04 ふたりの時


海馬邸。
薄暗い厨房に、瀬人は1人、立っていた。
手元の皿に目落とせば、アテムが喜んだ料理や菓子、果実の味や香り、喜ぶ顔が再現される。
あれも、これも。
瀬人は口元にほんの少しだけ微笑みを浮かべながら、1つずつその反応を思い返す。
ターメイヤの香ばしさに、ケーキの甘さに、果実の瑞々しさに、スパイスの刺激に、どのような反応を見せたのか。
それぞれがアテムの笑顔と重なり、心に温かく刻まれている。
今はもう、この香りも味も、二度と味わえない所に居る。
だからこそ瀬人は、記憶の中で一皿一皿を丁寧に抱え込み、冥界へ持って行くことを決めた。
『この世の味』。それは、現世での生の証。
そして、アテムに注いだ愛の残滓でもある。
今後に備えてのカードは揃いつつある。その内の1つ、生きたまま黄泉、冥界へ渡る。これからこのカードを切る。
微かに唇を弾ませて、瀬人は最後に1つだけ呟やいた。
「全部、忘れずに行く。お前のために。」





冥界。
静寂の中、アテムは目を覚ました。
懐かしい夢を見ていた。
目を閉じれば胸の奥に、現世で味わったあの香ばしい匂い、甘い香り、瑞々しさが鮮やかに蘇る。
それは、瀬人がくれた『この世の味』の記憶。生の記憶。
一皿ずつ、手取り足取り、瀬人が「覚えておけ」とばかりに残してくれたものだ。
舌先に広がる感覚の1つ1つが、生の感覚を呼び覚ます。
冥界にあっても、アテムの体と心は少しずつ現世の幸福を再開していく。
瀬人が紡いだ、味の記憶と愛情の力で。
待たせない。そう言っていた。
変わらない。そう誓った。
微かに笑みが浮かぶ。
目の前には何もないけれど、胸の奥には温かさが満ちていた。
「これが、この世の味…か。」
アテムの世界は、瀬人が撒いた『幸福の種』で静かに再生し始めていた。





2人は同じ世界で過ごしているわけではない。
しかし、味覚の記憶と心の温かさが、見えない糸のように2人を繋いでいる。
瀬人は新しい皿にアテムを思い浮かべ、アテムは胸の中で瀬人の優しさを感じる。
物理的には離れていても、心と記憶は確かに触れ合っている。約束が、誓いがある。
それだけで、2人の間に静かな幸福が満ちていた。





静かな冥界の空気の中、ひとつの影が静かに差し込んだ。
「ここが…。」
瀬人の声は低く、しかし確かな存在感を放っていた。
ついに辿り着いた。現世と冥界の境界、次元を越えたのだ。
アテムはふと顔を上げる。
冥界の静けさの中で、胸の奥に温かさがふっと広がった。
それは、現世で味わったあの香ばしい匂い、甘さの記憶。生の記憶だ。
そして、目の前に現れた懐かしい人影。
「海馬…。」
声に、驚きと喜びが混ざる。
短いような長いような時間を越えて、ようやく再び目の前にいる存在。
瀬人は微かに微笑んだ。
「待たせたな、アテム。変わりはないか?」
言葉の端に、『この世の味』の記憶、延々と与え続けたあの味の思い出が重なっている。
アテムの声は少し掠れ、目に、薄っすら涙の膜が張る。
「ああ、俺は俺のままだ。ずっと…変わらない。」
瀬人は小さく頷き、手を差し出した。空港で別れた時とは逆に、瀬人がそっと、アテムの手に触れる。
アテムはその手を握る。
「俺の目の前で、もう一度味わえ。『この世の味』を。」
2人の距離は、かつてないほど近い。
すぐ側で眺める者もいない、2人きり。
あの時と同じ、ほんの一瞬だけの口付け。
アテムの口に押し込まれる金平糖、触れる指先、広がる甘さ。
冥界の温度のない空気も、現世での記憶が織りなす温かさで満たされる。
瀬人が与えた『幸福の種』が、今、ようやく花開く瞬間だった。





明るい光の差し込むアテムの部屋。瀬人は手に皿をいくつか持っていた。
「口を開けろ。」
全ての皿の上には菓子の山。
現世で喜んだ味の記憶を、少しでも再現できるようにと、隣の部屋には厨房が備え付けられた。
しかしそこは丸っ切り現世のキッチン。いや、料理をするには過ぎる機器を投入して作られたラボの様相で、瀬人が次元を超えて来る際に到着する場所にもなっていた。
送り込まれたり、仕上げをしたり、物によっては一から作られることもある。そうして用意される料理や菓子類。
アテムは、ここまでするか、と驚き、呆れつつも、口元に微笑みを浮かべる。
「…これは、あの甘い香りだ。」
海馬邸のレシピのターメイヤ、甘いスイーツの味、送り込まれた果実。
全てが、現世の記憶を呼び覚ます。
瀬人は黙って見守った。
アテムが一口、一口と味わうたびに、胸の奥に小さな満足の火が灯るのを感じる。
喜んでいることを確認し、隣に腰掛けた。
アテムはもぐもぐと夢中で食べている。
「海馬…これ、やっぱり美味い!」
「それが『この世の味』だ。」
冥界の空気には温度はないはずなのに、2人の間には温かさが溢れていた。

夜が深くなっても、2人は互いの存在と『この世の味』の記憶を確かめるように、静かに時間を重ねる。
並んで座り、手を握り、他愛ない話をする。穏やかな時間。
離れていた時間を、ひとつずつ、ゆっくりと取り戻すかのように。

花を咲かせた『幸福の種』は、今、冥界の中で満開を迎えようとしていた。
Page Top