07 感染王


その日の13時。
いつもならどれほど嫌そうでも「1分たりとも遅れるな」という瀬人の社則に従い、完璧なスーツ姿で社長室の隣に現れるはずのアテムが、来なかった。
「……モクバ、アテムはどうした」
「あ、兄様。それがさ、アテム、部屋から全然出てこなくて……。呼びに行ったら『頭が割れるように痛い、あと顎の下がすごい腫れてて痛い』って、ベッドで丸くなってて……」
モクバの報告を聞き、瀬人はフンと冷徹に鼻で笑った。
「13時起床、ゲーム、パフェ、昼寝の生活を何ヶ月も続けていれば当然の報いだ。あいつの言う『過労』とやらの正体は、ただの不摂生に過ぎん」
だが、不摂生なら不摂生で、医師に適切な処置を受けさせ、原因を徹底的に突き止めた上でお灸を据えてやればいい――それが瀬人の徹底した合理主義だった。瀬人は即座に、海馬コーポレーションの誇るお抱えのプライベートドクターを自宅へと手配した。

「……おたふく風邪だと?」
「ええ。間違いないかと」
海馬邸の豪華な客室で、医師は診断書を見ながら瀬人に告げた。
原因は不摂生ではなかった。アテムは3000年前の古代エジプトの王。現世の子供なら誰もが受けているような「予防接種」など、受けているはずがなかったのだ。どこかの視察先かカードショップで、現世のウイルスをまともに貰ってしまったらしい。
「お前ともあろう者が、現代のありふれたウイルスごときに不覚を取るとはな」
瀬人が呆れたように室内へ入ると、そこにはいつもの威勢の良さはどこへやら、ベッドの中で小さくなっているアテムの姿があった。
おたふく風邪の症状は、大人がかかると酷く重い。
高熱にうなされ、耳の下から顎にかけてがパンパンに腫れ上がり、唾を飲み込むだけでも激痛が走る。さすがのアテムも、これではゲームをすることも、通販をポチることも、大好きなピザを食べることもできない。ただただ、痛みに耐えて大人しく横たわるしかなかった。
「……海、馬……」
布団の中から、熱で潤んだ深紅の瞳が瀬人を見上げる。
いつもなら「お前のハートを撃ち抜いてやる」だの「俺の完璧なアプローチ」だのと言うのだが、ハニートラップを仕掛ける余裕など、今の彼には1ミリも残っていなかった。
それどころか、アテムは瀬人の姿を視界に捉えた瞬間、ハッとして、慌てて上布団を頭までかぶって顔を隠してしまった。
「……何をしている、アテム。顔を見せろ。医者の処方した薬は飲んだのか」
「来ないでくれ、海馬……!今の俺は……顔が、酷く醜く腫れているんだ……。お前にだけは、そんなマヌケな姿を見られたくない……!」
布団の中から、熱でかすれた、ひどく情けない声が響く。
常日頃から「瀬人の隣に立つに相応しい最高の伴侶」を演じようと必死になっていたアテムにとって、おたふく風邪で下ぶくれになった顔を見られるのは、死ぬよりも(既に死んでいるが)恥ずかしいことだった。何より、そんな格好悪い姿を見せたら、本当にこの家から追い出されてしまうかもしれないという、無自覚な恐怖もあった。
瀬人は布団の塊となったアテムの前に立ち、小さくため息をついた。
どこまで締まりのない頭をしているのだ、この男は……
瀬人はベッドの端に腰掛けると、アテムが頭まで被っていた上毛布を、躊躇いなくグイと引き下げた。
「あ、待て……!」
抵抗しようとするアテムだったが、熱で力が入らない。露わになったその顔は、確かに左右の顎がぽってりと腫れ上がり、熱さで頬が赤く染まっていた。いつもなら世界を射抜くような鋭い美貌が、今はまるで、いたずらが見つかって膨れている子供のようだった。
アテムは恥ずかしさのあまりキュッと目を瞑ったが――。
彼の額に、ひんやりとした、しかし確かな質量を持った瀬人の手のひらが置かれた。
「っ……」
「大人しくしていろ。ただでさえ存在が怪しいお前が、現世の病にかかって消滅でもされたら、俺のロードに傷がつく」
瀬人はそうぶっきらぼうに言いながら、熱いアテムの額を確かめるように、ゆっくりとその大きな手で、髪の毛ごと優しく頭を撫でた。
いつもなら絶対に触れさせてくれない、瀬人の、酷く不器用で、けれど真っ直ぐな優しさ。
その手のひらから伝わる心地よさに、アテムの胸の奥が、熱とは違う理由でじんわりと熱くなっていく。激しい頭痛と顎の痛みが、その手の温もりだけで、不思議と和らいでいくような錯覚さえ覚えた。
ああ……なんだろう、すごく……安心する……
この男の側にいたい。この温もりのそばに、ずっといたい。それが、ダラダラ生活を守るためなどという不純な動機ではなく、ただただ「海馬瀬人という男が好きだから」なのだと、アテムの鈍すぎる脳が、熱のせいもあってようやく自覚しかけていた。
やがて、瀬人はアテムの熱が少し落ち着いたのを見届けると、額から手を離し、ベッドから立ち上がった。
「薬が効いてきたようだな。お前はそのまま、泥のように眠れ。厨房に消化に良いものを作らせて――」
瀬人が部屋から出て行こうとする、微かな気配。
その瞬間、アテムの胸を、今までにない強烈な寂しさと焦燥感が襲った。
行かないでくれ。
もっと、その手で触れていてほしい。
「……海馬!」
アテムは本能のままに、布団から熱い手を伸ばした。
そして、翻りかけた瀬人の白い上着の裾を、細い指先で、引き止めるように強く、強く、掴み取った。
「行かないでくれ、海馬……」
熱で真っ赤に火照った顔のまま、アテムは掠れた声で必死に訴えかけた。白い上着の裾を掴む指先は、小刻みに震えている。その深紅の瞳には、今にも零れ落ちそうなほど大粒の涙が溜まっていた。
かつて冥界の扉の向こうへ毅然と去っていった、あの気高き王の面影はどこにもない。そこにはただ、高熱の苦しさと孤独に怯え、大好きな男に縋りつく一人の男がいた。
そんなライバルの姿を見下ろし、瀬人はフンと低く鼻で笑った。
「貴様、本当に自分が誰だか分かっているのか。……これほど情けない王が、3000年前に実在したとは到底信じられんお伽話だな」
口では容赦のない毒を吐きながらも、瀬人は掴まれた上着の裾を振り払おうとはしなかった。それどころか、再びベッドの端へ腰を下ろすと、はだけていたアテムの毛布を、首元まできちんと掛け直してやる。
「アテム。俺を誰だと思っている。この海馬瀬人が、そんな涙目の脅しに屈するとでも――」
「頼む……隣に、いてくれ……」
朦朧とした意識の中で、アテムがさらにギュッと上着を握りしめる。これほど素直に、かつ必死に自分を求めるライバルを前にして、流石の瀬人も、このまま部屋を後にするほどの鬼にはなれなかった。
「……チッ。仕方のない男だ」
瀬人は諦めたように大きくため息をつくと、上着のポケットからスマホを取り出し、モクバへ短く「今夜はアテムの部屋にいる。明日の朝の会議は1時間遅らせろ」とだけメッセージを送った。
「お前が眠るまでだ、アテム。さっさと目を閉じろ」
「……うん。ありがとう、海馬……」
瀬人が隣にいてくれるという絶対的な安堵感からか、アテムの口元に、どこか間の抜けた、しかし心からの小さな笑みが浮かぶ。瀬人の大きな手が再びアテムの額へと置かれ、優しく、規則的にその髪を撫で始めた。
その心地よさに身を委ねるように、アテムはゆっくりと重い瞼を閉じた。そして、そのまま吸い込まれるように、深く穏やかな眠りへと落ちていった。
一時間が経過し、室内のデジタル時計が深夜を回った頃。
アテムの寝息は完全に安定し、高熱による荒い呼吸もすっかり落ち着いていた。
「……フン、ようやく熟睡したか」
瀬人はアテムの額から手を離し、ベッドから立ち上がろうとした。だが、その瞬間、身体が妙な抵抗に遭って止まる。
視線を落とすと、アテムの細い指先が、瀬人の上着の裾を、いまだに信じられないほどの力で「握りしめたまま」固まっていた。
「おい、アテム。離せ」
瀬人はアテムの指を一本ずつ優しく解こうと試みたが、指を引き離そうとするたびに、アテムは眠ったまま「うぅ……」と不満げに眉を寄せ、さらに力を込めて布地を引っ張り、瀬人の身体を引き寄せようとする。完全にロックされていた。これ以上無理に引っ張れば、せっかく寝付いた病人を起こしてしまうのは明白だった。
「どこまで強情な男だ。眠っていても、この俺を拘束するつもりか」
アタッシュケースもデスクに置いたままだ。この状態で朝まで身動きが取れないとなると、非常に効率が悪い。
瀬人はしばし、ベッドの中で丸くなっているライバルの顔を見つめていた。おたふく風邪で少し下ぶくれになったその頬は、相変わらず実年齢より幼く見えて、どこか無防備だ。
「……まぁいい。お前のその不完全な肉体が、現世のバグウイルスで消滅でもされたら、それこそ計算が狂うからな」
瀬人は観念したように、窮屈な三つ揃えのスーツの上着を諦めて脱ぎ捨てた。
そして、アテムに手を握らせたまま(※実際は上着の裾だが)、広いキングサイズのベッドの空いている片側に、ゆっくりと身体を横たえた。
瀬人が隣に入ってきた微かな振動と体温を察知したのか、眠っているアテムの身体が、自然と瀬人の方へと擦り寄ってくる。
「……海馬……」
小さな寝言と共に、アテムの頭が瀬人の肩のあたりに、すとん、と収まった。
現世の王と、古代の王。
世界を震撼させた二人の決闘者が、高級な毛布の下で、静かに呼吸を合わせている。
窓の外に広がる夜を見つめながら、瀬人はフッと愉しげに唇の端を吊り上げた。
姫抱きどころか、添い寝か。……古代の亡霊、貴様のくだらん『政略結婚』の提案も、あながち的外れではなかったかもしれんぞ
翌朝、目が覚めたアテムがどれほど顔を真っ赤にして驚き、自らの「ガチ恋」を自覚してパニックになるか。そのマヌケな顔を特等席で拝めると思えば、この「添い寝」というイレギュラーなナイトルーティンも、決して悪い投資ではない。
瀬人はアテムの髪を最後にもう一度だけ軽く撫でると、ライバルの心地よい体温を感じながら、静かに目を閉じるのだった。



朝の柔らかな光が客室に差し込む中、アテムはゆっくりと意識を取り戻した。
まだ微かに残る熱の気だるさはあるものの、昨日までの激しい頭痛と顎の痛みは劇的に引いている。それ以上に、今の彼を包み込んでいたのは、3000年前の王宮の寝所でも感じたことのないような、圧倒的な「心地よい温もり」だった。
「……ん……」
寝ぼけた頭のまま、アテムはその温かい質量へと自然に身体を寄せ、その逞しい胸元に、ぎゅっと両腕で抱きついた。現世の最高級の羽毛布団は、どうしてこんなにも固く、男らしい体温を宿しているのだろうか。
「――起きたか、アテム」
「羽毛布団」の胸元から、低く、酷く聞き馴染みのある低い声響いた。
「え……?」
アテムが恐る恐る視線を上げると、そこには、髪を下ろしたまま至近距離で自分を見下ろしている、瀬人の顔があった。
「か……かい、海馬ッ!?」
一瞬で脳の全回路がショートした。
アテムは顔面を沸騰させた茹でダコのように真っ赤に染め、大慌てで抱きついていた両手を離して、ベッドの端へとバックしようとした。
しかし、瀬人の手がアテムの腰をガシッと容赦なく掴み、逃亡を阻止した。
「暴れるな、病人。また熱が上がったらどうする」
瀬人は逃げようとするアテムの身体を、まるで軽い荷物でも扱うかのように「フン」と軽々と持ち上げると、ベッドのド真ん中へと無造作に置き直した。まさに先日のセトの「軽々抱き上げられそうで可愛い」という予言通りの展開である。
そのまま瀬人はベッドからスマートに抜け出し、脱ぎ捨ててあった上着を拾い上げて袖を通し始めた。
「熱は下がったようだな。おたふく風邪のピークは超えたか。……特製の粥を持ってこさせる。貴様はそこで大人しくしていろ」
瀬人が部屋を出ていくまで、アテムはベッドの真ん中で完全にフリーズしていた。
海馬が、俺の隣で、寝ていた……?いや、その前に俺が抱きついた……?海馬はなぜ怒らなかった……?というか、今、軽々と持ち上げられなかったか……?
一朝一夕では処理しきれない膨大な情報量と胸のバクバクに、アテムの脳は完全にキャパシティを超えてノックアウトされていた。

数日後。驚異的な回復力によっておたふく風邪を完全克服したアテムは、現世での溜まった鬱憤を晴らすべく、冥界の私室のベッドに寝転んでいた。
もちろん、服装はロゴ入りスウェットである。
しかし、その手にはスマホが握られており、アテムは部屋の壁に向かって、まるで電話をするようにしてブツブツと喋りかけていた。
その壁の向こう、少し離れた位置には、腕を組んで佇むセトの姿がある。
アテムはセトの顔が瀬人に似すぎているせいで、今の精神状態では彼の顔を直視することがどうしてもできなかった。結果として、背を向けたまま壁に向かって話すという、妙にシュールな「対話」の形をとっていた。
「……セト。聞いてくれ。俺は、どうにかしてしまったのかもしれないんだ……」
アテムはスウェットのフードを深く被り、ひどく弱気な声で壁に呟いた。
「何ですか、先代様。顔も見ずに。アレに、また何かお灸でも据えられたのですか」
セトの抑抑のない声が響く。
「違うんだ……。海馬が、看病してくれて……隣で寝てくれて……。それ以来、海馬の顔を見るだけで、胸の奥が締め付けられるように痛いんだ。あいつの側にいたいと思うのに、側にいると、まともに息もできなくなる。……俺は、現世の奇妙な病にでも侵されたのだろうか……」
壁に向かってウジウジと悩む上司の姿に、セトは盛大にため息をついた。
やれやれ……。現代の子の『捕獲作戦』は完璧ですが、肝心のこの御方がこれでは、せっかくの業務提携政略結婚が破談になりかねない。
セトは腕を組み直し、アテムの背中に向けて、冷徹に、しかしこれまでにないほど正確に、主の本心を指摘し始めた。
「王。あなたは当初、『現世のダラダラ生活を守るため』に、現代の子を伴侶にすると豪語していましたね?」
「あ、ああ。そのつもりだったが……」
「では、今すぐその『ダラダラしたい』という目的を、頭から消し去りなさい」
セトの声が、静かに王宮の私室に響く。
「あなたは、現代の子に『他へ行ってほしくない』のでしょう?彼の隣に、自分以外の者が立つのが許せないのでしょう?優しい手に触れられ、看病された時、あなたが感じたものは『居場所の保障』などという俗な安心感ですか?……違いますね」
セトの一言一言が、アテムの心の奥底に隠されていた、本当の感情の扉をパチパチと開けていく。
「あなたが本当に求めているのは、現世の贅沢な生活などではない。……ただ、海馬瀬人という男のすべてが欲しい。彼の意識のすべてを、自分だけに向けさせていたい。……そうではありませんか?」
「セト……」
アテムは、壁に背を向けたまま、目を見開いた。
セトに言われて、初めて全てのピースが綺麗に噛み合った。
なぜ1日中あいつのことばかり考えてしまうのか。なぜ他の誰よりも、あいつの前でだけ格好いい自分でありたいと思うのか。なぜバスローブ姿に動揺し、看病されただけで涙が出るほど嬉しかったのか。
それは、スウェットのためでも、ピサのためでも、ゲームのためでもなかった。
アテムはゆっくりとスマホをベッドに置き、自分の胸元に手を当てた。そこでは、あの朝、瀬人の胸に抱きついた時と同じ、熱い鼓動が脈打っている。
「……そっか」
3000年の時を経て、現世のあらゆる娯楽を極めた王が、最後にたどり着いた「本当の答え」。
アテムはぽつりと、しかし確かな自覚を込めて、静かに呟いた。
「俺……ちゃんと海馬のことが、好きなんだな……」
壁の向こうで、セトが「ようやく気づきましたか、このポンコツ王は」と言わんばかりに、フッと満足げに唇の端を吊り上げた。
無自覚なハニートラップの時代は終わりを告げた。自分の本当の『渇望』に気づいたアテムが、これから現世の王をどう揺さぶり返していくのか――その第二ラウンドの幕が、今、静かに上がろうとしていた。



海馬のことが……好きだ
自覚してからのアテムの行動は、三幻神を召喚する時並みに迅速だった。
しかし問題が一つあった。――3000年の歴史を誇るアテムたる男、これが正真正銘の「初恋」だったのである。古代エジプトでは戦いと統治に明け暮れ、現世ではカードとゲームに全てを捧げてきた男が、一人の男に恋をしてしまった。どうアプローチしていいのか、さっぱり分からない。
そこでアテムは、瀬人のブラックカード(※まだニート用の特権は生きていた)を使い、またもや現世の「恋愛雑誌」を片っ端からポチった。
ただし、今度のは不純な動機ではない。
翌日から、アテムの部屋には『ViV◯』『ana◯』『メンズノン◯』、さらには『週刊SP◯!の恋愛心理学特集』などが山積みにされた。スウェット姿で真剣な面持ちでページをめくるアテム。
「ふむ……『気になる彼をオトす!ギャップ萌えテクニック』……『あざと可愛い上目遣いは計算が9割』……なるほど、現世の恋愛決闘の戦術書か。奥が深いな……」
超高速の脳細胞を完全に無駄遣いし、アテムは翌日の2時間労働から、それらの小手先のテクニックを片っ端から試し始めた。
「海馬、この仕様書のチェックを出来るか?」
社長室のデスクで、アテムはあえていつもより少し声を低くし、首を傾げて「斜め45度の上目遣い」を繰り出した。雑誌曰く『男が最も庇護欲をそそられる角度』である。
瀬人は、書類から視線を上げ、アテムの顔をじっと見つめた。
アテムは(よし、効いているぞ……!)と内心でガッツポーズをしたが、瀬人の口から出たのは冷徹な一言だった。
「アテム、貴様、顎の下の腫れは引いたはずだが、まだ首の骨にバグが残っているのか?歪んでいるぞ。サッさと画面を見ろ」
「バ、バグではない……!」
さらに別の日。
おやつ時、瀬人がコーヒーを飲んでいると、アテムが自分の分のクレープ(いちごチョコホイップ)を持ってトコトコと近づいてきた。そして、わざとらしく自分の頬にホイップクリームをちょこんと付けたまま、小首を傾げた。
「おい、アテム。顔にゴミがついているぞ」
「えっ?あ、ああ……取って、くれないか……?(※雑誌曰く『触れ合うチャンスを作るあざとテク』)」
「フン、自分で拭け。ティッシュはそこだ」
「……」
瀬人は、鉄壁だった。どんな小手先のテクニックを繰り出そうとも、ピクリとも動じない。表情一つ変えず、完全に無反応を貫いていた。
当然である。雑誌投入は2度目だった。
当然、瀬人は決して気づいていないわけではなかった。
むしろ、あのアテムが必死になって、顔を赤くしながら拙い「恋愛テクニック」を仕掛けてくる様子を、特等席で眺めているのだ。
前回とは違い、アテムが自分のことを猛烈に意識し、本気で惚れ込んでいることは、その泳ぐ視線や、近づくたびに早くなる鼓動から痛いほど伝わってきた。
フン、付け焼き刃の知識でこの海馬瀬人を揺さぶれると思うな。だが……まぁ、あのマヌケな空回りは、見ていて退屈はせんがな
瀬人はあえて無反応を装うことで、アテムをじわじわと焦らし、楽しんでいたのである。
しかし、そんな瀬人の「大人の余裕(という名のドSな焦らし)」に、アテムの忍耐は限界を迎えていた。
なぜだ……!完璧なコンボを叩き込んでいるはずなのに、瀬人には全く効いていない!このままでは、俺の気持ちは一生届かないんじゃないか……!?
焦りと、もどかしさと、瀬人を想うあまりの胸の痛さに、アテムはとうとう小細工をすべて投げ捨てる覚悟を決めた。

セトのアドバイスが、正しいのかもしれない。



その夜、23時。
瀬人が仕事を終え、自室に戻ってネクタイを緩めた、まさにその瞬間だった。
トントン、と、いつもより少し硬く、遠慮がちなノックの音が響いた。
「入れ」
瀬人が答えると、ドアがゆっくりと開いた。
入ってきたアテムは、スウェット姿ではなかった。以前、瀬人が仕立ててくれたあのシックな黒いシャツを着て、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。
その表情には、ここ数日間の「あざとさ」や「小細工」は一切なく、かつて戦場で神々しい光を放っていた、あの気高き「王」の瞳が戻っていた。
アテムは瀬人のデスクの前まで歩みを進めると、真っ直ぐに瀬人の青い双眸を見据えた。
「夜遅くにすまない、海馬」
その声は微かに震えていたが、不思議と深く、部屋の空気を震わせた。
「お前に……どうしても、大事な話があるんだ」
一世一代の決闘に挑むかのような、圧倒的な緊張感。
瀬人は緩めかけていたネクタイの手を止め、アテムのその真剣な眼差しを、真っ正面から受け止めた。小手先のゲームは終わりだ。アテムの口から、ついに「本当の言葉」が紡がれようとしていた。

「大事な話、だと?」
瀬人はデスクに背を預け、腕を組んでアテムを見据えた。
「ああ。俺は、お前に……」
アテムは意を決して口を開いた。しかし、いざ言葉を紡ごうと瀬人の真っ直ぐな青い瞳を見つめた瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がり、喉の奥がカラカラに乾いて、続くはずの言葉がどうしても出てこない。3000年の英知も、現世の恋愛雑誌の知識も、すべてがどこかへ吹き飛んでいた。
ただ立っているだけで顔が真っ赤になっていくライバルを見て、瀬人は一つため息をついた。
「フン……。お前がそんな様子では、夜が明けても話が終わらん。そこに座って頭を冷やせ」
瀬人は部屋の片隅にある贅沢な革張りのソファを顎で示した。
「俺はシャワーを浴びてくる。戻るまでに、その締まりのない頭を少しは整理しておけ」
そう言い残し、瀬人はバスルームへと消えていった。
残されたアテムは、促されるままソファに深く腰掛けた。
落ち着け、俺は王だ……。自分の気持ちを伝えるだけじゃないか。なぜこんなに恐ろしいんだ……
深く呼吸をし、両手で顔を覆って必死に気持ちを落ち着けようとする。
しかし、十数分後。バスルームのドアが開き、戻ってきた瀬人の姿を見た瞬間、アテムの涙ぐましい努力は一瞬で水の泡となった。
「待たせたな」
現れた瀬人は、あの夜と同じ、髪を下ろしたはだけたシャツ姿。それどころか、今回は風呂上がり直後のため、濡れた髪から滴る水滴がその白い鎖骨を伝い、大人の色気が天井知らずにダダ漏れしている状態だった。
な、なぜ今その格好なんだ……!狙っているのか!?俺を完全に追い詰める気か……!?
過剰な色気の暴力を前に、アテムはソファの上で文字通りカチコチに固まった。
瀬人はアテムの動揺を愉しむように薄く笑うと、なんとアテムのすぐ隣、肩が触れ合うほどの距離に音もなく腰を下ろした。
「さあ、話を聞こう。大事な話とは何だ、アテム」
至近距離から投げかけられる、低く響く声。
アテムは咄嗟に瀬人から顔を背けた。正面からその顔を見なくて済む分、これなら話せるかもしれない――そう思ったのも束の間、今度は逃げ場のない「距離」がアテムを襲った。
はだけたシャツの隙間から漂う、瀬人自身の熱い体温。そして、湯気と共に鼻腔をくすぐる上質なシャンプーの香り。
脳内を瀬人という存在そのものに埋め尽くされ、アテムのキャパシティは完全に限界を迎えた。パニックに陥った彼の口から零れ落ちたのは、告白とすら呼べない、あまりにも拙く途切れ途切れの、けれど純度100%の本音だった。
「だ、だめ……。……好き」
蚊の鳴くような、小さく意味不明な呟き。
「……」
部屋に沈黙が流れる。
アテムは恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い、ソファのクッションに突っ伏したい衝動に駆られていた。格好悪い。王としても、男としても、あまりにも無様で情けない告白だった。
しかし、隣の瀬人は、驚くことも呆れることもしなかった。ただ、フッと満足げに唇の端を吊り上げた。
「フン……。随分と時間がかかったな。だが、お前が自分の口からその言葉を吐き出した以上、今のゲームは『合格』ということにしておいてやる」
「か、海馬……?」
アテムが恐る恐る顔を上げると、瀬人は腕を組み、いつになく真剣な、底知れない瞳でアテムを射抜いた。
「俺もお前の気持ちに応える用意はある。……だが、アテム。お前は理解しているのか?」
瀬人の声から、僅かな愉悦の色が消え、絶対的な王のトーンへと変わる。
「この海馬瀬人の『パートナー』になるということが、どういうことなのかを。我がロードを共に歩むということは、ただこの屋敷に居座ることとは訳が違う。世界を、未来を相手に、常に完璧であることを求められる。お前にはその覚悟があるんだろうな?」
「あ……」
アテムは、完全に言葉を失った。
覚悟。パートナーとしての未来。そんな高尚なこと、1ミリも考えていなかった。
そもそも、この計画の動機は何だったか。
「瀬人に本物の奥さんができたら、俺の『13時起床・ゲーム・パフェ・昼寝』の現世極上ニート生活(エデン)が脅かされる。だから死守するために瀬人を囲い込もう」という、不純極まりない動機だったのだ。
その最悪な下心から始まった作戦の途中で、瀬人の距離の近さや色気に不覚にも当てられ、気づけば本気で意識を持って行かれていただけの話である。
「どうした、アテム。お前ほどの決闘者が、まさか何も考えずに俺の懐に飛び込もうとしたわけではあるまい?」
真っ直ぐに見つめてくる瀬人の瞳は、「お前ならそれだけの覚悟を持っているはずだ」という絶対的な信頼に満ち溢れている。ついでに、冥界のセトからも「合理的な政略結婚だ」と勝手に期待されている。
言えない……。最初はただ、お前のカードでピザやゲームや高級アイスをポチり続けたいだけの不純動機だったなんて、口が裂けても言えない……!
動機は……動機は確かにめちゃくちゃだった。「海馬コーポレーションの資本で高級アイスを食べ、スウェット姿で13時まで朝寝坊する生活を死守したい」という、王のプライドをドブに捨てた不純極まりないスタートライン。
しかし、恋の熱というものは、そんな都合の悪い初期設定など一瞬で脳内から消し去ってしまう強力なバグ(あるいは魔法)だった。
今、アテムの胸の中に残されているのは、ただ一つ。
隣にいる瀬人の体温が愛おしい、この男のすべてが欲しいという、純度100%の「好き」という感情だけだ。
アテムは深く息を吸い込み、深紅の瞳に力強い光を宿した。
現世の王である瀬人のパートナーになるということ。それは、彼の果てしない未来ロードに並び立ち、世界を、宇宙を相手に、常に完璧なデュエリストとして君臨し続けることを意味する。
「……フッ、海馬。お前こそ俺を誰だと思っている」
アテムは不敵に微笑んでみせた。その顔はまだ耳まで真っ赤だったが、瞳だけはかつて神々を従えた王そのものだった。
「お前の歩む未来がどれほど過酷だろうと、俺がその隣を譲るわけがないだろう。世界が相手なら、俺たちがそれを超えてみせるまでだ。……覚悟など、とっくにできている!」
堂々と言い放ったアテムの様子を、瀬人は静かに見つめていた。
最初はただのニート生活死守のための小細工だったはずが、今や自分との未来を見据えて目を輝かせている。その真っ直ぐな魂の輝きに、瀬人はフッと口元を綻ばせ、受け入れることを決めた。
「よく言った、アテム」
瀬人はスッと上体を傾け、ソファの背もたれに長い手を突いてアテムの逃げ場を無くした。ウードの香りが一気に近づく。
驚いて息を呑むアテムの視界が反転し、次の瞬間、彼の額に、瀬人の少しひんやりとした、けれど酷く優しい唇が触れた。
「っ……!」
アテムはぎゅっと目を閉じ、全身の血が逆流したかのように真っ赤になった。
触れられた額が、まるで闇のゲームの炎に焼かれているように熱い。

――その後、自分がどうやってソファから立ち上がり、どうやって次元転送ドアのある自室へ戻ったのか、アテムは全く記憶にない。
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