「もう一人のボク……よかったら、久しぶりにデュエルしない?新しいデッキを作ったんだ」
夕食後、遊戯が気遣わしい笑顔で、大切に構築したデッキを差し出した。かつてなら、アテムの目は瞬時に闘志で輝き、「望むところだ、相棒!」と不敵に微笑んでいただろう。
しかし、現在のアテムは、よれよれのTシャツの襟元をいじりながら、弱々しく首を振った。
「……すまない、相棒。今は、カードをドローするだけの気力が湧かないんだ。明日の面接の履歴書も書かなければならないし……なにより、今の俺にはデュエルをする『余裕』がない」
その言葉を聞いた瞬間、遊戯の全身に激しい衝撃が走った。
ーーもう一人の僕が……あのファラオが、デュエルを拒むなんて……!?
それは、世界がひっくり返るほどの異常事態だった。現世の生活苦は、彼の魂の拠り所であるデュエルへの情熱さえも奪い去っていたのだ。
遊戯は拳を握りしめ、心の中で強く誓った。
ーーこのままじゃダメだ。僕がもう一人の僕を救う。衣食住の解決も大事だけど……何より、彼にあの輝きを取り戻してほしい。せめて、もう一度だけでもデュエルをさせよう!
決意した遊戯には、一人だけ心当たりがあった。アテムの魂を現世に繋ぎ止め、対等に競い合える唯一無二のライバル。
幸いなことに、遊戯は今、自身のオリジナルゲームを開発・商品化するための打ち合わせで、定期的に海馬コーポレーションへ通っていた。
「すみません!海馬くんに……いえ、海馬社長にどうしてもお会いしたいんです!」
打ち合わせの合間、遊戯は受付の社員に必死で直訴した。しかし、受付の対応は冷ややかだった。
「武藤様、お気持ちは分かりますが、社長のスケジュールは数ヶ月先まで埋まっております。現在は新型デュエルリンクスの開発と海外拠点の視察のため、世界中を飛び回っており、そもそも本日も日本には不在です」
「そんな……」
簡単に会えないことは分かっていたが、いざ現実を突きつけられると肩が落ちる。アテムを救うための最初の手がかりが、いきなり途絶えてしまった。
遊戯が重い足取りでロビーのソファへ向かおうとした、その時だった。
「あれ?遊戯じゃん!どうしたんだよ、そんな暗い顔して」
聞き覚えのある元気な声に顔を上げると、そこには海馬コーポレーションの副社長であり、瀬人の実弟である海馬モクバが立っていた。
「モクバくん……!」
「ゲームの打ち合わせはもう終わったんだろ?何か悩み事でもあるのか?いつもの遊戯らしくないぜ」
小さな副社長は、あからさまに落ち込んでいる遊戯を心配して、真っ直ぐに声をかけてくれた。
遊戯は少し躊躇したが、意を決してモクバの目を見つめた。
「実はね、モクバくん。海馬くんに……どうしてもデュエルを挑んでほしい人がいるんだ」
「兄様にデュエルを?」
モクバは意外そうな顔をした。
「なんだよ、それならそうと早く言えよ。……でもさ、知っての通り、今の兄様は有象無象のデュエリストなんか相手にしないぜ?会社の経営でめちゃくちゃ忙しいし、兄様の領域に立てる奴なんて、世界中探しても片手で数えるくらいしか――」
「有象無象なんかじゃないんだ」
遊戯はモクバの言葉を遮るように、真剣な眼差しで訴えた。
「海馬くんが、ずっと、誰よりも戦いたがっていた……あの人なんだ」
「……!」
モクバの目がハッと見開かれた。兄・海馬瀬人がかつて狂気的なまでの執念を燃やし、次元を超えてまで追い求めた「あの男」の存在。遊戯の口からそれが語られた意味を、モクバが理解できないはずがなかった。
モクバは周囲を素早く見回し、声を潜めた。
「……なるほど、そういうことかよ。分かった。兄様はプライドの塊だからな、生半可な誘いには乗らない。だけど……『アイツ』から正式に挑まれたとなれば、どんな仕事を放り出してでも受けて立つはずだ。それは俺が一番よく知ってる」
モクバは不敵に笑うと、懐から専用の携帯端末を取り出した。
「よし、遊戯。これ、兄様のこれからの極秘スケジュールだ。いつ、どこの空港に降り立って、いつなら時間の隙間があるか……兄様に直談判してデュエルを挑める『最善のタイミング』を、一緒に作戦立てようぜ!」
「ありがとう、モクバくん……!」
頼もしい仲間の協力を得て、遊戯の瞳に希望の光が戻った。くたびれ果てたファラオに、もう一度だけ、戦士としての魂を呼び覚ますための「リベンジマッチ」。その舞台を整えるための算段が、海馬コーポレーションのロビーで静かに動き始めた。
遊戯はモクバの協力によって、海馬瀬人の分刻みの極秘スケジュールを手に入れることに成功した。しかし、ここへ来て最大の難問が立ちはだかる。
そもそもアテムは、遊戯からの誘いですら「そんな余裕はない」と断るほどくたびれているのだ。その彼に、自分から進んで海馬瀬人にデュエルを挑むよう仕向けるのは、至難の業だった。
ある日の夜、遊戯はアパートの更新料の計算書を前にため息をついているアテムへ、探るように声をかけた。
「ねぇ、もう一人の僕。今度、すごく強いデュエリストと戦える機会があるんだ。……きっと、最高の気晴らしになると思うんだ」
しかし、アテムは寝癖のついた頭をだるそうに掻きながら、力なく首を振るだけだった。
「すまない、相棒。気持ちは嬉しいが……今の俺は、その『強い誰か』に勝ったところで、明日の食費が増えるわけでもないという現実を考えてしまうんだ。それよりも、時給が50円高い深夜警備の求人に履歴書を書かなくては……」
余裕のなさは、かつての誇り高きファラオの思考を完全に「現実的」なものに変えていた。言葉の端々に漂うフリーター特有の哀愁に、遊戯はただただ胸を痛めるしかなかった。
そんな膠着状態のまま数日が過ぎた頃、遊戯のスマートフォンにモクバからメッセージが届いた。
『よぉ遊戯!この前は兄様のスケジュールの話をしたけど、近々、うちが主催するデュエルの大会があるんだ。その挑ませたい人ってのをこれに参加させてみたらどうだ?』
デュエルの話を真剣にしていた遊戯を心配して、モクバがわざわざ気を利かせて、一般参加枠の案内を送ってくれたのだ。
遊戯はさっそく、居間の座卓でうつむいているアテムにスマホの画面を見せた。
「もう一人のボク、モクバくんがね、今度大きなデュエルの大会があるからって誘ってくれたんだ。たくさんの決闘者と戦えるし、行ってみない?」
「……ノーだ、相棒」
アテムは画面を見ようともせず、よれよれのTシャツの袖をまくりながら、力なく答えた。
「何度も言うようだが、今の俺には趣味に割くライフ もスタミナもない。それより水出し麦茶のストックが切れた、作ってこなければ……」
完全に拒絶の構えである。遊戯が諦め半分で、モクバが添付してくれた大会のPDF資料をスクロールしていた、その時だった。
画面の最下部に、金色の装飾で派手に彩られた文字が目に飛び込んできた。
【優勝賞金:300万円】
【副賞:童実野町新築マンション1年間家賃無料(KCプロデュース)】
「あ……」
遊戯の動きが止まった。
アテムがキッチンへ向かおうと立ち上がった瞬間、遊戯はその画面をこれでもかとアテムの目の前に突きつけた。
「もう一人のボク!!これ!これを見て!!」
「だから、俺は……ん?」
液晶画面に映し出された「300万」と「家賃無料」の文字列が、アテムの死んだ魚のようだった瞳に飛び込んだ。
その瞬間、彼の脳内で、未払いの税金、格安SIMの通信制限、不動産屋で突きつけられた冷酷な初期費用の見積もり、そして違法建築アパートから追い出されたあの日の屈辱が、凄まじいスピードで計算・処理されていく。
ピクッ、とアテムの眉が跳ね上がった。
くたびれていた背筋が、まるで千年パズルの光を浴びたかのように、一瞬でシャキッと直立する。
「……相棒」
アテムの熟考はわずか1秒だった。彼は遊戯のスマホをひったくるように掴むと、かつての鋭いファラオ・スマイルを――いや、現代社会のマネーゲームに目覚めた、きわめて現金な男の笑みを浮かべた。
「この大会のレギュレーションはどうなっている?デッキの構築制限は?申し込みの締め切りはいつだ!?」
「え、ええっ!?出てくれるの!?」
「当然だ!この闘い(マネーサバイバル)、俺が乗らない理由がない!待っていろ現世のシステム、この賞金と家賃無料の権利……俺のドローで毚り取ってやる!」
現金な動機ではあったが、何はともあれ、元ファラオの瞳にあのギラギラとした「闘志の炎」が完全に灯った。遊戯は「動機はともあれ、これで海馬くんの前に立たせることができる……!」と、内心でガッツポーズを決めるのだった。
実は、モクバが案内してくれたその大会には、ある重要なレギュレーションが存在していた。
【過去の公式世界大会、および「バトルシティ」等の主要大会で上位入賞経験のある者は参加不可】
つまり、すでにレジェンドデュエリストとして名を馳せている武藤遊戯は、エントリーすらできない「初心者・未実績者向け」の大会だったのだ。しかし、戸籍すら怪しく、現世の公式戦データが完全にゼロである「阿天(アテム)」には、これ以上ない完璧な舞台だった。
「フッ、実質ノーマークの裏ルートというわけか。面白い」
アテムは即座に参加登録を済ませ、大会当日を迎えた。
大会会場の熱気は凄まじかったが、世界トップクラスの猛者たちが排除されたその環境は、冥界帰りの元ファラオにとって、まさに「イージーモード」以外の何物でもなかった。
周囲の参加者たちは、対戦相手であるアテムの姿を見て、一様に油断していた。
何しろ、ステージに立っているのは、相変わらず寝癖がぴょこんと跳ね、首元のヨレたTシャツを着て、どこか「週5の夜勤明け」を漂わせるくたびれた男なのだ。
だが、ゲームが始まった瞬間、その場にいる全員が戦慄した。
「俺のターン、ドロー!――これで終わりだ」
無駄のない完璧なプレイング。相手の戦術を一手先、十手先まで見切った圧倒的なゲームメイク。アテムは一度のピンチも迎えることなく、文字通り「軽く」対戦相手をなぎ倒し、あっという間にトーナメントの頂点へと駆け上がってしまった。
パチパチパチ……と、会場に拍手が響き渡る。
優勝者として表彰台に立つアテムだったが、その姿にはかつての神々しさはなく、ただ「これで今月の家賃と食費が得られた……」という、極限の安堵感からくる疲れた笑みが浮かんでいた。
この大会は海馬コーポレーション主催だったが、社長である瀬人は案の定、海外出張中で不在。代わりに表彰式のプレゼンターとして登壇したのは、副社長のモクバだった。
「優勝おめでとう!君が今回の……って、おおっ!?」
目録を渡そうとしたモクバは、アテムの顔を間近で見るなり、文字通り飛び上がって驚いた。
「お前……本当に、アテム!?……本当に、現世に戻ってたのか!」
「よぉ、モクバ。久しぶりだな」
「遊戯が言ってた『兄様に挑ませたい凄い奴』って、誇張じゃなくて、お前のことだったのか……!」
モクバはすべてを理解した。同時に、目の前の元ファラオがあまりにも「くたびれたフリーター」のオーラを放っていることにも衝撃を受けていた。あのプライドの塊のような男が、よれよれのTシャツ姿で、300万円の目録をそれはそれは大事そうに両手で抱きしめているのだ。
モクバはゴホンと咳払いをし、マイクの音を拾わないように声を潜めた。
「……まぁ、事情はいろいろあるみたいだな。とにかく優勝はおめでとう。一応、KC主催の特権として、優勝者には『次のプロリーグの上級大会へのシード権』が与えられる。それに、もし君が『他に戦いたい特定のデュエリスト』を指名してくれれば、こっちで裏からマッチングの手配をすることもできるぜ?……例えば、兄様とかな!」
モクバは最高の気を利かせたつもりだった。これを受け入れれば、瀬人とのドリームマッチが即座に実現する。
モクバの魅力的な提案に対して、アテムは手にした目録(300万円と新築マンション家賃1年無料の権利)をじっと見つめた。
「……いや、ありがたいが、今回は遠慮しておこう」
「えっ!?断るのかよ?兄様と戦いたくないのか?」
アテムは深く、本当に深いため息をついた。その表情には、勝利の栄光など微塵もなく、ただただ「労働からの解放感」だけがあった。
「正直に言えば、この大会の決闘は俺にとって些か張り合いがなかった。……だが、それ以上に、俺は今、猛烈に疲れているんだ」
「疲れてるって……」
「ここ数ヶ月、現世のシステム にライフを削られ続け、俺の精神は限界を迎えていた。しかし、この賞金と新たな神の領土(1年間家賃無料のマンション)が手に入った今、俺の現世サバイバルは第一段階をクリアしたと言える。……今はただ、一刻も早くこの部屋に入り、1年分の安泰を噛み締めながら、何も考えずに泥のように眠りたいんだ」
完全に燃え尽きたフリーターのメンタリティだった。
海馬瀬人という強大なライバルとの闘いは、確かに魂を震わせるものだ。しかし、今の彼にとって最大の敵は「明日の生活苦」であり、それを打倒した今、これ以上の戦闘行為 に割くスタミナは1ミリも残っていなかった。
「そうか……まぁ、それだけ大変だったんだな。分かったよ、この権利は確実に手配しておくから」
モクバは苦笑しながらアテムの肩を叩いた。だが、別れ際にふと思い出したように人差し指を立てる。
「あ、そうだ。一応言っておくけどさ。今回は規模が小さいとはいえ、KC主催の公式大会だ。兄様は海外にいても、大会の結果や優勝者のデッキレシピには必ず目を通すぜ?……ましてや、優勝者の名前が『阿天 』で、使用デッキがこれだ。すぐに気づいて、逆に兄様からお前にデュエルを挑んでくる可能性は大いにあるからな」
「……」
モクバの言葉を聞いた瞬間、アテムは完全に無言になった。
かつてならライバルの追撃を不敵な笑みで歓迎したはずのファラオが、今はただ、魂がどこかへ抜けてしまったような遠い目をしている。
「……モクバ。頼むから、しばらくは俺をゆっくりさせてくれ。今の俺には、あいつのあの凄まじいテンションを受け止めるだけのキャパシティ がないんだ……」
あまりにも切実で、そしてあまりにもくたびれ果てたアテムの様子を見て、モクバはついに同情を禁じ得なかった。あの誇り高きファラオをここまで摩耗させるとは、現世のフリーター生活、恐るべしである。
「あはは……分かったよ。じゃあ、兄様には俺からうまく煙に巻いておくからさ。それと、俺から個人的に優勝祝いをその新しいマンションに送っておくよ。じゃあな!」
モクバは頼もしくウィンクすると、足早にステージを降り、大会の閉会を宣言した。
大会から数日後。
アテムは数ヶ月お世話になった「亀のゲーム屋」を旅立つことになった。
「ありがとう、相棒。おかげで俺は、現世での足がかりを掴むことができた」
「ううん、僕は何もしてないよ。新生活、応援してるからね。またいつでも遊びに来て!」
遊戯と双六に温かく見送られ、アテムは童実野町の新築高層マンションへと足を踏み入れた。
最上階に近いその部屋は、広々としたフローリングと全面ガラス張りの窓があり、違法建築アパートとは比べものにならないほど素晴らしい「聖なる領土」だった。
とはいえ、今の部屋には何もない。ただガランとした空間が広がっているだけだ。
アテムは手に持っていた唯一の財産(敷きっぱなしで少し薄くなった布団)を床に広げた。
「フッ、十分だな。まずはこの布団を敷いて、泥のように寝る……」
そう呟き、横になろうとしたその瞬間だった。
ピンポーン。
静かな部屋に、最新式のインターホンの音が鳴り響いた。
アテムが怪訝に思いながらドアを開けると、そこには配送業者の群れが立ち並んでいた。
「海馬コーポレーション様からのご依頼でお届けに上がりました!」
「……何?」
そこからの数時間は、まさに「創造の奇跡」のようだった。
次々と運び込まれる、洗練されたデザインの家具や最新の家電製品。大型の冷蔵庫、全自動洗濯乾燥機(これで服がシワだらけになるズボラ生活ともおさらばだ)、そして部屋の主役として鎮座した、見るからに高級そうなふかふかのダブルベッド。
あっという間に、部屋はすぐにでも最高級の暮らしができる完璧な空間へと変貌を遂げた。
配送業者から手渡された一通のスタイリッシュなカード。そこには、モクバの直筆でメッセージが添えられていた。
『優勝おめでとう、アテム!
家事とか壊滅的なんだろ?遊戯から聞いてるぜ。
とりあえずこれで不自由はしないはずだ。兄様のことは気にせず、まずはゆっくり休めよな!
――モクバより』
「……フッ、最高の副社長だな」
アテムの口元に、ようやく現世に戻ってきてから一番穏やかな笑みが浮かんだ。
彼は衣服の自動ローテーションのことなど完全に忘れ、よれよれのTシャツのまま、その真新しいふかふかのベッドへとダイブした。
高級な羽毛布団が、現世の荒波に揉まれて疲れ果てたファラオの身体を優しく包み込んでいく。格安SIMの通信制限も、迫り来る税金の恐怖も、海馬の執念深い視線も、すべてが遠い彼方へと消えていく。
「おやすみ、現世……。俺の、勝ちだ……」
泥のような深い眠りの中で、アテムは久しぶりに、一切の闘いのない、本当に平和で温かい夢を見ていた。
