季節は秋となり、夏の名残も収まってきた頃だ。
磯野の上司とその恋人は、とても穏やかな幸せを育んでいる様子であった。
雰囲気の変わった、要は更に色気の増した瀬人に関する、そう言った意味での問い合わせは社内外通して多く忙しい。だが、それはそれとして充実した日々を過ごしていた。
問い合わせとしての断トツは勿論結婚についてだ。いつ、相手は。
2年程前、もう1人の上司のモクバから、兄が試作機に乗って行ってしまったが行き先はどこだか分からない、と聞いた時はかなり肝が冷えた。「あとは任せた」などまるで遺言ではないか。モクバを補佐し、本当に2人でこの大きな会社をどうにかしていかなければならないのか、と。気が気ではなかった。
だが、瀬人は戻って来た。そしていつの間にかその傍らには、収まるべくして収まったかのような、既視感のある独特なオーラを持つ少女が居た。
最有力案件、と言われている。要するに『本命』だ。
様子を見ていて分からない筈がない。本当に結婚は秒読みで、長くても年内には纏まるのではないかと見積っていたし、いつ式をすると言われても対応できるよう準備も整えている。
後は2人がそのタイミングを決めるのを待つだけだった。
苦労を苦労とも思わず突き進んでいく人である。その無尽蔵なスタミナ、バイタリティに着いていくのは並大抵のことではなかった。
報われてほしい、とは少し違う。目的は自分で達成するので見返りを求める人ではない。
それだけに、穏やかな幸せにも包まれてほしい。そう思っていた。
夜、ボードゲームをしていた時だ。
ボタントークンを摘みながら、アテムが口を開いた。世間話をできる程度の軽いゲームだった。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ。」
「なんだ?」
「最近、磯野さんが俺を奥様と呼ぶんだが…俺たちはもう結婚していたのか?」
「…磯野の奴…。言わせておけ。」
相変わらず気の早い奴め。と思うも、気が早いだろうかと思い直す。
磯野は有能な人物である。人間としても成熟しており、モクバと磯野だけでもやっていけるよう、同じ目線で見るように言ってある。
初めて冥界へ行くのを決めた時も、モクバに補佐として磯野が居れば大丈夫だろうと判断したから迷わず試作機に乗った。
近頃、たまに挙動がおかしいが許容範囲だ。
現役学生、院生か。二十歳。若い経営者。これらの響きは全て好材料。プラスに働くタイミングではある。
アテムもエジプト政府の要人の妹という位置付けだ。不足はない。
それに過去、海馬コーポレーションは崩壊したエジプトの遺跡の再建や発掘に手を貸している、何ら不思議もない。
今結婚したとして、収まってきた指輪騒動が完全鎮火する前で良い燃料にしかならない。
つまり、騒ぎになれど何ら問題はなく、寧ろ今がその時であると判断したという事だ。なるほど同意ではある。磯野がアテムを奥様と呼ぶのは、早く結婚しろとの意思表示でもあるのだろう。
国際結婚においては、書類と日数こそいくらか数が必要だがそれだけだ。
日本から持ち出す書類は既に用意してある。アテムの意思ならばと、エジプトでの手続きにはイシズがいつでも手を貸すと言質も取れている。それらが済めば再度日本に戻って全ての書類を揃えて提出すれば完了だ。
式はどこで挙げるのが良いか。婚姻が成立するのがエジプトであることや取材を避けることを考えるならエジプトだろうか。しかし海外であろうと記者は追ってくるだろう。
瀬人は自身の知名度ぐらいは認識していた。
「この際だ、しておくか?」
「とうとうするのか?俺は構わないぜ。」
「では、するぞ。」
「ああ、そうしよう。」
結婚とは勢いである。そういった説がある。それは事実だった。
今日は特別な日でもなんでもない。今もいつものように軽いボードゲームに興じていただけだ。甘い雰囲気すらなかった。
急いでいたわけでもタイミングを探していたわけでもない。この婚約状態に磯野が油を注ぎ、アテムが火をつけた。火は、勢いよく燃え上がった。それだけのことだ。
ゲームの最中に、これから結婚することを決めてしまったわけだ。結婚とは、勢いである。
瀬人はひとまず盤面の確認をした。現時点では互角だ。だがこれはもう今日は最後までやりきれないだろう。
「式はどこがいい?エジプトか?呼びたい人物がいるなら手配もするが。」
「結婚式をするのなら、そうだな、相棒達は呼びたい。でも急に連れてくるのはなしだぜ。」
「ごく普通にご招待、だ。」
「お前からの招待って大抵何か事件の臭いがするんだよな。」
「なんだと。」
「冗談だ。怒るなよ。」
ふざけたことを言う口を塞ぐがアテムは懲りずに笑うだけだ。
貴様、そこまで言うのなら数日分は時間を作れるのだろうな。そう言ってやりたい本人は勿論ここには居ない。
「では、まずはエジプトに行く。」
「エジプト?なぜだ。」
国際結婚の手続きについて簡単に説明すると、現世って大変なんだな、とアテムがぼやいた。それにも同意である、もしそれが可能なら既にオンラインで済ませてしまっていたことだろう。
「セト、見てくれ。」
最近はマハードやマナに連絡していたらしいアテムが急に連絡してきた。
こういった面倒を避けるためにあの師弟へ端末を渡したと言うのに。
「何を見ろと?砂漠ではないですか。」
「街もあるぜ。」
画面の中で風景が反対を向き、栄えた街が映る。
行き交う人や車といった乗り物。
貸してみろ、とアレの声が聞こえてアテムの姿が現れる。
印象的だったのは人々を眺めるその表情だった。だから、分かってしまった。
「もしやこれは、現世の。」
「ああ。俺たちの国、エジプトだ。お前が復興させてくれた世界だ。」
声にならなかった。目が離せなかった。アテムが守り、自分が育てた世界。
現代では魔術の力は失われていると聞く。それにも関わらず、こんなにも、世界は逞しく美しいものなのか。
「とても、素晴らしい世界です。」
「そうだな。」
暫くは、仕事の手を止めて映し出される景色やそこに住む者を眺めた。こんな時間が齎されるとは、思ってもみなかった。
と、これで終われば良い話で終われた。
しかし、現世とは、とかく騒動を持ち込むものである。そう言った空気を読むことなど造作もないセトである、その程度のことは分かっていた。
筆を手に取って文字を書き記していく。仕事の続きだ。
面倒事であれば同じ風景を見ていたであろうアレに押し付ければいい。
「それで、他にも話があるのでしょう。」
「あれ?何で分かったんだ?」
「何故分からないと?」
「流石はセトだな…。」
表情に負の感情はない。アレと共にいてそんな感情がある方が異常なのだ。ならば今度は何があるかと考えを巡らす。
セトは、続けられたアテムの話に、一瞬思考が飛んだ。
「話というか、ただの報告なんだが…俺は今から結婚して来る。」
「今から?」
「今から。」
「今から…。」
「お前にはちゃんと言っておかないと、と思ったんだ。」
誰と、などとは聞かなくても分かっている。散々冥界を荒らしたアレしかいない。
お前にはやれない、などとは断じて思わない。他の神官連中と一緒にされては困るし、いつかその日が来るとは思っていた。
が、突然連絡して来て今からだと。思わず書いていた文字がずれた。読めるがこれはもう使えない、書き直しである。仕事が増えた。
現世においては、マナの仕業でついこの間大騒ぎになっていたのでは、と思ったが、あれから数ヶ月が過ぎていた。
「マハードやマナにはまだ?」
「これから連絡しようと思っていた所だ。」
「では、事後報告にしてください。晴れ姿の画像と共にお送りすればよろしいのです。」
セトがきっぱりと言い放つ。
「そうか?」
「そうです。」
この情報は、一旦ここで止めておかなければならない。
漏れたら大騒ぎが起こり、婚姻の儀が執り行われた後にもう一騒動起こる。それなら一度に纏めた方がマシだとセトは判断した。
アレがアテムを連れ出した時も当然混乱は起こった。
「王が戻られぬ、このままでは…。」
「秩序が…!」
神官や役人が騒ぐ中、セトはゆっくりと玉座の脇に立った。
少し前までそこに座っていたのはセトだ。視線だけで見回せば、一気に夜の砂漠になったかのような空気に変わる。
「黙れ。」
声は低く、声量も抑えられているのに、全てを切り裂くような力。
神官たちは動けず、言葉を飲み込み、視線を落とした。抗議も抗弁も、セトの視線の前では微かな影に過ぎない。
セトは微動だにせず、ただ静かに、冷たく、世界を掌握する眼差しを向けた。騒ぎは一瞬で沈黙に変わり、冥界には静寂が戻った。
セトは伊達に王などやってはいなかったし在位期間も夭折したアテムよりずっと長い。復興、軍事面の整備、民からの信頼回復、弱体化した国を狙う他国からの防衛や外交、王位簒奪や国家転覆を企む内なる敵。そういった事情もあり先陣切って戦い続ける、力強い王だった。
数えてはいないが命を狙われた回数は指の数では利かない。力を示す為でもある、その度に戦闘になった。
そんな戦や力の王、神であったセトの一喝は相当効いたらしく、それ以来アテムと瀬人について言及する者は誰も居ない。
「お前、なんか怖い顔してるぜ?」
「気の所為です。」
「そうか?分かった。なら、そうするけど…。」
ガチギレされたら怖い、と聞こえた。セトにはガチギレが何を意味するのかは分からなかったが、後でこの端末で調べておこうと決めた。
アテムは、王に、神になるべく生まれ育ち、玉座に就いた。
今は、神の子然とした澄ました表情は見受けられない。
自分の気持ちも、どうしていいかも分からない、と言っていた。そんな不安や戸惑いもない。
アレが何をしたのかは分からないが、よほど大切にされているのだろう、幸せそうに微笑む人間が1人いるだけだ。
だから自然に言葉が口を付いて出た。
「おめでとうございます。」
「ありがとう。暫くはここで暮らすからそっちのことは任せることになるんだが。」
「元よりそのつもりです。あなたは、幸せになるのです。」
自分でも驚くほど優しい声だった。
あの日、冥界に乱入者がやって来た時、アテムは騒動が起こったにも関わらず、一瞬だけだが嬉しそうな表情を見せた。他の者は誰一人気付いていないだろう、セトだから分かった。
あの時にどのような思いを持っていたのかは知らない。既に今と同じだったのか、形が変わって今になったのか。
だが、待っていたことだけは分かった。目が輝いていた。
だから乗り込んできたアレのありえない行動を止めはしなかったし、勝手に飛び出た衛兵がやられても事態の沈静化への口出しもしなかった。
頻繁な来訪に多少、裏で手を回しはしたがその程度だ。
どんな力を持っていてここまでやって来ることが出来たのかは分からない。打ち破られる衛兵。はためく異国の白い装束に、白い龍の翼が見えた。
3000年のその以前より、力の象徴は獣とされることが多い。だがアレは、獣ではなく龍である。
龍は、とうとう神を殺して見せた。
セトの口元に笑みが浮かぶ。
「お前に祝ってもらえて、俺は嬉しい。」
「あなたを祝えることが、とても幸せです。」
「時間みたいだ。ちょっと結婚してくる。また後で。」
「いえ、それは結構です。マハードらに晴れ姿を送る際、送っていただければ。」
「ああ。」
嬉しそうに笑うアテムは、壺の中に隠れてサボっていたあの頃に近い。いや、あの頃よりもずっと自由に感情を表出していた。自由。アテムはもう自由なのだ。
少しの間、幼少の頃を思い出して懐かしむ。3つ歳下で、我儘、やんちゃ、悪戯好き、仕方のない少年だった。
セトカイバ、アテムに幸せな未来を。心の中で呟き、仕事を再開した。
なお、『ガチギレ』について調べて腕組みをするのはその数時間後のことである。
「ようこそいらっしゃいました。」
「久しぶりだね。」
「イシズ、マリク、リシドも。今日は頼んだぜ。」
「ファラオの御心のままに。」
「俺はもうファラオじゃないからそう言うのはやめてくれ。」
「いいえ、その魂は気高きファラオのもの、私にとってはいつまでもそうなのです。」
殊勝なことだ、と瀬人は思った。だがアテムはただのアテムだ。
言ってやりたいことは多々あったが、イシズは口煩い小姑、勝手に言わせておけばいい。
「時に瀬人、貴方はファラオの王配となるのです。しかと心得ていらっしゃるのでしょうね?」
さて、何と返してやろうか。
王だの神だなんてものは、とっくにアテムの中からは消えて無くなっている。
ただ、自由でいいと繰り返し、甘やかし、安心させて。王だから、神だから、では絶対に体験することのなかった『当たり前』を、容赦なく与えた。
本来、誰よりも重い責務と孤独を背負っていたアテムが、それが無くても存在していいと納得してしまえるまで。
そしていつの間にか、アテムは存在理由として王や神としての自分を必要としなくなった。
それは現人神としての思考を崩し、アテムの中の神性を破壊した。
共に歩む存在だからこそ、瀬人は念入りに、時間をかけて、アテムをただの1人の人間に落としたのだ。
そして、覚えた自由や愛によって、アテム自身の存在意義は『王であること』から『望んだからここにいる』という形に上書きされていった。
全ては、瀬人が表に出すことのない、合理的な計算。アテムはもう、王でも神でもない。
「イシズ、何度も言うが俺はファラオじゃないぜ?それに今日から俺は、ただの人妻だ。」
瀬人は思わず笑いそうになった。天然とはなんとも恐ろしい。マリクやリシドなどは顔を引きつらせていた。
「分かりました…私達の妹、アテム…様。」
「ありがとう、姉上。でも様はおかしいぜ?」
兄弟4人が言葉を交わしている。その中心にあるのが末の妹アテムである。
この兄弟の絆は固いが、排他的なそれではない。
アテムを受け入れ、愛する余裕のあるものだ。元から兄弟であったかのような自然な雰囲気はそこから来るものだろう。
「僕らの妹を大切にしてくれよ。」
「何よりも大切にすると誓おう。妹は、俺が幸せにする。」
イシズの協力で数日かかる手続きを2日で終わらせて帰路に着く。後は日本で書類を提出するだけだ。
1年半程前、まだ自覚していなかったアテムを見守りながら、静かに待つ日々が始まった。あの時も、今も、アテムは自分を見ていたのだという確信が、瀬人の胸を満たした。
季節が変わるたび、接触の回数を増やし、話題を選び、笑顔を引き出すタイミングを慎重に調整してきた。
アテムが自然に安心できる距離感を意図的に作り出して来た。
半年程前のホワイトデーの日。アテムが自分の気持ちを自覚した瞬間、瀬人は迷わずプロポーズをした。アテムが動揺しつつも、受け入れられるタイミングを待ったのだ。あの時、アテムは驚きながらも瀬人を受け入れた。
これらは全て、アテムの自覚すら、瀬人によって初めから用意された舞台、居場所の上での、なるべくしてなった結果に過ぎない。
表面上は偶然や、感情の波にも見えるだろう。だがこれは、全ては瀬人の計算の産物。
関係が成立した後、ゆっくり距離を確かめながら日常を重ねて、今、この瞬間、二人は結婚している。
結婚、それは変わらぬ幸せな日常の延長である。
「もう、俺たちは夫婦なんだよな?」
飛行機の中、アテムが呟く。
「そうだ。」
「実感って、ないものなんだな。」
「言っただろう。何も変わらんと。変わらず側に居れば良いのだと。」
「本当だ、何も変わらないな。…家に帰ったら。」
「アテム。」
初夜という文化を知っているか?と耳打ちすると、みるみる赤くなって窓の方へ顔を向けてしまった。
冗談だ、と言いたいのに向こうを向いているのでは仕方がない。
屋敷へ戻ると、邸内は賑やかなことになっていた。
ソリッドビジョンシステムを使い、さながらパーティ会場のそれはモクバの仕業だ。
手伝わされたのだろう磯野もいる。磯野は、自分でこの結婚を押していた癖に泣いていた。減点1点。今日も瀬人は寛大で、磯野の持ち点は3点だ。
「兄様、アテム。結婚おめでとう。」
「瀬人様、奥様、おめでとうございます。」
「モクバ、ありがとう。でも、磯野さんは何で泣いてるんだ?」
「おーい、まだ泣いてんのか?気持ちは分かるけどいい加減泣きやめって。どうせ結婚式でも泣くんだろ。」
「はいっ、そのつもりです。」
「泣かぬとも良いだろう。」
感極まった遊戯が泣いて、城之内がもらい泣き、すると本田も道連れか。アテムの嬉し泣きならまだしも、男どもが泣いてばかりの式など見苦しい。
「瀬人様、式の日程は?」
「10/24の夜からだ。日付を跨ぐようにしてくれ。」
「奥様。」
答えたのはアテムだった。
それは誕生日嫌いな瀬人への気遣いでもあり、独占欲でもあった。
結婚記念日は特別な日である。それを誕生日に持っていけば今後はそれを理由に所謂無駄な時間を過ごさなければならないことも減るだろうと考えてのことだ。
「いいよな?」
「無論だ。磯野、スケジュールを。」
「はいっ!ただいま調整いたします!」
既婚者となっても瀬人に擦り寄ろうとする者は絶えないだろうが、少なくとも誕生日が面倒で無駄な日ではなくなるだろう。
「だが、なぜ夜から?」
「雑誌で見たんだ。海馬瀬人、二十歳って。二十歳って特別なんだろう?それなら俺が貰わない手はないぜ。」
「何歳の俺でも好きなだけ持っていけば良いものを。」
アテムが赤くなる。
漸く自分が何を言ったのか分かったようだ。アテムは独占欲が強い。
「し、招待客リストの用意を…」
「お前が部屋へ戻ってしまって俺だけが祝われるのか?」
「それは…。後にする。」
誰もが見守っていた瀬人とアテムの恋路である。海馬邸では、夜遅くまで祝いが催された。
