06 初恋王


ある日の午後。童実野町のいつものカフェで、アテムは遊戯、城之内、杏子、本田の4人とテーブルを囲んでいた。
目の前には、アテムが瀬人のブラックカードで躊躇なく注文した、タワーのような特製フルーツパフェが鎮座している。
「へえー、アテム、最近はちゃんと毎日決まった時間に海馬くんの会社に行ってるんだ」
杏子が感心したようにスプーンを動かす。
城之内も、パフェのチェリーを口に放り込みながらニヤニヤと笑った。
「おうおう、一時はどうなることかと思ったぜ。あのままスウェットが皮膚と同化して、一生部屋から出てこねえスウェットの精霊にでもなるんじゃないかって心配したからな。少しはマシな引きニートになったじゃねえか」
「フッ、城之内くん。俺をそこらの一介の怠け者と一緒にするなと言ったはずだぜ」
アテムは不敵に笑うと、おもむろに最新のスマートフォンを操作し、画面を4人に見せつけた。
「見ろ。これが今月、俺が海馬コーポレーションのゲーム開発部で叩き出した実績スコアだ」
画面に表示されていたのは、驚異的な数字の数々だった。
アテムがデバッグした新作ゲームのバグ発見率は驚異の100%を記録し、彼がテストプレイで叩き出した超絶技巧のプレイ動画は、社外秘ながらも「これを見ればどんな初心者でもクリアできる究極の攻略データ」として、開発チームの生産性を500%向上させていた。
「うわぁ……すごいね!短時間勤務なのに、普通の社員の何倍も成果を出してるんだ!」
遊戯が目を輝かせて拍手を送る。アテムは「フッ、ゲームの領域においてこの俺が遅れをとるはずがないからな」と、パフェの生クリームを優雅に口へ運びながら勝ち誇った。週に1日の冥界公務と、現世での高効率な労働。今の彼は、現世の最先端テクノロジーと最高級ニート環境を完全に支配しているという全能感に満ち溢れていた。
しかし、そんなアテムの完璧なライフプランに、本田が何気なく放った一言が、一瞬にして冷や水を浴びせかけた。
「でもさ、アテム。お前、今は海馬の財力に甘えてその生活を楽しんでるけどよ……。もし海馬に『嫁』が来たらどうするんだ?」
「……何?」
アテムの、パフェをすくうスプーンがピタリと止まった。
「いや、だってそうだろ?」
本田は腕を組み、現実的な未来を語る。
「海馬だって男だ。いつか世界的な大企業の令嬢とかと電撃結婚して、海馬邸に奥さんを迎える日が来るかもしれない。そうなったらさ、いくら海馬が許可してても、奥さんからすれば『なんで旦那の部屋の隣に、一日数時間しか働かないスウェット姿の男が永久就職して居座ってるのよ!』って話になるだろ。普通に追い出されるんじゃねえか?」
「そ、それは……」
「まあ、意味不明な資産があるから何とかなるか。アテム邸とか建ててさ。」
「……」
アテムの脳内に、未曾有の大災害がシミュレーションされた。
もし瀬人に妻ができれば、あの遮光カーテン完備の最高級ゲストルームは「子供部屋」か「奥様の衣装部屋」に改装される。毎日ドローンが運んでくる宅配ピザの履歴は家計簿で仕分けされ、「無駄なジャンクフードは禁止です」とヘルシーなサラダに変えられるかもしれない。
海馬コーポレーションで数時間働き、海馬邸に暮らす、というコンボが打ち破られればどちらも消える可能性がある。
この海馬邸での至高の現世ダラダラ生活という名の聖域を失えば、待っているのは冥界でのセトによる「おかえりなさい先代様(そして3000年分の書類です)」の地獄の笑顔だ。
マズい……。このままでは、俺の現世のライフポイントがゼロになる……!
アテムはゴクリと喉を鳴らし、真剣そのものの眼差しでパフェを見つめた。
失うわけにはいかない。この、ゲームと動画とピザに満ちた、愛すべき引きこもりライフを。
「……ならば、選択肢は一つしか残されていないな」
「え?何が?」と首を傾げる遊戯。
アテムは顔を上げ、かつて神を束ねた男の、絶対的な決意を秘めた瞳で言い放った。
「俺が、海馬を射止める。奴の『嫁の座』に、この俺が降臨すればいいだけのことだ」
「「「「はぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!?!?!?!?」」」」」
カフェに響き渡る、本日一番の大絶叫。
「えっ!?キミ、この前の海馬くんへの愛の告白、本当に本気だったの!?」と顔を真っ赤にする遊戯。
「おいおいおい!生活費のために宿敵と結婚しようとするなよ!目的が不純すぎるだろ!!」と頭を抱える城之内。
しかし、アテムの耳にはもう仲間のツッコミなど届いていなかった。
すべては、現世のダラダラ生活を永遠のものにするため。アテムによる、瀬人攻略という名の、最も不純で最も必死な「闇のゲーム」が幕を開けたのである。



数日後、海馬邸。
アテムはソファの上で、KCネットで密かに取り寄せた『大人の恋愛心理学』『一瞬で男を虜にする仕草』といった、およそ王の部屋には似つかわしくない雑誌を真剣に読み漁っていた。
ふむ、なるほど……。まずは『ギャップ』を見せるのが効果的、か。普段はスウェット姿の俺が、奴が帰宅した瞬間に、完璧に整えた姿でコーヒーを差し出す……。これであいつの心を揺さぶる!
その日の夕方。会社から帰宅した瀬人が大階段を上ってくると、そこにはレザージャケットを完璧に着こなし、片手にマグカップを持ったアテムが待ち構えていた。
アテムは雑誌で学んだ「妖艶かつ不敵な微笑み」を浮かべ、低い声で囁いた。
「おかえり、海馬。疲れただろう、俺が特製のブレンドを――」
しかし、瀬人はアテムの横を1ミリの躊躇もなく通り過ぎながら、冷徹な一言を言い放った。
「フン、不審な動きをするな。貴様がこの3日間で『男を落とす魅惑のコーヒータイム』というページを熱心に熟読していたデータは、我が家のスマート防犯カメラ経由で全て俺のタブレットに同期されている。下らん企みをせず、ゲームのバグ報告書でも提出しろ」
「なっ……!?」
アテムはコーヒーを持ったまま硬直した。全知全能のKCセキュリティーを前に、王の恋愛戦術は完全に「手札公開筒抜け」だったのだ。

その後も、アテムの挑戦は続いた。
次は『上目遣いでのおねだり』だな。これで奴の庇護欲のライフポイントを削る!
食堂でのディナーの席、アテムはあえてスプーンを口元に当て、少し首を傾げて瀬人を下から見つめた。
「海馬。明日のデザートなんだが、あの限定の高級プリンが食べたいな……だめ、か?」
瀬人はステーキを優雅に切り分けながら、視線すら合わせずに淡々と返した。
「貴様のその視線の角度は23度。雑誌『小悪魔な関係』の45ページに記載されている『男を狂わせる黄金の傾き』そのままだな。我が社の画像解析システムを舐めるな。不自然に目をうるませるな、結膜炎なら眼科の往診を呼ぶぞ」
「う、ぐっ……!!」
全て、読まれている。
瀬人の圧倒的な情報網と、1ミリもブレない鋼鉄の理性を前に、アテムの雑な「気を引く作戦」は悉く無効化され、完全なる敗北を喫し続けていた。

しかし、本当に恐ろしい事態は、その後に起こった。
作戦を成功させるため、アテムは毎日、四六時中「どうすれば海馬の気が引けるか」「どうすれば海馬の胸を焦がすことができるか」を考え続ける破目になっていたのだ。
ベッドの中で動画を見ている時も、「これを海馬と一緒に見たら奴はどう思うか」と考え、ピザを食べている時も、「海馬の口にこれを運んだら奴はどんな顔をするか」と想像してしまう。
そして、3週間が過ぎたある日の夜。
アテムはベッドの中で、頭まで毛布を被りながら、猛烈に心臓がバクバクと高鳴っていることに気がついた。
……おかしい。なぜ、俺はこんなにも奴のことばかり考えているんだ……?
瀬人の、あの冷徹で傲慢な横顔。フンと鼻で笑う時の、切れ味の鋭い唇。時折、ゲームのバグを見つけた時にだけ見せる、子供のように愉悦に満ちたあの青い瞳――。
まさか……俺は……
アテムは毛布の中で、顔が爆発しそうなほど赤くなっているのを自覚した。
最初はただ、今の快適なニート生活を守るための、不純な「攻略」のはずだった。瀬人の気を引いて、この家での地位を不動のものにするためのゲームだったはずなのだ。
それなのに。
瀬人という男を意識し、観察し、その心を揺さぶろうと足掻き続けた結果――罠にハメられたのは、瀬人ではなく、アテム自身のほうだった。
「……フッ、まさか、この俺が……完全に、デュエルに敗北しているというのか……」
静まり返った部屋の中で、アテムは自分の胸に手を当て、あまりにも強烈すぎる現世の「本当の恋闇のゲーム」に、完全に心まで骨抜きにされていくのを、ただ呆然と受け入れるしかなかった。明日から、一体どんな顔をして瀬人の隣でコアタイム勤務をこなせばいいのか、アテムの明日のシフトは、かつてない大混乱に陥ろうとしていた。



アテムが「作戦」を完全に放棄し、自分を見つめる目が本物の熱を帯び始めていることに、瀬人が気づかないはずがなかった。
「フン、貴様のカード策略はとっくに墓地へ送られているぞ、アテム」
瀬人はすべてを察した上で、慌てるどころか底知れない余裕の笑みを浮かべていた。そして、現世の最先端テクノロジーを操る冷徹な男は、今度は自らのバトルフェイズに回り、容赦ない揺さぶりを開始したのである。

オフィスでのコアタイム勤務中、アテムがバグ報告書を差し出そうとすると、瀬人はあえて避けることなく、指先がじっくりと触れ合うような位置でそれを受け取った。
「っ……!」
アテムが息を呑んで跳ね上がると、瀬人は至近距離まで顔を近づけ、その切れ味の鋭い瞳でアテムの動揺を真っ向から見つめる。
「どうした、アテム。この程度のディフェンスで、我が社のテストプレイヤーが務まると思っているのか?」

またある日の夕食時。ふいに瀬人がアテムの座る椅子の背もたれに手をかけ、背後から耳元に低い声を滑らせた。
「今日のピザの決済履歴を見たぞ。……少しは、体に障らない健康的なものも摂れ」
吐息が触れるほどの距離、傲慢で甘やかな、洗練された大人の香水の香り。
そのたびに、かつて神を束ねたアテムの心臓は、ライフポイントが限界まで削られるかのようにドクドクと激しく鳴り響いた。
手玉に取られているのは完全に自分だ。しかし、瀬人が見せる計算尽くの、それでいて強烈に男らしい色気に触れるたび、アテムの恋心は底なしの深淵へとさらに加速して墜ちていった。





「……完全に、自爆特攻じゃないか」
たまの休日に集まったカフェで、アテムの様子を見た城之内が、哀れみすら含んだ目で盛大なため息をついた。
今やアテムが瀬人を「めちゃくちゃ好き」であることは、仲間たちの間では1ミリも隠せていない、完全なオープンカードとなっていた。
スマートフォンを握りしめ、瀬人からの「了解だ」という素っ気ない一条のメッセージ業務連絡だけで、ツンツン頭のアテムが「フッ、奴め……」と、顔を真っ赤にしてほわほわと身悶えしているのだ。隠せるわけがない。
「最初は生活のためとか言ってたのに、逆に完全に落とされちゃうなんて……。でも、なんだか今のキミ、すごく楽しそうだね」
遊戯が苦笑しながらも温かい目を向ける。
「楽しそうっていうかさ、もう完全に恋する乙女の顔よ。あの海馬くん相手に、よくそこまでピュアになれるわね……」
杏子が半ば呆れ、半ば感心したように呟いた。
「違う!俺は奴の、あの傲慢でありながらも時折見せる……っ!」
必死に弁明しようとするアテムだったが、語れば語るほど瀬人への愛が溢れ出てしまい、本田に「ごちそうさま。パフェより甘ぇわ」とスプーンで遮られる始末だった。



そして、その凄まじい影響は、週に1度の「冥界公務の日」にも牙を剥いた。
「王。こちらの死者の導きの件ですが、承認のサインを――」
「う、うん……」
玉座に座るアテムは、神官服に身を包んだセトの顔を正面から見据えた瞬間、カッと顔を真っ赤にして、持っていたスタイラスペンを床に落とした。
「王?」
「す、すまないセト!少し、その、お前の顔の角度がな……」
アテムは慌てて顔を背け、バタバタと胸元を扇いだ。
セトの顔は、現世の瀬人と寸分違わぬ骨格をしている。
普段は威厳ある神官として接しているはずなのに、今の恋する乙女モードのアテムにとっては、セトが真面目な顔をして近づいてくるだけで、現世で瀬人に至近距離で囁かれたあの夜のフラッシュバックが脳内で強制起動コンボ発動してしまうのだ。
「私の顔が、何か?……まさか、現代の子を思い出して、私を見て赤面しておいでなのですか?」
3000年の英知を持つセトは、一瞬でアテムの、終わっている挙動の原因を察知した。
「ち、違う!断じて違う!お前と海馬は別人で――」
「あの小賢しい現代の子が、あなたにどのような破廉恥な揺さぶりをかけたかは知りませんが……公務中に私を見て私の顔を意識するなど、神聖なる玉座への冒涜です!さあ、邪念を捨てて早くこの書類に承認を!」
「う、うう……セト、顔が近い!近い……!海馬の声でそんな正論を言うな!」
冥界の厳格なオフィスでも、現代の恋の毒にやられたアテムの挙動不審は止まらない。
週に1日の王の公務と、残りの現世での愛しき日々。
瀬人の完璧なコントロールの手のひらの上で、アテムの魂は、古代と現代を行き来しながら、これまでになく熱く、甘く、そして最高にドキドキする毎日へと完全にコンボを決められているのだった。



「……アテム。ここのデータがまだ残っているぞ」
社長室での2時間労働コアタイムの最中、瀬人がアテムの背後からスッと手を伸ばし、タブレットの画面を指し示した。
その瞬間、アテムの背中に瀬人の胸元が触れそうなほど、二人の距離がゼロになる。瀬人のまとう高級なウードの香水と、彼自身の体温が、アテムの肌にダイレクトに伝わってきた。
「あ、ああ……すまない、すぐ直す……!」
アテムは思わず声を上ずらせ、大慌てで画面に視線を戻した。心臓が、まるで命を賭けた闇のゲームの終盤のように、ドクドクとけたたましく脈打っている。
チラリと横目で瀬人を見ると、彼は何食わぬ顔でフンと鼻で笑い、いつもの傲然とした態度で自分のデスクへと戻っていった。
……気づいている。瀬人は、俺の完璧なアプローチ(※ただの空回り)に揺さぶられ始めているに違いない……!
アテムは自分の顔が赤くなっているのを隠すようにして、必死にキーボードを叩いた。自分の心臓のバタつきは「作戦の緊張感のせいだ」と、相変わらず凄まじい認知歪曲思い込みで処理していた。

しかし、瀬人の「揺さぶり」は、それだけに留まらなかった。
ある夜の23時前。アテムが部屋でスウェット姿になり、通販サイトで新しいボードゲームを物色していると、スマホに瀬人から『俺の部屋へ来い。開発中の新作ボードゲームのテストプレイだ』と短いメッセージが届いた。
「よし、瀬人からの呼び出しだな。これぞチャンス!」
アテムは少しでも「デキる伴侶」に見えるよう、髪の毛の寝癖だけを軽く直して瀬人の私室へと向かった。
ドアを開けた、その瞬間――アテムは一歩、後ずさりしそうになった。
「遅いぞ、アテム。さっさと座れ」
そこにいたのは、風呂上がり、髪も乾き切っていない瀬人だった。
いつもの鉄壁のスーツ姿ではなく、上質なシルクの黒いシャツを乱雑に羽織っただけの姿。はだけた胸元からは鍛え上げられた肌が覗き、濡れた髪からは、ほんのりと湯気とシャンプーの香りが漂っている。現世の全人類を狂わせんばかりの、色気ダダ漏れ状態の瀬人がそこにいた。
「か、海馬……お前、その格好は……」
「フン、我が家で俺がどんな格好をしようが俺の自由だ。それより、このカードの配置を見ろ」
対面に座らされ、ゲームが始まる。だが、アテムの目は全く盤面に集中できなかった。
瀬人がカードを動かすたび、その長い指先や、微かに覗く鎖骨にどうしても視線がいってしまう。夜の静寂の中、瀬人の低い声がやけに鼓膜に響き、心臓がうるさいほど跳ねる。
おかしい……。こいつの側にいなければ、俺のダラダラ生活エデンは守れない。なのに、こうして側にいると……心臓が忙しすぎて、全くリラックスできないのは何故なんだ……!
アテムは、現世の恋愛感情という名のトラップカードに、完全にハメられていた。

翌日。アテムは週休2日のノルマ(数分間の書類チェック)をこなすため、次元転送ドアを通って冥界の王宮へと赴いていた。
「王。本日の業務の確認を――」
神官服を完璧に着こなしたセトが、いつものように冷徹な面持ちで部屋に入ってきた。
「うわあああああああッ!?」
セトの顔を見た瞬間、アテムは椅子から転げ落ちんばかりに飛び上がった。
セトの、瀬人と瓜二つのその容姿、その鋭い双眸、その低い声――すべてが、昨夜の「風呂上がりの瀬人」の記憶を爆発的に呼び起こしたのだ。
アテムは顔を真っ赤に染め、セトから視線を逸らしてガタガタと震え出した。
「せ、セト……!頼むから、そんなに近くに寄らないでくれ!あと、できればその、胸元を隠すような服を着てくれないか!?」
「……は?」
セトは完璧に前を閉じた神官服の襟元を自ら見つめ、それから、明らかに挙動不審な上司を般若のような顔で睨みつけた。
ズカズカと足音を荒げてアテムに近づき、机にバン!と両手を突いて詰め寄る。
「……先代様、先ほどからその見苦しい狼狽ぶりは、一体、何のおつもりです。現世でアレに何をされた、あるいは、何を仕掛けたのですか。白状しなさい」
「ひっ……!」
抑揚のない、しかし絶対に嘘を許さないセトのガチの威圧感。
アテムは恐怖のあまり涙目になり、ついに「ダラダラしたいから」という致命的な本音だけを綺麗にオミットして、現状をすべて白状し始めた。
「ち、違うんだセト!俺は海馬の将来の伴侶の座を手に入れるため、完璧なアプローチを仕掛けているだけなんだ!なのに、最近の海馬はやけに距離が近くて……夜に部屋へ呼ばれた時なんて、髪を下ろして、なんだか凄まじい衣服を着ていて、その、胸元が、こう……!それを思い出したら、お前の顔を見るだけで心臓が破裂しそうなんだ!」
一気に捲し立てたアテムは、ぜぇぜぇと息を切らせて机に突っ伏した。
「……」
すべてを聞き終えたセトは、信じられないほど冷ややかな目で、哀れな先代を見下ろしていた。
「……つまり、あなたはアレの色仕掛けに、完全に無自覚なまま、溺死寸前まで惚れ込んでいるということですね?」
「色仕掛け!?海馬が俺に!?いや、俺が仕掛けている側のはず……」
「もう結構です、黙りなさい」
セトは深く、深くため息をつき、現世の己の、あまりにも容赦のない「ライバル捕獲計画」の手腕に、内心で戦慄せざるを得なかった。
「先代様。あなたが現代の子の『未来の伴侶』になるか否かは知りませんが、次に現世から戻る時は、その茹で上がった頭を少しは冷やしてくることです」
「セト、お前まで俺をいじめるのか……!」
冥界の忠臣にまで呆れ果てられ、アテムは「現世の瀬人も、冥界のセトも、どっちも心臓に悪すぎる……!」と、真っ赤な顔のままスウェットのフードを深く被るのだった。






「――というわけだ。先代様はあなたの、その……『色仕掛け』とやらに完全に茹で上がっておられる。浅ましいことこの上ない」
夜も更けた冥界の執務室。ホログラム通信の向こう側で、神官セトは信じられないほど冷ややかな目で、瀬人を睨みつけていた。
一方、海馬コーポレーションの社長室で深夜のコーヒーを口にしていた瀬人は、その報告を聞いて、フンと鼻で笑った。
「色仕掛けだと?くだらん。俺はただ、夜中にテストプレイに呼び出しただけだ。風呂上がりにわざわざ髪をセットしてスーツを着直す男がどこにいる。あいつが勝手に自爆して動揺しているだけだ」
「……何?」
セトの鋭い眉がピクリと動く。
「勘違いするな。俺はあのニートを『捕獲』しようなどとは一言も言っていない。あいつが我が家の居候の座を守るために、小学生以下の頭で『ハニートラップ』などというお粗末な作戦を仕掛けてきた。だから俺は、そのゲームに乗って、少しばかり盤面を揺さぶってやっているに過ぎん」
瀬人の目的は、アテムを恋愛的に攻略することではない。自分の前でだけ必死に「完璧なアテム」を取り繕い、距離を詰められるたびに顔を真っ赤にしてフリーズするライバルのマヌケな反応を、最高に愉しんでいるだけだったのだ。悪趣味極まりない。
しかし、その「ただの悪趣味な娯楽だ」と言い切る現世の己を見て、セトの脳内では、一瞬にして別の「計算」が弾き出されていた。

待て……。現代の子は、あの扱いづらいことこの上ない先代様を、手のひらの上で完全にコントロールしている……
現在の冥界のシステムは、海馬コーポレーションのDX改革によって劇的に効率化された。だが、先代様という不確定要素ニートがいつまた「飽きた」「現世の通販が良い」と逃亡するか分からないというリスクは、常に残っている。
だが、もし。
もし先代様が、本当にこの瀬人と婚姻関係、あるいはそれに準ずるパートナーを結んだとしたら、どうなるか。
先代様が現代の子とくっつくということは……実質的に、我が冥界側のバックに、海馬コーポレーションの総資産と超科学が永続的に就くのと同義ではないか……?

セトの目が、政治家としての鋭いきらめきを放った。
アテムを現世に押し付け……いや、永住させ、瀬人にその手綱を握らせておくことこそ、冥界の永久なる安泰に繋がる。
セトはスッと表情を崩し、ホログラム越しに瀬人へ向けて、どこか胡散臭い「商談」の笑みを浮かべた。
「……なるほど、あなたの意図は分かりました。しかし、現代の子よ。それほど先代様を飼い慣らしているのなら、いっそのこと、正式に我が主をあなたの『伴侶』として引き取ってはいかがですか?」
「……何だと?」
瀬人の美しい眉が、不快そうに跳ね上がる。しかしセトの「売り込み」は止まらない。
「客観的に見て、先代様は決して悪い物件ではありません。まず、ビジュアルが大変よろしい。あの容姿で現世の着物を着せ、社長室の隣に置いておくだけで、御社のブランドイメージはさらに向上するはずです。さらに、私から見ても、実にお身体が小さく、華奢であられる」
セトは、かつて古代にアテムを支えた記憶を呼び起こしながら、極めて大真面目な顔で続けた。
「あなたほどの体格があれば、あの程度の質量、軽々と抱き上げられそうで実に可愛いものでしょう。現世でいうところの『姫抱き』も造作もないはず。どうです、我が家の王を一人、あなたのデスクの隣に永久就職させてみる気はありませんか?」
「……貴様ッ……!」
3000年前の自分から、まさかの「抱き上げやすくて可愛い」という、凄まじい角度からの身内の売り込みゴリ押しを受け、さしもの瀬人も絶句した。
「冥界の安泰のために、上司を現世の男に売り払うか、古代の亡霊」
「これは合理的な業務提携政略結婚です。……先代様には、私からそれとなく『海馬瀬人は、あなたが自分の部屋に夜這いに来るのを待っている』とでも吹き込んでおきますので、あとは上手くやりなさい」
「余計な真似をしてみろ、貴様らの冥界のサーバを物理的に爆破するぞ!」
瀬人の怒号が響き渡る中、セトは「では、良い夜を」と、一方的に通信を遮断した。
一人残された瀬人は、激しい頭痛を覚えながらコーヒーを飲み干した。
姫抱きだと?くだらん……
イラつきながらも、瀬人の脳裏に、夜の部屋で顔を真っ赤にしてオロオロしていたアテムの、確かに自分より二回りは小さな体のシルエットが、ふと浮かび上がる。
「……チッ、どいつもこいつも締まりのない頭をしおって」
瀬人は忌々しげに書類に視線を戻した。
Page Top