05 悪酔王


翌朝。アテムは、十数年の生涯(と千年パズルでの封印と冥界での生活)を通じて一度も味わったことのない、未知の精神攻撃を受けて目を覚ました。
「……う、頭が……割れるように痛い……」
ズキズキと内側から響く鈍痛、そして胃のあたりを占拠する形容しがたい不快感。神のカードの直撃を受けてもこれほど苦しくはなかった。ハイスペックな脳が完全にエラーを起こしている。
「これが現世の『二日酔い』という永続デバフか……。昨夜、城之内くんたちとの宴があまりに楽しくて、ビールという名の魔力を込めすぎたな……」
ふらつく足取りでベッドから這い出し、高級ウォーターサーバーの冷水を一気に飲み干す。少しはマシになったものの、デバフは解除されない。時計を見ると、無情にも海馬コーポレーションへの出勤時間が迫っていた。
「くっ……これほどのダメージを負いながら、定時までに城へ向かわねばならんとは。現世のサラリーマンというものは、毎日これほど過酷な特殊ルールの中で戦っているのか……」
現代社会の厳しさを改めて身に染みて感じながら、アテムは清潔なTシャツに袖を通し、重い足取りで出社した。

しかし、さすがは元ファラオである。どれほど肉体が蝕まれていようとも、一度デスクに向かえばその処理能力が衰えることはなかった。
「……あァ、その新規サーバーの構築プランだが、セキュリティの伏せカードが甘い。3ページ目のバグを速やかに墓地へ送れ 修正しろ。……それと、このAIのアルゴリズムは一手足りん。俺が書き直す」
死んだ魚のような目で、時折こめかみを指で押さえながらも、アテムは目にも留まらぬ速さでキーボードを叩き、通常のエンジニアが数日かけるタスクを午前中のうちに完璧に処理していった。
周囲の社員たちは「阿天 アテム顧問、今日はいつにも増して眼光が鋭く(ただの体調不良)、まさに神がかった効率だ……!」と恐れおののいていた。

午後、役員フロアの廊下を歩いていると、珍しく国内にとどまっていた海馬瀬人が、黒服の一団を従えて前方から歩いてきた。
瀬人はアテムの姿を捉えるなり、待ってましたと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべ、左腕のデュエルディスクをシャキィンと起動させた。
「フン、アテム!ちょうどいいところに現れたな。海外出張の間、貴様の首を洗って待たせていたデッキの調整が今朝完了した!今すぐフィールドへ来い!」
全盛期のテンションで迫り来る瀬人。
しかし、現在のアテムの脳内ネットワークは、瀬人の放つ凄まじい声量を処理しきれず、完全にキャパシティオーバーを起こしていた。声が頭に響いて痛い。
アテムは眉間に深いシワを寄せ、片手で胃を押さえながら、弱々しく首を振った。
「……断る、海馬。今日のところは引き下がってくれ」
「何だと!?貴様、この俺の挑戦を拒むというのか!」
「怒鳴るな、頭に響く……。非常に情けない話だが、俺は今、人生初の『二日酔い』というトラップカードの直撃を受けているんだ。お前のその殺気立ったオーラ(青眼の闘気)を真っ正面から受け止めたら、俺は今ここで、胃の中のものを全てフィールドに特殊召喚してしまう……」
「……」
瀬人の動きがピタリと止まった。
デュエルディスクのライトが虚しくまたたく中、瀬人はアテムのよれかかった姿と、心なしかお酒の匂いが残る様子をじっと見つめた。
そして、かつてアパートが摘発された時以上の、底冷えするような「呆れ」の視線をアテムに突き刺した。
「アテム……。貴様は現世の悪癖に染まるのも大概にしろ。週明けの月曜から二日酔いで使い物にならんなど、我が海馬コーポレーションの役員として万死に値するぞ」
「仕事は、全て午前中に完璧に終わらせてある……」
「そういう問題ではない!決闘王ともあろう男が、自己管理の甘さでこの俺との聖戦(デュエル)をドタキャンするなど、片腹痛いわ!フン、興醒めだ。さっさと自分のデスクに戻って大人しく麦茶でもすすっていろ」
瀬人はそう吐き捨てると、コートの裾を激しく翻して去っていった。
手厳しい言葉を背中に浴びながら、アテムは這うような失意のまま、なんとか自分のデスクへと戻った。
PCの前に座り、ズキズキと痛む頭を押さえながら深くため息をつく。
「……さすがに海馬を怒らせてしまったな。だが、本当に今の俺では、あいつのブルーアイズの攻撃力(3000)を受け止めきれん……」
自業自得とはいえ、ライバルの期待を裏切ってしまったことに少しだけ気まずさを感じていると、ふとデスクの片隅に見慣れない高級な紙袋が置かれていることに気がついた。
中を覗き込むと、そこには驚くほど充実した「二日酔い対策グッズ」の山が詰まっていた。
市販の胃腸薬、ウコンの力、イオン飲料のペットボトル、さらにはシジミの味噌汁(カップタイプ)や、高級な高濃度ビタミンサプリメントまで、至れり尽くせりのラインナップである。
アテムは目を丸くし、隣の席の社員に声をかけた。
「おい、これを俺のデスクに置いたのは誰だ?」
「あ、顧問。さっき、社長直属の磯野さんが直々に来られて、無言でそれを置いていかれましたよ。……何か、特命の極秘サンプルか何かですか?」
「……なるほどな」
アテムの口元に、ふっと柔らかい笑みが浮かんだ。
磯野が独断でこんな気の利いた真似をするはずがない。「週明けから万死に値する」などと厳しく突き放しておきながら、裏では即座に部下に指示を出して、二日酔いに効くものをありったけ買い集めさせていたのだ。
「海馬の奴……口ではああい言っておきながら、相変わらず不器用な男だ」
なんだかんだで自分の体調を気遣ってくれたライバルの優しさが、痛む頭にじんわりと染み渡る。アテムは少し嬉しくなりながら、さっそく冷たいイオン飲料を取り出して喉を潤し、胃腸薬を口に含んだ。
現代社会の特効薬(と瀬人の不器用な配慮)のおかげか、午後になる頃には、あれほど酷かった頭痛も劇的に和らいでいった。
「よし、ライフ 体調も回復してきたな。残りの業務を一気に片付けるぞ!」
ここからのアテムは、午前中をさらに上回る超高性能ぶりを発揮した。
次々と上がってくる仕様書のチェックを電光石火の早さで終わらせ、新規ゲームのバグを瞬時に「全滅」させていく。その圧倒的な仕事効率は、もはや二日酔いだった人間とは到底思えないレベルだった。
「ふぅ……これで今日の分のフェイズは全て終了だな」
時計の針が定時を指すと同時に、アテムはスマートにPCをシャットダウンした。
残業ゼロ、福利厚生完璧。
カバンに瀬人からの紙袋を大切にしまい、よれよれではない清潔なスーツの上着を羽織って、アテムは軽やかな足取りでオフィスを後にした。
「今夜は海馬からもらったあの味噌汁を飲んで、ゆっくり休むとするか。……そして、次にお前と対峙する時は、俺の最高のドローを見せてやる」
夕暮れ時の童実野町の風を心地よく浴びながら、現世のシステムを完全に乗りこなした決闘王は、温かい我が家へと帰路に就くのだった。

二日酔いから完全に回復し、自慢の高級ウォーターサーバーで淹れた冷たい水を一口含んだアテムは、満足げに喉を鳴らした。
海馬からもらったシジミの味噌汁と二日酔い対策セットの効き目は絶大だった。脳の霧は晴れ渡り、生命力(ライフ)は再び上限の4000まで充填されている。
翌朝。アテムはシャープに尖った髪型を完璧に整え、シワ一つない上質なスーツに袖を通すと、颯爽と海馬コーポレーションへ向けて出勤した。
ーーさて……昨日は二日酔いを理由に断ってしまったが、今日の海馬は間違いなく、昨日以上のハイテンションでデュエルディスクを構えて待ち構えているはず……。
ビルを見上げながら、アテムは胸の中で密かに警戒のカードを伏せた。
あの男の執念深さは、千年の時を超えて彼自身が最もよく知っている。昨日の「ドタキャン」のツケを払わされる覚悟はできていた。
……しかし。
社長フロアの重厚な自動ドアをくぐっても、あの咆哮のような「アテム!!」という声は響いてこなかった。
「……ん?海馬はどこだ?」
不思議に思ってデスクの横を通りかかった磯野に尋ねると、黒服は恭しく頭を下げた。
「ハッ!社長は今朝一番の自社専用機にて、北米支社の緊急トラブル処理および新型デュエルリンクス衛星の打ち上げのために渡米されました。今週いっぱいは帰国されない予定です」
「……そうか」
胸を撫で下ろすと同時に、拍子抜けしたような感覚が襲う。
ーー命拾いした、と言うべきか……。フッ、相変わらず忙しない男だな、お前は。
ライバルという名の超大型台風が去ったオフィスで、アテムは静かに自席のPCを起動した。
ここからの彼の日々は、まさに「完璧なるエグゼクティブ」そのものだった。
午前中は新規ゲームプロジェクトのデバッグ作業。アテムが一度コードに目を光らせれば、不具合 バグという名の罠カードは瞬時に暴かれ、墓地へと送られる。
午後はAIの思考アルゴリズムの最適化。ファラオとして培われた人心理の洞察と盤面把握力により、開発チームが数ヶ月頭を抱えていた調整を、彼はわずか1時間で「神環境」へと昇華させてみせた。
周囲の社員たちが血眼になって残業する中、アテムのデスクだけは常に整頓されていた。
そして時計の針が17時30分――定刻を指したその瞬間、アテムはスマートにジャケットを羽織る。
「お先に失礼する。残りのタスクは全てクラウドの共有フォルダに格納しておいた。確認しておいてくれ」
「えっ、もう終わりですか阿天顧問!?ありがとうございます、完璧です……!」
社員たちの尊敬と畏怖の視線を背に受けながら、アテムはエレベーターへと滑り込む。残業ゼロ、完全定時退社。現世の労働システムにおける「完全勝利(ライフ4000維持)」である。
マンションに帰宅したアテムの「丁寧な暮らし(もどき)」は、ますます冴え渡っていた。
夕食は、全自動調理鍋のボタンを一つ押すだけで召喚される特製カレー。
洗濯物は全自動洗濯乾燥機が完璧にふわふわに仕上げてくれるため、それをハンガーから直接引き抜いて着る。ハンガーからクローゼットへ、クローゼットから身に纏う――無駄なフェーズを極限まで削ぎ落とした「ローテーションの完全自動化」は、今や彼のライフスタイルとして完全に定着していた。
お気に入りのグラスに、高級ウォーターサーバーで抽出した最高品質の「水出し麦茶」を注ぎ、ベランダから童実野町の夜景を見下ろす。
「フッ……満たされているな、今の俺は」
格安SIMの通信制限に怯え、違法建築アパートを追い出され、履歴書の志望動機で頭を抱えていたあの暗黒期が、まるで嘘のようだ。
そして――ついにその日がやってきた。
海馬コーポレーションでの勤務を開始して、初めて迎える「給与支給日」である。
アテムは自室のデスクで、格安スマホ(制限解除済み)の画面に表示されたWEB給与明細のページを開いた。
現世の数字の羅列には、もう抵抗感はない。
「どれ……これが、俺の働いた『対価』というわけか」
画面をスクロールし、最下部に記された【差引支給額(手取り)】の項目に目を走らせた瞬間、アテムの端正な顔が思わず固まった。
「……なっ!?」
表示されていたのは、彼がかつてコンビニの深夜ワンオペで削り取っていた月収の、実に十数倍に及ぶ莫大な金額だった。
各種税金や社会保険料という名の強力なトラップカードによって相応の金額が控除されているにもかかわらず、手元に残る「純粋なライフ 残高」の数値が破格すぎるのだ。
「これほどの額が、一回ドロー(振込)されるだと……!?」
アテムは思わず手元のスマホを凝視した。
あの300万円の賞金は大会の優勝賞金という一時的なボーナスだったが、これは毎月約束された「定期収入」なのだ。これだけの金額があれば、1年後のマンションの正規家賃など蚊に刺されたほどにも痛くない。
「……海馬の奴、案外太っ腹なのか……?いや、それとも俺が二日酔いで使い物にならなかったから、買い被りすぎた報酬を誤って振り込んでしまったのか……?」
かつてエジプトの全財産を管理していた男が、現代日本の給与体系の前で本気で首を傾げた。
その時、タイミング良く海外からモクバのチャットメッセージが飛んできた。
『アテム!今日、初の給料日だろ?明細見たか?』
『ああ、モクバ。今確認したところだ。……だが、少し金額が多すぎるのではないか?振込エラー、あるいは海馬の計算違いでは……』
すると、画面の向こうでモクバが大笑いしているスタンプが送られてきた。
『あはは!エラーなんかじゃないよ!兄様がそんなミスするわけないだろ?』
『では、なぜこれほどの額が……?』
『当たり前だろ!アテムがこの1ヶ月で出した成果、社内のエンジニア数十人分なんだぞ?バグの撲滅速度も、デュエルリンクスのAI構築の精度も、全部規格外だって開発部から悲鳴交じりの感謝の報告が上がってるんだ。兄様はさ、プライドが高いから甘い評価は絶対にしないけど、出された「結果」に対しては容赦なく正当な対価を支払う主義なんだよ』
画面の文字を追いながら、アテムの目がゆっくりと見開かれた。
『兄様が言ってたぜ。「あの男の頭脳が我が社にもたらした利益から見れば、その程度の提示額 手取りなど当然の投資に過ぎん。奴がそれに見合う結果を出し続ける限り、出し惜しみなどするつもりはない」ってさ!』
「……」
スマホを伏せ、アテムは静かに息を吐いた。
海馬が自分に特別な「情け」をかけたわけではない。
ただ純粋に、自分がこの現世で全力を尽くし、提示したゲーム(仕事)を完璧に攻略したことに対する、冷酷なまでにフェアで、そして最高にリスペクトの込められた「評価」の証だったのだ。
「フッ……ハハハ!」
アテムの口から、自然と込み上げるような笑いが漏れた。
「言ってくれるな、海馬……。なるほど、お前らしい『ルールの決め方』だ」
情けでも哀れみでもない。持てる能力を極限まで発揮し、それに対して完璧な勝利報酬を受け取る。
これこそ、彼らがずっとデュエルフィールドで繰り広げてきた関係そのものではないか。
アテムは高級ウォーターサーバーへと歩み寄り、冷たい水と麦茶パックをセットした。
「いいだろう。お前がその最高のフィールド(会社)と報酬を用意し続けるというのなら、俺もまた、特別顧問として最高のパフォーマンスを見せてやるまでだ」
自慢の水出し麦茶をコップに注ぎ、高層マンションのベランダに出る。
遠く海を越えたアメリカの空へ向かって、アテムはグラスを軽く掲げた。
「待っているぞ、海馬。お前が帰国し、この完璧な盤面(生活)の上で、俺にデュエルを挑んでくるその時をな」
輝く手取りと、確固たる社会的信用、そして最高のライバル。
現世のシステムを完全に自らのデッキへと組み込んだ決闘王は、不敵で、どこまでも満足そうなファラオ・スマイルを浮かべ、今夜も非常に「丁寧」な一口を噛み締めるのだった。






海馬コーポレーション特別戦略顧問という「絶対的召喚権」を手に入れたアテムの無双劇は、仕事場だけに留まらなかった。
かつて、駅前の不動産屋や格安SIMの契約窓口で彼を苦しめた「社会的信用 ステータス」という名の透明な壁。それが今、信じられないほどの軽やかさで崩れ去っていく。
「……なるほど。これが現世の『ハイクラス・カード』か」
自室のデスクに届いた漆黒の金属製クレジットカード――プラチナカードを指で弄びながら、アテムはフッと感嘆の息を漏らした。
ほんの数ヶ月前まで、公的な身分証すら怪しく、審査という審査に片端から落ちていた男の元へ、今や銀行、証券会社、果ては高級会員制サロンのインビテーション(招待状)が次々と舞い込んでくる。
証券口座の開設も、ハイクラスな金融サービスの契約も、職業欄に【海馬コーポレーション・特別戦略顧問】と記載した瞬間、何ひとつ滞ることなく、すべて「即時パス」のサインが出された。
「かつての俺は、1ギガの容量に怯え、違法建築アパートを追い出されていたというのに……。海馬の城(KC)の肩書き一つで、これほどまでに世界の判定が覆るとはな」
現代社会のシステムにおける「属性:海馬コーポレーション」の圧倒的な破壊力(攻撃力)を、アテムは身をもって実感していた。
だが、どれほど社会的ステータスが跳ね上がり、口座のライフポイントが潤おうとも、アテムの基本となるライフスタイル――いわゆる「丁寧な暮らし(もどき)」のベースがブレることはなかった。
休日になれば、仕立ての良いカジュアルスーツに身を包み、高級デパ地下で買った最高の食材(を全自動調理鍋に放り込んだだけの料理)を嗜む。
相変わらず自力で作れる最高級ドリンクは「高級ウォーターサーバーで淹れた水出し麦茶」のままだが、グラスの中に浮かぶ氷の結晶は、高層マンションの陽光を浴びて神々しく輝いている。
時に遊戯たちと待ち合わせ、以前なら指を咥えて眺めるだけだった話題のスポットへ出かけたり、最新のゲームを買い揃えたりと、大人の余裕を持った休日を全力で謳歌した。
そして何より、この生活の中で大きく変わったのが「海馬家との距離感」だった。
「よぉ、アテム!今日は頼んでた新作ボードゲームのサンプルが届いたんだ。一緒にやろうぜ!」
「いいだろう、モクバ。俺のハイスペック脳で、そのゲームの戦略を完全解析してやる」
モクバとすっかり意気投合したアテムは、休日の午後などにフラリと海馬邸へ遊びに行くことが日常化していた。
だが――ここでも一つの「お約束」が存在した。
「アテム!貴様、我が家に来ておきながら、またしてもデッキを持参していないとはどういうことだ!」
私室から嵐のように現れた瀬人が、デュエルディスクを構えながら怒声を上げる。
そう、アテムは海馬邸へ赴く際、なぜか毎回デッキを忘れる(あるいはあえて持っていかない)のだった。
「すまない、海馬。今日はモクバと新作ゲームのテストプレイをしに来ただけだからな。デュエルデッキは自宅の聖なる領土 マンションに置いてきた」
「貴様という奴は……!磯野!今すぐこいつのマンションから――」
「待て海馬。今日はもう夜の10時を過ぎている。今からデッキを取りに行かせたら、対戦が終わる頃には夜が明けてしまうぞ?俺は明日も定時で完璧なパフォーマンスを出さねばならんのだ」
正論すぎるアテムの返しに、瀬人は「くっ……!」とこめかみに青筋を浮かべて言葉を詰まらせる。
夜遅くに押し掛けては「睡眠時間の確保」を盾にし、休日に会えば「デッキ不携帯」を貫く。全盛期の威厳を取り戻したはずの決闘王は、瀬人のハイテンションなデュエル申請を回避する術(手札誘発)を、いつの間にか完璧に習得していた。
「フン……腰抜けめ。ならば、何の成果もなく帰れると思うなよ!」
引き下がることを知らない瀬人は、不機嫌そうに棚から古風なチェス盤や、海外の抽象的なアブストラクトゲームを引っ張り出してきた。
「デュエルができないというなら、これで勝負だ!貴様のその腐りかけた頭脳、俺が直接叩き割ってやる!」
「ほう……いいだろう、海馬。デッキがなくとも、ゲームであれば俺が敗れることはない」
重厚なローテーブルを挟み、二人の天才が盤面に向かい合う。
ルール説明はわずか1分。言葉少なに駒が動かされ、超高速の思考戦が繰り広げられる。
デュエルディスクのようなド派手なホログラム演出も、叫び声もない。ただ、パチ……パチ……と駒の響く静かな音と、互いの鋭い眼光だけが室内に交錯する。
「ほう、そこに打つか、海馬。……だが、甘いな」
「フン、貴様のその一手など、十手前から織り込み済みだ!」
横でジュースを飲みながら観戦していたモクバが、楽しそうに目を細めた。
デュエルはおあずけのままだが、こうして盤を挟んで互いの知略をぶつけ合う時間は、瀬人にとっても、そしてアテムにとっても、どこか心地よい余白となっていた。
深夜0時。
「……引き分け、か」
「フン、今日のところは見逃してやる。次こそは我が社の新システム上で、貴様の息の根を止めてくれるわ!」
盤上の駒を片付けながら言い放つ瀬人に、アテムは上着を羽織りながらフッと不敵に微笑んだ。
「ああ、楽しみにしているぞ、海馬。……それではモクバ、また来週な」
高級リムジンで送られ、静かな自室へと戻ってきたアテムは、高級ウォーターサーバーで冷えた水をコップに注いだ。
かつて冥界の闇の中で求めていた、決して退屈することのない、刺激と安らぎに満ちた最高の日常。
社会的信用という最強の装備魔法を纏い、最高の仲間と、最高の宿敵に囲まれたこの現世で、ファラオの「丁寧な暮らし(もどき)」は、どこまでも愛おしく、華やかに続いていくのだった。






海馬邸の重厚なダイニングテーブルに、何事もない顔で着席しているアテムの姿は、いまや海馬家の日常風景の一つとなっていた。
モクバが手配した最高級のディナーを挟み、瀬人が「我が社のAIアルゴリズムの脆弱性を放置するような真似は許さん」と眉をひそめれば、アテムは極上の水出し麦茶を傾けながら「フッ、ならばお前の一手が甘いのだ、海馬」と不敵に返す。時に瀬人の気まぐれで、超一流シェフがその場で腕を振るうプライベートな会食にアテムが同席することも珍しくなくなっていた。
……が、この状況を到底受け入れられない者たちがいた。

「おいおいおい!マジかよアテム!!」
童実野町のカジュアルなカフェで、城之内がテーブルに身を乗り出し、泡を喰ったような顔で叫んだ。
「お前、最近海馬の家でフツーにご飯食べてるって本当かよ!?あの海馬瀬人だぞ!?目が合っただけでデッキを破り捨てられそうな、あの高飛車社長と一緒にメシ喰って胃が痛くならねぇのか!?」
「そうだぞアテム、あいつの家なんて絶対毒が入っててもおかしくなさそうだぜ……」と本田も青ざめた顔で頷き、遊戯も苦笑いを浮かべてアテムの顔を覗き込む。
だが、当のアテムはどこ吹く風で、アイスコーヒーの氷を揺らした。
「何を怯えているんだ、みんな。海馬もモクバも、普通に接すれば楽しい奴らだぞ?特に海馬の語るゲーム観や未来のビジョンは、聞いていて実に興深い」
「『普通に楽しい』!???」
城之内と本田がハモりながら、見たこともないものを見る目でさらにドン引きした。
「正気かよ……!あの海馬瀬人を捕まえて『普通に楽しい』なんて言える人間、全宇宙探してもお前だけだぜ……」
「……やっぱり君の肝の据わり方は次元が違うよ……」
遊戯の呆れ交じりのツッコミを背に受けながら、アテムは「まあ、一度一緒にゲームでもすれば分かる」とマイペースに微笑むのだった。

一方、モクバがアテムのタワマンへ遊びに来ることも増えていた。
「おじゃましまーす!……って、うわっ、アテム!またこれかよ!」
部屋に入るなり、モクバが呆れ果てた声を上げる。
クローゼットの扉は開け放たれ、全自動洗濯乾燥機から引き抜かれたばかりのTシャツやズボンが、そのままハンガーに掛けられてずらりと並んでいた。畳むという概念が一切存在しない、例の「ローテーションの完全自動化」である。
「ハンガーから直接着て、脱いだら洗濯機へ直行……相変わらず完璧なシステムだな」
「システムって言わないの!クローゼットにしまうくらいしなよ!部屋はめちゃくちゃ綺麗で家電もハイクラスなのに、生活感が独特すぎるんだよなぁ……」
頭を抱える小さな副社長に、アテムは「フッ、合理性の追求だ」とドヤ顔で自慢の高級水出し麦茶を差し出すのだった。

そんなある日のこと。
海馬邸での食事会からの帰り際、アテムはふと思いついたように瀬人へ声をかけた。
「海馬。いつもお前の城で馳走になってばかりでは、ファラオの礼節に反する。今度は俺の聖なる領土 マンションへお前を招待しよう。完璧な『おもてなし』を用意して待っている」
「……何?」
瀬人は片眉を跳ね上げた。
「貴様が、この俺をもてなすだと?フン、せいぜいあの壊滅的な家事力で爆発でも起こさんことだな」
冷ややかに鼻で笑った瀬人だったが、数日後、モクバから「アテムの家事力に関する最新レポート」を聞かされた瞬間、その顔から余裕が完全に消え去った。
「兄様、アテムの奴、張り切って高級な『全自動調理鍋』を買ったらしいんだけどさ……」
「ふん、ボタン一つで料理ができる優れものだろう。何が問題だ」
「いや……『あらゆる食材のエネルギーを融合させれば、神の領域の料理が誕生する』とか言って、生肉と魚介とカット野菜と、ついでに高級チョコと麦茶パックをまとめて鍋にぶち込もうとしてたらしいんだよ……!」
「……何だと!?」
瀬人の顔が引きつった。
アテムのハイスペック脳は、調理器具の「自動化」を信じ切るあまり、食材の相性という概念を完全に置き去りにしていたのだ。放置すれば、現代の錬成陣から何が召喚されるか分かったものではない。
「あいつ、兄様が来る日にそれを振る舞う気満々だったぜ……」
「……磯野!」
瀬人は即座に黒服を呼びつけた。
「今すぐ童実野町で最も格式高い、完全会員制の老舗料亭の個室を押さえろ!時間は今夜だ!」
「ハッ!ご用意いたします!」
その日の夕方。
自室のキッチンで、全自動調理鍋に謎の食材(高級牛肉、アボカド、キムチ、そして隠し味の栄養ドリンク)を投入しようとしていたアテムの元に、瀬人から一通の短文メッセージが届いた。
『貴様の狭い部屋で怪しげな物体を食わされる気など毛頭ない。表に車を回した。行くぞ』
「む……?俺の特製融合料理を披露するつもりだったのだがな」
首を傾げつつアテムがマンションの前に降りると、そこには漆黒のリムジンが待機していた。
乗せられた先は、閑静な住宅街の奥深くに佇む、一見客お断りの超高級料亭。洗練された庭園を臨む個室へと通され、次々と運ばれてくる繊細で完璧な和食の数々。
「ほう……見事な手際だな。出汁の旨味が完璧に計算されている」
職人の技が光る懐石料理に舌鼓を打つアテムを見て、瀬人は肘を突き、不機嫌そうにグラスを傾けた。
「フン……貴様のその破壊的な料理とやらに、この海馬瀬人の貴重な胃袋を付き合わせるわけにはいかんからな。……安心しろ、会計はすべて我が社の経費 特別顧問接待費で落ちている」
「そうか。お前の機転には感謝するよ、海馬」
アテムは全く気にした風もなく、極上の刺身を口に運ぶと、どこまでも晴れやかに微笑んだ。
「だが、俺のハイスペックな全自動調理鍋の真価を見せられなかったのは残念だな。次は必ず、俺の部屋で最高の『創作料理』を振る舞ってやる」
「二度と断る!貴様は大人しく、我が社の特別顧問としてコードだけを書いていればいいのだ!」
料亭の洗練された空間に、瀬人のブチギレ声と、アテムの楽しげな笑い声が響き渡る。
海馬家との奇妙で温かい交流、友達からの容赦ないドン引き、そしてどこまでも突き抜けた「丁寧な暮らし(もどき)」。現世のシステムを極限まで楽しむ元ファラオの日常は、今日も賑やかに、そして最高の満たされ気分のまま続いていくのだった。
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