「瀬人、"貯筋"という言葉を知っているか。」
出社早々、アテムは得意げな顔でそう切り出した。
瀬人は書類から目を上げると、眉を僅かに顰める。
「…またどこから仕入れてきた。」
「社員の1人が言っていたんだ。"将来のために貯筋を"と。面白い概念だと思ってな。」
「それは"貯金"の派生だ。健康維持のための筋力づくりをそう言う。」
「へえ。瀬人、海馬コーポレーションの福利厚生には、"貯筋"の制度はないのか?」
「お前…福利厚生を何だと思っている。」
瀬人が頭を押さえる。だが、こういうやり取りも珍しくない。
アテムは真面目に尋ねているのだ。そこに悪意も冗談もない。
「ジムならある。KCジムだ。社員なら誰でも使える。」
「それは素晴らしい。俺は早速、貯筋と言うものを始める。」
「…お前は…今、行く気か。」
「支度はもう出来てるぜ。」
瀬人が軽く目を見開く。
アテムは既にスポーツウェアに着替えていた。
王の行動力は、神の雷にも似て速い。
翌日、KCジムは静かだった。
理由は単純。
例によって瀬人が全館を貸し切りにしたのだ。
「…まさか貸し切るとは。」
「社員の見せ物になるのも面倒だろう。」
瀬人の配慮に、アテムは僅かに微笑む。
王としての矜持を尊重されたと感じたのだ。
そこへ現れたのは、KC専属のトレーナー。
筋肉の彫刻のような体をした男で、フィジーク大会に出てもおかしくない体格をしている。
「アテム様ですね。本日はよろしくお願いします。」
「ああ。鍛えるとは、"己を律する"ということだな。」
トレーナーは最初、軽く笑ったが、数分後には真顔になっていた。
アテムの集中力は尋常ではない。
フォームの修正にも即座に反応し、息の仕方さえ正確に覚えていく。
「…素晴らしい姿勢です。まるで初めてではないようだ。」
「筋は、神殿の柱にも似ている。強く、均衡を保つべきだ。」
終わる頃には、トレーナーは気合を入れすぎて汗をかいていた。
その夜。
アテムは瀬人の書斎に戻ると、ノートを開きながら語り出す。
「プロテイン、クレアチン、BCAA…全て重要な要素らしい。」
「…完全にハマったな。」
「A.R.E.S.にも助言を求めた。"最適なサプリメント構成"を設計してくれた。」
「筋トレにまで使うとは思わなかった。」
アテムは、真面目にプロテインをシェイカーで振っている。
その姿が妙に可笑しく、瀬人は思わず口元を緩めた。
「飲み過ぎなければ、害はない。筋トレも、補助栄養素も。」
「瀬人がそう言うなら安心だ。」
アテムは満足げに頷き、一口飲んだ。
瀬人はデスクに肘をつき、その様子を静かに見詰める。
アテムは今、征服でも魔術でもなく、己の肉体と向き合っていた。
それが不思議と、誇らしかった。
翌朝。
アテムは目を開けた瞬間に顔をしかめた。
「…う…っ…腕が…上がらない。」
どうやら、筋肉痛というやつだ。
古代の王は鍛錬はしていたが、いきなりの肉体労働とは無縁だった。
この感覚は、3000年ぶりの「未知の痛み」だった。
それでも、アテムは痛みに笑った。
筋が悲鳴を上げているということは、昨日の努力が確かに刻まれた証だ。
「筋肉とは、修復の度に強くなる…。」
早速、端末を手に取り調べ始める。
A.R.E.S.が即座に反応した。
『筋肉痛は「遅発性筋肉痛」と呼ばれる現象です。損傷した筋線維が修復される過程で炎症が起きています。』
「損傷して強くなる…まるで戦士だな。」
『アテム様の理解は正確です。補足として、休息と栄養が重要とされています。』
アテムは頷きながら、A.R.E.S.のディスプレイを眺める。
すると、A.R.E.S.が気を利かせたように画面を切り替えた。
『世界中のトレーナーたちの"トレーニング記録"を表示しますか?』
「見せてくれ。」
世界各国の映像やSNS投稿がずらりと並ぶ。
どのトレーナーも、自分の肉体の変化を誇らしげにアップしている。
鏡の前でポーズをとる者、フォームを比較する者、食事を記録する者。
「…皆、自らの成果を公開しているのか。」
『はい。彼らは進捗を発信し合うことで、互いを鼓舞しているようです。』
「…王たる者、民に模範を示すべし…。筋肉もまた、示すべき力の象徴…!」
A.R.E.S.の光が一瞬、微かに明滅した。
それはまるで「嫌な予感」を察したかのようだった。
A.R.E.S.の進捗報告から数日後。
アテムが筋トレ動画を見ながらスマホを構えた瞬間、背後から低い声がした。
「…やめておけ。」
「瀬人?」
ソファに腰かけ、ノートPCを閉じる音が静かに響く。
瀬人は短く息をつき、鋭い視線を向けた。
「お前が“少し”発信するだけで、世界は混乱する。この前の“王のカレー”ブームを忘れたとは言わせん。」
「…筋肉で混乱なんかするのか?」
「する。お前の腕一本で、国のプロテイン消費量が変わる。」
アテムは首を傾げる。
どうやら、過去の“世界規模のアテム現象”をあまり自覚していないらしい。
「そうか…投稿はやめよう。」
「正解だ。お前の筋肉は、俺が見る。」
瀬人の一言に、アテムは小さく瞬いた。
理由はよく分からないが、瀬人がそう言うなら、それが正しいのだろう。
筋トレを初めて数週間後。
アテムはトレーナーに誘われ、彼が出場するフィジーク大会を見に行った。
光沢ある肌、隆起する筋肉、照明に反射する汗の粒。
彼らは戦士のようにステージに立ち、観客はその「美の秩序」に歓声を上げている。
アテムの瞳が、微かに光を帯びた。
「瀬人…これは“戦い”だ。」
「…お前、まさか。」
「この時代にも力を競う場があるんだな。瀬人、大会を開かないのか?」
「…その大会は、カードではないな。」
「ふっ。だが、心を賭ける点では似ている。」
「違う。お前が出場した瞬間、全員棄権だ。」
アテムは笑った。
瀬人は額に手を当て、次に起こる面倒を予感していた。
トレーナーの大会を見た翌日。
アテムは鏡の前で真剣にポージングをしていた。
肩甲骨を寄せ、胸を張り、腹を締める。
筋肉は確かに育ってきているが、まだ理想には程遠い。
「…まだ、瀬人の方が逞しいな。」
小さく呟いた声に、後ろから低い笑いが返る。
「そう簡単に育つ筈がなかろう。」
「そうか。なら俺も、負けてはいられないな。」
アテムの瞳が闘志に光った。
瀬人は少し肩を竦め、ノートPCを閉じた。
「…お前は、何と戦っているんだ?」
「美だ。」
その答えがあまりに即答すぎて、瀬人は一瞬言葉を失った。
数日後、A.R.E.S.が軽やかな電子音で告げた。
『アテム様、フィットネスビキニというカテゴリーがございます。審美的筋肉を競う競技です。』
「…うん。これなら出られるんじゃないか?」
その発想の飛躍は、まさにアテムらしいものだった。
夜、ソファに腰を下ろす瀬人に、アテムは真顔で切り出した。
「瀬人、フィットネスビキニに出ようと思う。」
「…フィットネスビキニは、男の競技ではない。」
「この時代にも、まだ男女の壁があるのか?」
理路整然と、そして本気で問うアテム。
「お前が言うな。」
瀬人は眉を僅かに顰め、溜息をついた。
「お前が出場すれば、その壁どころか大会の意味が消える。」
「意味が消える?」
「観客全員、お前を見るだけになる。」
アテムは考え込むように顎に指を添えた。
「…それは、それで良いんじゃないか?」
「良い筈がない。」
瀬人の返答は即答だった。
「瀬人、お前には大会を開く力があるだろ?」
「ある。だが、開かん。」
「何故だ?」
「お前を、他人に見せるつもりはない。」
その一言に、アテムは一瞬だけ言葉を失った。
だが次の瞬間、笑みを浮かべる。
「…お前の理性は時に、美しいな。」
瀬人は無言で手を伸ばし、アテムの額を軽く弾いた。
「理性ではない。常識だ。」
それでもアテムはトレーニングをやめなかった。
いつの間にか「貯筋」は「魅せる筋肉」へと変わり、
筋トレは日課を越え、信仰の域に入りつつあった。
A.R.E.S.が淡々とデータを記録する声の中、瀬人は横目でその背中を見つめる。
「…人類史上初、筋肉で世界を動かす男になりそうだな。」
海馬コーポレーション社内報「Welfare Now!」最新号。
巻頭特集は「健康経営と筋肉」。
ページを開くと、そこにはトレーナーと並んでポーズを取るアテムの写真が大きく載っていた。
その見事なフォーム。整った顔。引き締まった筋肉。
誰がどう見ても、宣伝効果があり過ぎた。
瀬人は静かにページを閉じた。
「……手遅れか。」
目の前のA.R.E.S.が、冷静に確認を入れる。
『社内ネットワーク上で、当該写真が急速に拡散中です。』
「だろうな。」
瀬人は既に次の指示を出していた。
「A.R.E.S.、プロジェクト“Muscle Initiative”を本格稼働だ。」
『了解しました。関連部門、サプリメント研究開発部・KCジム事業部・メディア戦略部を起動します。』
その声を聞きながら、瀬人は笑って目を伏せた。
「今度はここだったか。まさか“王の筋肉”で、世界経済が動くとはな。」
数日後。
アテムの写真はなぜか、社外にまで流出していた。
「CEOと共にトレーニングする謎の王」「美の化身か」「筋トレ界の救世主」
SNSを中心に瞬く間に拡散し、ハッシュタグが世界トレンド入り。
#GainLikeAtem
#KingOfMuscle
#筋肉の王
世界各地のジムで「王のフォーム」を真似する人々が現れ、
KC製プロテインの先行予約は一夜でサーバを落とした。
KCジムも、店舗を増やして稼働を開始した。
最新設備にA.R.E.S.のAIコーチングを導入し、全ての利用者に“王の指導メソッド”を提供する。
各地で「美しい筋肉」を理念とする新時代のフィットネスムーブメントが始まり、街の看板にはKCロゴと「Train Like a King」の文字が輝いた。
夜、オフィスの窓際。
「瀬人、相変わらず海馬コーポレーションは準備がいいな。」
アテムは笑いながらスマホを見せた。
画面には「世界的筋トレブーム、発信源は海馬コーポレーションCEOのパートナー?」というニュース。
瀬人は書類を整えながら淡々と答える。
「お前には実績があり過ぎる。」
「それは褒め言葉か?」
「災害予報に近い。」
アテムは愉快そうに笑い、机に肘をついた。
「…で、お前は筋トレをしないのか?」
「既にやっている。」
「いつの間に…?」
「お前が“貯筋”という言葉を覚えるより前からだ。」
沈黙。
そして、アテムは静かに頷いた。
帰宅後。
アテムは静かに、しかし熱を帯びた瞳で瀬人の筋肉を見詰めていた。
瀬人は小さく息を吐き、肩の力を抜く。
「観察はほどほどにしろ。」
「研究だ。」
「…研究対象を口説くな。」
「それは、もう避けられない運命だ。」
アテムがほんの微かに笑みを浮かべると、瀬人は目を細めたまま指先でアテムの肩に触れる。
「…無駄に甘い表情をするな。」
「無駄ではない。効果的だ。」
A.R.E.S.が控えめに照明を落とした。
『室温を下げましょうか?』
「下げるな。」
「上げろ。」
2人の声が同時に重なった。
王の一念が筋肉を動かし、筋肉が経済を動かし、経済がまた世界を動かした。
そして瀬人は今日も静かに言うのだろう。
「……お前の“筋力”は、経済的破壊力を伴う。」
相変わらず、アテムは真面目にトレーニングを続けていた。
負荷を上げることにも、フォームを守ることにも、一切の妥協がない。
ある日、休憩中のアテムがふいに口にした。
「"筋肉は裏切らない"、というのだな。」
どこで覚えたのか分からない日本語の格言に、瀬人は一瞬だけ眉を顰める。
「……誰に教わった。」
「トレーナーだ。真理だな。」
「迷惑な真理だ。」
それ以来、アテムの“間食”という名の修行が始まった。
ゆで卵、さつまいも、鶏胸肉、ナッツ。
会議の合間にも、A.R.E.S.が決まったタイミングでアラートを鳴らす。
『アテム様、プロテイン摂取の時間です。』
そしてなぜか、そのたびに瀬人のデスクにも同じ皿が並ぶ。
「巻き添えか。」
「同志だ。」
「違う。」
やがて、アテムの弁当は完璧な栄養バランスを誇る“黄金比弁当”へと進化した。
カロリー、タンパク質、脂質、炭水化物、すべてが理想値。
容器のフタにはアテム直筆の文字で「筋肉は裏切らない」と書かれている。
瀬人は弁当を見下ろし、小さくため息をついた。
「……俺の食生活まで支配する気か。」
「違う。導いている。」
「同義だ。」
A.R.E.S.が満足げに報告する。
『瀬人様、筋肉指数が上昇傾向です。』
瀬人はフォークを持ったまま、静かに言った。
「……誰のせいだ。」
アテムが筋トレを始めてから数ヶ月。
その熱心さは社内でも話題となり、KCジム利用者の増加率は異常値を記録していた。
ある日、A.R.E.S.が控えめな通知音を鳴らした。
『アテム様宛に、複数の出版社からオファーが届いています。テーマは“筋肉美”写真集とのことです。』
瀬人は、コーヒーを飲んでいた手を止めた。
「却下だ。」
「まだ読んでいないのに。」
「読む必要もない。出さん。」
アテムは不思議そうに瞬きをする。
「なぜだ?筋肉は、皆に希望を与えるものではないのか?」
「お前の筋肉は、俺だけが観察すれば充分だ。」
「瀬人、それは独占欲というものではないのか?」
「当然だ。」
淡々と断言され、アテムは小さく笑った。
どうやら、それは否定ではなく、何よりも嬉しい答えらしい。
その頃、知らぬ間に巻き添えトレーニングを続けていた瀬人自身も、見事に仕上がりつつあった。
スーツ越しでも分かる逞しさに、A.R.E.S.が報告を上げる。
『瀬人様、筋肉密度の数値が上がっています。』
「……余計な報告をするな。」
そんな瀬人を見て、アテムが満足げに頷いた。
「なら、共にオファーを受ければいい。」
「誰がそんなものを。」
「瀬人の筋肉も、美しい。」
「…お前は、どこまで筋肉に取り憑かれている。」
「筋肉は真実だ。愛だ。」
A.R.E.S.が気を利かせて、2人のデスク上に高タンパクスイーツをそっと配置していた。
甘い香りが広がる中、瀬人は呆れたように言った。
「…貯筋から始まって、どこまで行く気だ、アテム。」
「限界は、まだ見えない。」
瀬人は深く息を吐き、言葉の代わりにその笑みを一瞬だけ見詰めた。
そして、そのままゆっくりと目を逸らす。
『室温を下げましょうか?』
「……上げろ。」
「下げるな。」
2人の声は、またも同時に重なったのだった。
アテムの筋トレ生活は、もはや日課を超え、信仰に近いものになっていた。
筋肉は裏切らない。努力は必ず形になる。
そう信じ切っているアテムは、ある夜、唐突に口を開いた。
「瀬人、筋肉を鍛えれば、身長も伸びないか?」
瀬人はタブレットから目を離さずに応じた。
「……何の話だ。」
「成長ホルモンの分泌が促進されると聞いた。」
「お前、歳は。」
「年齢という概念に縛られるつもりはない。」
A.R.E.S.が控えめに割って入る。
『アテム様、カルシウムの摂取も効果的かもしれません。こちらのス◯イ◯ルシウムは評判が良いです。』
「ほう。」
アテムが興味津々にディスプレイを覗き込む。
瀬人は深く息をつき、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「A.R.E.S.、その広告を削除しろ。」
『削除します。』
そして、真正面からアテムを見据える。
「今更無駄だ。」
「…試してみなければ分からない。」
「重力に逆らえると思うな。」
アテムは唇を僅かに歪めて笑った。
「この身体で、重力に抗ってきたお前に言われたくはない。」
瀬人は、堪えきれずに肩で笑う。
「…筋肉に理屈を持ち込むな。」
「理屈ではない、希望だ。」
A.R.E.S.が再び控えめに告げる。
『では、◯カイカルシウムの定期購入をキャンセルいたしますか?』
2人の声が重なった。
「「キャンセルだ。」」
沈黙のあと、瀬人がぼそりと付け加える。
「…俺の目線の高さに無理に合わせようとするな。」
「なら、お前が屈めばいい。」
「断る。」
だが、瀬人は小さく微笑んでいた。
その視線は、結局どんな角度でも、アテムをまっすぐに見詰めていた。
世界は、静かに、そして確実に「貯筋」時代へ突入している。
KCのロゴが入ったプロテインボトルは、ジムにも、オフィスにも、家庭にも並ぶ。
A.R.E.S.が監修したサプリメントは、健康雑誌の表紙を飾り、海馬コーポレーションの株価はまたも過去最高を記録していた。
だが、その喧騒の届かない場所がある。
夜の海馬邸。
照明を落とした室内で、2人だけの音が響いていた。
アテムが、掌で瀬人の腕を辿る。
硬く、しなやかに盛り上がる筋肉の感触を確かめながら、微かに笑った。
「瀬人、見せろ。」
「…またか。」
「これは研究だ。」
「研究という名の口実だろう。」
「お前の理論だって、実験を繰り返すものだろ?」
瀬人はため息を吐く。
その声に少しだけ熱が混じっていた。
「…理論の実証にも限度がある。」
「ふふ、限界まで確かめよう。」
指先が滑り、熱を帯びる肌をなぞる。
外ではKCのプロテインのCMが流れ、世界が「健康」を叫んでいる。
けれど、この部屋の中では、誰も知らない別の「筋肉の物語」が進行していた。
