20 王、トレーニーになる


「瀬人、"貯筋"という言葉を知っているか。」
出社早々、アテムは得意げな顔でそう切り出した。
瀬人は書類から目を上げると、眉を僅かに顰める。
「…またどこから仕入れてきた。」
「社員の1人が言っていたんだ。"将来のために貯筋を"と。面白い概念だと思ってな。」
「それは"貯金"の派生だ。健康維持のための筋力づくりをそう言う。」
「へえ。瀬人、海馬コーポレーションの福利厚生には、"貯筋"の制度はないのか?」
「お前…福利厚生を何だと思っている。」
瀬人が頭を押さえる。だが、こういうやり取りも珍しくない。
アテムは真面目に尋ねているのだ。そこに悪意も冗談もない。
「ジムならある。KCジムだ。社員なら誰でも使える。」
「それは素晴らしい。俺は早速、貯筋と言うものを始める。」
「…お前は…今、行く気か。」
「支度はもう出来てるぜ。」
瀬人が軽く目を見開く。
アテムは既にスポーツウェアに着替えていた。
王の行動力は、神の雷にも似て速い。



翌日、KCジムは静かだった。
理由は単純。
例によって瀬人が全館を貸し切りにしたのだ。
「…まさか貸し切るとは。」
「社員の見せ物になるのも面倒だろう。」
瀬人の配慮に、アテムは僅かに微笑む。
王としての矜持を尊重されたと感じたのだ。
そこへ現れたのは、KC専属のトレーナー。
筋肉の彫刻のような体をした男で、フィジーク大会に出てもおかしくない体格をしている。
「アテム様ですね。本日はよろしくお願いします。」
「ああ。鍛えるとは、"己を律する"ということだな。」
トレーナーは最初、軽く笑ったが、数分後には真顔になっていた。
アテムの集中力は尋常ではない。
フォームの修正にも即座に反応し、息の仕方さえ正確に覚えていく。
「…素晴らしい姿勢です。まるで初めてではないようだ。」
「筋は、神殿の柱にも似ている。強く、均衡を保つべきだ。」
終わる頃には、トレーナーは気合を入れすぎて汗をかいていた。

その夜。
アテムは瀬人の書斎に戻ると、ノートを開きながら語り出す。
「プロテイン、クレアチン、BCAA…全て重要な要素らしい。」
「…完全にハマったな。」
「A.R.E.S.にも助言を求めた。"最適なサプリメント構成"を設計してくれた。」
「筋トレにまで使うとは思わなかった。」
アテムは、真面目にプロテインをシェイカーで振っている。
その姿が妙に可笑しく、瀬人は思わず口元を緩めた。
「飲み過ぎなければ、害はない。筋トレも、補助栄養素も。」
「瀬人がそう言うなら安心だ。」
アテムは満足げに頷き、一口飲んだ。
瀬人はデスクに肘をつき、その様子を静かに見詰める。
アテムは今、征服でも魔術でもなく、己の肉体と向き合っていた。
それが不思議と、誇らしかった。

翌朝。
アテムは目を開けた瞬間に顔をしかめた。
「…う…っ…腕が…上がらない。」
どうやら、筋肉痛というやつだ。
古代の王は鍛錬はしていたが、いきなりの肉体労働とは無縁だった。
この感覚は、3000年ぶりの「未知の痛み」だった。
それでも、アテムは痛みに笑った。
筋が悲鳴を上げているということは、昨日の努力が確かに刻まれた証だ。
「筋肉とは、修復の度に強くなる…。」
早速、端末を手に取り調べ始める。
A.R.E.S.が即座に反応した。
『筋肉痛は「遅発性筋肉痛」と呼ばれる現象です。損傷した筋線維が修復される過程で炎症が起きています。』
「損傷して強くなる…まるで戦士だな。」
『アテム様の理解は正確です。補足として、休息と栄養が重要とされています。』
アテムは頷きながら、A.R.E.S.のディスプレイを眺める。
すると、A.R.E.S.が気を利かせたように画面を切り替えた。
『世界中のトレーナーたちの"トレーニング記録"を表示しますか?』
「見せてくれ。」
世界各国の映像やSNS投稿がずらりと並ぶ。
どのトレーナーも、自分の肉体の変化を誇らしげにアップしている。
鏡の前でポーズをとる者、フォームを比較する者、食事を記録する者。
「…皆、自らの成果を公開しているのか。」
『はい。彼らは進捗を発信し合うことで、互いを鼓舞しているようです。』
「…王たる者、民に模範を示すべし…。筋肉もまた、示すべき力の象徴…!」
A.R.E.S.の光が一瞬、微かに明滅した。
それはまるで「嫌な予感」を察したかのようだった。



A.R.E.S.の進捗報告から数日後。
アテムが筋トレ動画を見ながらスマホを構えた瞬間、背後から低い声がした。
「…やめておけ。」
「瀬人?」
ソファに腰かけ、ノートPCを閉じる音が静かに響く。
瀬人は短く息をつき、鋭い視線を向けた。
「お前が“少し”発信するだけで、世界は混乱する。この前の“王のカレー”ブームを忘れたとは言わせん。」
「…筋肉で混乱なんかするのか?」
「する。お前の腕一本で、国のプロテイン消費量が変わる。」
アテムは首を傾げる。
どうやら、過去の“世界規模のアテム現象”をあまり自覚していないらしい。
「そうか…投稿はやめよう。」
「正解だ。お前の筋肉は、俺が見る。」
瀬人の一言に、アテムは小さく瞬いた。
理由はよく分からないが、瀬人がそう言うなら、それが正しいのだろう。



筋トレを初めて数週間後。
アテムはトレーナーに誘われ、彼が出場するフィジーク大会を見に行った。
光沢ある肌、隆起する筋肉、照明に反射する汗の粒。
彼らは戦士のようにステージに立ち、観客はその「美の秩序」に歓声を上げている。
アテムの瞳が、微かに光を帯びた。
「瀬人…これは“戦い”だ。」
「…お前、まさか。」
「この時代にも力を競う場があるんだな。瀬人、大会を開かないのか?」
「…その大会は、カードではないな。」
「ふっ。だが、心を賭ける点では似ている。」
「違う。お前が出場した瞬間、全員棄権だ。」
アテムは笑った。
瀬人は額に手を当て、次に起こる面倒を予感していた。



トレーナーの大会を見た翌日。
アテムは鏡の前で真剣にポージングをしていた。
肩甲骨を寄せ、胸を張り、腹を締める。
筋肉は確かに育ってきているが、まだ理想には程遠い。
「…まだ、瀬人の方が逞しいな。」
小さく呟いた声に、後ろから低い笑いが返る。
「そう簡単に育つ筈がなかろう。」
「そうか。なら俺も、負けてはいられないな。」
アテムの瞳が闘志に光った。
瀬人は少し肩を竦め、ノートPCを閉じた。
「…お前は、何と戦っているんだ?」
「美だ。」
その答えがあまりに即答すぎて、瀬人は一瞬言葉を失った。



数日後、A.R.E.S.が軽やかな電子音で告げた。
『アテム様、フィットネスビキニというカテゴリーがございます。審美的筋肉を競う競技です。』
「…うん。これなら出られるんじゃないか?」
その発想の飛躍は、まさにアテムらしいものだった。
夜、ソファに腰を下ろす瀬人に、アテムは真顔で切り出した。
「瀬人、フィットネスビキニに出ようと思う。」
「…フィットネスビキニは、男の競技ではない。」
「この時代にも、まだ男女の壁があるのか?」
理路整然と、そして本気で問うアテム。
「お前が言うな。」
瀬人は眉を僅かに顰め、溜息をついた。
「お前が出場すれば、その壁どころか大会の意味が消える。」
「意味が消える?」
「観客全員、お前を見るだけになる。」
アテムは考え込むように顎に指を添えた。
「…それは、それで良いんじゃないか?」
「良い筈がない。」
瀬人の返答は即答だった。
「瀬人、お前には大会を開く力があるだろ?」
「ある。だが、開かん。」
「何故だ?」
「お前を、他人に見せるつもりはない。」
その一言に、アテムは一瞬だけ言葉を失った。
だが次の瞬間、笑みを浮かべる。
「…お前の理性は時に、美しいな。」
瀬人は無言で手を伸ばし、アテムの額を軽く弾いた。
「理性ではない。常識だ。」



それでもアテムはトレーニングをやめなかった。
いつの間にか「貯筋」は「魅せる筋肉」へと変わり、
筋トレは日課を越え、信仰の域に入りつつあった。
A.R.E.S.が淡々とデータを記録する声の中、瀬人は横目でその背中を見つめる。
「…人類史上初、筋肉で世界を動かす男になりそうだな。」




海馬コーポレーション社内報「Welfare Now!」最新号。
巻頭特集は「健康経営と筋肉」。
ページを開くと、そこにはトレーナーと並んでポーズを取るアテムの写真が大きく載っていた。
その見事なフォーム。整った顔。引き締まった筋肉。
誰がどう見ても、宣伝効果があり過ぎた。
瀬人は静かにページを閉じた。
「……手遅れか。」
目の前のA.R.E.S.が、冷静に確認を入れる。
『社内ネットワーク上で、当該写真が急速に拡散中です。』
「だろうな。」
瀬人は既に次の指示を出していた。
「A.R.E.S.、プロジェクト“Muscle Initiative”を本格稼働だ。」
『了解しました。関連部門、サプリメント研究開発部・KCジム事業部・メディア戦略部を起動します。』
その声を聞きながら、瀬人は笑って目を伏せた。
「今度はここだったか。まさか“王の筋肉”で、世界経済が動くとはな。」



数日後。
アテムの写真はなぜか、社外にまで流出していた。
「CEOと共にトレーニングする謎の王」「美の化身か」「筋トレ界の救世主」
SNSを中心に瞬く間に拡散し、ハッシュタグが世界トレンド入り。

#GainLikeAtem
#KingOfMuscle
#筋肉の王

世界各地のジムで「王のフォーム」を真似する人々が現れ、
KC製プロテインの先行予約は一夜でサーバを落とした。

KCジムも、店舗を増やして稼働を開始した。
最新設備にA.R.E.S.のAIコーチングを導入し、全ての利用者に“王の指導メソッド”を提供する。
各地で「美しい筋肉」を理念とする新時代のフィットネスムーブメントが始まり、街の看板にはKCロゴと「Train Like a King」の文字が輝いた。

夜、オフィスの窓際。
「瀬人、相変わらず海馬コーポレーションは準備がいいな。」
アテムは笑いながらスマホを見せた。
画面には「世界的筋トレブーム、発信源は海馬コーポレーションCEOのパートナー?」というニュース。
瀬人は書類を整えながら淡々と答える。
「お前には実績があり過ぎる。」
「それは褒め言葉か?」
「災害予報に近い。」
アテムは愉快そうに笑い、机に肘をついた。
「…で、お前は筋トレをしないのか?」
「既にやっている。」
「いつの間に…?」
「お前が“貯筋”という言葉を覚えるより前からだ。」
沈黙。
そして、アテムは静かに頷いた。

帰宅後。
アテムは静かに、しかし熱を帯びた瞳で瀬人の筋肉を見詰めていた。
瀬人は小さく息を吐き、肩の力を抜く。
「観察はほどほどにしろ。」
「研究だ。」
「…研究対象を口説くな。」
「それは、もう避けられない運命だ。」
アテムがほんの微かに笑みを浮かべると、瀬人は目を細めたまま指先でアテムの肩に触れる。
「…無駄に甘い表情をするな。」
「無駄ではない。効果的だ。」
A.R.E.S.が控えめに照明を落とした。
『室温を下げましょうか?』

「下げるな。」
「上げろ。」

2人の声が同時に重なった。

王の一念が筋肉を動かし、筋肉が経済を動かし、経済がまた世界を動かした。
そして瀬人は今日も静かに言うのだろう。
「……お前の“筋力”は、経済的破壊力を伴う。」


相変わらず、アテムは真面目にトレーニングを続けていた。
負荷を上げることにも、フォームを守ることにも、一切の妥協がない。
ある日、休憩中のアテムがふいに口にした。
「"筋肉は裏切らない"、というのだな。」
どこで覚えたのか分からない日本語の格言に、瀬人は一瞬だけ眉を顰める。
「……誰に教わった。」
「トレーナーだ。真理だな。」
「迷惑な真理だ。」
それ以来、アテムの“間食”という名の修行が始まった。
ゆで卵、さつまいも、鶏胸肉、ナッツ。
会議の合間にも、A.R.E.S.が決まったタイミングでアラートを鳴らす。
『アテム様、プロテイン摂取の時間です。』
そしてなぜか、そのたびに瀬人のデスクにも同じ皿が並ぶ。
「巻き添えか。」
「同志だ。」
「違う。」

やがて、アテムの弁当は完璧な栄養バランスを誇る“黄金比弁当”へと進化した。
カロリー、タンパク質、脂質、炭水化物、すべてが理想値。
容器のフタにはアテム直筆の文字で「筋肉は裏切らない」と書かれている。
瀬人は弁当を見下ろし、小さくため息をついた。
「……俺の食生活まで支配する気か。」
「違う。導いている。」
「同義だ。」
A.R.E.S.が満足げに報告する。
『瀬人様、筋肉指数が上昇傾向です。』
瀬人はフォークを持ったまま、静かに言った。
「……誰のせいだ。」



アテムが筋トレを始めてから数ヶ月。
その熱心さは社内でも話題となり、KCジム利用者の増加率は異常値を記録していた。
ある日、A.R.E.S.が控えめな通知音を鳴らした。
『アテム様宛に、複数の出版社からオファーが届いています。テーマは“筋肉美”写真集とのことです。』
瀬人は、コーヒーを飲んでいた手を止めた。
「却下だ。」
「まだ読んでいないのに。」
「読む必要もない。出さん。」
アテムは不思議そうに瞬きをする。
「なぜだ?筋肉は、皆に希望を与えるものではないのか?」
「お前の筋肉は、俺だけが観察すれば充分だ。」
「瀬人、それは独占欲というものではないのか?」
「当然だ。」
淡々と断言され、アテムは小さく笑った。
どうやら、それは否定ではなく、何よりも嬉しい答えらしい。
その頃、知らぬ間に巻き添えトレーニングを続けていた瀬人自身も、見事に仕上がりつつあった。
スーツ越しでも分かる逞しさに、A.R.E.S.が報告を上げる。
『瀬人様、筋肉密度の数値が上がっています。』
「……余計な報告をするな。」
そんな瀬人を見て、アテムが満足げに頷いた。
「なら、共にオファーを受ければいい。」
「誰がそんなものを。」
「瀬人の筋肉も、美しい。」
「…お前は、どこまで筋肉に取り憑かれている。」
「筋肉は真実だ。愛だ。」
A.R.E.S.が気を利かせて、2人のデスク上に高タンパクスイーツをそっと配置していた。
甘い香りが広がる中、瀬人は呆れたように言った。
「…貯筋から始まって、どこまで行く気だ、アテム。」
「限界は、まだ見えない。」
瀬人は深く息を吐き、言葉の代わりにその笑みを一瞬だけ見詰めた。
そして、そのままゆっくりと目を逸らす。
『室温を下げましょうか?』
「……上げろ。」
「下げるな。」
2人の声は、またも同時に重なったのだった。



アテムの筋トレ生活は、もはや日課を超え、信仰に近いものになっていた。
筋肉は裏切らない。努力は必ず形になる。
そう信じ切っているアテムは、ある夜、唐突に口を開いた。
「瀬人、筋肉を鍛えれば、身長も伸びないか?」
瀬人はタブレットから目を離さずに応じた。
「……何の話だ。」
「成長ホルモンの分泌が促進されると聞いた。」
「お前、歳は。」
「年齢という概念に縛られるつもりはない。」
A.R.E.S.が控えめに割って入る。
『アテム様、カルシウムの摂取も効果的かもしれません。こちらのス◯イ◯ルシウムは評判が良いです。』
「ほう。」
アテムが興味津々にディスプレイを覗き込む。
瀬人は深く息をつき、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「A.R.E.S.、その広告を削除しろ。」
『削除します。』
そして、真正面からアテムを見据える。
「今更無駄だ。」
「…試してみなければ分からない。」
「重力に逆らえると思うな。」
アテムは唇を僅かに歪めて笑った。
「この身体で、重力に抗ってきたお前に言われたくはない。」
瀬人は、堪えきれずに肩で笑う。
「…筋肉に理屈を持ち込むな。」
「理屈ではない、希望だ。」
A.R.E.S.が再び控えめに告げる。
『では、◯カイカルシウムの定期購入をキャンセルいたしますか?』
2人の声が重なった。
「「キャンセルだ。」」
沈黙のあと、瀬人がぼそりと付け加える。
「…俺の目線の高さに無理に合わせようとするな。」
「なら、お前が屈めばいい。」
「断る。」
だが、瀬人は小さく微笑んでいた。
その視線は、結局どんな角度でも、アテムをまっすぐに見詰めていた。

世界は、静かに、そして確実に「貯筋」時代へ突入している。
KCのロゴが入ったプロテインボトルは、ジムにも、オフィスにも、家庭にも並ぶ。
A.R.E.S.が監修したサプリメントは、健康雑誌の表紙を飾り、海馬コーポレーションの株価はまたも過去最高を記録していた。

だが、その喧騒の届かない場所がある。
夜の海馬邸。
照明を落とした室内で、2人だけの音が響いていた。
アテムが、掌で瀬人の腕を辿る。
硬く、しなやかに盛り上がる筋肉の感触を確かめながら、微かに笑った。
「瀬人、見せろ。」
「…またか。」
「これは研究だ。」
「研究という名の口実だろう。」
「お前の理論だって、実験を繰り返すものだろ?」
瀬人はため息を吐く。
その声に少しだけ熱が混じっていた。
「…理論の実証にも限度がある。」
「ふふ、限界まで確かめよう。」
指先が滑り、熱を帯びる肌をなぞる。
外ではKCのプロテインのCMが流れ、世界が「健康」を叫んでいる。
けれど、この部屋の中では、誰も知らない別の「筋肉の物語」が進行していた。
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