21 王、マンネリに備える


アテムは、またしてもどこかで妙な語彙を拾ってきた。
その日の午後、瀬人のデスクに無言で置かれたのは、ピンク色の艶やかな表紙をした、明らかに海馬コーポレーションの社内には似つかわしくない一冊。
瀬人は眉を顰める。
「お前はまた…。今度はどこで拾ってきた。」
アテムは誇らしげだ。
「この“マンネリ”という概念、興味深い。長く連れ添う者同士は、工夫を怠ると情熱が薄れるらしい。」
その声音は、王が難解な碑文を読み解く時と同じだった。
だが手にしているのは、煌びやかな婚礼衣装と笑顔のカップルが散りばめられた、あの◯クシィである。
「…どこで手に入れた。」
瀬人の問いは2度目だ。深刻さが増している。
アテムは涼しい顔で肩を竦める。
「カフェテリア横の売店だ。今月号は表紙が可愛かったからな。」
可愛い、の基準が古代のままなのか、あるいは本人の美意識が独特なのか、瀬人には判別が付かない。
ただ1つ分かるのは、この“マンネリ”という単語が、アテムの辞書に追加された瞬間、瀬人の日常がまた1つ波打つということ。
瀬人は雑誌を閉じ、重く息を吐いた。
アテムほどマンネリという語が似合わない人間はいない。
日々の所作も、考え方も、視線1つすら一定ではない。
朝起きれば昨日と違うことを思い付き、夜には更に新しい刺激を持ち帰ってくる。
アテムと共に暮らしていて“慣れる”という感覚は存在しなかった。
「お前がマンネリ…?」
瀬人の声音は呆れと愛情が渦を巻いている。
だがアテムは真剣だった。
「油断は出来ないぜ。備えよ常にだ。長く続けば、どんな関係も鈍るかもしれない。」
いや、お前と暮らして鈍る暇があったら奇跡だ。その言葉は瀬人の喉まで出たが、呑み込まれる。
言えば余計にややこしくなることは目に見えている。
アテムのマンネリ研究が始まった。



アテムの端末が震えた。
表示は、あのピンクの雑誌の編集者。
最近すっかり顔馴染みになっている。
「…うん。今、少し時間はある。」
アテムが通話に出ると、瀬人は無言で眉を顰める。
暫くして、アテムは少し困ったような顔で端末を見た。
「瀬人。質問だ。」
「嫌な予感しかしない。」
「編集者が興味を持っている。量子婚の俺達は、マンネリをどう解消しているのか、と。」
瀬人は一拍、完全に思考を停止した。
「…は?」
低い声が零れる。
「だから、どう答えれば良いかを…。」
「答える気なのか、お前は。」
「誠実に応えるべきだろ?聞かれたんだ。」
瀬人は額を押さえた。
この男は、王でありながら、好奇心と責任感が常軌を逸している。
マンネリ。
そんなものが入り込む隙など、どこにも無い。
それでもアテムは、本気で備えようとしている。
瀬人は静かに息を吐いた。
「…まず、その質問に答える前に、俺に説明しろ。どこまで話すつもりだった。」
アテムは無邪気に言う。
「全部だ。」
瀬人は天井を仰いだ。
この世で一番マンネリしない存在は、やはりアテムだ。

アテムはソファに腰を下ろし、例のピンクの雑誌を開いた。マンネリ研究である。
ページの端は、編集者に教わった“マンネリ特集”。
だが読み進めるほど、その眉は微かに寄っていく。
「マンネリ…やはり難しいな。これは、一体どういう状態なんだ…。」
瀬人は端末を操作しながら視線だけを寄越す。
「読んで字の通りだ。“慣れすぎて刺激が無くなる”ということだ。」
「刺激が…無くなる?」
アテムは瀬人を見た。
その瞳に宿るのは、理解不能の光。
瀬人は肩を竦める。
「お前には縁のない現象だな。」
それは事実だった。
アテムは毎日、瀬人を驚かせ、揺さぶり、翻弄し、ただ隣にいるだけで空気を変えてしまう。
マンネリ。
瀬人からすれば “存在し得ない” の一言に尽きた。
だがアテムは真顔のまま、決意を宿す。
「分からないままでいるのは良くない。知識は力だ。」
瀬人は微かに笑う。
「お前らしいな。」

数時間後。
アテムは机の上にノートを広げ、黙々と何かを書き込んでいた。

「マンネリとは何だ
・会話が減る
・相手に興味を持たなくなる
・行動が単調になる
・“ときめき”が薄れる……。」

1つ1つ読み上げる声に瀬人は僅かに目を細める。
「全て、お前に最も遠い事柄だな。」
「だが、それでも学ぶ必要がある。備えは万全であるべきだ。」
瀬人は笑いを堪えた。
この真面目さこそ、マンネリしようがない最大の理由なのだ。

そして翌日。
アテムはピンクの雑誌の編集者に連絡を入れ、なぜか短いオンラインミーティングが始まった。
『ま、マンネリについて…アテムさんが逆取材…?』
「ああ。是非、教えてほしい。何があればパートナーとの関係がマンネリになるのか。そして、それを避けるにはどうすればよいのか。」
『あの…ご夫婦でお困りなんですか?』
「困ってはいない。だが備えたい。」
『そ、そうですか…!ええとですね…。』
瀬人は離れた位置から見ていたが、編集者が画面の向こうで顔を赤らめたり、答えに窮したりする様子が丸わかりだった。
「…お前が、編集者を詰めてどうする。」
瀬人は呆れと愛しさの入り混じった声を低くして言う。
アテムは至って真剣だ。
「知識の収集をしているだけだ。マンネリは、愛情を失速させるらしい。」
「…それで、お前の愛情が失速するのか?」
アテムは即答した。
「しない。」
その断言に瀬人の呼吸が一瞬止まった。
胸の奥で何かが、静かにほどける。
「…ならば心配無用だ。」
「瀬人のために、備えておきたいんだ。」
瀬人の指先が僅かに震えたのを、A.R.E.S.だけが静かに検知していた。
アテムは雑誌を閉じ、深く思案した様子で指を組んだ。
「…マンネリという現象を理解するには、実際に体験してみる必要があるんじゃないか?」
瀬人は即座に端末を置いた。
「待て。お前は今、とんでもないことを言った。」
「想像だけでは限界がある。現象は再現してこそ真に把握できる。」
完全に研究者の顔だった。
瀬人は額に手を当てる。
「…お前がマンネリしようとした瞬間、その“努力”がすでにマンネリから最も遠い。」
アテムは真面目に頷く。
「だからこそ、瀬人の協力が必要だ。」
「協力する気はない。」
そこに、例の編集者からメッセージが届く。
『アテムさん、もし差し支えなければ、マンネリに陥らない秘訣として、日常の過ごし方を取材したい…というか、量子婚のお2人なら絶対に特集を組めます!』
瀬人は即座に「断る」と返そうとしたが、アテムがその腕を静かに制した。
「瀬人、これは“学び”になる。」
編集者は画面の向こうでさらに勢いづく。
『マンネリしていないのなら、参考例として最高です!
毎日どんな会話を?
寝室はどんな工夫を?
喧嘩の頻度は?
スキンシップは?
愛情表現は?
読者は全部知りたがっています!』
瀬人は完璧に声を失った。
A.R.E.S.は照明を少し暗くして、空気を読んでいるのか読んでいないのか判別不能だ。
アテムは考え込むように顎に手を添えた。
「…やはり、俺はマンネリを経験していない。ならば、マンネリを再現するための条件を突き止める必要がある。」
瀬人は机を指で軽く叩き、静かな声で告げた。
「アテム。まず“相手に興味がなくなる”ことが条件だ。」
アテムは即答した。
「不可能だ。」
瀬人の呼吸が、一瞬だけ温度を帯びた。
『いまのやり取り、記事に使えますよね?量子婚の“熱の持続率”という新ジャンルが…!』
「使えない。」
「…研究としては価値があるんじゃないか?」
「お前まで編集者側に回るな。」
『ぜひ次回、詳細に取材を!』
瀬人は溜息を吐き、アテムを横目で見詰めた。
その瞳には、どれだけ騒がれても変わらない確固たる愛情が宿っている。
「…アテム。マンネリは、お前と俺には一生縁がない。研究するだけ無駄だ。」
アテムは柔らかく微笑んだ。
「無駄でも、瀬人に関わることなら学びたい。」
瀬人の心拍が、僅かに跳ねた。
『室温を上げましょうか?』
A.R.E.S.はまたも気を利かせる。
「「上げるな。」」

アテムは、机の上に積み上がった雑誌と資料の山を前にして、
まるで古代の謎を解くような静謐な瞳で読み進めていた。
A.R.E.S.が控えめに告げる。
『アテム様、◯クシィ編集部から“さらに詳しいお話を伺いたい”との連絡です。』
「…またか。」
瀬人は書類から顔を上げる。
「情報を持って行かれるばかりだ。お前が真面目に答えるほど、あの編集部は…。手後れだがな。」
しかしアテムは気にしていなかった。
むしろ“研究対象からの逆アプローチ”を楽しんでいる節さえある。
「知識は循環するものだ。こちらも、得るものはある。」
瀬人は静かに眉を寄せた。
「…その姿勢が雑誌の特集ページを厚くしていると気付け。」
アテムは収集した情報を丁寧に並べ、
現代のカップルたちの“停滞”“習慣化”“新鮮味の欠如”といったワードを拾い出した。
「…原因は多岐にわたるように見えるが、その根には1つの共通した性質があるようだ。」
「言ってみろ。」
アテムは真面目な声で続けた。
「変化がないことだ。」
瀬人は瞬き1つで理解した。
「なるほど、退屈の源だな。」
アテムは頷き、さらに思考を深める。
「変化のないこと…。形が崩れず、比が安定し、揺らぎのない構造…。」
瀬人は嫌な予感を覚えた。
「アテム、その先は言うな。」
しかしアテムは言った。
「これは黄金比に近いのではないか。」
瀬人は遠い目をした。
「お前は何でも黄金比で説明する癖を直せ。」
「理に適っている。」
「適っていない。」
けれど瀬人は気付いていた。
アテムのその偏りは、古代から“理想形”を追い求めてきた王の本能そのものだと。



アテムが提供した“研究経過”は、気前よく編集者によって吸い上げられていた。
そして数日後。

◯クシィ特集
『量子婚の二人はマンネリを凌駕するのか!?黄金比的日常の秘密を大公開』

瀬人は表紙を見た瞬間、低く言った。
「…やはり手遅れだったな。」
『お2人の日常の“変化率”を算出して記事に載せたようです。』
「載せるな。」
「止められない。」
アテムは雑誌を手に取り、まるで自分とは無関係な神話を読むかのように静かにページをめくった。
「…瀬人。私生活が暴露されているのは、もう慣れただろ?生活感だ。」
「誰のせいだ。」
アテムは軽く笑い、瀬人の肩へ手を伸ばした。
「むしろ良い。こうして世界が研究に協力してくれるなら、マンネリという現象の正体にも近付ける。」
瀬人は深い息を吐いた。
「アテム。お前が世界を学ぼうとしているだけで、世界はお前の一挙一動を騒ぎ立てる。」
「それは、俺が王だからか?」
「それだけではない。…お前だからだ。」
アテムの瞳が、静かに揺れた。
『室温を上げましょうか?』
A.R.E.S.はやはり気を利かせるのだった。
「「上げるな。」」



アテムは、黄金比を生活の至るところへ意識的に配置し始めていた。
朝のマグカップの角度、タオルの畳み目、瀬人のビジネスバッグと自分の書類の重なり具合。
「これで“変化のない日常”が再現される筈だ。」
しかし、A.R.E.S.が報告する。
『アテム様。生活の黄金比率は昨日と誤差0.01%です。そして瀬人様の動きが予測不能なため、再現性が取れません。』
「…それでマンネリを体験しようとしているのか?」
アテムは真剣そのものの表情で頷いた。
「だが、全く体験できない。何故だ、瀬人?」
瀬人は端的に言った。
「お前の生活は、そもそも通常状態で黄金比だ。」
『付け加えるなら、瀬人様もアテム様の変化を常に“刺激”と認識しています。』
「…ということはマンネリしない原因は瀬人か。」
「違う。その原因は両者にある。」
『LOVE-OS解析によると、その通りです。』
アテムは腕を組み、難問と向き合う学者のように沈思した。
「…避けるべき現象だというのに、俺達には訪れないとは、奇妙じゃないか?」
「奇妙ではない。こういう関係なのだ。」
その声音は驚くほど静かで、アテムはその瞬間だけ少しだけ呼吸を忘れた。

しかしアテムは研究姿勢を変えなかった。
・日常の変動率を計測する
・瀬人の表情の微細な変化を記録する
・自身の感情の波形をA.R.E.S.に解析させる
・“倦怠”という概念の定義を再構築する
「変化とは何か…。そして瀬人といる時、俺の内部で何が起きているのか…。」
そして結論に至る。
「瀬人が新鮮すぎる。これでは研究にならない。」
「…お前のせいでもある。」
「それは理解できない。」
『理解できないのはアテム様が瀬人様を“常に更新される存在”として認識しているからです。』
瀬人は苦笑し、アテムは深い息をついた。
「…マンネリとは、難しいな。」

その頃、持っていかれた情報をもとに◯クシィ編集部が新たな企画を立てていた。

『マンネリ解消!量子婚の2人に学ぶ“おうちの過ごし方”完全特集』

瀬人は冊子を開いた瞬間、一言。
「…許可した覚えはない。」
『“参考程度に”とお2人から伺った内容を記事化したようです。』
「参考にするな。」
アテムはページを見つめながら、首を傾げる。
「瀬人。なぜ俺達の生活はすぐ記事になるんだ?」
「お前の説明が丁寧すぎるからだ。」
「研究は丁寧でなければならない。」
「…そのせいで特集が増えている。」
アテムは静かに笑った。
「なら、次は“変化の作り方”を研究しよう。マンネリを回避するために。」
瀬人は少しだけ目を細めた。
「…その必要は、ないと思うがな。」
アテムの心臓が、きらりと跳ねた。

夜のリビングに、アテムのため息が落ちた。
深藍のシャツの第一ボタンを外し、鏡の前でくるりと身を捻る。
「…変化、とは難しいものだな。」
その独り言に、背後から即答が降ってきた。
「お前が言うと、哲学の始祖でも悩んでいそうに聞こえる。」
瀬人だった。
腕を組み、アテムをじっと見詰めるその目は、分析装置より容赦ない。
アテムが顎を上げる。
「哲学者でも悩むテーマだろ。“マンネリ”とは深淵だ。」
「いや、単にお前に縁が無いだけだ。」
瀬人はスッと歩み寄り、アテムの襟元に指を滑らせた。
「そもそも、黄金比の擬人化のようなお前が“変化”を研究したところで…。」
「落ち着かない、とは思っていた。」
「だろうな。」
アテムは鏡越しに瀬人を見る。
瀬人は淡々としているが、その視線の底に何か温かいものが揺れている。
「だが、俺も研究者の端くれだ。未知を知るためには体験が必要だ。」
「マンネリを体験するために黄金比を狂わせる男がどこにいる。」
「ここにいる。」
瀬人は喉の奥で笑った。その声は低くて心地いい。
「…アテム、お前は、雑誌に影響されすぎだ。」
「◯クシィの編集者から“量子婚はマンネリをどう乗り越えているのか”と質問された。だが、答えようがない。」
瀬人は眉を上げた。
「そもそもマンネリをしていない。」
「だから困っているんだ。体験していない現象について語るのは不誠実だ。」
「編集部に誠実であろうとするな。」
アテムは肩をすくめた。
「彼らは良い特集を組む。情報を持って行かれるがな。」
「それを“取材”ではなく“搾取”と言う。」
アテムは真面目に頷く。
「しかし、おかげでヒントを得た。“マンネリとは変化の欠如”らしい。」
瀬人はきっぱり言った。
「その時点で、お前には一生無縁だ。」
「何故だ?」
瀬人は指先でアテムの髪を整え、すぐにやめた。
整えず、その変化を受け入れるように。
「お前を見て落ち着く日など、一日もない。」
アテムは瞬きをした。
その言葉は思いがけず胸の奥に熱を落とす。
「…褒められているのか?」
「当然だ。」
瀬人はアテムの腕を取り、軽く引き寄せた。
「それに、変わろうとしても無駄だ。」
「酷い言い方だな。」
「黄金比は、動かせない。」
アテムは思わず笑った。
「なるほど、俺を数学的絶対値として扱うのはお前くらいだ。」
「実際そうだろう。」
アテムはふと、少し声を落とした。
「…だが、記念日は何もしていないと編集部に告げたら、落胆された。」
瀬人は即答した。
「記念日など必要ない。お前は毎日が記念日のような男だろう。」
アテムは目を丸くした。
「瀬人、それは…。」
「浪漫主義なお前にも、浪漫が過ぎるか?」
「いや、実にお前らしい。」
アテムは小さく息をつき、瀬人に身体を寄せた。
「俺は変われなかった。」
「変わる必要はない。」
「…変わろうとした俺は?」
瀬人の声は、驚くほど優しい。
「可愛いに決まっている。」
アテムは、即座に顔を逸らした。
「…今日一番、マンネリと縁遠い台詞だな。」
「安心しろ、毎日言える。」
「瀬人、それは良くない。“変化のないこと”がマンネリだぜ。」
瀬人はアテムの顎を軽く持ち上げ、言った。
「お前に対して飽きる日は来ない。変化不要だ。」
アテムは観念したように息を吐く。
「…それは勝てない。」
「最初から勝負にすらなっていない。」
2人は僅かに笑い合い、どちらともなく距離が縮まった。
黄金比を壊すために始めた夜は、結局2人の“変わらない特別”を照らすだけの夜になった。
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