女神の褒賞11

昼下がりの懺悔


瀬人の部屋にはバオバブの鉢植えがある。
ホワイトデーにアテムから贈られたものだ。黒壇とバオバブで迷い、スケールがでかいから、とバオバブを選んだらしい。
鉢植えサイズでスケールの大きなものにはなりはしないだろうが、大体どんな印象を持たれているのかは分かった。孤高、圧倒的な力強さ、その辺りだろう、悪くはない。
アテムが選んだ種はアダンソニア・グランディディエリ。珍しい種を選んだものだ。特性として、幹は直立し、枝は上向きに伸びる、そこは好感を持てる。
流石は生涯唯一の好敵手だけあって、よく分かっている、目の付け所がいい。
今年の夏はこのまま伸ばし、適度に高さが出たら樹形を整えればそれらしい形になるだろう。
いっそのこと温室を用意してもいい。自分のデスクの上にバオバブの盆栽など、あまりにもシュール過ぎる。それでもアテムが置けと言うのなら小さく仕立てて置くつもりではいた。
水やりは起床すぐ、歯を磨きながらグラスで。
それは贈られてからの日課で、瀬人自ら管理していた。

そしてアテムの部屋にも鉢植えが1つ置いてある。
ボスウェリア・サクラ。香水の原料、フランキンセンス『乳香』の木である。花言葉などは特にない。神聖な浄化、癒しと安らぎ、永遠の命。そう言った拠り所として古代エジプトの頃から重宝されてきたものだ。
瀬人がアテムに似合いのそれを選び、部屋に置いたのは、春先のこと。
渡したのに理由はなかった、似合うと思った、ただそれだけのことだ。
暖かくなったからか、いくつか小さな枝を伸ばし、葉をつけている。
出勤前、アテムの部屋に立ち寄った瀬人はそれに水と液肥をやっていた。
いつもはアテムが自分で管理をしている。
瀬人が世話をしていたのは、ゴールデンウィークも過ぎ、2度目の夏が始まろうというこの入口に、アテムが絶賛、気象病にやられていたからだ。
1年目は良かった。
殆どを室内で過ごし、あまり外を出歩いたりしなかったのでダメージが少なかったためだ。
現世、童実野町での生活にもすっかり慣れ、いつものようにウロウロ出歩いていたら、湿度と気温にやられてしまったらしい。
急な高温で、実際に何人か搬送されたらしい。確かにここ数日、サイレンの音は常より多かった。
「水、ありがとう。」
「気にすることはない。具合はどうだ?」
「何というか、ずっと、吐きそうだ…。」
俺のことはいい、先に行ってくれ。などと言っているが何の話だ。本当に先に行ったら拗ねるくせに。
「それはいかんな。」
「だが、水分を摂れるんだから大丈夫なんだよな?」
「大体はそのように言われている。俺は今日は帰れんが、何かあってもなくても好きに連絡して来い。」
「なんでお前は平気なんだ。だいたい、エジプトより暑くないのにこんな、おかしいぜ。」
「主に気候が異なることが要因だろうが、鍛え方が違う。」
「くそぅ。」
悔しそうにベッドに沈むアテムの額に口付けると、目を閉じて身を強張らせた。額や頬になら眠る前などに時々触れるのだが、未だ慣れないようだ。瀬人にとってはやはりこれはいつも通り、今日もアテムが可愛い、に行き着いている。
シーツに包まって、もぞもぞと楽な体勢を探しているらしいのをじっと眺める。
水分は筋肉に含まれる。男女差、体格差の観点からもアテムが気候の変化について行けずに倒れたのも無理もない話だ。
仮に男のままだったとしてもあの小さな体では急な日本の気候の変化になど耐えられまい。特に湿度が厄介だ。
これから来る夏を思えば早めに暑熱順化をするのも良いかもしれないが、それは医師から説明を受けてアテムがタイミングを決めればいい。
何にせよ、回復してからの話である。
「寝ていろ。大人しくしていないと心配になる。」
「お前なんかずっと心配してろ。」
少し赤くなりながらアテムがむくれる。
「ああ、だからゆっくり休め。」
拗ねたアテムは可愛らしいが、それも健康であってこそ。
本当は具合の悪い恋人を置いて行きたくなどない。
瀬人はアテムの頭を撫で、落ち着いたのを確認してから仕事へ向かった。





そんなこともあり、アテムは外へ出るとこを警戒していた。
「日本の夏は、油断ならない。」
確かに日本の夏は厳しい。だがまだ梅雨入りもしていない。夏本番になったらもっと酷いのだ。
「紫外線で肌も荒れちゃうもんね。室内にいても日焼けするんだからたまったものじゃないわ。それより、海馬くんと上手く行ってるみたいじゃない。」
「なぜそれを!」
「ヒ・ミ・ツ。推しと推しが幸せで尊い。」
いつの間にか、杏子はすっかりアテムと海馬瀬人を推していた。なお、火力は強めである。モクバから連絡を貰うと、1人でパーティを敢行した程だ。本当はアルコールも入れたかった。アメリカでは21歳からなのでそれは自重したが。
「推し?杏子?」
「なんでもない、良かったわね!」
「ああ。ただ、そのことで聞きたいことがあるんだけ、」
「なんでも聞いて頂戴。」
食い気味の杏子に思わずアテムは半身を引いた。セトとは違った意味で怖い。
「な、何か怖いぜ?」
「気のせいよ。何でも話して頂戴。」
勿論、推しへの協力は惜しまない。
「実は……。」
アテムからの相談に、思わず杏子は口元を押さえた。
推しと推しの麗しいラブストーリーだ。ある種正常な反応である。
目下の悩みは自分に魅力がないのでは、という不安。遊戯にしたものと同じだ。
だがそこは女同士でもあるし、恋バナのレベルは杏子の方がずっと高く、その辺りは男など到底足元にも及ばない。
「それは、切ないわね。でも、どうしてそんなことを思ったの?」
「前に杏子が言ってた漫画を見たんだ。漫画では想いが伝わるとその、色々あるだろ?」
少し頬を染め、目線は落ち着かず、そんなアテムの様子を杏子は微笑ましい気持ちで眺めていた。
「それがないのね。ふふ、大事にされてるわね。」
「大事にする?」
「大切にし過ぎて手を出せないパターンよ。」
「そんなことが!?」
アテムは衝撃を受けた。
確かに瀬人本人に聞いてみた時に、返事は魅力的過ぎる、だった。
瀬人は嘘をつかない。だから不思議だったのだ。
「で、あなたはしたいの?イ・ロ・イ・ロを。」
杏子がアテムを肘でつつく。
「だっ、だめだ。出来ない。」
瀬人と、色々を。あの端正な顔が目の前に、そして…。想像しただけで顔が熱くなる。
「待ってくれてるのよ。出来ると思える時を。」
女の勘は、当たらずとも遠からず、だった。瀬人は確かにアテムの準備が整うタイミングを計ってはいた。
「杏子。俺はあいつに見合う女になるぜ。」
「それはもうなってるわ。強いていうならあなたに必要なのは心の準備ね。」
「確かに。後はもう度胸だけかもしれない。」
「あと、そうね、何があっても海馬くんが自分のものだ、っていう強い心とか。そんな彼が選んだ自分だ、っていう自信とか。そういうのがあると、心強いかもしれないわね。」
あのホワイトデーの日に同じことを言われたが、自信については、まだ足りているとは思えない。
どうしたらそんなに強くなれるのかアテムには未だ分からなかった。
アテムの彼氏こと海馬瀬人は認知度は高く社会的影響力もある。海馬コーポレーションの製品だけでなく、身に着けたものすら即完売になるような男だ。
たまに、何故選ばれたのか分からなくなる時がある。触れ合えば、結びつきがもっと強固になれば、自信も持てるのだろうか。
例えば瀬人が自分のものである証があれば。
「もう1つ、聞きたいことがあるんだが。」
「もちろん!次は何かしら。」
「指輪を貰うことって、特別なのか?もし、貰ったら嬉しいものか?」
杏子はチラリとアテムの左手を確認する。何も着けていない。
多分、そう言う話が出たのだろう、と推測した。
「お揃いの指輪なら、嬉しいかな。お守りみたいじゃない?」
「お守り?」
「ええ。それが大切な人から贈られたものなら、その人が守ってくれてるような気分になるでしょ?」
「なるほど。でも着けなくてもいいって言ってたぜ。」
着けなくてもいい指輪、すでに贈られている。ピンと来た。
女の勘とはこのような場面で威力を発揮するものである。
「やるじゃない!もうプロポーズされたのね!」
「なんでそんな何でもかんでも分かるんだ!」
アテムの体感としてはもうマインドスキャン並みだった。
「分かるわよ。あなたが貰ったのは婚約指輪ね。婚約指輪って煌びやかで、ここぞという時に着ける場合が多いから。それで着けなくてもいいって言ったんじゃないかしら。普段はシンプルな結婚指輪だけを着けてるってパターンが多いわね。」
「そっちはまだどれにするか決めてないって。」
「…ほしいのね。」
「そうかもしれない。」
これくらいの望みなど、手に入らないものなどない彼ならばすぐに叶えてくれるだろう。
逆に、アテムが欲しがらなくとも、虫除けだ、とか言って着けさせようとするものかと。あの人は、もっと独占欲の強い人だと思っていた。
いっそのこと、婚約指輪をアテムが受け取った時点で婚約会見でも開きそうなイメージだった。
杏子には、失踪事件の時の、アテムを探し、パズルを掲げていた瀬人の目が強く印象に残っていた。
観客に対しては、元々持つ強い眼差しがいつも通りの海馬瀬人のように見せていただろう。だが、何かしらの思惑や意思を持ったような、そのための冷たい計算ずくのような色をしていた。
アテムが帰ってきてからこちら見かけるのは、相変わらず眼差しは強いが穏やかな色をしている。
「じゃあさ、おねだりしてみたら?」
「それもまだ、心の準備が。」
アテムはアテムで、赤くなってとても可愛い。この人も、こんなにも可愛い人だったなんて。
殆ど戦っている凛々しい姿しか見せなかったからかなりギャップがあった。
これはきっと恋が変えたのだろう。誰かを想う気持ちはとても強い。
「恋って、人を変えるのね。」
「俺は変わったか?」
「ええ、素敵よ。」
どう素敵なのかは分からなかった。
アテムは自分が変わりつつあることに戸惑いはあったが、同時に嬉しさも感じていた。恋情が変えたというのなら、それは想いの証明だ。
変わったといえば瀬人も変わった。以前、遊戯として存在していた時と、冥界でアテムとして再会した時とでは何か違う気がした。
「あいつも、変わった。」
「あなたがいなくなって、彼、凄かったわよ。あなたを探して、どんな手も使ったんだと思う。」
強烈な意思。今にして思えば、あの失踪事件の戦いの後にはもうアテムの居る世界へ行くことを決めていたのかもしれない。それ以外に考えられないあの目の色。杏子ですらそう思う程の。
「だが、探される方も大へ…ん…。」

いなくなって。

唐突に、腑に落ちた。
瀬人だけではない。セトも変わった。元からズケズケと物を言うタイプだったが、冥界で再会した時には更に遠慮がなくなっていた。
そういうことか。アテムは小さく息を吐いた。
自分にとっては別離だが、彼らにとっては喪失だ。
急に、何も告げずに姿を消してしまったのだ。何ということをしてしまったのだろう。
「俺は、酷いやつだ。」
「酷くなんかないわ。あなたはいつも皆を救ってくれたじゃない。これからも、きっとそうだから。つまりそれは、誰にも負けない魅力ね。」
杏子は優しい。
居なくならないでと泣いて別れたのに、急に帰ってきたと言っても怒るどころか喜んでくれた。
こういう所に遊戯は惚れたのだろうか。それは分からない。
分からないが、瀬人に会いたかった。



瀬人とは、それから2日が経った午後。やっと顔を合わせることが出来た。
何か特別に言うことはないが、帰ってきたばかりの瀬人を訪ねて部屋へ行く。
早く、顔が見たかった。そして、側にいることを伝えたかった。もう、居なくならない、だから探さなくていいのだと。

「おかえり。」
「ただいま。どうかしたのか?」
「いや、どうもしてないぜ。」
「どうもしていないことはなかろう。」
ジャケットを脱いで、ネクタイを解き、シャツのボタンを2つほど開ける。
そのまま腕を伸ばしてアテムを掴まえれば、抵抗なく腕の中に収まる。
そっと伸ばされた手が背中に回り、距離がなくなる。
「会えて嬉しいんだ。」
「俺も同じだ。」
会えて嬉しい。
普段の出張があったとしても、アテムはこんな気の利いたことを言わない。
つまり、会えて嬉しい、は言葉通りの意味で、会えることの不確実性に恐怖を覚えたということになる。
何かしらの心境の変化でもあったようだ。立ち話には向かないだろう。
瀬人は手近にあったソファに腰掛けて、膝の上に乗せて腕を回した。温かい体は、アテムが今ここに居るということを教えてくれる。
何か話し始めるのかと思ったが、アテムは何も言わなかった。泣き出しそうなほどの顔をしながら。だからこそ、なのだろうが。
甘く尋ねるか、当たりをつけるか、それとも。聞き出す方法はいくらでも考えついたが、瀬人はゆっくりと待つことを選んだ。
これはアテムの問題だ、手助けはいくらでもするが導くのは違う。
かなりの間をおいて、観念したようにアテムが口を開いた。
独り言のように、それはまるで懺悔だった。
「俺は、酷いことをしたんだ。」
アテムは元より正義感の強い奴だった筈だ。酷いことをするなど、到底考えられない。
「お前が?一体何をしたと言うんだ?」
「…いなくなった。」
瀬人は思わず腕に力を入れかけて、堪えた。ここで動揺など見せてはいけなかった。アテムの話を、受け止めなければならない。
あの喪失は2度と繰り返されることはないのだと言い聞かせて、一瞬跳ねた鼓動を抑えつけた。
目を離した僅か1ヶ月で姿をくらませた、生涯唯一の好敵手だった男。再戦を、見果てぬ先までを、誓った筈の。
思い出して、痛みがない訳ではない。もう繰り返されないと分かっていても、まだ完全には消えていない、まるで、まだ血を流す傷跡のようなものだ。
こうして腕の中にある体温は、決して楽な道ではなかった。過去の象徴とも言える古代の遺跡から、その真逆である最先端に当たるであろう宇宙すら支配下に置いて、それでも足りずに他世界、別次元を求めての研究や解析をしてやっと辿り着いた。
もちろん辿り着いたことは始まりに過ぎず、アテムが手を伸ばすその先に自分が居るように側に在り、現世を望むその瞬間を待った。いつでもその手を取れるように、その手の先であるように。
投じるエネルギーやコストなどを苦に思ったことはない。経営者として、だけではなく技術者、研究者としても第一線に居た為、常人ではありえない量のタスクを処理した。
だが唯一を見つけ手に入れるということが原動力となっていたのだ、そんなものはいくらでも沸いて出た。
確かに一度はこの手をすり抜け見失った。それでも今こうして結果は出ている。事実、腕の中は温かい。
アテムは、ここに居る。それが傷を癒してくれる。
「だが、俺は見つけたぞ。」
瀬人の背に回してした腕が離れていき、アテムは胸元にピタリと顔を寄せた。鼓動を確認しているのだろう、耳を当てている。手は、縋るようにシャツを掴んでいた。
「それでも、だ。遺される者の平穏を願いこそすれ、悲しみなんて考えなかった。3000年前だって、現世でだってそうだった。」
3000年前。命を犠牲に国を守った。
邪神だの封印だのと、到底理解のできない話ではあったが、冥界に足を運んでいた時に粗方の事情は聞いていたので知っている。
別離を選ばねばならなかった痛みも、それが引き起こした喪失を思えばそれがいかほどのものか分からない筈がない。秤にかければ釣り合ってしまうことだろう。
傷が癒える時はやがて来るだろう。だが、今はまだ鮮明に覚えている。それはアテムも同じ筈だ。だから、かけられる言葉などなかった。腕に抱いて慰めることしか出来ないのだ、今はまだ。
1年前に、手を取って連れ出したばかり。瀬人にとってのそれは、記憶どころか感傷にすらなっていないリアル、ともすれば引きずられかねない鋭利な現実。
いつか時間が過ぎ傷が癒えれば、よく闘った、と健闘を称えられる日も来るのかもしれないが、それはまだお互いに出来ない。
本当なら受け止めて癒したい。だが、瀬人にはアテムの言葉をそのまま受け入れることしか出来なかった。
「そうか。」
「…すまない。こんな話をするつもりじゃなかったんだ。」
アテムがここへ来たのは、顔を見て、自分はここに居るから探さなくても大丈夫、安心してほしい。そういったことを瀬人に感じてほしかったからだ。
アテムが膝の上から降りようと身動ぎするので、今度は力を込めて抱きしめた。今この瞬間は、逃してはいけない。1人にしてはいけない、そう思った。
「ならば居なくなるな。ここに居ろ。」
言い聞かせるように、ゆっくり告げる。懇願したいくらいだが、そんな様子は見せられない。ますます不安を煽るだけだ。
一方では、この言葉はまるで追い打ちにしかならないことも、もう決壊してしまうだろうことも分かっていた。
アテムの大きな紅い目からは、とうとう涙が零れ落ちた。
いつも笑っていろなどと綺麗事も思わないが、決して泣かせたいわけではない。
泣くことは感情の奔流だ。これがアテムにとって必要なことなのだとしても、出来れば泣かせたりなどしたいものではない。
瀬人は手を伸ばし、ジャケットからハンカチを取り出してアテムの目元に当ててやった。
涙の止め方など知らぬのだろう。困惑して、困ったようにボロボロと涙を流す。
これが神だと?笑わせる。
「瀬人。俺を、ここに、お前の隣に繋ぎ止めてくれないか。」
「お前はもう自由だ。自分の意思で、好きなだけ、隣に居られる。だからここに居てくれ。」
「ああっ…。俺はもう、居なく…ならないから…。」
涙を零しながら、まだ、別離と喪失に囚われて苦しんでいる。2度目の生に懺悔など要らない、謳歌すべき生、ただ幸せであれば良いのだ。
こいつは、アテムは神の名などではない。ただ1人の人間の名前だ。
3000年の柵には決着を付けた。休暇という名目はあるが縛る使命もない。アテムは、現世に存在しているただ1つの命を持った人間なのだ。
そして、瀬人にとっての唯一の相手である。
「安心しろ。俺がお前を離さない、居なくなる、などは不可能だ。怖がることなど何もない。」
少しきつめに抱きしめれば、アテムは身を委ね、小さく頷いた。
「…ここに居ると、心が落ち着くんだ。」
それは安全地帯だ。
とうとう、アテムはそれを見つけた。それがここだと言うのだ、愛おしいという感情がとめどなく湧き出すようだった。いつかは我儘でも何でも言ってくればいい。
「知らぬだろうが、こうして側に居るだけで俺の感情は凪いでいく。」
「お前も、そうなのか?」
「そうだ。」
「…そうか。なら、俺の居場所はここだ…。」
アテムは強烈な癒し。あの忌々しい誕生日すら、アテムの前には敵わなかった。

やっと止まり始めた涙を拭って、見つめてくる目に宿るのは信頼、バトルシティで何度も射抜かれた視線だ。
そしてあの時にはなかった、その奥に揺らぐ慕情、欲求、それに付随する意思。
「瀬人。俺はここに居る。」
意志、覚悟、そういったものを思わせる声だった。
待っている。もう、いいのだと。ここが、良いのだと。
瀬人の方から距離を詰めれば、それはそれでアテムは受け入れていたことだろう。
今まで触れなかったのは、アテムからの距離を詰めたいという欲求を探していたに過ぎない。それも今、見つけた。
もっとお前と触れ合いたい、と目が語る。アテム、今だったのだな。
「そうだな。アテム。」
頬に手を添えて、顔を近づける。
ゆっくりと、目が伏せられる。

夏の昼下がり。
なんてことのない平穏な世界で、アテムはファーストキスを交わした。
心配していた緊張も、恥ずかしさもなかった。
今、ここに居ることを確かめるように何度も交わしたそれは、心地よい安らぎを齎すものだった。
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