01.Chirico


さてどうしたものか。
キリコは逃げていた。患者の遺族、関わった組織、逃げを決める対象は多々ある。しかし今は患者から逃げてきた所だった。出向いた国で待ち伏せられ、すぐさまチケットを取って別の国へ飛んだ。
別段危害を加えようとかそういう悪意あっての行動ではないが、困ったものだった。
面倒なのはそれだけではない。考えてみれば、ある種、宿命とも運命的だとか言えそうな商売敵の外科医もそうだ。ここのところ、キリコはBJについて思う所があった。よくはち合わせたり、待ち伏せをされるのはあの患者と同じだ。
執着心と言うのは恐ろしい。そういった事情もあり、キリコは思案していた。
惚れたはれただなんてのを気にしたのは一体何年ぶりだったろうかと記憶を辿るもすっかり思い出せない。自分が誰かに思いを寄せてみたってことなら一昔前にあった、かもしれなかった。そして他人から自分へのそれも何年か前にあったようななかったような、あったはあったがいつだったのか。
その程度まで思い至り、思考を放棄した。それなりに経験なら積んでいる。
こんなおめでたいことを考える破目になったのもそもそも経験値によるものだ。それが功を奏したというべきか、徒となってというべきかの判断は今後の展開に委ねることにした。
曖昧なままとりあえず先へ進めてみようだなんて、対人関係でBJにこんな柔軟な思考はできまい。心の中で呟く。
ここでBJが出てきたのもキリコの経験値が高かったためだ。今回の一件はこの辺りの事情から始まった。

運命や宿命と言った物があるのならば、キリコにとってのBJがそうだった。とはいえ、現段階での関係性は、仕事先で出くわせば邪魔をしてくる存在という位置づけであった。それが五月蠅くなって、騒がしくなって、噛みつくようになった。少なくとも、BJにもその程度の認識はあるに違いない。もちろんキリコもそう思っていたが、じゃれてきている、とも認識していた。
何故なら、仕事の気配が全くない状況ででも顔を見かければ即座に反応して詰め寄って来る。払っても駄目、薙いでも駄目、避けても駄目。
先日もそうだった。
BJとキリコの患者がかぶれば、大抵はBJが先に手術を、それでも駄目ならキリコへタッチする。裏の世界ではそういった暗黙の了解が出来つつある。そんな周りの様子さえ分かっていない。
成功すればキリコはここまで来たが何もせずに帰るのみ。だが、それでも生きたいのなら助かるに越したことはないとは思っていたし、先に治療を行うのがBJであるのならその確率は高い。急ぎの用事もないキリコにとってはちょっと遠回りして旅行気分なものだ。
BJは勿論そんな事は思ってもみないことだろう。実際そうだ。キリコの人殺しを辞めさせなければならないから追いかけて詰ったり阻んだりしているだけだと思っている。
だが残念ながらお互いの認識は全く違っているのだ。キリコは、懐かれた、とすら思っているのだから。それもエスカレートしている。BJに言った所で否定するだろうが確証はあった。今はまだ、好き嫌い、気掛かり、そういったことは全く意識していない小さな執着の芽。誰かが好きだとか、誰かが嫌いだとか、人間らしい単純な感情をそのまま素直に受け入れることなどなさそうな、所謂面倒くさそうなタイプだ。
BJの身の上ならある程度知っている。そういう情緒が健全に発達していないのも無理はないというのもキリコの見解だ。
そこで、どうしたものかと考えていたのだ。情緒の発達を、教育を、どのように促してやろうか、と。
キリコだってそこまでお人よしでも暇人でもない、誰かれ構わず他人を育ててやろうなんて思ってはいない。偶然懐かれたこと、かなり執着されていること、仕事を続ける以上顔を合わせる事は必須、等の様々な理由があった。ぱっと見に魅力的だったのも勿論理由の1つだ。それは容姿もさがなら、雰囲気や彼の生き方や性格、技術までひっくるめてだ。
BJの方は人殺しなんてこの人でなし、とでも思っているのかもしれないが、それと比べればキリコの方はとても好意的だった。それを伝えた所で、他人を信じないBJが信じる筈もないので、会えば口論になることからBJはお互いにいがみ合い嫌い合っていると思っているに違いない。頑固で思い込みは激しい。

飛行機を降りて、税関を抜ける。空港の中で軽く食事でも摂っていくかそのまま帰ってしまうか、なんて考えながら歩いていた時だ。見知った横顔が見えた。喫煙所にでも行っていたのだろう。その視線に気付いたのか、別方向の出口に向かいかけた筈のBJが不意に銀髪の姿を認め、行き先を改めてキリコに向かって来た。
「またお前さんか。誰に頼まれた。殺して回るのもいい加減にやめろ。」
お決まりの文句に、いつもの距離。いや、以前より若干興奮しているように見える。怒っているのが丸分かりで、ついでにどこまででも追いかけて詰ってやる、という意気込みすらキリコは感じていた。
「ああ先生、久しぶりだな。誰にも頼まれちゃいないが、頼まれれば俺は楽にしてやるよ。」
仕事を続ければ顔を合わせる事になるというのは、患者がバッティングすることだけではない。BJの信念に反する行為を続ける限り、キリコは追われ続ける。たとえ空港の通路のど真ん中であってもだ。
胸中に特定の誰か、が入っている。それが思い通りにいかないことばかりする。癇癪を起こしているのと変わりない。他人を認められないだけなのだときっとまだ気付けない。認めて受け入れた上で、あの地獄すら理解した上で、やっぱり安楽死はいけないと思い、口出ししてくるのとはまた違う。
「それにしてもこんな所でまで出くわすとは、運命的なくらいだな。」
「ふざけたことを!」
さて、どうしたものか。
キリコは少し考え、先日ニューヨークで1人の女性を助ける為にBJと奔走したのを思い出し、口を開いた。
「さっきも1人、楽にしてやった所さ。」
「なんだと!?」
気色ばむBJをまあまあと宥めるように軽く手をひらひらさせて、文句を言われる前に続ける。
「落ちつけって。機内で急病人が出たんで、応急処置をしてやっただけだ。」
「……さっきのフランスからの便。」
「そうだ。」
短く答えれば、納得したような、事実だと理解は出来たが信じたくなさそうな妙な表情を作った。全てが思い通りの行動を取る訳でも、全てが思い通りにならない行動をとるわけでもないと分かっているだろうにBJはキリコに対してのみ極端にしたがる。
「ならフランスで誰か殺したのか。」
だからなんでそうなる。とうっかり笑い出しそうになることも言う。
こないだも、助かるに越したことはないって話した所だってのに。と内心苦笑しながら様子を窺う。
「ちょっと旅行に行ったら苦手な奴に会ったもんでな、飛んで帰って来た。先生は俺が常にどっかで誰かを殺しててほしいのかい?」
「……いや。」
「そうだろう。俺だってそう切に願うよ。」
「キリコ?」
「何でもない。さあ、俺は着いたばっかでこれから食事なんだが、お前さんも行くかい?飛行機の中で隣に座った人が頻りに旨いから行ってみろって薦めてきたんだ。昨日まで何処に居たんだ?」
懐くなら、もう少し懐いてみろよと。懐かせてみようかと。思った。
「タイ。」
「オーケイ、問題ない、色々揃ってる。ピザだってボルシチだってあるそうだ。」
まだ行くとも言っていないBJを余所にキリコは歩き出す。話は途中で切れたままだし、流されて着いて来るだろうと踏んでの事だ。5メートルも開けず、BJも歩き出した。
餌づけから始めるのかと思えば親にでもなった気分だ。もしくは、初めはご飯だなんて若いカップルか。それこそ口に出さぬよう、顔にも出さぬよう慎重にしまい込み、それでも口許にだけは緩く笑みを。せめて、少なくとも今のキリコは死神でも殺し屋でも何でもないのだと分からせるように。
その内ごろにゃんと腹を見せてくるぐらいに懐かせてやろうじゃないか。それは密かな、そしてささやかな野望でもあった。
店内で席に着くと、BJは折角タイから帰って来たというのにカレーを、フランス帰りのキリコもクロックムッシュを注文した。
「先生はカレーでいいんだな。」
「ラーメンが無かったんだ。お前こそそれを頼むのなら変化がないじゃないか。」
「フランスに行って家に戻るまでがフランスなんだ。」
「なんだそれは。」
軽口を叩き合いながら、キリコが携帯電話の電源を入れるとすぐさま着信音が鳴った。そしてその番号を確認して面倒臭そうな顔をして切った。
「くそ、どこでこの番号を。」
すぐさま着信拒否にしてメールを開けば同じような中身が何件も届いていた。そんな事をしている間に今度は別の番号から電話だ。その番号もキリコは見覚えがあった。勿論すぐに切って着信拒否だ。
「キリコ、何かやらかしたのか?」
「いや、逃げて来たって言ったろ。こいつ、自称俺の患者なんだが、殺してくれってしつこいんだ。」
「自称、お前さんの患者?」
「ああ。マルグリット・F嬢。ピンピンしている20代の女性だ。」
迫られるなら別件にしてもらいたいね。とキリコが渋そうな顔をした。酷いストーカーも居たものだとBJが同意してやると、また電話が鳴った。
仕方ない。諦めて電源をオフにして、キリコはそれをしまった。
「どんな症状なんだ?」
「何年か前に死にかけたそうだが手術で命を繋いだ。今じゃもう健康そのものだ。仕事もバリバリこなして世界中を渡り歩いている。」
「そりゃあ、また凄いな。カルテは?」
「そういや作りもしなかった。そのカレーも旨そうだな、味見貰うよ。」
「あ、こら。それならその耳のついたピースは私のだ。」
「片方だけな。」
追加で注文したピザも摘まみながら、途中から結構な度数のアルコールも入りながら、BJとキリコの組み合わせにしては穏やかな食事風景であった。
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