横で穏やかに言う。
「瀬人。…これは、お前のおかげだろ?」
瀬人は、僅かに口角を上げる。
「当然だ。俺が磨いた。」
その声音は、誰にも聞こえないほど柔らかかった。

アテムのフォトブックが発売されてから3日後。
海馬コーポレーションの広報フロアでは、ざわり、と妙な緊張が走っていた。
「…何だこの視線の流れは?」
アテムが首を傾げると、隣の瀬人は平然と答えた。
「来るぞ。」
「何が?」
「例のカメラマンだ。あの反応なら、必ず、もう一度撮りに来る。」
アテムは微かに目を瞬く。
「予言のように言うんだな。」
「予測だ。統計と経験則。…あと、あいつは執念深い。」
瀬人の声音には遠い目が混じっていた。
ならば、とアテムは考える。
「なら、備えなければな。」
瀬人が眉を上げる。
「備える?」
「眉を整え、肌を整え、髪を整え…世界がまた騒ぐなら、少しだけ“整った姿”で迎えるべきだ。」
言葉の端に、どこか無邪気な王らしい誇りが滲む。
瀬人の指が止まる。
「…それは、俺にやらせる気だな?」
「瀬人の方が上手いからな。」
完全な事実で返され、瀬人は肩の力を抜く。
「…なるほど。」
その夜。
アテムの“全方位ケア”は、広いバスルームで効率よく行われた。
眉は精密に整えられ、肩・首のラインは瀬人の手技でしなやかさを取り戻し、髪は香り高く乾かされ、肌は光を孕んだように整えられていく。
瀬人は淡々と作業を進めているが。
「…あまり動くな。」
「瀬人の手が温かくて眠くなるんだ。」
「今は寝たら危険だ。刃物を持っている。」
「瀬人を全面的に信頼しているからな。」
瀬人の手元がピタリと止まった。
「…お前はまた。そういうことを自然に言うな。」
アテムは首を傾げただけだった。

翌日、事件が起きた。
廊下の向こうから別部署の女性社員がこちらへ駆け寄ってきた。
「アテムさん! 何ですかその眉!えっ、髪まで…すご…何があったんですか!」
アテムは正直に答えた。
「瀬人に整えてもらった。」
「社長が!?なんで!?どこで!?どんな状況で!?何時間かけてそのクオリティ!?」
廊下は騒然となり、瀬人が肩を押さえるようにため息を漏らす。
「だから言っただろう。事件になると。」
そこへ、噂より速く、例のカメラマンが乱入した。
「アテムさんっ! また! 撮らせてください!先日の時点で“何か起きてる”と確信しました!」
瀬人は天井を見上げた。
「…来たか。」
アテムは、迷わず頷いた。
「撮ってもいいぜ。」
「許可が出た!!!」

撮影の依頼は正式に届き、今回は大規模な企画となった。
瀬人は、諦めていた。
そして同時に、海馬コーポレーションの社内ネットワークでは、こっそりと新規プロジェクトが動き始める。
“美・ケア”製品ラインの大規模展開。
「どうせ世界は騒ぐ。ならば騒ぎを先に読んでおけばいい。」
瀬人は静かに言い切った。



写真集第二弾は、発売と同時に記録を塗り替えた。
インタビューでアテムが放った言葉も、人々の心を攫った。
「理想のケアに必要なのは、愛だ。」
SNSは数秒で燃え上がる。
「愛で完成する美容って何?」
「宇宙規模で名言。」
「この言葉で人が救われるレベル。」
「海馬コーポレーション、宣伝してないのに勝った。」



その翌週。
瀬人の“予言”通りに雑誌で特集が組まれた。
『王が選ぶ、理想のセルフケア』
そして海馬コーポレーションが出した“美・ケア”用品は、「王とお揃い」のタグが付いた瞬間に店頭から消えた。
アテムは、資料を読みながら瀬人を見上げる。
「瀬人。…やはり海馬コーポレーションは、だんだんブームを予期しているように感じるんだが。」
瀬人は、書類を閉じ、わずかに口角を上げた。
「お前のせいだ。ブームの発生源が、お前なのだからな。」
アテムは目を瞬き、そして静かに微笑む。
「なら、瀬人。これからも、備えてくれ。」
「…どうせ俺がやるのだろう?」
瀬人の声は呆れた調子だったが、耳の奥に残る響きは、ひどく甘かった。
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