BJに入る仕事の依頼に、何か厄介な事や怪しい気配が纏わりついているのはいつもの事だった。
小さな村、もしくは集落といったような所に、その地を治めるかのように支配する輩。というのはよくある。中には本当に治めている者もいるが、今回は前者の胡散臭い方だとは言動や所作から感じていた。
飛行機で飛び、船で運ばれ、ガタガタの道を車に揺られ、やっとのことで辿りついた小さな町。必要がないだろうに無駄にでかい塀に囲まれた屋敷が今回の依頼人のようだ。
「来訪に感謝しますBJ先生。早速ですが、この病気を、治せるのなら治療法を見付けてほしい。無理なら…」
「脅しは結構だ。治せるかどうかは診てみなければ分からない。必ず治るって分かってるなら誰だってやるだろう。99%無理だとしてもやってみるだけだ。」
「いや、脅しじゃない。無理なら無理だと早急に白旗を揚げてほしいだけのこと。既に手は打ってある。」
こんな遠くまで時間をかけて連れて来て、救ってほしいという割に随分あっさりしている。いよいよ怪しくなってきたとBJは気を引き締めた。
病室に入って、一瞬フラッシュバックを起こしたかと思った。それほどまでに、あの時の光景と酷似していた。未知の病原体に侵された患者を救ってほしいと連れて行かれた島での出来事が脳裏に浮かぶ。
隔離され、並べられた患者たち。
「おや、BJ先生も呼ばれていたとは。これは驚いた。まるであの時と同じだ。」
「ドクター・キリコ。ということは、私が諦めれば。」
「ああそうだ。1つ違うとすれば、お前への依頼、今回はあれほど面倒ではなさそうだぜ。お前さんが治したら終わり。もしくは諦めれば終わり。外野が関わって途中でどうこうって腹はない至ってシンプルな依頼だ。」
「どうだかな。暫く待ち惚けして、無駄足踏んで帰ることだな。」
「いや、治療は俺も立ち会う。そういう条件だ。」
「なんだって?隙を見て殺そうって魂胆じゃないだろうな。忘れたのか、お前さんには前科がある。」
「結構な言い様だが、俺だって主治医だ。それに、患者はここにいる彼らだけではない。あと何百人と、いや、数え切れない程いるんだよ。」
血液や組織の採取、検査。それから対処療法。作業すら丸っきりあの時と同じだ。
本来ならBJはキリコに立ち会わせるつもりなどなかった。だが、人が居ないから仕方なく、助手としてなら、と立ち会う事を許可した。しかも治療には携わらせないと条件を出して。そんな扱いにも関わらず、黙々と検査や実験を行い、淡々と分析結果を持って来るのだ。
それだけでない。主に検査や分析を行うキリコの様子は真剣過ぎて違和感を覚える程だった。
初めは虚偽の報告を出してきているのではないかとこっそり夜中に確認していたが、いつ抜き打ちで再検査を行おうとキリコの報告は正確だった。
しかし中々芳しい結果も出ず、原因も解決策も見付からない。そんな進展も後退もない日々が続く。苛立ちと焦りがBJに蓄積する。キリコを見れば、そんな感情が感染したように怒って見えるから大概だと自嘲した。
そんなある日、患者の容体が急変した。苦しみ、もがき出し、それが数日続いて死に至るこの病。発作が起こる度に駆け付け、薬を投与したり、開いてもみたが、解決にも緩和にも結び付くことはなかった。そうして患者が死ぬ度にやるせない気分になるも、キリコの言う数百人が待っていると自分を奮い立たせて治療に当たった。
だが、発作を起こす患者は日に日に増えて行った。この病室にいる患者だけでもこの様子だとすると、残りは一体どうなっているのか。
ふと、キリコの姿が見えない事に薄ら寒い気配を覚え、病室を飛び出した。BJが脱走した、と慌てる者もいたが勿論脱走ではない為無視して館内を走る。
「キリコ!どこだ、どこにいる!?」
バタバタとあちこちのドアを開けて覗くも見つからない。ぐるりと一周して一度病室へ戻ろうと歩き出した時、背後から声が聞こえた。
「どうしたBJ先生。脱走したんだって?」
「そこにあった部屋は確認した。一体どこに行っていた。残りの患者は無事なんだろうな!」
「ああ、俺だってそう切に願うよ。」
久しぶりに聞いた日本語。そして以前にも聴いたこの台詞。
「……何か隠しているな。」
「鈍い先生だ、やっと気付いたのかい。」
あの一言だけが日本語で、話し方は既にここの言語である英語に戻っている。キリコの方は丁寧に、ここでの方言なのかやや古い言い回しまで取り入れている。その為か、外部の人間であるにも関わらずすっかり馴染んで見える。
「理由を答えろ。本当は何故ここへ来た。」
「大層なものじゃない、なにせ確証も何もない俺の勘だ。それに、ここは電波もないし、逃げ込むのに調度良かったんだ。」
「お前の患者達は無事なのか。」
「俺は何もしていないよ。マルグリットは別だが、残りは助からない。」
「どうしてそう言いきれる。私をそこに連れて行け。」
「駄目だね、それは出来ない。地獄に出入りするのは死神の仕事。それにそこへ案内するには少々元気が良すぎる。まだ早いよ。」
キリコの瞼の裏には、戦場の風景が浮かんでいた。呻き声や怒声までしっかり再現出来る。あの時と何ら変わらない。ない、という事は、意味をなさない事だ。
痛みや苦しみが引かないことは、負傷していること。治療しなければ助からない。
開いても原因が見つからず排除できないことは、治療できる器具がないこと。治療すら出来ない。
薬が効かないことは、薬がないこと。苦しみを和らげてやることすら出来ない。
安全な病室で寝ているだけということは、死ぬことすら出来ないこと。苦しみが続く。
器具も薬も武器も動く力もない。キリコにとって戦場で見た過去の光景が、近い内この場所での未来として再現されるのを想像するのは易過ぎた。
治療されることが出来ず、思い詰めた末に腹を決めた1人目が、苦しみながらも動ける仲間を見るに見かねて手にかけるのだ。銃弾なんてないからナイフで刺殺、鈍器で撲殺、または絞殺や扼殺。そして仲間を逝かせた後に自決する。
苦しむ声が死ぬまで、何度も、何度も、何人も。下手に刺せばその分痛みも苦しみも半端に続く。
それが2人目、3人目、と増えて行き、さながらそこは地獄絵図。
患者が集団で発作だと聞いてテントに入るとパニックが広がりあやうくキリコ自身も殺されるところだった。それならば、と医療用とは別で忍ばせていた手持ちの劇薬を使用したのだ。効果は覿面だった。喧騒も血飛沫も、砂埃と臭いだけを遺してピタリと止んだ。
目を開ける。今にここの病人達も殺し合いを始めるだろう。銃やナイフがなくとも、首を締めれば人は死ぬ。ちょっと感触が生々しいだけで、自分が次だと腹を括った者たちはもっと過激に暴れるかもしれない。だから彼らは助からない。そうなったら今度は最小限の苦しみ、もしくは楽に、そして迅速に逝かせてやるとキリコは決めていた。
過去の話を聴いたことのないBJにその様子が理解出来ないのは当然の事であり、キリコも特に語るつもりはなかった。殺し合いの渦中であろうとBJは飛び込んで行くのだろう。暴れる者はメスでも刺して大人しくさせておいて、後に治す。今回の場合請求がどこに行くのかは不明だがそれがBJのやり方だ。
とかく、治療法さえ見つかれば話は別だが、この病気は人間が作り出したもの。公害と同じで罹ってしまえば不治の病である可能性もある。毒物なら解毒、またはウィルスや細菌ならそれらを除去した所で手遅れだということも充分考えうる。
「その地獄へ出入りするだけなら、私の目の届く所で分析を…いや待て、キリコ、お前さん異常はないんだな!?」
「ああ、発症していないところこれは毒物。だが、既に毒は荒らすだけ荒らして抜けている可能性が高いな。」
「検視をする。隅々まで徹底的にだ。」
毒。きっとそうだろう、キリコも同感だった。毒や細菌などの生体へダメージを与えられる兵器について数え切れないくらい研究され、開発されていたことは知っている。
それらは秘密裏に処理され、または極秘実験と称して実際にばら撒かれただろうことは容易に想像がついた。そういう連中だったからこそ兵器を開発したがったのだ。きっとこれもそういったものの一種だろう。
まだ、キリコもBJも発症している様子はない。
「キリコ、彼らが主に生活していた所の土や水を調べてくれ。」
「そんなのとっくに調べたさ。どこで暴露したのか分からない。」
何かが配られたとか持ち込まれたという話も聞いていない。幾つかの仮説を立てるBJを眺めながら、気付けばキリコは眉間に皺を寄せて考え込んでいた。
「何か方法があった筈だ。」
「ああ、あったんだろうな。俺達が気付いちゃいけない方法が。」
キリコの日本語に、過剰に反応しないように適当に相槌を打つ。声のトーンも普段と同じ程度に抑え、BJとキリコは連れだって病室へ向かった。
「何か思いついたのか。」
「煙草が吸いたいな。」
急に話題を変えたキリコに、ちらりとBJが視線を投げる。右側に居たキリコは顔ごと振り返ってBJの顔を覗きこんだ。
特に何の感情も映していない目に、BJは何か意味があるのか否かを読む事は出来なかった。
しかし、逆に正直なBJの顔には沢山の何故が浮かんでいた。何故の1つも拾うことはせず、キリコはふっと息を吐いて視線を外しただけだった。
夜になれば、昼間とは打って変わって冷える。あまり外出はしないようにと言われていたが、キリコがどうしても煙草を吸うのだとBJを連れだした。
入口は門番のよろしく数名の男が見張っている。たかだか煙草程度だが、昼間の話の続きがしたい。とすると少しは離れた場所へ行く必要があるがそれは許されるのか。BJが思案していると、同じように入口を眺めていたキリコ動いた。
「先生、腰借りるよ。適当に合わせて。」
良いとも悪いとも答える前に腰に回された手にぎょっとする。並んで入口へ歩いて行く姿を想像して、何を考えているのだと頭の中でキリコを罵倒した。
「ちょっと散歩に出たい。」
「夜間の外出は控えた方がいい。夜は冷える。」
「ああ、だからほんのちょっとだけさ。ここには何の楽しみも無いんだ。休暇の制度もない、煙草も駄目。何、ほんの軽いI&Iさ。」
シガレットケースを差し、片眉を上げて、口許だけで笑う。それがキリコにとってウインクの変わりだと分かったのは、腰に回された手が尻を2、3度撫でたからだ。
思わず胸倉を掴んで怒鳴りたいのをなんとか堪え、納得した様子の男たちの間を抜けて並んで建物を出た。
少し離れた場所まで歩き、1人分スペースを開けて草むらに腰を降ろした。煙草を取り出し、火をつける。
「漸く一息つける。」
長い髪をガシガシ掻きながらキリコが溜め息と紫煙を同時に吐き出した。
対してBJは久しぶりに吸ったが、集中していたからあまり久しぶりとは感じなかった。
「昼間の話。続きがあるんだろう。」
「ああ。まあ、どっから話すかな。」
周囲に人影はない。だからといって余り大きな声は止めた方がいい。長時間外にいるのもやめたほうがいいだろう。BJは半分くらい吸ったのを途中で揉み消して、話を請求しようとじとりと眺めた。
キリコもそこまで煙草を吸いたかった訳ではないようで、初めの一本だけ吸い終えるとBJに向き直る。またも右側に居たのと、座っていたのとで今度は体ごとだ。
「上、見て。」
「は?」
訝しげにしながらもBJが上を向く。素直に従ったBJに、ここまで懐いてしまって、と余計な事を考えながらもこれからすることを考えるとキリコは少し不憫に思った。罪悪感はない、それに不憫に思ったと言ってもあったかなかったか分からない程ほんの少しだ。
「上がなんだ。飛行機も雲も何もないぞ?」
「綺麗だろ。」
「ああ、まあ。なんだ、もしかすると症状の1つに飛蚊でもあって見えている星は幻だとでも言うのか?」
「先生、ちょっと大人しくして。」
「キッ…キリコ!」
「静かに。綺麗だから雲でも月でも星でも観てな。」
確かにBJは星を観ていた。キリコも星と言うならあれは飛蚊ではなく本物なのだろう。だが、押し倒される謂われは全くなかった筈だ。もぞもぞとキリコが移動し、顔だけ出してコートにすっぽり覆われる。近過ぎる距離の顔と長い髪で、カーテンにでも覆われて閉じ込められているように感じた。
「聴かれている。」
ごくごく小さく、直接耳元に囁かれる。誰に、どうやって。
「ここは場所が悪い。もう少し下の柔らかい所、向こうへ行こう。」
よくもまあそんな大真面目でつまらなさそうな顔で、そんな軽い台詞も吐けるものだとBJはある種感心しながらも、キリコに促されるまま身を起こした。
「邪魔な服は、ここに置いて行こう。広い草原に澄んだ星空。この解放感は堪らねえだろ。」
「あ、ああ。」
キリコの真顔は変わらない。だが、言葉だけはとても情熱的で楽しそうだから不思議だ。せめて相槌を打ち、コートとジャケットを脱がされ抱きあげられた。自分だけジャケットどころかコートを着たままで不公平だと思っていたら、少し離れた場所にキリコのコートを敷いてその上に降ろされた。再度キリコが覆いかぶさって来て、顔を両肘で囲われ逃げ場がなくなった、と思ったらミシリと音が聞こえた。
コートの襟の裏。指先で摘める程度の小さな機械。盗聴器か。
「後は、見られてるから適当に仲良くやってる風にしておけばいいだろ。」
「出来るかそんなこと。一体いきなり何をするんだ。もしも私が一瞬でも暴れてみろ、失敗していた。」
「でも抵抗しなかった。自分で思ってるより信頼してくれてるんだろ。いいじゃないか、照れるなよBJ。」
「ふざけっ、る…な。」
リップ音と、頬に柔らかい感触。頬だけじゃない、額に、瞼に。際どい所は巧く避けて口づけたり、撫でたりしてくる。
「お前からは何も期待しちゃいねえよ先生。大人しく俺に任せて、たまに抱きつく素振りでもしてくれりゃ完璧だ。」
「お、俺だって、そのくらい。」
「そのくらいって?」
「ちょっと目を瞑っていろ。」
「ふうん。」
小さく笑って、キリコは目を閉じた。監視の耳は潰したし、監視の目はあるがそちらは誤魔化しているし、本題に入っても良かったのだが、BJが何をするつもりなのか興味が湧いて好きにさせてみる事にしたのだ。だが、待っても待っても何も起こらない。これは駄目だと目を開けると、どんなのんびりした速度で近付いて来ていたのか、呼吸すらしていなかったんじゃないか、気配は全く感じなかったBJの顔が目の前にあった。
「何で目を開けるんだ。」
「何するつもりだったんだ。」
「何って、キリコには出来なかった事をやってやる所だったんだ。もう一度だ。目を閉じてくれ。」
「別にいいけど、そんなに俺とキスしたいの?」
やられっぱなしは性に合わん、と唸る唇の端に、軽くキスをした。触れたか触れないか、これもジャッジは際どいだろうが触れていない。BJには分かる筈もないだろう。
「別に、話の続きがしたくなくて、単に俺といちゃつきたいだけならベッドで良かったのに。」
夜が明けてしまうよ。と笑えば、ハッと我に返ったBJの顔が暗闇でも分かるくらい赤く染まった。
「俺は軍医だった。だから軍人ではなかったが身を守るためには仕方ない。人手不足が過ぎたのと覚えが良かったのとで野戦の腕も超一流だった。そして今は人を楽にする仕事をしている。そういった経験から察するに、ここから逃げた方がいい。」
無言で、BJはキリコの推論がどんなものであるのか、ヒントを基に推理していた。キスが気になる。顔に飽きたらず髪にもだ、かと思えばシャツの中に指先が入り込む。そんな邪念を追い払いながらの作業は難航気味だった。
キリコは軍医だった。戦場で死にたくても死ねない苦しむ兵士を殺す死神のような存在だ。そして野戦のプロなら敵を倒す、またはその策を練る。そして狙った地域は攻め落とす。過去の経験から、人助けと称して安楽死を行うがその際用いる手段は殺しても証拠が残らない。
「だから…」
「つまり、俺達だってどうだか分からない。」
症状が出ていないだけで毒を暴露している可能性は充分に考えられる。もしも治療法が見つからなかったとしても、関わった以上ここから外には出さない方がこの殺戮を仕掛けた者たちにとっては安全だ。少しずつ、何かに混ぜられて体を侵されつつあるのかもしれない。なにしろ検出されないのだ。苦しみこそあれど、死に至り、検出されない毒はキリコの用いるものと類似している。
きっとキリコは軍医として、野戦のプロとして、こういった場で情報を仕入れて現在持ち歩いている毒物や機器を完成させたのだろう。
「最初から知っていたのか。」
「推測だけさ。場所柄、そうかもしれないとは思った。」
「それなら何故来た。」
「BJ先生も呼んだと聞いて、これは是非とも立ち会おうと思ってね。」
にこりと笑ってまたもキス。顔中で、唇以外されていない場所はないんじゃないかとぼんやり考えた。
「お前さんの薬、解毒剤はないのか。なんとか検出する方法とか。」
「ないな、どっちもない。ところで、観衆が俺達のセックスを期待しているようなんだがどうする。」
「そんなわけあるか。」
「そうでもないらしいぞ。赤外線スコープを持っている奴までいたからな。」
ぎょっとしてBJがキリコを見上げる。
偽の愛撫に乱された着衣を戻し、寝転がってダイレクトに抱きしめた。今日はこれでお終いの合図だ。
BJを連れ出して、軽く戯れるだけ。小難しい話は初日以降あまりしていない。煙草を吸って、撫でまわしてたまにキスをして抱きしめる。キリコはそんなことを3日間、繰り返した。
「おい、キリコ。」
「どうしたBJ。」
「どうしたもこうしたも。こんなに弄くり倒す必要はないだろう。煙草なら1人で吸いに行けばいい。私も好きな時に吸うさ。」
「分かってないね、先生。いつまで経っても緊張が解れないからこうして夜毎連れ出してるんじゃないか。キス1つで硬くなっちまうような初心な相手には時間が必要だろう。俺はこんなに愛してんのにいつまでたっても怖がられてたんじゃそろそろ俺も我慢の限界が。」
「ふ、ふざ、ふざけるな!」
「おお、顔真っ赤。トマトみたいだ食っちまいてえ。」
いくら盗聴器や集音器への対策だとはいえ、不味そうな顔でどうしてそんなことが言えたものか。初めてキリコに負けたと思ったが別段勝っても嬉しくないので気にしないでおこうと自分に言い聞かせた。
いつものようにシャツを肌蹴られ、コートや上着を転々と落としながら徐々に移動する。どうせ脱いで離れるなら纏めて脱いで場所を移れば良いのではとキリコに言ってみたが却下された。曰く、余所余所しいのだそうだ。
どこに寝室の前で服を脱いでベッドインするカップルがいるのか、と言われたがよく分からない。セックスの手順について深く考えた事はなかったが、それが目的ならそもそも入浴後に着衣をするのがおかしいのでキリコの手順がおかしい気がすると思っただけだった。
「少し山に入り込んだ所に洞窟がある。そこの川を遡上した所だ。恐らくそこに隠蔽か廃棄されたんだろう。資料によれば生活用水が雨水から井戸に切り替わった後から発症数が跳ねあがってる。」
「そうなのか。ならそこに行けば何かが見つかるかもしれない。明日、村を周ってみる。」
「止めた方がいい。シンプルに依頼だけを考えて、諦めるべきだ。それに、事実を話していたのか怪しいもんだ。資料だってどこまで信用出来たものか。」
「何故そう諦めるなんて言いきれるんだ。それに、お前さんにも一緒に来てもらう。その洞窟にもだ。それで自分の目で確かめれば他人の話の真偽など関係あるまい。」
「いいだろう。」
翌日、風土病や汚染の可能性を調べる為だ、と外出の許可を取り屋敷を出た。村へ向かい、人々に話を聞いて回る。現在変わった事はないか、病気が出始める前と今とで何か違いはないか。そして井戸について。
村人たちの反応は鈍いものだった。誰しもが、健康そうに見える者までもが諦めているか無関心なのだ。川で水浴びをしている者たちもどこか異質で、BJには死を前にした患者同様、自棄を起こしているようにも見えた。
「とっととここから出て、空港から一番近いホテルでいいからお前を連れ込みたいよ。」
「そういうことはもう沢山だ。もっとマトモな事を言ってくれ。ライトはあるか?」
「車に置いて来た。」
「よし、上へ行ってみよう。」
監視兼運転手に行き先を告げ、川の上流へ向かった。
「雨が降りそうだな。」
「先生達、私は車で待っているから、洞窟の入口はあそこだ。」
運転手の指さす方には水が流れ出る洞窟。開けた場所でぱっと見には入りやすそうだ。
「迷子になっても行き止まりの洞窟だ。風の吹きこむ方か川の下る方向を目指せば出れるよ。」
「なるほど。分かった。キリコ、行こう。」
「せっかちな先生だな。どうせ雨が降ったらゆっくり雨宿りなんだ。」
BJに続いてキリコも車を降りた。何か発見があるとは期待していない。それならば彼らがこの場所へ来る事を許可する筈がない。
「先生、まだ治せると思ってる?」
「やれるだけのことはやってみるさ。」
「やってみてる間に、村が滅びるかもしれない。何十年とかかるかもしれない。」
「それでも、まだ見切りをつけるには早いだろう。私は来たばかりなんだ。」
BJとキリコは小さな明かりを頼りに進んだ。横穴はいくらかあったが人が通れる大きさのものあまりない。せいぜい屈んで入って、しかしそれもすぐに行き止まりだ。
登りも下りもあまり良い道ではない。壁に掴まって進み、極端に高さが低くなっている場所を潜り、進んでいく。
そんなことを繰り返しながら、ほぼ一本道を進めば途中で水の気配がなくなった。
大きな流れではなかったが音を吸収していたのか、急に足音や衣擦れの音が渇いて響いたのだ。
「湧き水か。」
「そのようだな。」
「鍾乳洞でもないのに。いや、そうか。もしかして、この地面の下にあるんじゃないのか。」
「埋めたつもりが流れ出たとでも?」
「隠したつもりなんだろうが、水が全て押し出してしまったんだ。この山事態が元凶なんだ。」
「こんなバカでかい毒壺があってたまるか。第一どうやって採掘するつもりだ。」
「採掘しなくても、湧き出ている部分の水を採取すれば、そこが一番濃い筈。」
BJが水の湧き出ている場所へ戻ろうと歩き出す。
振り返った瞬間、暗闇の中にも関わらずキリコは何かを見たような気がした。
「待て、BJ。近付くな。」
「どういうことだ、何を。」
何を言っているんだ。BJはそう言いきりはしたが、キリコの耳には届かなかった。ずっと向こう、入口の方から激しい揺れと轟音が響いて来た。
「大丈夫か?」
「ああ。ここにスイッチがあったようだ。お前さんの勘は正しいようだぜ。」
改めて足元の感触を確かめれば、ざりざりとして周りとは少し異質だった。
「らしいな。この場所を暴かれたくない、だが破壊できない何かしらの事情があるんだろう。」
「それで証拠ごと埋め立て工事か。やってくれるよ。で、どうするBJ。」
「とにかくここから出る、話はそれからだ。」
「だから、出たらどうする。」
「出てから考える。それよりキリコ、今回の依頼は面倒なことはないって言ったあれは一体どういう事だ。」
「覚えてやがったのか。」
キリコが舌打ちをする。確かに、来た初日に、今回は外野がどうこうということはないと言ったのだ。
「依頼自体はシンプルだろ。出来る出来ない。出来なきゃ俺の出番。」
「依頼はな。だがお前さん、何か知ってるんじゃないか。」
BJがキリコに詰め寄り胸倉を掴む。
「ここに来て、会った時からおかしいと思っていたんだ。何故ここに居る?」
「言っただろう。先生が依頼を受けたと聞いてお手並み拝見に来ただけだ。」
最後にキリコの怪しい微笑みを照らし、ライトが消えた。
明かりの消える最後の瞬間に見たのが死神の顔だなんて縁起が悪い。とキリコにライトを要求したがすげなく断られた。
「やはり私の患者を殺すつもりだったんだな。」
「それは先生の考え過ぎだよ。悪い癖だ。」
「とにかく外へ。ライトを貸せ。」
「駄目だ。地雷のスイッチがあるような所でライトを点けてみろ、今度は光度計が反応して爆破か狙撃か何か次の罠に狙われるだけだ。マッチもライターも駄目だ。」
禁煙のいい機会だ、とキリコは歩き出した。足音を頼りに、BJもそれに倣う。いいかげんこんな場所から脱出した方がいいのは同感だ。
壁に手を着き、頭上に手をかざして少しずつ進む。水音も聞こえて来て、最悪川の中に入って流れを辿れば外へは行けるが先は長い。
「土埃のせいか。粘膜が痺れる。」
ああ、と答えかけて、キリコがBJの体を掴んだ。
「待て、おかしいぞ、目と喉がひりつく。BJどうだ?」
「さっきから痛むと思っていたがお前さんもか。まさか砂と一緒に何かの毒が舞っているのか。目を閉じていた方がいいな。」
「この暗闇で開けていたのか。」
「何か見えるかもしれないからな。」
「収穫は?」
「目を開けていない方がいいってことが分かった。」
Amazingと呟いてキリコが溜め息を吐いた。BJを掴んだ手がすっと上に登り、髪を掴む。
「アイマスクの代わりだ。これでもつけてろ。外に出たら一番に目が要る。」
巻き付けられたのは長いからネクタイかなにかだろう。流石に包帯を巻くのでは心許ない。何となく素直に感謝出来ない相手だが、BJは今回に限り心の中で謝礼を言っておくことにした。
「ここで行き止まりか。」
「くそ、呼吸がし辛い。喉が炎症を起こしているのか。」
「腫れてるな。口開けて。ああ、凄い色だ。」
首筋に触れられ、口の中はライトを使ったようだ。もうライトを使っても大丈夫なくらいあの場所から離れたのか。そういうキリコの声も掠れていた。
大きく口を開けさせられた為に噎せながら、考える。結構入口には近付いたが、これでは外に出る事は出来ない。土砂を掘るにしてもどこから手をつけたものか。一瞬だけならいいか、とアイマスクを外した。
「掘れそうな場所は?」
「マスクを外すな。このガス、暫く目をやられるぞ。」
「この毒薬を知っているのか。」
「恐らく。目潰しに使っていたものだろうが俺の知ってるのはここまで痛む事はなかった。臭いも違う。外に出て俺もお前も見えないなんてことはやめてくれよ。」
確かに2人とも見えないのではどうにもならない。BJは、見えなくなるリスクはこのままキリコに押し付けることにした。
「なんでそんなのがここにあるんだ。一体どうなってる。」
「俺に訊くなよ。とにかく、そこの土砂を吹っ飛ばすか。」
「どうやって。」
「爆発したってことは爆薬がある筈だろう。仕掛けられそうな場所なんて大体決まってるからな、そいつを拝借して来たのさ。量の調節さえしてやればトンネル掘りも捗るだろう。グラム単位の計量は、BJ先生が得意そうだしな。」
「なるほど、物騒な事ならとことん詳しい奴だな。いいだろう、私が測ろう。」
「もうちょっと素直に協力出来ないもんかね。」
キリコの厭味に今更だ、と返して指先に神経を集中させる。少しでも量が違えば吹っ飛ぶのは土砂だけではない。かといって足りなければ中途半端な威力で今度こそ生き埋めだ。
キリコが掌に乗せ、BJは粉末の重量をひたすら測る。5グラムにはまだ少し足りない、今度は少し多い、といった具合だ。そういった作業を何度か繰り返し、即席の爆弾が完成した。
「出来た。もし風穴が開いた向こうに銃口があったとして、走れるか?」
「ああ。問題ないだろう。」
「ここに長居はしたくないんでね、早速吹っ飛ばすぜ。」
一度キリコが離れ、またBJの元へ戻ってくる。導火線でも取り付けてあるのだろう。要らぬ所で丁寧な事だと思いながら、爆破の瞬間を待った。
「準備はいいか。」
「いいも悪いも、もう時間の問題なんだろう。」
「目はしっかり閉じてな。耳、塞いでやろうか。」
「結構だ。自分でできる。」
「先生」
それじゃしがみつけないでしょ、と続いたのだが、今度はキリコの言葉が爆音に消えた。
距離が近いからか、全身が痺れるような衝撃だった。アイマスクの上からも分かる激しい光と焼かれるような熱。BJは思わず全身が震え、何故だか走るどころか立っているだけで精一杯、たったの一歩踏もみ出すことが出来なくなった。それでも筋肉に異常はない筈だと腰ごと体を捻れば、足を着いた所から崩れ落ちる。
「なぜ?」
「何故って、だから耳ふさいでやるって言ったのによ。トラウマだろ、トラウマ。よくあることだ。お前さん暫く不眠になるかもしれないな。」
「キリコ、動、けない。動かない。」
常ならばどれだけ痛もうと苦しかろうとBJがキリコに弱みを見せることなどない。しかし、そんなことを考える余裕もない程、どっぷり恐怖に支配されていた。
「BJ、手は動くだろう。俺に掴まって。そう、掴まって立てたから掴まって歩けるんだ。ほら、歩ける。ゆっくりだ。」
「動く、ああ動く筈なんだ。なのに何で、何で動かないんだ!」
持ち上げられば、それに従って足は伸びる。しかしぶらんと垂れ下がるだけで立てたとは言えないお粗末な状態だ。一歩進んだから歩けると言われた所で、引き摺られる形で一歩分足の場所が変わっただけ。
頭では立ち歩くことも、精密なオペだって可能な事もわかってたが、それでもBJの体は思い通りに動かなかった。
「動かない、どうして。行かなければ、助けなければ。」
口ではそういうものの、アイマスクを外したBJの目は虚ろだった。すべきこと、出来る事、優先順位、なにもかもが滅茶苦茶に入り乱れ、混乱していた。なお且つ全てを覆う絶対的な恐怖。20年前の小さな少年にとっては、目に見えるものと手に届く狭い範囲が世界の全てだった。絶望の絶対値と相対値はイコールではない。今の年齢で同じ目に遭ったのならばあれほどの、世界を失うような絶望はなかっただろう。
だが、退行を起こしている。いや、あの時に戻っている。現代であるにも関わらず、BJには恐怖と絶望しかなかった。
「だが、どうして、動けないんだ。」
「本当に、抱いてやろうか?」
人間はオーガズムの瞬間全ての情動を放棄する。勿論恐怖もない。キリコの安楽死装置があれば思考や感情の放棄は容易い。だがそれはこの場にない。ならば抱いてやれば、もしくはそれに準ずる行為さえあれば何もかもを忘れる事が出来るはずだ。
簡単な話だ、要は一遍イってでもおけば大人しくなるだろう。と軽く考え、BJに手を伸ばした。正気に戻った後は、適当に流してしまえばいい。しかし、目を覗きこんだ所でキリコは動きを止めざるを得なかった。
「キリコ?キリコ、そこに居るのはキリコか?動けないし、見えない。」
毒ガスの暴露時間が長かったか。一時的に、光への反応が鈍くなるか反応しなくなるという効果は聴いた事があった。耐性のあったキリコと、この手の毒薬とはあまり縁のないBJとではかなり効果が違っていたようで、ずっと目を開けていたキリコの方が少し痛む程度で被害は少ない。
あの場でアイマスクを外したのがいけなかったのか、既にあの時点で手遅れだったのかは分からないが、いずれにせよ、この状態のBJには脱出の際の、目の役割は出来ない。
「分かった。目を閉じて寝ていろ。起きた時には全部元通りさ。」
BJを抱え、キリコは歩き出した。あまり強い光は苦手だが、夜の僅かな明かり程度ならちょうどいい。周囲の気配に神経を尖らせつつ、外へ向かった。
「こんな所、この機に出ちまった方がいい。そうだろう、BJ。」
「ああ、駄目だ。何も、見えないぞ。見えているのか?」
「なに、空から狙われる訳でもなし、問題ない。」
噛み合っていない会話。キリコはBJを背中におぶって車へ向かった。しかし、やっとそこまで辿りつけば蛻の殻で、車を遺して運転手は忽然と姿を消していた。
雨、閉じ込め、消えた見張り、これ以上ない程怪しい。乗ったが最後、爆破でもするか、或いは。軽く車全体を点検し、キリコはBJを押し込んだ。半ば荷物置きの様な後部座席を適当に広げると、濡れた重いコートを脱がせて寝かせた。
「先生はロマンチストだからな。初めてがこんな場所は嫌だろう。さあ、ベッドへ行こう。」
「どこだ、声は聞こえるんだ、どこにいる。」
「ここにいるよ、ほら、いい子だから大人しくして。」
あくまで、何の秘密も掴んでいない。ただの雇われ安楽死医。ちょっと性癖がまずい危険な奴。その程度のポジションを自己確認して、呻くBJに注射を打った。
「それまで暫く眠ってな。おやすみ、BJ。」
BJの虚ろな目を見詰めながら、キリコは優しく唇を奪った。安心して眠ればいいと、まるで慈愛が込められていそうなキスだ、と自身の行動に薄らと笑って運転席へ移った。
屋敷へ戻る道中、キリコは不穏な空気を感じていた。雨のせいだけではない。本当ならば全て素通りして帰ってやろうかとも思ったのだが、場所が悪い。船を盗んだとして、無事に帰れるとは到底思えなかったから仕方なく戻っただけだった。
「ドクター!来て下さい、もう駄目です!」
キリコの姿を認めた男が、濡れるのも構わず飛び出して来た。
「発作か?」
「ええ、発作ですが、それどころではないんだ。」
「責任者が直々にお出ましとは。余程事態は重いらしいな。」
ただ、始まった。と思った。誰か最初の1人が発端となって、周りに伝播する。放っておくとこれだ、勝手に殺し合いを始めるからいけない。
「BJ先生との契約はいいのか?と言っても、先生はこの通りぐっすり眠ってるんだがな。」
「やむを得ない。一刻の猶予もない。このままでは、全滅するしかない。」
邪魔な取り巻きはいない。キリコは男の目をじっと見つめた。
「元よりそのつもりなのでは。」
Sir.と結ぶ。
「まさか、知っているのか?」
「発症数が跳ね上がったのは井戸水を使用し始めたからではない。患者、または未発症の状態でやってきて、井戸を掘ったからだろう。俺は元軍医でね、色々と耳に入った噂がある。それだけだよ、ハワード大尉。」
「私の事までご存じとは。ドクター・キリコ、一体どこまで知っている。」
「色々、だ。しかし、ここが滅びるなら俺も忘れるだろうよ。」
化学兵器を開発していた部隊が、内側から施設丸ごとやられた。だが、そんなことは公には出来る筈もない。廃棄するに越したことはないが、出来れば上層部は手札の1つとして握っておきたい。そこで山に埋めて世間の目を欺く為、その部隊、研究員は全員で村を偽装することとなった。
造り出した兵器も、もし管理出来るようになれば儲け物だ、そこでBJが呼ばれたのだろう。キリコは安楽死を、と言われてはいたが死の見届け人である。死神の化身とあだ名されるキリコならば、どれだけ死人が増えようと淡々と死亡診断を下すとふんでのことだろう。確かにキリコは滅多なことでは動じることも無く、人選としては間違っていない。
まるごと見捨てられた部隊だが、捨てたからと言って好き勝手に行動されたり秘密が漏れては困る。そこで何人かは見張りが来てはいたのだろう。だから運転手は逃げたのだ。洞窟の爆発で毒が溢れてくる事を恐れたからだ。
村人が自棄っぱちだったのも、諦めていたのも全てその為だろう。第一、1人も子どもが居なかったのがこの村に未来がない事の現れだ。
「俺はどっちか言うと、村ごと滅べばそれで解決だとかいけ好かない考えをする側に立ってる人間だ。だが、救ってやることは出来る。どうする。」
「はは、なるほど。しかし、一歩間違えば君もこちら側だ。」
「違いない。そうならないよう、死神らしくのんびり歩くさ。時には非情にな。」
キリコとハワードの間に、沈黙が降りた。お互いに目は開いたままだったが、同じ光景を思い浮かべていた。兵士達、兵器の研究を行う科学者達、拷問、生体実験。
「誤らず歩けるかな。我々のようにたった一度の過ちで失う事にはならないか。恐怖はないか、自信はどこから来る。」
誰しも完璧ではありえないのだと、キリコに畳み掛ける。
「長生きしようなんて思っちゃいない。やることやるだけなんでね。で、どうするんだ。アンタの部下なら、アンタに楽にしてもらいたいと思ってるだろうけどね。」
「分かっている。ちょっと手を、貸してくれ。」
気持ち悪い目覚めだった。ぐらぐらと眩暈がして、吐きそうになり慌てて起き上がった。
「おはよう、先生。」
枕元に死神、なんて縁起の悪い。なんだかんだとぼやきながら、周囲を見回し、洞窟でもあの研究施設でもない事を知る。
「キリコ。そうだ、患者は!?何故船に乗っている。今すぐ引き返せ!」
「治療は結構だと。」
「何だと。まさかお前さん…。」
BJの目に怒りが滲み、ぐっと拳を握りこむのを確認して、視線を外した。
「安楽死も結構だと。」
「どういうことだ。」
「そういうことだろう。俺達の手は借りないってことだろ。」
治療法は今まで通り、生み出した責任を持って彼らが探し続ける。例えそれが報われず、命を落とす事になろうとも。正気でなくなったとしても、厳重な管理の中で彼が手を下すだろう。安楽死も不要だ。何しろ、銃弾1つで事足りるのだから。それに、もしハワードがそこに呑まれそうになったとしても、見張りが何人か潜りこんでいる。
沈黙をBJがどうとったのか、キリコには分からなかった。言葉通りに受け取ったかもしれないし、安楽死を施したと深読みしたかもしれない。
「体調はどうだ。」
「ああ、大丈夫だ。お前さんの爆弾で倒れたのか?あまり、よく覚えていないんだ。」
「爆弾で?」
「そうだ。爆発の後から記憶がおぼろげで、夢もみた。」
「へえ、さすが先生、あの状況で夢なんて図太いったらない。どんな夢だったんだ。」
ちらりとBJがキリコを見て、数秒顔を見た後に目線を外す。
「お前さんの両目が見えているんだ。眼帯なんていらないじゃないかとか、死相さえなければそこそこ整った顔立ちだとか、いらないことを考えたよ。」
「一言も二言も多い奴だな。気分が悪いなら眠るか?」
キリコが注射器を取り出す。コートのポケットから出てきたそれに、メスを仕込んでいる自分の事を棚に上げて物騒だと思う。
「結構だ。」
再び横になり、シーツを引っ張った。その一瞬、視界に入った赤い点。身に覚えのない、しかし間間違える筈はないそれは注射器の痕だった。
BJは思い出そうとするも、記憶が曖昧すぎて夢と現実の区別がつかなかった。爆破が起こった辺りまでは何とか覚えていたのだが、それ以上を思い出そうとすれば頭痛がしてドキリと鼓動が跳ねた。蓋をした記憶が引きずり出される時のあの痛みだ。
「キリコ。」
「なんだ。」
「その、いや、思い出したらまた訊く。」
間近で見たキリコの顔は、両の目がじっと見つめていた。幻覚だったのか、記憶がすり変わっているのか、はたまた夢か。勝手に補完された左目に安心して、甘んじて身を任せたことはおぼろげながら記憶にあった。
今見えるのはブルーかグレーかその間くらいの涼しい色の右目のみ。
「そうか。じゃあ、今度起きて後遺症があったら言ってくれ。」
「ああ。」
そうか、夢か。忘れてしまおう。キリコが注射器をしまうのを見てBJは目を閉じた。
「おやすみ、BJ。」
そう言って、キリコにキスをされた夢も。いっそ、ここへ来た事全てを、出来れば忘れたかった。
