03.如月恵~Megumi~


毒に晒され、一時視力を失いはしたが、幸いBJに後遺症は残らなかった。どこにも異常は見られない。
こういう物騒な場合に於いてキリコは信用出来ないがある程度信頼の出来る医者だ、と何となくBJは認識した。
船を降り、飛行機を乗り継ぎ、大きな空港までの長時間。こんなに長い時間をこのペアで穏やかに過ごせているなんて今後ありえないだろうとBJは笑った。
「ここに至るまでが異常だったんだ。いつも通りだよ。俺はいつもこのくらい穏やかだぜ。」
「それだと私が一方的に騒ぎ立てているとでも言うのか?そんな馬鹿なことがあるか。」
あるんだよ、と思いながらキリコが携帯電話の電源を入れると、4秒もしない間に着信があった。この感じはおなじみの物だ。
「お前さん、本当はその女性から逃げて来ただけだったんじゃないのか。」
「マルグリット?まあそれも否定はしないよ。」
少し作業がしたかったのだがこれでは到底させてもらえなさそうだ。ああ、と大きく溜め息を吐き、深く息を吸い込み、キリコは電話に出た。
「うるせえな。そんなに死にたきゃ勝手にてめえで逝け。大体こっちの都合も考えずじゃんじゃんかけてきやがって。」
『そっちが着信拒否なんてするから何度もかける破目になるんじゃないか。留守番電話にメッセージも入れられない。』
「メッセージを俺が聴くとでも思ってんのか。今度偶然会うまで会う気はないぞ、俺は。例え同じ国に居ようと隣町に居ようと同じ町に居ようともだ。」
『せめて同じ町に居る時くらいいいだろう。聴けばこないだも向かいのホテルに泊まってたそうじゃないか。もう、今度から人相書きでも持ち歩こうかな。』
「マルグリット、それは流石にジョークだよな?」
『さあね。暫くはイギリスなんだ、連絡待ってる。』
切れた電話に、キリコはイギリスには行くまいと決心した。
それにしても、凶悪な顔をして電話に応対していたのに、切った直後に優しい表情をするのはBJには不可解だった。
元気過ぎて困るが、でもこういうのはマシな方だよ。なんて笑うものだから、より分からなくなった。
結局、空港で別れる予定が日本へ着くまでBJと道中を同じくする事になった。日本へ来るつもりではなかったのだが、イギリスに居るのだと言われてしまえばより遠い所へ逃げたくもなる。
「キリコ、どうして彼女はマシな患者なんだ?」
「色々あるんだよ。」
説明するのも嫌な理由だ。言ってしまえば返事はきっと、安楽死なんてやっているからだとか、すぐさま安楽死をやめろだとか。簡単にその様子が思い浮かぶ。
例えば、とある酷い依頼人は死にたいが為にキリコを呼び、依頼を断るとその目の前で自害した。1人では死ねない、だけどそのプロが居るのなら平気なのだろう。
この手の、殺してくれと、いう依頼の中には一家心中や無理心中のパターンもあった。キリコには未だその気持ちには寄り添えないと思っていたし、寄り添いたくもなかった。寧ろ会いたくもなかった。
そもそも死にたい患者を楽にしようという気はあるが、彼らの気持ちに理解は示せても同調したり共感する事がないキリコにとって、心底寄り添う事などありえない。
そういった困った自称患者達に比べれば、マルグリットはとても良い患者だった。寄り添う事はしないが。
ともかく、その程度の思い入れなら安楽死をやめろと言ってくるのは避けられない。別にそれだけを根拠に否定する訳ではないが、BJが大人しいに越したことはないのだ。
適当に流して、今度こそBJと別れた。




事の発端は2年程前に遡る。
依頼はない、時間はある。特に何か急ぐこともない。ふと、キリコは思い立った。旅に出よう。船に乗って海に出て、荷物にでもなった気になって、と軽い気持ちで乗り込んだ船だった。世界中あちこち周り、数ヶ月かけて帰ってくる船だ。仕事が入ったり降りたくなれば着いた港で降りればいい。
妹にも誰にも告げず、1人、船に乗り込んだ。勿論知人など乗り合わせていない筈だった。
それなのに部屋には来客があった。呼ばれるままに出てみれば初対面の相手だ。にもかかわらずガッカリされれば嫌でも分かる。
真っ黒な医者が居ると聞いた患者や医者、その他諸々に、BJと勘違いされることは今までにも数回あった。面倒な事にそういう人違いに限ってしつこいので、たまに治せそうな患者は適当な値段をふっかけて診察した事はある。勿論適当な金額であって本家の法外な治療費とは違い相手が相当な奴でない限り適正だ。関わりたくない相手なら国家の軍事予算程度の金額を提示するか脅すかして追い返すのが好ましい。人違いだと分かってもらえないのだから致し方ない。
今回の人違いは、BJを知った人物だった。過去の患者のようだ。
「すまないね、がっかりさせたみたいで。」
「すみません、そんなつもりじゃなくて。貴方にも気分を悪くさせてしまった。」
こういったことはよくある事だから気にしなくていいと言ってやれば、ホッとしたようにはにかんだ。
「BJ先生の事を知っているのですね。」
「それなりにね。君も医者なら風の噂か何かで知っていただろう。奴は案外有名だからな、色んな意味で。」
「…どうして医者だって…。」
「さあ、どうしてだと思う?」
ネームプレートも制服も、船医だからって他のクルーと変わらない。
「ま、そんなことはいいじゃないか。メグミさん。」
「…ケイ、と読むんだ。」
「ふうん。漢字ってのは難しいな。俺はキリコだ。」
「キリコ。あのドクター・キリコですか!?」
「なんだい、急に怖い顔して。」
BJじゃあるまいし、いきなり初対面で安楽死をやめろだなんだと怒鳴ることもないだろう。それにこうやって各地を周っているのなら様々な考え方に接する。いくらBJに命を救われたとして、あそこまでヒステリックに感化されているとも考えにくい。
そこまで考えて、キリコにとっては次に言われそうな事を想像するのは易かった。
「お願いだ、殺してくれ。」
「君はBJに生かされたんだろう。見た所元気だ。仮に再発していたらクレームをつければ生きてる限り奴なら補償は効くだろう。何故そんな悲観的になる?」
「僕はある秘密を抱えている。」
「ま、色々あるだろうけど。ならとりあえず、その秘密ってのを聞かせてもらおうか。BJの太鼓判があって生きている君がそこまで殺されたくなる理由を話してくれるかい、Ms.ケイ。」
仄かに微笑みを浮かべて、全てを見透かしたような眼差しを恵に向ける。この眼差しの温度、雰囲気を支配し、相手の情動を操作するキリコにとっては簡単だ。楽に、幸せに患者を逝かせてやる為には、死にたくなる程になっている患者の想いへの理解と配慮は欠かせない。
「Ms.ケイを、殺してほしい。」
少しの沈黙の後、恵がポツリと漏らした。
「お察しの通り、いや、今もそう見られているのかもしれない。Ms.であり、メグミであったことも、きっと貴方には分かってしまったのでしょう。」
キリコは無言で先を促す。こういった告白はまず言いたいだけ言わせてやった方が話は早い。途中で話を切って頭ごなしに否定するのはBJぐらいで充分だ。だいたいBJはなんでもかんでも要らない部分は切ってしまって都合よく繋いでおけばいいとでも思っている節があるような気がせんでもない。
先日も患者が被って初めはそれこそこの世の終わりだ天変地異だとばかりに大騒ぎして、キリコのみならず依頼人から病院の医師まで威嚇した後に執刀した。珍しい荒れように、キリコの方からそんなに騒がずともいつものようにオペが失敗したら仕事をする、という条件で待つと言ったのに関わらずだ。
しかしオペが成功してひと眠りしたらスッキリしたのか途端に機嫌がよくなって何故か酒に付き合わされた。BJはアルコールに弱い方ではない。だが、日本人にしては弱い方ではないのであり、水の代わりにワインやなんだと飲んでいる人種ではないので、好き放題飲ませて喋らせると勝手に完結して動かなくなってしまい、結局キリコが面倒を診る破目になった。
とにかく話させる事は大事だ。
「僕はMs.じゃない。Mr.だ。それなのに、そうではない。」
一度言葉を切り、頭を振りながら躊躇うようにああ、と大きく溜め息をつく。
「黒い服の医師が乗り込んでいると聞いて居ても経ってもいられなかった。実際にはドクター・キリコ、貴方だったけれど。もしかするとBJ先生に会えるのかと思った。まるで女のようでしょう。女のような部分を殺してほしいんだ。」
「いいんじゃないのか、別に。昔好いた男なら、そんなもんだろ。生っチョロい想いじゃなかったってことだろ?」
告白が終われば今度は間をおかずに返した。否定でも肯定でもない。ただの受容。多分、慰めは必要ない。だからといってバッサリ切って終われるような話でもなさそうだ。
「いや、女々しくて、嫌になる。女じゃない、だけど男にもなりきれない。時々顔を出すんだ。」
昔の恋人か何かは分からないが、好きだったということは否定しなかった。
「そんなもんだろ。男だの女だの、どっちだって何だっていいじゃないか。」
そういうのは恵の言う通り情熱的で文学的で要するにそういうもんだろう。
慰めるとか、言い包めるつもりなどなく、それはキリコの本心だった。男でも女でも、尊敬出来る奴はいるし、腐った奴もいる。
「なに、俺の考え方を強要するつもりはない。若さゆえの葛藤、自分とは何者なのか、あと20年ばかしすれば若き日の良い思い出にでもなると思うよ。」
自分自身の変化と、過去の想いとの決別。今でこそキリコはそういったものは簡単に受け入れられるが昔もそうだったかというとそうでもなかったような、そうであったような記憶にない。仕方ないので昔周りに居た連中を思えば、数日で復活する者から数年引き摺る者まで様々だ。
「貴方も?」
「ははっ、俺だってそう切に願うよ。」
「ドクター・キリコ?」
「なんでもない。葛藤も何もかもひっくるめてアンタ、いい男の素質あるぜ。」
適度にいい音が鳴る程度、しかし痛すぎない程度に恵の肩を叩いて思い切り悪戯な笑みを浮かべた。
「いい女の素質もある。どうだい、いい奴ついでにおれのイイヒトにでもなってみるかい?」
今までの年長者の頼れそうな雰囲気が180℃ひっくり返ったように、軽くからかいをかける。
恵の緊張も、肩が軽くなったように目に見えて消えた。
「いい男はそんな軽くないもんだ。」
「そうかな?俺なんて引く手数多のイイ男だぜ?こうして患者もやってきた。」
「いや、少なくとも僕はそう思う。それに確かに貴方はイイ男かもしれないけれど、イイ男は自分では言わないものだと思うよ。」
「ははっ、流石かっこいいね。どうだい、いい男同士一杯やらないか?今日はもう一段落したんだろう。」
「いいね。」
そうと決まれば、と早速キリコがルームサービスを頼んだ。恵もスカーフを緩め、ボタンを1つ外し、ラフな格好になる。
「仕事とBJの話しかないってのは、イイ男がするには色気がなくていけないな。」
「気にしないで。仕事なら世界中の話。BJ先生の話なら、悪口から惚気まで取り揃えてあるから退屈させないよ。」
「おっとそう来たか。やっぱお前さん、イイ男の才能あるよ。」
女にしとくのも勿体ないが男にしとくのも勿体ない。如月恵は、大海原、船の上で船医として過酷な世界に揉まれて、芯のあるイイ奴になるだろう。その姿をいつか見ることがあるのかないのかは分からないが、確かに恵には変わりゆく未来が、これからの若く明るい青春が見えたような気がした。
良い話し相手が出来た。それもBJの昔の恋人だ。話を聴けば、どれだけ辛かったことだろう、何て非情な、どこが恋人だ、と誰もがBJを非難して恵を庇いたくなるような話だった。
誰にも打ち明けられなかったのだろう。複雑な色んな感情の入り混じった話だ。誰にも話せない、或いは墓まで持って行っても不思議はない話を、恵は当事者として語った。
恵は、ここを逃せば、他に話せる相手は居ないと思ったのだ。話したい、スッキリしたい、話さなくても大丈夫ではあるが、話せるのなら話して、少しでも軽くなりたかった。結局その日は遅くまで話し込んでそのままキリコの部屋で酔いつぶれてしまった。

雨が降っていた。嵐だった訳ではないが、ちょっとした雨や風で崩れる海のコンディションはとてもじゃないが良いとは言えない。晴れていた昨日は緑色にも水色にも見える澄んでいた海はグレーに濁っていた。
「残念ですね。この天気では外を眺めても面白くないでしょう。」
「違いない。ま、そろそろ昨日のグリーンも見飽きて来た頃だから調度いいってことにしとくよ。」
キリコが悪戯っぽく笑えばつられて恵が吹き出した。
「ふふ、随分とポジティブなドクターですね。」
「だろ?イイ男はまずそこが違う。天気1つの他愛ない話すら常に前向きだ。」
恵が左側に居たので、顔ごと向けて再度、ニッと笑う。そのキリコの滅茶苦茶な理論がどうにも恵には面白いらしく、一しきり笑い続けた。
「なんだ、失礼な人だな。」
小さくため息を吐いたが、しかしキリコは別段気分を害したのではない。一緒に笑うつもりが、あまりにオーバーな恵のリアクションにうっかり持って行かれただけだ。
雨が降っているが異常はない。クルーの体調も良好。乗客の中には幾らか体調不良を訴える者もいたが深刻な病気や怪我もなく、万事が上手く進んでいたはずだった。
しかし、どれだけ順調に進んでいたとしても、それが崩れさる瞬間というものもある。
「メグ、あんたどのくらい泳げる?」
「ある程度は。だけど、こんな荒れた海でなければの話だけど。ドクターは?」
「泳げるよ、俺の泳ぎに人魚もびっくりするかもしれないな。まあ、スーツと機材があって、荒れていなければの話だけれど。」
泳げる泳げないの話でもう一笑いさせられ、疲れたが満足した様子で恵はキリコと別れた。
残ったキリコは何をするでもなく足音が遠ざかっていくのを聞き、煙草に火をつけた。別に喫煙が禁止されている訳でもなし、恵と話す方が優先だっただけだ。もう一本、次は新しい箱を開けなればと荷物を漁る。
目当ての物と一緒に出てきたのは甘い菓子。いくらキリコに好き嫌いがないからといって、流石にそれはいただけないと思って入れっぱなしになっていた。一昨日寄った港で貰ったものだ。恵にでもプレゼントしてやろう、と勝手に決め、キリコは部屋を出た。
船内を進むと、何やら騒がしい。怪我人でも出たのかと、キリコの足もそちらへ向かう。だが、人だかりと喧騒、居たのは怪我人ではなく死人だった。
脳天一発、即死か。残念だが出番はない。周りを見れば混乱する乗客と彼らを落ち着かせようと奔走する乗員達の姿があった。すぐさまその中に恵も現れ、遺体の状況を確認している。
「おい、これは一体何事だ。」
キリコは、手近に居た乗員を捕まえて訊ねた。詳細など期待してはいない。犯人が今どうなっているのかだけは知っておかねばと思っただけだ。しかし誰もそのことを知らなかった。
「銃も持ってる、自殺だろう?」
「じゃあ、もう安心?」
蒼褪めた顔で願いにも似た震える声。乗員たちがひそひそと話しているのが聞こえたが、銃は落ちているのであって持っているのではない。うつ伏せに倒れて、一度体を起こして仰向けの状態。残念だがこれは他殺で、どこも安心ではない。そう待たずとも恵に会う事になるだろうから、後で聞く事にして、キリコは一旦部屋へ戻った。

「すみません。ドクターだとお聞きしたのですが、お力を貸して戴きたく。」
キリコの思惑通り、部屋で寛いでいると外から声が掛かった。あんな事件があれば、不調を訴える者が出たってそれは至極当然のことだ。この船は大きいが船医は恵1人、とすれば対処できなくなれば救援を頼まれもするだろう。
道々、重篤な患者が居ないかある程度の情報を仕入れて医務室へ向かう。ちょっと前はがらんとしていた廊下には腹が痛いだの頭が痛いだのと話す声が溢れていた。
その1つ手前で道を折れ、廊下を進む。こちらでは症状の重い患者が収容されているらしい。
「容体は?」
「いいとは言えない。ショックからか度々発作を起こしている。乗り込んで来た時は安定していたんだ。」
ドアを開ける。並んだベッドに並んだ患者。船旅で療養するつもりがとんだ災難に巻き込まれたものだ。不憫な、と思いながらキリコは順番に診て回った。
幸い急を要する者はいない。それを伝えると、船員はホッとした様子で、安心したら腹が、とふらふら座り込んだ。
「大丈夫か?」
「いや、もう、腹が減ってたの思い出して。」
痛いのかと思えば違ったようだ。それに苦笑して、思い出したようにキリコはポケットを漁った。
「しょうがない奴だな。これでも食っとけ。」
「これは、パン?クッキー?」
「ポップタルト。知らないか?朝食からおやつまで幅広く食卓に登場する庶民の味さ。味はキツイがカロリーだけは保障するぜ。」
「ドクター。」
色んな感情がごったになって味へのリアクションはいまいち分からないが、しっかり一枚完食して報告に向かった。後ろ姿を見送り、ドアを閉める。1人の患者が、苦しそうな呼吸をし始めていた。

「ドクター・キサラギ、どうだ。今の所あっちは大丈夫だ。」
「キリコ先生。ありがとう、助かった。」
やっとのことで人気のなくなった医務室。恵もカルテへの記入を終えたら様子を見に行こうと思っていた所だった。
キリコから渡された患者達のカルテをざっと眺める。これなら大丈夫そうだと1人分ずつ捲っていき、最後の一枚に目を通したまま固まった。
「メグ。ヤバくなったらお前は隠れてな。狙われがちなのはキャプテンとかドクターだ。」
カルテには、紛れこんだ殺し屋で、薬を使って重病人を装っている、処置は発作を起こしたので麻酔で眠らせてあるとあった。体調が悪かったのは薬物の摂取と演技。だが、誰にも言うなと書いてあるのに不審に思い、恵はキリコを見上げた。
狙われるのならキャプテンに気をつけろと教えておくべきだ。それに犯人が見つかったのなら捕縛しなければ。
「一体どういうことなんだ?」
「VIPな患者、居るだろう。」
「もしかして奥の部屋のアルフレッドおじいさん?確かゆっくり療養する為に乗船していて、持病の薬は飲んでいるけどいつも体調は安定している。医務室に来たこともないし、乗船してから体調を崩したと聞いたこともない。患者というよりは乗客と言った方がずっとしっくりくるくらいの。」
「と、言う事は。」
キリコの言わんとすることが分かった。恵の目が戸惑い、揺れる。
クルーの間でも、病を患っているからと余り近付かないようにと気を使っている。しかし何の病気なのかは付き添いの医師がいるからと恵にも知らされる事はなかった。実際には病気でも何でもないのだとしたらどうだろうか。
その医師がグルで、薬や乗船の手配をしたのだろうか。
「そこでだ。昨晩あのじいさんとサウナで会った時に薬を拝借した訳だが、薬は薬でも、どうにもこれは麻薬のようだ。」
「何だって。」
キリコによると極めて友好的かつ穏便に、本人から借りて来たような口ぶりだったのだが、恵にはそうは思えなかった。確かに件の老人は昨日サウナに行った。部屋に戻る姿を見た。欠伸をしながら眠い目を擦り、ふらふらと歩く後ろ姿だ。
口調は穏やかなのに、肩を震わせて笑っているキリコの姿からは怪しさしかなかった。
「あの人に何かしたのか?」
「さあね。だが隠し持ってた薬を調べたら、今ベッドで寝てる野郎も同じ人間が作った薬で重病人みたいになってる。ここで今までの情報を集めると、とりあえずこの船には危険しかない。」
「次の港に着くのは明後日。それまで危険人物を野放しにする気か。」
「下手に動かない方がいい。やられそうになるまで気付かないくらいでいい。」
「キリコ。ドクターは狙われやすいんだったな。」
引き出しを漁り、注射器片手に恵が振り返る。
「おい、どうするつもりだ。そんなもん護身にも使い勝手が悪くていけない。」
「あの野郎、似非医者を黙らせる。そうすれば彼の患者は私の患者にならざるをえない。」
笑われるかと思ったが、恵にはそれしか思いつかなかった。しかし、机をバンバン叩いてまで笑われるとは思っていなかった。心外だ、と書いた顔でキリコを非難するが、キリコは馬鹿にしている様子ではなかった。
確かにキリコは、恵は本物の馬鹿だと思った。しかし、ふざけている様子でもなく、最高にイイぶっ飛んだ馬鹿だと称賛を込めての大笑いだ。勿論キリコはそんな事は思いつかなったし、そこまでしてやろうなんてお人よしではない。もしもこのまま毒を盛られて殺されていくのだとしても他人事だ。仮に患者から依頼があれば話は別だが、そうでなければ赤の他人の人生なのだ。
そんな恵に対して、もう1つ。
「他人の患者を取るのか。」
「ああそうだ。例え貴方でも邪魔はさせない。」
挑むように、睨みつけた。邪魔をするのならまず第一にここでキリコを黙らせなければならない。
「そいつは面白い。偶然にも俺は他人の患者を取るのが上手い奴を知っている。あいつには負けるだろうが俺達もやってみるか。」
「協力してくれるのか。」
「いいぜ。ただ、条件がある。アンタは身の危険が迫ったら大人しく部屋で療養するってのが条件だ。なんたってアンタは俺の患者なんだろう?」

深夜、こっそり船内を進む。あくまでも表向きには協力を要請する為に面会するのだ。
「こんばんは。私は船医の如月と申します。」
「Mr.アルフレッドの担当医のジェイムスです。」
恵より頭1つ半分くらい長身、キリコと同じか少し低いくらいの男。ノックした部屋から出てきた相手に対し、恐怖はなかった。何故か自分の周りには人相の悪い医者しかいない、と思ったそれだけだった。
「夜分すみません。明かりが漏れていたので伺わせていただきました。」
「いえ、こちらこそ。旦那様も昼間は起きていらっしゃいますのでこの時間の方が有難い。それで、ご用件は。」
「今、船内は患者で溢れています。少しでも構わないので手を貸して戴けませんか。」
「そうでしたか。いや、船医自ら出向いて貰えるとは光栄の限り。よろしければお茶でも?」
相手の部屋に入らない方がいい。キリコからの忠告通りそれを断り、恵はただ協力を要請した。
「この船に船医は私1人。医師の力が必要なんです。」
「すまないね。生憎こちらも手一杯なんだ。旦那様にもしもの事があってはいけない。一時たりとも離れる訳にはいかないんだ。」
「分かった。1人だけでいい。」
恵の役割は、このジェイムスと名乗る専属医を他の誰かとコンタクトが取れないよう少しでも時間を稼ぐ事だった。その間にキリコがキャプテンに接触している筈だ。
敵か味方かを測り、味方ならば急いで港へ向かう。敵ならば、眠らせると言っていた。まさか永眠ではないだろうが、キリコが言うと永眠でもおかしくはない。
「1人?どういうことです。誰か重篤な方でも?」
「ああ。いえ、そういうことではないんです。ほんの少しだけでも助けて戴きたいんです。発作を起こしていた方もいますし、そちらを診ていただけると非常に助かるが、流石にそこまでは。」
「要は猫の手も借りたいくらいなんだな。なるほど。2時間だ、それなら貴方も仮眠程度なら取れるだろう。」
そしてもう1つの恵の仕事は、可能であればジェイムスを老人から離すこと。そうして連れだって病室へ向かった。
「本当に仮眠を取っても?」
ええ、アラームでも用意してゆっくりと。病室で見せる表情に、物騒な気配はどこにもない。寧ろキリコの方が人相も表情もおっかない。
「所で、ドクター・キリコがこの船に乗っているとか。」
「ええ。」
「どなたかから依頼を受けたのでしょうか。」
「そうかもしれませんね。思いつきで無暗に動くような人間ではないと思います。」
ふと思いついてふらっとこの船に乗って来たとキリコは言っていたので真っ赤な嘘である。
「冷静な方です。この混乱も、大変助けて戴きました。」
「彼の診た患者も、いるのかい?」
「重篤患者全員が。今は落ちついているけど大変だったんだ。」
そう、と去っていく背中を見ながら、恵は瞼を閉じた。



「おい、起きろよ寝坊すけ。」
「ん、キリコ?」
キリコに覗きこまれていて、外が明るい。昨夜、急に睡魔にやられて本当に眠ってしまったらしい。
善人面で歩く人相の悪い似非医者を頭の中で殴りつけながら起き上がる。
「キャプテンが逃げた。一旦引くぞ。」
「引くって、どういうことだ。」
「じいさんは昏睡にしてきた。あれで暫く持つだろう。」
アルフレッドが昏睡状態。それで暫く持つとは、一体どういうことだ。それに、薬によって症状が出ているとか、その薬の出所を何故知っているのかなど、聴きたい事は山ほどあったが、失礼します、と来訪の声がかかった。
起き上がって出ようとする恵をキリコは制し、再度横になっているよう指示して出て行った。
「ドクター・キリコ。旦那様の件、依頼を受けては戴けないでしょうか。」
「いいや断る。昨夜サウナで会った時、苦しんでも居なかった。寧ろ楽しんでいた。そんな奴は俺の出番じゃない。」
「そうですか。では、貴方に仕事をして戴いた事にしましょうか。」
「勝手な事を言いふらす気だな。」
「ドクター・キリコ最期の仕事としてね。」
「外へ、出ようか。」

デッキへ上がって、煙草を吸いながらキリコは異変を感じていた。おかしい。いつまで経っても恵の気配がしないのだ。こんな怪しい場面に恵がついてこない筈がない。となると殺されたか、捕まっているかだ。あんな正義感に溢れた船医1人生かしておく必要もない、前者が濃厚だ。
「船医にはこの船を降りてもらったよ。」
「は、そうか。海へ返した所悪いが、あれは俺の大事な真珠なんだ。」
「アクセサリーの代わりならいくらでも用意をしよう。」
船を降りたということは、海に落ちたのだろう。殺して捨てたのか、単に捨てたのかどちらだ。死に損ないでも生きているのなら回収してすぐさま治療をとちらりと海面に目をやった。
「いや、俺はあいつが気に入ってる。降りた後、どこへ行ったんだ?」
「さて。一足先に陸へ上がっているかもしれないな。結構強情だったようでね、ウチの若いのも2人やられて眠っているらしい。麻酔をブスリ、なんて恐ろしい医者だ。」
「で、止めは刺せたのかい。」
「いや。それは時間の問題だ。」
聴けば、かなり抵抗して乱闘になって、その後、海に転落したらしい。
今すぐにでも救助に専念したいが、この銃口の数や状況から察するに、撃たれる方が先になりそうだ。
結構痛めつけられていたとはいえ、命懸けともなればそれこそ決死の思いで恵も浮かんで来るだろう。船の中でも基本的に救命胴衣はつけていたし、その内姿を見せるかもしれない。
「おいおい、そんな物騒なものはしまったらどうだ。ちっともスマートじゃない。」
「しまうさ。お前を撃ったらな。」
狙っているのは右目。体を捩って狙いを逸らし、一発目をかわす。ゆっくり構えられない二発目からは当たれば向こうがラッキー。文字通り下手な鉄砲を連発してくるジェイムスに向かって、キリコも内ポケットから銃を取り出して発砲した。
「至近距離で狙うには、それはちょっと仰々しいだろ。連射するなら反動も考慮に入れとかないとな。」
右腕と左腕にそれぞれ一発ずつで動きを封じ、キリコは海に視線を投げる。恵を探す。いた。少し離れた場所に、流れに呑まれないよう浮かんでいる。案外近くに居た事に安堵し、救助用の船に降りた。

恵のいる所より少し向こうを狙って救命浮環を投げた。少しずつ手繰り寄せて、恵がしっかり捕まったのを確認して引き寄せる。
近くまで来たところで、船から梯子を降ろした。
「上がれるか?」
「ありがとう。」
水から上がってから手を貸して船の上に引き上げる。ここの水温は低い。急いで陸へ向かった方がいい。
「その血は、撃たれたのか。」
「そのようだ。とにかくここから離れるぞ。風に当たらないように屈んでろ。」
「あいつは?」
「腕は潰した。」
「そうか。キリコ、この港町には病院がない。早い所船に戻らなければ。」
「駄目だ危険すぎる。医療用の道具一式なら積んである。」
「初めから逃げる気で降りて来たのか?」
まだ何も解決していないのに、と恵が批難がましく見詰めてくる。戻ってもあれだけ敵の多い今の状態で勝ち目がない事くらいはキリコも恵も分かっている。悔しいのだ。
「逃げずに済めば良かったんだがそうもいかなくて。一式積んでおいたんだ。」
港を少し外れ、使われているのかいないのか分からないような漁師小屋がぽつりぽつりと立つ場所まで離れた。船の操縦、鞄を片手に意識の朦朧とした恵を小屋まで抱えて行く事。負傷した体には結構な重労働だった。しかし時間が経つ程に、冷えた恵の体温が背中から伝わってくるのに、悠長な事は言っていられない。
「眠い。」
「ちょっと待て。お前は暫く起きてろ。」
「眠いんだ。悪い兆候だ。すまない。」
「おいメグ、俺の背中で寝てみろ、裸に剥くぞ。取って食うぞ。襲うぞ。」
冗談を、と言いかけて返事が途切れた。ふざけるな、怒鳴ってみても微動だにしない。
なんとか屋内に入る事に成功し、腰を降ろす事が出来た。追手という敵は居るが、壕とは違って飛行機の音はなく静かなものだった。
キリコは恵を背負っていたことで水を吸って濡れた服を脱ぎ捨て、簡単に絞って引っ掛けた。次いで恵の服を脱がせると、なるほど話に聞いた通りの体が現れる。男でも女でもない。男性ホルモンの投与はしているようだが第二次性徴も済んでいる。ぱっと見にも触れてみてもどちらかというと女だ。
「起きろよ。本当に襲っちまうぞ。」
全く励ましに聞こえない励ましの言葉をかけながら、キリコも自分の意識が遠のくのを感じていた。それに舌打ちし、それでも眠気に耐えながら尚声をかけ続けたが、やがて瞼を閉じてしまった。

「ん。…メグ?」
「起きたかキリコ。体温を確保してくれた事には感謝している。」
起きた瞬間にいきなり何故こんなにツンツンしているのか記憶を探り、原因に思いいたって肩の力を抜いた。裸同然で並んで横になっていれば、そういう反応をしても仕方ない、かもしれない。何せ胸元を押さえていたさらしも下着も何もかも剥ぎ取ってしまったのだ。
他人の患者を取ろうだとか、妙に潔癖な所がBJにそっくりで、怒っている恵の手前だなどと気にせずキリコは吹き出した。
「お前が無事でいてくれなきゃ、俺は自分の背中なんて縫えないからな。」
他意はない。恥じらうような下心もなかった。背中を縫わなければならない状態だろうとは察していたから無理に恵を眠らせるようなこともしないで目を覚ます可能性を残しただけだ。
手を着いて起き上がり、包帯の感触を確かめる。
「まだ横になっていた方がいい。縫ってる最中でさえ寝てたくらいなんだから。」
「それなら大丈夫だろ。きっと痛くなかったんだ、つまるところ平気なんだろ。」
起きようとするなんて。しかも平気だなんて。キリコの動作にぎょっとして、恵は慌てて押さえた。
「気になるだろうけど、身体を休めて。頭の天辺からつま先までってくらいあちこち傷だらけなんだ、一応簡単に手当てはしたけど一体誰と闘って来たんだ。」
「さあ、一々覚えていないよ。治療、ありがとう。」
包帯を弄っていたキリコが顔を上げると、恵が驚いたように目を瞠る。両手で口許を押さえる瞳に映る自分の顔を見て、ああそうかとキリコは苦笑した。
「アルビノ気味でね。」
キリコの目は薄いブルーグレーだ。瞳孔も黒で、何処にも異常は見られない。それが右目だ。
しかし透き通った綺麗な血の色。赤い瞳孔にヴァイオレットの光彩を持つ左目。それらが恵を映していた。
「てっきり、事故かなにかかと。」
「事故みたいなもんさ。目の色を変える薬を試してこうなった。」
「何故。あれは目を悪くすると聞いたことがなかったのかい?」
「まあな。だが、お手頃だろ、点眼で済むんだ。」
だからこそ需要がありすぎた。失明という副作用のあった不適合なものだったから使用禁止で保管されていたのに盗まれた。そして何人かは実際に使用し、目の色を変える代わりに光を失った。
「だったら何でそんなものを試してみたんだ。」
「盗まれたのを忘れて研究に明け暮れ、やっとの思いで完成品に近付いたのを作った。その記念さ。残念ながらパーフェクトな効果はないがな。」
本来なら依頼人には好きな色に変えれるものが渡る筈だった。それなのに盗まれた試作品が他から渡り、依頼人は使用してしまった。
「眼帯を貰えると助かるんだが。」
「ああ。そうだな。すまない。」
「いいって。それよりメグ、今はゆっくり休んで回復だ。少し寝て起きたら街へ行こう。」
「そう、するしかないか。」
眼帯をつけ直せば、いつものような涼しそうな顔に戻る。
近くに腰を降ろした恵を手招き、髪を撫でた。
「助かったよ、俺の恩人。」
あっと驚く隙もなかった。髪を撫でていた手が伸びて引き寄せられ、軽くキスをして、今度こそキリコは眠りについた。
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