01 脱走王


金色のファラオとして、悠久の闇から世界を救うために戦った記憶は、今や美しい思い出だ。
冥界の扉をくぐり、神々の調停者として収まるべき場所に収まったアテムを待っていたのは、荘厳なる魂の安息――
……と言えば聞こえはいいが、実態は違った。
冥界のシステムは、数千年の間に恐ろしいほど最適化されていた。
マアトの天秤は全自動で罪の重さを計り、死者の書はデジタルアーカイブ化され、役人たちのルーティンワークに付け入る隙など微塵もない。ファラオの仕事?そんなものは、たまに上がってくる報告書に「良きに計らえ」と印章を押すだけである。
「……退屈だ」
黄金の玉座で、アテムは深くため息をついた。
戦いがない。好敵手(執念深い海馬瀬人の顔が脳裏をよぎる)の挑発もない。
何より、魂を震わせる「ゲーム」がない。
このままでは暇すぎて死んでしまう。いや、自分はすでに死んでいるのだが、精神的な意味で消滅しそうだった。
「よし、脱走しよう」
ファラオの決断は、常に迅速で果敢である。
彼は神々の目を盗み、冥界のセキュリティホールの隙を突いて、光の射す現世へとあっさりと舞い戻った。






カランコロン、と懐かしいガラスの風鈴が鳴る。
童実野町の「亀のゲーム屋」の扉を開けたアテムは、かつての相棒――武藤遊戯の姿を見つけるなり、極上のファラオ・スマイルを浮かべた。
「よぉ、相棒。久しぶりだな」
「えっ……!?もう一人の僕!?」
遊戯は手に持っていた新作ゲームのパッケージを落としそうになりながら、目を丸くした。当然である。冥界へと旅立ったはずの魂が、まるで「ちょっとコンビニへ行ってきた」くらいの軽いノリで立っているのだから。
「ど、どうしてここに?冥界のお仕事は!?ゲートはちゃんと閉まったはずじゃ……」
慌てる遊戯に対し、アテムは腕を組み、さも大人の余裕といった風にフッと笑ってみせた。
「フッ、心配するな。冥界の務めはすべて順調、完璧に問題ない。たまには現世の視察も必要だと思ってな」
(※嘘である。完全に仕事をサボってきた)
「そ、そうなんだ?よかったぁ……。君が元気そうで安心したよ」
素直な遊戯は、アテムの言葉を1ミリも疑わずに胸をなでおろした。
その無垢な笑顔を見て、アテムは内心で小さくガッツポーズを決める。
ーーやはり現世はいい。何より、また相棒と一緒に暮らせるのだ。今度は世界を救う戦いも、闇のゲームもない。ただただ楽しく、平和に、ボードゲームや新作カードのデッキ構築に明け暮れる日々が待っている!
アテムはすでに、遊戯の部屋のどのスペースに自分の分の布団を敷くか、脳内で完璧なレイアウトを完成させていた。
しかし、現世の現実は、冥界のシステムよりもシビアだった。
夕方、店の奥からやってきた双六は、アテムを見るなり腰を抜かさんばかりに驚いたが、そこは年の功。「おお、戻ってきたか!」と豪快に歓迎してくれた。
……そこまでは良かった。
夕飯の食卓を囲み、平和な時間が流れる中で、双六がふと現実的な話を切り出した。
「ところでアテムよ。お主、これからどうするんじゃ?うちに泊まるのは一向に構わんが……」
「じいちゃん、もちろん俺は、またここで相棒と共に……」
「いやぁ、それがのう……」
双六は困ったように白髭をなでた。
「見ての通り、うちは普通の一般家庭じゃ。それに最近はネット通販の自動化が進んでの、亀のゲーム屋の店番もワシと遊戯だけで完全に手が足りておる。お主が手伝ってくれると言うても、これ以上シフトを増やす余裕がないんじゃよ」
「……シフト?」
アテムの端正な眉がピクリと動いた。ファラオの辞書にない単語だ。
「それに、アテムには現世の身分証がないだろう?」
遊戯が申し訳なさそうに付け足す。
「ご飯を食べるにしても、これからここで暮らすにしても、やっぱり大人の男の人が一人増えるとなると、それなりの手続きや……その、経済的な自立が必要になってくるというか……」
「経済的自立……」
アテムは絶句した。
かつて古代エジプトを統治し、国家の財政を握っていた最高権力者が、現代の日本の、四畳半の経済圏において「剰余人員」として扱われている。
「つまり……俺はここに、いてはいけないということか?」
「いや、追い出すわけじゃないんだ!」
遊戯は慌ててフォローを入れた。
「ただ、ずっとここに隠れているわけにもいかないし、君がこれから現世で『楽しく平和に』暮らすためにも、自分の基盤を作らないと、出ていかざるを得なくなっちゃうよってことで……」
平和なスローライフを夢見て脱走してきたファラオに、突如突きつけられた「無職・宿無し」の危機。
現世の風は、冥界の砂嵐よりも冷たくアテムの頬を撫でた。
「……なるほど。これが現世の『洗礼』というわけか」
アテムは静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。
夜の童実野町のネオンが輝いている。この世界のどこかに、身分証を持たない元ファラオを雇い、衣食住を保障し、かつ己の退屈を満たしてくれるような、都合のいい人間がいるだろうか?
謎のプライドを発揮したアテムは、遊戯のサポート(と、双六が「昔のよしみじゃ」と裏から手を回してくれた、いささかグレーな保証人ルート)によって、なんとか童実野町の片隅に築30年のワンルームアパートを借りることに成功した。
かくして、元ファラオの、ギリギリフリーター生活が幕を開けたのである。






現在のアテムのステータスは「売れっ子(になりたい)コンビニ夜勤アルバイター」だ。
時給は童実野町の最低賃金をわずかに上回る程度。手元にあるスマートフォンは、遊戯に勧められた月額980円の格安SIM。データ容量を使い切ると通信制限がかかるため、動画を見る時は「亀のゲーム屋」のWi-Fiに繋がせてもらうのが鉄則である。
冥界の退屈が嘘のように、今の彼は忙しい。
「……なるほど。『じゅうにがつごう』の支払いは、このバーコードをレジでスキャンするわけか」
手元にあるのは国民健康保険料の納付書。
区役所から送られてくる公的手続きの書類は、古代エジプトのヒエログリフよりも解読が困難だったが、持ち前の高い知性をフル回転させ、現代社会のシステムを一手ずつ攻略していた。
やることが多い。だが、それが最高に充実していた。
自分の力で時間をコントロールし、生きている実感がそこにはあった。

アテム自身は、毎日を非常に「丁寧」かつ「スタイリッシュ」に暮らしているつもりだった。
朝、目覚めると、彼はまずキッチンへ向かう。
お気に入りのガラスポットに水道水を注ぎ、市販の麦茶パックをひとつ、厳かに投入するのだ。
これが、現在のアテムが作れる唯一の最高級ドリンク「水出しの麦茶」である。
「よし、今日も完璧な抽出だ」
家事スキルに関しては、壊滅的の一言に尽きた。
火を使えばコンロを焦がし、包丁を持たせれば食材が謎の多面体に変わる。そのため、主食はもっぱらコンビニの廃棄弁当か、お湯を注ぐだけのカップ麺だ。
洗濯についても、彼の「丁寧」は独特だった。
ベランダに干されたTシャツやズボンが太陽の光を浴びて乾くと、アテムはそれを畳まない。
「フッ、合理的だろ」
乾いた服をハンガーから直接引き抜き、そのまま身に纏う。
いわゆる「ローテーションの完全自動化(衣服版)」である。クローゼットにしまうという無駄なフェーズを省いた、ファラオ流のライフハック 単なるズボラだった。



ある日の夕方。
バイトへ行く前のひととき、アテムは淹れたての 水から出したての麦茶をコップに注ぎ、狭いワンルームの畳の上に腰を下ろした。
窓からは、夕日に染まる童実野町の街並みが見える。
「冥界にいた頃は、こんな些細な日常が訪れるとは思いもしなかったな」
テーブルの上には、バイトのシフト表と、昨日遊戯と対戦して惜しくも負けたボードゲームの盤面が広がっている。
神のカードも、千年パズルも、世界を破滅に導く邪神もここにはいない。あるのは、次の家賃の支払いと、今夜の夜勤の品出しの予定だけだ。
「さあ、そろそろ時間か」
アテムは残りの麦茶を飲み干すと、ハンガーから直接、乾きたてのバイトの制服 ポロシャツを剥ぎ取って袖を通した。
名札には「阿天(あてん)」の文字。
財布の中身はギリギリだが、彼の瞳はかつてないほど生き生きと輝いている。ファラオの現代サバイバルは、まだ始まったばかりだ。






現世の社会構造は、闇のゲームよりもはるかに冷酷で、容赦のない「ライフポイント」の削り合いだった。
ひと月、ふた月と時が経つにつれ、アテムの「丁寧な暮らし」のメッキは徐々に剥がれ落ちていった。
原因は、現代日本の誇る完璧な「徴収システム」である。
せっかく深夜労働で稼いだ給与明細から、住民税、国民健康保険料、年金、さらにはアパートの更新料の積み立てなどが、驚くべきスピードで引かれていく。手元に残る金額を計算するたび、アテムの端正な顔からかつての余裕が消え失せていった。
「……計算が合わない。なぜ働いているのに、財布の聖なる障壁 残高がこれほど薄くなるんだ……?」



かつて古代エジプトの民を率い、常に威風堂々としていた男の姿は、そこにはなかった。
まず、トレードマークだったあのエッジの効いた髪型に、明確な「生活の疲れ」が現れ始める。
寝癖がついたままの毛先はどこかくたびれ、全盛期の鋭いツヤを失っていた。乾いたハンガーから直接引き抜いて着続けている服は、何度も洗濯されたせいで首元がわずかにヨレ、うっすらと生活臭を漂わせている。
鏡に映るのは、鋭い眼光を持つファラオではなく、「週5で夜勤に入っている、ちょっと顔の整った死んだ目のフリーター」だった。

かつては「現世の視察」と称して、童実野町の様々な場所へ出かけていたものだ。新しいカードショップを覗いたり、最新のガジェットを眺めたり、日常のすべてがゲームのようで楽しかった。
だが、今の彼にそんな気力は残っていない。
「往復運賃で、冷凍パスタが2個買えるな……」
そう呟いた日から、アテムの行動範囲は劇的に狭まった。
休日に電車に乗って遊びに行くこともなくなり、スマホのデータ通信量を気にして外では画面すら開かない。休みの日は、ただアパートの布団の上でゴロゴロしながら、天井の木目を眺めて体力を回復させるだけの日々。
生活のすべてが、【バイト先】と【アパート】の往復という、完璧なミニマリズム スタミナ切れへと収束していった。



ある日の夕方。
アテムは薄暗い部屋で、1本の「水出し麦茶」のボトルをじっと見つめていた。
冷蔵庫を開けても、中には特売の納豆と、昨日の夜勤でもらってきた廃棄のおにぎりが1個あるだけだ。
「……フッ、今月の残高は残り3000円、か」
次の給料日まであと4日。
まさにライフポイント残り100の状態で、相手のダイレクトアタックをいかに凌ぐかという、極限の綱渡り。
だが、不思議と絶望はなかった。
コンコースを吹き抜ける風の冷たさも、足の裏に溜まる労働の疲労感も、すべてが「今、自分は生きている」という強烈な証明だった。冥界のあの、何も変わらない、誰も飢えない、完璧に最適化された退屈に比べれば、この「明日の食費を心配するスリル」すらも、一種の贅沢に思えてくるのだ。
「相棒、見ていてくれ。俺はこの現世のドローフェイズ 給料日を、必ず掴み取ってみせる」
よれよれのポロシャツを着直し、寝癖を雑に手ぐしで抑えながら、アテムは部屋の鍵を閉めた。
夕暮れの街へ向かうその背中は少し丸くなっていたが、瞳の奥にある不屈の闘志だけは、フリーターの日常の底で、まだ静かに燃え盛っていた。






世の現実は、時として邪神の呪いよりも容赦なく、そして唐突に破滅のコンボを叩き込んでくる。
アテムがギリギリの生活を送っていたあのアパートは、実は法的なグレーゾーンに位置する物件だった。ある日突然、役所の人間と警察がやってきて「即時退去」を言い渡されたのだ。建物自体が違法建築だった上に、老朽化による取り壊しと、童実野町の都市再開発計画が同時に決定したという。
「な……何だと……!?」
愕然とするアテムに、追い打ちをかけるようにバイト先のコンビニの店長が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんね、阿天くん。実はうちの店、あの再開発のエリアに入っててさ……来月末で閉店することになったんだ」
【住居の喪失】と【職の喪失】。
現代社会におけるライフラインを同時に破壊されたアテムは、よれよれのTシャツ姿のまま、文字通り路頭に迷うこととなった。

「フッ、住む場所が変わるだけのこと。現世の土地など、いくらでもある」
強がってみたものの、現実は甘くなかった。
藁にもすがる思いで飛び込んだ駅前の不動産屋で、アテムは現代の「契約」という高い壁に絶望することになる。
「えーっと、阿天さん……。現在ご職業は?ああ、来月で退職予定ですか。では、現在の貯蓄額を見せていただけますか?……それと、公的な身分証明書と、しっかりした国内の保証人、それから敷金・礼金・仲介手数料で、初期費用としては大体このくらい必要になりますね」
提示された電卓の数字を見て、アテムの思考はフリーズした。
格安SIMの通信制限どころの話ではない。現在の彼のライフポイント(貯金)では、初期費用の半分にも満たなかった。身分証も相変わらずグレーなままである。
「……詰んだか」
ファラオ、完全なる敗北。
手が出ないどころか、土俵にすら立たせてもらえなかった。

行くあてを失ったアテムが、トボトボと足を引きずりながら行き着いたのは、やはりあの懐かしいガラスのベルが鳴る「亀のゲーム屋」だった。
「……すまない、相棒。不甲斐ない俺を、笑ってくれ」
寝癖はさらに酷くなり、着古した服はくたびれ果て、すっかり「都会の荒波に揉まれて力尽きたフリーター」の姿になったアテムを見て、遊戯は笑うどころか、すぐに温かいココアを淹れてくれた。
「そんなこと言わないでよ、もう一人の僕。大変だったんだね……。次の家と仕事が決まるまで、ここにいていいよ。じいちゃんにも僕から話しておくから」
「相棒……!」
双六も「ふん、現世のサバイバルは厳しかったじゃろう」と、今度は無条件で居候を許可してくれた。ただし、あくまで「次の住居と職が決まるまで」という条件付きの、一時的な避難所としての約束だった。
こうしてアテムは再び遊戯の部屋に身を寄せ、亀のゲーム屋の店番を手伝いながら、本格的な就職活動を始めることになった。

しかし、現世の「就職氷河期」は元ファラオのプライドを粉々に砕いていく。
求人誌を片手に、片っ端から面接に応募するものの、結果は全敗。
「阿天さん、職歴の『古代エジプト統治』って何ですか?」
「身元を証明できる書類がこれだけだと、ちょっとうちでは雇用できなくて……」
「お若いのに、ちょっと覇気がないというか、お疲れのようですね」
面接官たちの冷ややかな言葉が突き刺さる。かつて何万もの軍勢を率いたカリスマ性も、現代の「履歴書」という紙切れ一枚の前には何の役にも立たなかった。

夕方、店のカウンターで、売れ残ったボードゲームのコマを寂しげに眺めるアテムの姿があった。
手伝いとしての店番だけは完璧にこなすため、双六からは重宝されているが、自分の居場所を早く見つけなければという焦燥感が彼を苛む。
「……やはり、現世で生きるということは、闇のゲームで勝つよりもはるかに困難なロード だな、相棒」
「大丈夫だよ、もう一人のボク。焦らずに、また一歩ずつ探していこう?」
遊戯が淹れてくれた「水出しではない、ちゃんとお湯で淹れたお茶」をすすりながら、アテムは小さく息を吐いた。
どん底まで落ちたくたびれフリーターのファラオ。だが、相棒の温もりがあるこの場所で、彼は再び立ち上がるための「次の一手」を、静かに、じっと考え続けていた。
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