「お前は、平和な味がする。」
何度目の口付けだろうか。アテムが奇妙な事を言い出した。
それを何度目で言い出したのか、瀬人の記憶力を持ってすれば数え上げることは可能だがやめた。
なんだそれはと聞きかけて、それもやめる。説明不可能と顔に書いてあったからだ。聞いても、よく分からないぜ、と答えるに決まっている。
それにアテムがおかしな事を言うのは今に始まったことではなく、重要なことなら必ず言ってくる。
落ち着く、安心できる、信用、その辺りの意味合いが確度としては高いだろう。
何にせよ、平和ならなによりだ、と瀬人は結論付けた。
ある日、瀬人の部屋にやってきたアテムは開口一番こう言った。
「欲しいものがある。」
アテムが何かを欲しがる事はあまりない。通販程度、自分で出来るし、せいぜいが発売後すぐに手に入れたい新しいカードのパックくらいだ。
珍しいと感じながらも、しかしアテムの願いくらい簡単に叶える。海馬瀬人はそう言う男だった。
「何がほしい。」
「指輪だ。」
「分かった。手を出せ。」
「俺だけじゃないぜ?」
なるほど。思惑は分かった。
「お前も着けるんだ。」
やはりそうだ。
アテムの願いくらい簡単に叶えるが。
「どうなるか分かっているのか?」
「大スキャンダルだ。俺のためにな。」
楽しそうに笑う。挑むような目だ。
だが、言葉が表すものは束縛であると、その意味を分かっているのだろうか。アテムのことだ、願いや言葉に潜む無意識など分かってはいない可能性もある。
自分が追いかけ回される可能性なども、考えていなさそうだ。報告では秋の祭の後に囲まれたらしいが、そのことはすっかり忘れている様子である。
瀬人がアテムのために追いかけ回されることしか考えていないに違いない。
誰の入れ知恵だ。
遊戯。指輪の草案を見てはいるが、こんなことを焚き付けはしないだろう。ニュースがアテムに飛び火する可能性がある。そんなことは望まない筈だ。違う。
真崎。例の件で大変な目に遭った当事者だ。夢のように語りはすれど同じ重圧をアテムに科させるようなことはしない。違う。
その他オトモダチの中、パートナーらしき者が居る、例えば城之内。孔雀舞とは付かず離れず、進展なし。違う。
パートナーは居ない筈だが女に人気があるのは獏良。あれは色気より食い気。違う。
誰だ。
誰かは分からぬが、瀬人にとって乗らないという選択肢はなかった。
「その程度の我儘を叶えられぬ筈がない。」
「左手の薬指は心臓。心に繋がっているんだ。」
アテムは穏やかに微笑みながら、夢のように言う。
そういう事か。
vena amoris、愛の静脈。起源は古代ローマともエジプトとも言われている。
とうやら冥界から仕入れたらしい。
それならば導き出される元凶はアレだが合理的で理知的なタイプであり、愛の静脈を語るような浪漫主義ではない。違う。
冥界の人物相関図を頭に描き、候補になり得ない者を片っ端から消していく。
残ったのは、アテムと近しい者の1人、マハード。だがマハードは真面目な気質の男だ。アテムが何かしら相談したとしてもこのように他者を巻き込む解決策は提案しないだろう。例え巻き込まれるのがマハードにとってあまり好ましい相手ではなかったとしてもだ。違う。
ではもう一人の方か。マハードの弟子。現代の風習を知れば無邪気に恋路を応援し、どんどん背中を押す。イメージできた、犯人は恐らくマナだ。
結果としてはよくやったと褒めてやれば良いのか、これ以上要らぬ口出しをするなと怒れば良いのか。瀬人は、どちらにせよ苦情を入れることだけは決めた。
「なるほど、おおよそ理解出来た。」
「そういうことだ。」
心の在り処は脳である。が、嬉しそうに手を差し出すアテムに今伝えるようなことでもない。
繋がっていたいという想いは瀬人も勿論同じだった。
アテムの警護をもっと重厚に。童実野町に入る記者を徹底的に監視する、カメラ付き端末もだ。他にやることは何がある。
瀬人は頭の中で算段を立てながら、抽斗から箱を取り出した。
2つの並んだ揃いの指輪。
「これはペアリングだ。まだ、な。」
手を取って、銀色のそれを指に通す。流線型のそれは華奢なアテムによく似合う。
「あれ?真っすぐなやつじゃないのか?お前に似合うのはこういう形じゃない気がするんだが。」
「指輪など、いくらでも用意してやる。」
「たった1つだからいいんだ。貸してくれ、俺が着けるぜ。」
指輪を渡すと、無理に通してくるものだから皮膚がひりついたし逆さまだ。アテムにその辺りの繊細さなどは求めてはいないが、つけ直す時にも痛みはあるだろう。
「逆だ。」
「悪い、よしできたぜ。意外と似合うもんだな。この形も。」
「満足したか?」
「ずっと、着けろよ。」
「分かっている。」
「お前って本当に、照れないよな。」
「照れさせたいのか。」
「さあ。いつも余裕そうだから。たまには俺の気持ちも思い知ればいいんだ。」
なるほど目的は束縛と、ちょっとした意趣返し辺りか。
マナめ、そしてアテム。一体どんな話をしてこうなった。履歴を覗いてやろうか。
瀬人は小さくため息をついた。
「お前を前に余裕などあるものか。」
「そういうとこだぜ。」
アテムが赤くなって抗議する。
「思ったことを正直に口に出せば良いだろう。」
「そこが女心の妙な所で、上手く言葉にならないらしいんだ。何度も試してみてはいるんだが、上手くいったことがない。」
それはやはりアテムが鈍いだけであり、勿論瀬人はそれを理解していた。
「ガールズトークとやらの場では上手くいくのか?」
「いや、いかないかった。」
やはりそうではないか。お前はそういう奴なんだ。しかしそれも瀬人の中では、今日もアテムが可愛い、に無事行き着いていた。
この一連の会話は、もう白状したようなものでもあった、今回の発端がガールズトーク、相談相手はマナだと。
社員は会見の1つでも開いて欲しがるだろう。去年の一件の際、取材の申込みが殺到し、業務に支障が出た者も居る。
周知しようとしまいと、どちらにせよ問い合わせが来ることに変わりはないだろうが、知っておきたいものではあるのかもしれない。
知名度を落とせば良い話だがそれでは『海馬瀬人』の戦略として成り立たない。それに、アテムの欲求は両立させることで満たされる。
いずれ一緒になれば、すっとぼけては居られなくなるだろう。しかしまだ、アテムにはもう少しくらい平穏をやりたいと思っていた。
そうなっても、平和な味とやらを甘受出来ているといい。
「結局同じではないか。」
「それでも、俺が満足してるからいいんだ。」
はにかみながら指輪を光に翳すアテムの姿は、とても美しかった。
「満足と言うのなら、望むだけ満足させてやろう。」
「瀬人?」
よく見ておくことだ。
アテムの欲求、いつ、どんな時にでも繋がっている証明を。
運転している磯野の様子がおかしかった。ハンドルを握りながら手が震えている。自分で運転した方が良い可能性もあるが、何も申告がないということは運転程度なら支障はないということだ。そう判断し、瀬人はそのまま運転させておくことにした。
ただ、即座に自動運転への切り替えを出来るように目の前のパネルで設定だけはした。
通る信号を、車が近付けば全て青に変えてしまうことも忘れない、童実野町は既に支配下にある。信号程度、序ノ口だ。
しかし何かあったか、と考えていると唐突に祝いを述べられた。感極まった様子で、手だけではなく声も若干震えていた。
「せ、瀬人様、おめでとうございます!」
新規プロジェクトの内、喫緊で発表されたものはない。どこかの部門が業績を上げたとも聞いていない。知る限り、つまり全ての内、業務は通常運転である。
そもそも磯野はその程度のことで逐一無駄に騒ぐような人間でもなかった。
「なにがだ。」
「はっ、アテム様とご結婚なされたのでは?」
振り返るな、運転をするのなら前を見ろ。顎で前方を指すと磯野は慌てて前を向いた。
磯野があと1つ何かしたら車から降ろしてやろうと決めた。持ち点は3点、残り1点だ。いつもなら1点のところ、今日の瀬人は非常に寛大だった。
「まだだが。」
「そう、でしたか。」
「式には呼んでやる。準備は。」
「いつでも整っております。」
海馬瀬人とは海馬コーポレーションの広告塔である。
全てを支配するに辺り、自ら表に出ていく事は避けられない。力強い圧倒的な説得力はその辺りのタレントを起用したCMなどでは到底及ばない、力が足りない。自身は武器でしかない。そうして『海馬瀬人』は更に力を得る。そうしてきた。
左手に目を落とす。アテムと揃いの指輪。
磯野ですらこうなのだ。この指輪1つで影響は計り知れないのだろう。だが、それならそれで、計算に組み入れていくまでである。
隠しはしない。後ろめたいことは何もない。何でもないなどと言えるような小さな存在ではない。
アテムは、全てなのだ。やっと見つけた、唯一の、大切な存在。
瀬人は口元だけ笑みを浮かべた。ミラー越し、磯野を見る目は笑っていない。
「ふん、相当に騒がしくなるぞ。今回は最有力案件だ。」
「心得ております。会見はどのように?」
「却下だ。荒らしておけ。」
「では、そのように。」
磯野は、アテムの正体が遊戯の中身だったことには、恐らく気付いているのだろう。
出自。どのようにこの世界に別個体として出現したのか、そういった事情までは考えても分かるものではないだろうが。
女神、などと誰が信じようか。
「…磯野、貴様どこまで知っている。」
磯野は軽く笑みを浮かべ、静かに答えた。
「私は何も存じ上げません。アテム様はアテム様です。」
それが答えだった。減点なし。それでこそ、だ。
「そうだ、それでいい。」
世界中に衝撃が走った。
『海馬コーポレーション社長 海馬瀬人氏(20)結婚!?』
インターネット、テレビ番組、新聞、週刊誌、関係のなさそうなファッション誌まで。
メディアというメディアがこぞって海馬瀬人の左手の指輪について取り上げた。
特定班といった者も動き出し、相手や指輪のメーカー探しに躍起になっているが今更遅い、知りたいことは全て手を回して潰してある。
アテムはあまり表に出ない上、警護も着いている。更に記者がこの街で好き勝手を出来ないよう警備に指示を出してある。指輪も自社製の1点物だ、見つかる筈がない。
SNS上では勝手に失恋した者が続出し、広報辺りが裏から用意させたのだろう#社長に失恋、などどいうタグは上手く拡散された。
それは既に元の意味、所謂元ネタの手を離れてふざけて使われているが予想の範疇である。
カメラのフラッシュを目にしない日はない。レンズは常に瀬人の動向を追い、毎日のように何かを聞き出そうと擦り寄る。
相手は、いつから、もう既に。
それらを軽く流し見て、瀬人は今日も薄っすら笑うだけだった。
残念ながらこちらは囮だ。
「おかえり。」
「ただいま。」
騒ぎは未だ収まる気配を見せない。収束させるように動いていないからだ。
毎日の報道や何かをアテムも目にはしているのだろう。
「お前、すごいことになってる…。」
「この程度は想定の範囲内だ。」
「いや、想像以上で、びっくりしてる。」
本当に驚いているのだろう。目を丸くして、信じられない、と言いたげな顔をしている。
信じられなくとも実際に騒動は起きており、勝手に推定候補者の名前が何人も挙げられる始末だった。これはアテムにとっては面白くないに違いない。
だが、それらの中に瀬人の目的の人物はいない。
次はどのように嫉妬をするだろうか。いっそ自分から表に出るだろうか、それは止めなければならない。
アテムの平穏のためである。
そのため、瀬人が口を割ることもない。世間を騒がす為と言うのなら、質問には意味深に笑みを浮かべるだけで充分事足りる。
そんな状況でも売約済みの証を身に着け、束縛されるのはアテムが願ったからに過ぎない。
瀬人はアテムの頬を包みながら甘く囁く。
「もしもまだ足りないと言うのなら、可愛い恋人がいると宣言してもいい。」
「ほんっ、とに。お前って!」
赤くなった顔を隠すように抱き着いてきた。顔を埋められていては口付けられないではないか。
頭を撫でて、やっと剥がれたアテムと目を合わせる。
そっと近付けばアテムは目を閉じた。
啄むように口付けながら、その甘さを味わう。いつもは顔を赤くしてスッと逃げるアテムだが、今日は中々離してもらえない。これは嫉妬からだ。
「アテム、俺にはお前だけだ。」
願いは叶える。
心の奥底から、しっかり繋がっている。
誰が誰のものなのか、よく分かっただろう。何も気にすることはない、とっくにお前のものだ。
アテム、これで満足か。
それでも証明が足りないのなら、次はどんな手を打ってやろうかと考えを巡らす。
実現不可能と思われる事、それどころか誰も思い付かない事すらやってきた、そんなものは瀬人の得意とする所だった。
やり方など、いくらでもあるのだから。
「わあ、現世と言うのはお祭りですね。」
「マハードそいつを摘み出せ。」
「これが、王のお望みになった光景。かの者の仕業か?」
「遊びに来たのなら貴様も一緒に出ていけ仕事の邪魔だ。」
セトは非常に機嫌が悪かった。
アテムの頼みでマナに繋いだが、その結果が現世の大騒ぎである。それはいい、別の世界のことなど知ったことではない。
苦情が来たのが問題なのだ。それには対処する必要があった。
マナと、監督者であるマハードを呼び出し、それについて厳しく叱った。だというのに叱られた側からマハードが『現世の様子』を望み、あまりにしつこく喧しいので、1週間の仕事を1割増しすることを条件に中継を繋いだ。
アテムに直接繋ぐと仕事をしなくなりそうなので本当に『現世の様子』を選んだ。そうすると連日の速報が一気に入ってきて。アレ一色だった。
苦情を入れておいて全く堪えている訳ではないあの態度は少々気に入らないが想像通りでもある。並大抵のことで堪えるような人間ではないのは分かっていた。
アテムがアレのどこが良いのか、その辺りはまだ考えたことがないので不明だ。
王を攫った男であり、初めて乗り込んで来た時の振る舞いはこの世界においてはあり得ないものであった。あり得ないものと知ってのその振る舞いだと言っていた。
マハードがアテムをよく慕っていたことを思えば、良い感情を抱いてはいないだろう、身柄を拘束しようと最後まで騒いでいた。あの日の騒動の沈静化が長引いた最たる要因はマハードである。
別にアレが嫌いな訳ではない。よく働き、思考は論理的で正確、アテムを託す相手として問題ない。特にそう、仕事だ、精力的に仕事を遂行する所は身内にほしいぐらいだった。冥界の者なら神官にでも役人にでもしている。
何せ瀬人は冥界に来てまで仕事をしていたのだ。
それは瀬人の感覚では単なるテレワーク、普通の感覚だったのだが、働き方改革なるものが浸透していない冥界である。セトにとってあの来訪者が正常なのか異常なのか唯一判断に迷う点であった。
マハードはまだまだ仕事に戻りそうにない。少しは見習え。いっそ殴りつけてやろうかと頭に浮かぶ。だが本当に殴ると仕事を放棄しかねないので堪えて腕を組んだ。
「なぜ王はこのような騒動をお望みに?なぜかの者はこんな余裕を?」
「知らぬ。」
「分からない内は私は仕事に戻れそうにないぞ。」
「脅しても無駄だ弟子に聞け仕事はしろ。」
しかし。
画面を眺める。
嘘一つ吐かず、民衆の望む姿を見せる手腕は見事なものだ。映像の中で悠然と笑う男はかの世界に君臨する崇拝の対象か。
マハードは理由を教えろとまだ騒いでいる。
大元はアテムの小さな不安だろう。陽気に見えて繊細で、自分の気持ちを後回しにするがために自信を見失うことぐらいは簡単に予測できる。実際、自分の気持ちすら見失って連絡してきた、世話が焼ける先代様だ。
そうして不安は嫉妬となり独占欲となり、それを満たすために行動したら、あまりにも影響力が大きいアレのせいでこのような事態に至った。と言ったところか。推測でしかないが外れてはいないだろう。人を見る目はあるし、場も見る目はある。
伊達に王などしていない。破壊された国。内も外も不安定な、あんな状況で即位したのだ。錫杖を使う暇すらなく見極め、戦い続けた。崩壊寸前の国土、民衆の不安、外交問題、何も敵が潜むのは外だけではなかった。記憶と呼ぶには軽すぎる日々だった。
全ての始まりであるあの痛み。それを鮮やかに蘇らせることは可能だ。
だがアテムの封印は解かれた。
確かにあの喪失を生々しく思い出すことは出来る。
思い出せるが、アテムが自由になった今にまでこんな感傷は不要である。あの出来事は、事実ではあるが過去である。そう分かっているセトが今更そんなものに引きずられることはなかった。
痛みは分かるのに感情に響かない矛盾。これはあの戦いの後、長く王であったことが自身の中にあった『人間』の部分を蝕んだのだとも理解はしていた。
そんな状況と比べれば、生まれから王族ではあったがアテムはまだ間に合う可能性がある。
セトは言語ならば習得済みであった。書き換わる現代の文字を目で追う。
そして画面から顔を上げた。
なるほど。
「セト!」
「煩い出ていけ自分で聞け…端末ならば貸してやる。ただし仕事はしろ。」
「待て、私はこの文字を読めな…」
「学べ。」
胸ぐらを掴んで睨みつけ、怯んだ隙にマハードを、続けてマナを追い出して、やっと仕事に着手する。
次回連絡の機会があれば、端末を2台追加で要求しようと決めたセトだった。
愛の静脈。結構なことではないか。
