ふかふかのベッド、全自動洗濯乾燥機、そして十分すぎる軍資金(300万円)。
モクバの粋な計らいによって、アテムの「新生活」は劇的な環境改善を遂げた。
相変わらず彼が自力で作れる最高級ドリンクは「水出しの麦茶」だけだったが、今や冷蔵庫には遊戯が差し入れてくれた美味しい惣菜が並んでいる。
毎日しっかり眠り、ハンガーから直接ではあるが清潔な服を着るうちに、あの死んだ魚のようだったフリーターの目は、徐々に本来の鋭さと輝きを取り戻していった。寝癖も心なしか、かつてのファラオの威厳を感じさせるシャープな角度に戻りつつある。
「フッ、やはり休息は重要だな……」
人間らしい健康的な生活を取り戻し、優雅に麦茶をすすっていたある日の午後。
アテムの格安スマホ(現在は通信制限なし)に、モクバから一通のメッセージが届いた。
『アテム、体調は戻った?悪いんだけど、もうそろそろ兄様に会わないとマズいことになりそうなんだ』
アテムは怪訝そうに眉をひそめ、画面をタップした。
『モクバ、どういうことだ?お前が海馬をうまく煙に巻いておいてくれると言ったはずだが。それに、俺はあいつから直接連絡なんて受けていないぜ』
すると、モクバから即座に、どこか焦ったような返信が返ってきた。
『いや、俺は頑張って誤魔化したよ!?だけど兄様はお前のデッキレシピを見た瞬間、すべてを察して激怒したんだ!連絡が来てないって……お前、兄様から何度も呼び出されてるだろ!?』
『呼び出されてる?記憶にないな』
『嘘だろ!?招待状というか、挑戦状がそっちのマンションに郵送されてるはずだ。確認してみてくれ!』
「郵送……?」
近代的なマンションのシステムにまだ疎いアテムは、首を傾げながら1階のロビーへと降りた。
そういえば、引っ越してきてから一度も、あの壁に埋め込まれた小さな扉「郵便受け」を開けたことがなかった。
アテムはダイヤルを回し、その扉を引いた。
「……ん?」
パカッと開いた空間の奥には、もはや「ぎっしり」という言葉では生ぬるいほど、文字通りすし詰めにされた白い封筒の山が鎮座していた。
アテムがその一束を引き抜いてみると、すべての封筒の裏面に、あの見慣れた傲岸不遜なロゴマーク【KC】が刻印されている。
中身を開封するまでもない。それは紛れもなく、海馬瀬人からの執念に満ちた「呼び出し状」の束だった。通数にして数十通。アテムがのんびりと疲労回復に努めている間、瀬人は毎日欠かさず、この高層マンションへ向けて超高精度な挑戦状(速達)を送り続けていたのだ。
「やはり、海馬に気づかれていたか……」
アテムは苦笑した。
しかし、かつてのように「勘弁してくれ」と遠い目になることはなかった。今の彼には、十分な睡眠と、現世のシステムを一度打ち破ったという自信がある。
部屋に戻り、テーブルの上に山積みにされた海馬瀬人からの呼び出し状を眺めながら、アテムはフッと静かに微笑んだ。
「これほど大量の紙を送りつけてくるとは……。相変わらず、せっかちな男だな、お前は」
もちろん、今すぐこの瞬間にとびきりハイテンションな海馬の前に飛び込んでいくのは、まだ少しハードルが高い。もう少しだけ、このふかふかのベッドで人間らしい余暇を楽しみたいというのが本音だった。
「だが……そうだな。もう少しだけ休んだら、そのうち会いに行ってやるか」
あの規模の小さい大会では、正直言って全く張り合いがなかった。ファラオとしての、そして一人の決闘者としての乾きを癒すには、やはりあの男の、狂気にも似た闘志が必要不可欠なのだ。
大会を主催した海馬コーポレーションの社長室で、今も自分を待っているであろうライバルの姿を思い浮かべる。
手元には、現世の荒波を戦い抜くために再構築した愛着のあるデッキ。
「待ってろよ、海馬。俺たちの次のゲームは……もうすぐだ」
アテムの瞳に、かつて世界を救ったあの金色のファラオの、不敵で、圧倒的に強力な光が完全に蘇っていた。
「そのうち会いに行ってやるか」と決意したものの、そこはやはりマイペースなファラオである。
「フッ、海馬。闘いのロードは、常に焦らず、最善のタイミングで訪れるものだ」
などと格好いいことを呟きながら、アテムは再びふかふかのベッドに寝転び、キンキンに冷えた水出し麦茶を飲みながらのんびりと現世の余暇を満喫していた。一週間後か、あるいは一ヶ月後か……気が向いた時にでもあの会社へ足を運べばいい、そう考えていたのだ。
しかし、海馬瀬人の辞書に「のんびり」という単語は存在しなかった。
数日後の午後、部屋に鳴り響いたインターホンの音。
アテムが「相棒かモクバかな?」と寝癖を揺らしながらドアを開けた瞬間、目の前に現れたのは、黒いサングラスに漆黒のスーツを纏った巨漢たち――海馬コーポレーション直属の黒服の集団だった。
「阿天 様ですね。社長がお待ちです」
「え?いや、俺はもう少し休んでから――」
言いかける間もなく、アテムは両脇をがっちりと固められた。抵抗する間も、状況を把握して対応する間もなく、彼はマンションの地下に待機していた最高級リムジンへと、きわめて迅速に「連行」されてしまったのである。
気づいた時には、アテムは絢爛豪華な海馬邸の一室――瀬人の私室にある、重厚な革張りソファに深く腰掛けさせられていた。
室内に流れる沈黙は、マアトの審判よりも重い。
ガラスのローテーブルを挟んだ向かい側には、海外出張から帰国したばかりの海馬瀬人が、組んだ足の上に頬杖をついて座っていた。その鋭い眼光は、まるで獲物をロックオンした猛禽類のようだ。
「……」
「……」
アテムは、よれよれのTシャツの襟元を無駄にいじりながら、視線を泳がせた。
さすがのファラオも、この状況には少しばかり気まずさを感じていた。何しろ、数十通に及ぶ熱烈な呼び出し状を完全に無視し、郵便受けに封印したまま「そのうちな」とのんびり麦茶をすすっていたのだ。
「あー……すまない、海馬。その、郵便受けの確認が少し遅れていたんだ。連絡もせず、もう少し現世の休息を堪能してからお前のところへ……行こうと……」
伸ばし伸ばしにしていた言い訳を口にするアテムを、瀬人は冷徹な一瞥で黙らせた。
暫くの間、部屋には時計の針の音だけが響く。そして、瀬人は静かに口を開いた。
「……デュエルだ」
低く、だが地響きのように確かな声。
「お前が冥界から這い戻り、現世の有象無象の大会で腑抜けた戦いをしていたことは、すべてモクバから聞いている。フン、生活苦だと?くだらん!お前が牙を剥くべき相手は、現代社会のシステムなどではない。この俺だ、アテム!」
瀬人は立ち上がり、コートの裾を翻してデュエルディスクを構えようとした。ライバルとの奇跡の再戦に、その全身からは凄まじい覇気が立ち上っている。
だが、アテムはソファに座ったまま、ポカンと口を開けて瀬人を見上げていた。
「……海馬。非常に言いづらいのだが、俺はデュエルディスクも、デッキも、何一つ持ってきていない」
「何だと……!?」
瀬人の片眉がピクリと跳ね上がった。その目は『貴様、この俺を愚弄するか』と雄弁に物語っている。
「いや、責めるならお前のところの黒服を責めてくれ」
アテムは困ったように両手を広げた。
「俺がぼんやりしている内に、有無を言わさず車に押し込まれたんだ。黒服の男が道中で何か説明していた気もするが、車内の乗り心地が良すぎて全く話を聞いていなかった」
実際、連行される車中で、黒服はアテムにこう告げていたのだ。
『本日は社長の休日につき、海馬邸にてプライベートデュエルを執り行います。デッキをお持ちですね』と。
それを完全に聞き流していた結果が、この「丸腰のファラオ」である。
「休日だから、海馬邸でお前とデュエルをする……。なるほど、そういう手筈だったわけか」
納得するアテムに対し、瀬人は天を仰ぎ、こめかみに青筋を浮かべた。
最強のライバルを完璧な形で迎え撃つため、わざわざ自身の休日を丸ごと空けて待ち構えていたというのに、肝心の相手はデッキすら持たずに、寝癖混じりの頭でソファに座っている。
「アテム……!お前という奴は、現世に馴染みすぎて完全に危機感が狂ったようだな!」
「怒るなよ海馬、これは不可抗力だ。……なぁ、なんなら一旦マンションに取りに戻ってもいいか?格安SIMの通信制限は解除されたから、場所のナビならスマホで出来る」
「黙れ!誰が帰すか!」
世紀のドリームマッチを前にして、どこまでも噛み合わない二人の空気。現世の生活の知恵(とズボラさ)を身につけてしまったアテムと、相変わらずテンションMAXの瀬人の、なんとも格好のつかないシュールな対峙が、海馬邸の豪華な一室で繰り広げられるのだった。
「磯野!」
瀬人が部屋の入り口に向かって鋭く怒声を上げると、即座にドアが開き、磯野が音もなく滑り込んできた。
「ハッ!瀬人様、何なりと!」
「今すぐこの男のマンションへ向かい、デッキを回収してこい!場所はモクバが手配したあの部屋だ。鍵は……フン、お前たちの技術ならどうとでもなるはずだ!」
「了解いたしました!」
「待て、海馬!人の聖なる領土に許可なく押し入るな!それに俺の部屋の鍵はカードキーで――」
アテムが慌ててソファから立ち上がり、止める間もなかった。磯野はファラオの抗議など風の噂ほどにも留めず、電光石火の早さで一礼すると、風のように部屋から去っていった。海馬コーポレーションの黒服たちの行動力は、エジプトの神官団よりも容赦がない。
「……フッ、相変わらず強引な男だな、お前は」
アテムは諦めて再びソファに深く腰掛け、観念したようにため息をついた。こうなれば、デッキが届くのを待つしかない。
しかし、待機時間はただの退屈な時間では終わらなかった。
瀬人のデスクにある大型モニターがピピッと音を立て、留守番を任されているモクバからの、あるいは黒服たちからの「報告書」が次々と画面に映し出されたのだ。
磯野たちが現地でデッキを捜索・回収するついでに、元ファラオが現世でどんな暮らしをしていたのか、その全貌が瀬人の知るところとなってしまったのである。
画面に表示される、生々しいデータの数々。
【阿天氏・現世生活データ】
前職:コンビニエンスストアで阿天(あてん)と名乗り夜勤アルバイト(時給1,520円/閉店に伴い退職)
前住所:木造モルタルアパート(※建築基準法違反により強制立ち退き)
現在の通信環境:月額980円の格安SIM(※直近までデータ容量超過による通信制限履歴あり)
家事遂行能力:壊滅的。自炊実績は「水出し麦茶」のみ。
衣服管理:洗濯後、ハンガーから直接着用するサイクルを好む。
「……」
瀬人は無言でモニターを見つめていた。
普段なら、有象無象の凡骨たちのプライベートなど一瞥する価値もないと切り捨てる男だ。だが、画面に並んでいるのは、自分が次元を超えてまで追い求めた、あの気高く、恐ろしく、神々しかったはずの名も無きファラオの「現実」だった。
アテムはさすがに気まずくなって、ふいっと顔を背け、ローテーブルの上の何もない空間を見つめた。
「……現世のシステムは、俺が思っていた以上に複雑だったんだ。住民税や国保という名のトラップカードが、容赦なく俺のライフを削ってきてな。ハンガーの件に関しては、時間の最適化、いわゆるコストカットだ」
瀬人は画面からアテムへと視線を戻した。
その顔には、アテムが少し危惧していたような、せせら笑うような色は一切なかった。元ファラオがフリーターとして困窮していたことを、大笑いして馬鹿にするような男ではない。
だが。
「……アテム」
海馬は深く、本当に深いため息をつき、信じられないものを見るような目でアテムを凝視した。その表情には、明らかな「呆れ」が滲み出ていた。
「お前ほどの男が、現世に這い戻ってきて最初に始めたゲームが……時給千数百円の切り崩しだと?挙句の果てに、違法建築から叩き出されて路頭に迷うなど、片腹痛いわ。格安SIMだと?ギガの残量を気にして縮こまる決闘者など、この海馬瀬人の視界に入れるな」
「仕方がないだろう。俺には身分証もなければ、現世の資産もなかったのだからな。これでも必死に、丁寧に暮らしていたつもりだ」
「丁寧の定義を書き直してこい!衣服を畳むことすら放棄した男が、よくもぬけぬけと言ったものだ。フン、モクバが余計な世話を焼いていなければ、お前は今頃、童実野町の路上でデュエルディスクを枕にして寝ていたところだ」
瀬人の言葉は手厳しかったが、その根底にあるのは「お前ほどの男が、現代社会の些細な生活苦ごときに摩耗して、俺との決着を先延ばしにしていたのか」という、呆れ果てた落胆だった。
「まぁいい。そのおぞましい寝癖とヨレたTシャツのツケは、これから始まるデュエルで、貴様のライフポイントと共に叩き割ってくれるわ!」
「フッ……言ってくれるな、海馬」
呆れられはしたものの、ここまで正面から魂をぶつけてこられれば、アテムの胸の奥にも熱いものがピリピリと湧き上がってくる。
格安SIMの通信制限からも、シフトの縛りからも解放された今、目の前にいるのは自分を対等な宿敵として迎える男だけだ。
ドアが開き、息を切らした磯野がアテムのデッキを厳かに捧げ持って戻ってきた。
「デッキを回収してまいりました!」
磯野が恭しく差し出してきた、見慣れた自分のデッキ。
瀬人は不敵に笑い、すでに左腕のデュエルディスクを起動させている。エネルギーの充填音が静かな室内に響き渡り、天才決闘者の闘志が最高潮に達したことを告げていた。
「さあ、闘いの時間だ、アテム!」
「ああ、望むところだ、海馬……!」
アテムもまた、かつての覇気を取り戻し、デッキを受け取ろうと力強く手を伸ばし――
その指先が、カードの側面に触れた、まさにその瞬間だった。
ーー……待てよ?
瀬人が先ほど放った、冷徹な現実の言葉が、アテムの脳裏をリフレインした。
『モクバが余計な世話を焼いていなければ、お前は今頃、童実野町の路上で……』
アテムの動きが、ピタリと止まった。
確かに今の俺には、モクバがくれた300万円の賞金がある。1年間家賃無料の、あの最高級の聖なる領土もある。だが……それはあくまで『1年間限定』の話だ
脳内のハイスペック計算能力が、突如として牙を剥いた。
1年後には、あの広大な部屋の容赦のない「正規の家賃」が発生する。そして現在の自分は、コンビニの閉店によって「完全なる無職」。亀のゲーム屋を追い出されてから今日に至るまで、面接を受けても受けても「不採用」の通知ばかりだったあの暗黒の就職氷河期が、鮮明なフラッシュバックとなって襲いかかってきた。
働いていない。次の仕事の目処も立っていない。300万など、現世の税金や物価の前には、一瞬で溶ける初期ライフに過ぎないのではないか……?
「……あ」
アテムは気づいてしまった。
現世の生活苦という名の、永続トラップカードの真の恐怖に。
