翌日、アテムの「海馬コーポレーション勤務」が正式にスタートした。
瀬人は、アテムに地道な書類整理やレジ打ちのような事務作業をさせる気が最初からなかった。この男の持つ唯一無二の適性――それは、カードの精霊すら引き寄せる絶対的な「ゲームの才」である。
「アテム。貴様には我が社が開発中の新作ゲーム、および新型ソリッドビジョンのテストプレイヤーを命じる」
社長室に隣接する最新のラボラトリー。そこに用意されていたのは、最高級のゲーミングチェアと、目の前に広がる大画面モニター、そして山のようなお菓子と炭酸飲料だった。
「ほう……。これをプレイし、バグとやらを見つければいいのだな。フッ、ゲームとあらばこの俺の右に出る者はいないぜ」
スウェット姿でコントローラーを握り、嬉々として画面に向かうアテム。
瀬人はその背後を振り返り、控えていた弟のモクバ、そして長年仕える忠臣・磯野に冷徹な声で告げた。
「モクバ、磯野。あの男をここから一歩も出すな。菓子の補充は怠るな。俺は……少し『出張』へ行ってくる」
「任せてよ、兄様!アテムが逃げ出さないようにバッチリ見張っとくから!」
「はっ!社長、お気をつけて!」
二人にアテムの監視、という名の手厚い介護を任せると、瀬人は白コートを翻し、本社の地下深くへと向かった。そこには、かつて彼が自らの執念によって完成させた、次元を越えるための装置――『異次元昇降機』が鎮座している。
「フン……。あの日、俺が宇宙まで手を伸ばしてようやく辿り着いたあの冥界を、まさか『労働環境の視察』のために再訪することになるとはな」
瀬人はシステムを起動し、眩い光の渦の中へと足を踏み入れた。目指すは、あの神官セトがワンオペで統べる、死者たちの国――冥界である。
黄金の扉の向こう、砂塵が舞う冥界の王宮。
そこには、相変わらずパピルスの山に囲まれ、寝不足の目で電卓を叩いている神官セトの姿があった。
「……誰だ。」
突如として空間を切り裂いて現れた瀬人に、セトは驚愕して立ち上がった。だが、目の前の男が現代の自分だと気づくと、すぐに深くため息をついた。
「現代の子か。先代様は……どうした。まさか、また逃げられたのではあるまいな?」
「安心しろ。あの男なら今頃、我が社のラボでスウェットを着てゲームのテストプレイに勤しんでいる」
瀬人はセトのデスクに歩み寄り、山積みにされたパピルスや粘土板の山を一瞥した。
「それよりも。お前の言う『3000年分の滞った行政書類』とやらを見せてもらおう。この海馬コーポレーションを世界トップに押し上げた俺の頭脳をもってすれば、冥界のシステム崩壊など、一瞬でデバッグできる」
瀬人はノートパソコンを開き、冥界の現行の管理システムを冷徹なデータとして落とし込み始めた。
そこからの瀬人の手腕は、まさに「神懸かり的」だった。
古代エジプトから引き継がれたアナログな手続き、死者の魂の審判にかかる非効率なフロー、冥界の都市開発計画の無駄な予算編成……。瀬人はそれらを次々と洗い出し、海馬コーポレーションの最新AIアルゴリズムを用いて一元管理化。自動化できる処理はすべてシステムに組み込んでいった。
「……なんと」
わずか数時間の作業の後、セトは目の前のデスクを見て愕然とした。あれほど部屋を埋め尽くしていた書類の山が綺麗さっぱり消え去り、すべてのデータがスマートなホログラム画面に集約されている。
「これで、冥界のすべての執務は効率化された。お前が一人で残業をする必要もない。……計算上、王の労働時間は『週に2日、それも各数時間』あれば、すべての決裁が完了する」
瀬人はパソコンを閉じ、ふんと鼻で鳴らした。
「週に2日の時短勤務。これなら、あの男の言う『過労』などという甘えは通用せん。……どうだ、古代の亡霊。これほどまでに業務を圧縮したのだ。システム上、もはやアテムがここに常駐する必要性はない。あの男の身柄は、このまま現世の俺の元に置いておいても問題ないはずだが?」
瀬人の問いかけは、実質的な「アテムの引き取り交渉」だった。業務がこれだけ楽になったのなら、わざわざアテムを冥界へ連れ戻さずとも、セト一人、あるいは時折の出稼ぎ程度で回るはずだ、と。
しかし、セトは効率化された画面を見つめながらも、その鋭い瞳の奥の光を消さなかった。ゆっくりと首を振り、瀬人をまっすぐに見つめ返す。
「……現代の子よ。あなたのその並外れた英知と、業務改善の成果には心から感謝しよう。だが……本質を見誤っている」
「何だと?」
セトは立ち上がり、かつてアテムが座っていた無人の玉座を見上げた。
「私が怒っているのは、労働時間の長さなどという矮小な問題ではない。……あの男は、王だ。三幻神を従え、冥界のすべての死者の魂を導くべき、絶対的な王なのだ。その王たる者が、己の課せられた神聖なる義務を放り出し、あろうことか『働きたくない』などという私欲のために、現世へ脱走した……その『王としての矜持の欠如』こそが、断じて許せんのだ!」
セトの言葉には、3000年間、王への忠誠と国の存続のために命を捧げてきた神官としての、譲れないプライドがあった。
「週に2日だろうが、一瞬だろうが関係ない。義務を捨ててゲームに溺れるなど、王責の冒涜。私は何としてでも、あの男に王としての自覚を思い出させ、この玉座に一度は引きずり戻さねば、気が済まん!」
「……フン」
全く同じ顔をした二人の男の視線が、再び冥界の風の中で激しく火花を散らす。
瀬人は、セトのその「執念」が、自分自身の持つ「アテムへの執着」と全く同質のものであることを、嫌というほど理解していた。
「良かろう。ならば、あの男の魂がどちらに傾くか……現世の娯楽か、あるいは王としての誇りか。俺のフィールドで、じっくりとテストさせてもらうぞ」
瀬人は不敵に笑うと、再び現世へと繋がる光の中へと消えていった。
効率化された冥界と、ますますニート生活の環境が整いつつある海馬コーポレーション。二人のセトによる、アテムの「魂の争奪戦」は、本人(スウェット姿でゲーム中)の知らないところで、より一層ディープな領域へと突入していくのだった。
現世へ帰還した瀬人は、さっそくラボで新作ゲームの裏ボスをノーダメージで撃破し、お菓子のゴミに囲まれて「フハハハ!完全勝利!」と歓喜していたアテムの元へと向かった。
「アテム。冥界へ行ってアレと話してきたぞ」
「えっ……!?」
アテムの手からコントローラーが滑り落ちる。瀬人から語られたセトの言葉――『労働時間など関係ない、王としての義務を捨てた脱走が許せん』という執念のメッセージを聞いた瞬間、アテムは再びスウェットの膝をガタガタと震わせた。
「あ、あいつは本気だ……!俺をあの暗黒のパピルス地獄へ連れ戻すまで絶対に諦めん気だぞ……!」
「フン、怯えるな。俺が業務をすべて効率化してやった」
瀬人はアテムの襟首を容赦なく掴み上げると、有無を言わさず地下の次元トレース・システムへと連行した。
「ま、待て海馬!どこへ連れて行く!俺はまだ現世の動画の続きが――」
眩い光が弾け、次の瞬間、二人は再び冥界の王宮へと降り立っていた。
「さあ、見ろ」
瀬人が示したホログラム画面には、極限まで簡略化された冥界の最新ワークフローが映し出されていた。
「現在の冥界の総労働状況だ。俺の改革により、お前の仕事は週に2日、それも承認ボタンを数回押すだけで済む。総労働時間で計算すれば、我が海馬コーポレーションのコアタイム勤務よりも、この冥界の仕事の方が『短い』。日によっては、数分で全ての公務が終了する」
「す、数分だと……!?」
アテムは目を丸くした。かつての書類の山はどこへやら、今やちょっとしたミニゲームのデイリーミッションをこなすより早く終わるレベルである。
だが、アテムはなおも眉をひそめ、不満げに唇を尖らせた。
「しかし海馬……時間は短くても、ここは冥界だぜ?王宮のWi-Fiは現世ほど速くないし、何よりここには宅配ピザも、新作のゲームも、動画配信サービスもない!たとえ数分で仕事が終わろうとも、残りの時間をダラダラと過ごすコンテンツが皆無だ!俺は現世で引きこもりたいんだ!」
どこまでも堕落しきった王の物言いに、あきれて物も言えないセトが奥から歩み寄ってくる。
「先代様……!あなたはどこまで現世の毒に――」
「海馬!」
アテムはセトの接近を察知し、最後の悪あがきとばかりに、再び瀬人の胸元へがっしりと抱きついた。
「やはり俺は還らない!俺は本当に、心からお前を愛しているんだ!だから俺を現世へ連れて帰ってくれ!お前のいない世界なんて、俺には――」
雑極まりない「愛の告白(二回目)」を叫ぶアテム。
しかし、瀬人は冷徹そのものの表情で、抱きついてくるアテムの両腕を驚異的なパワーで引き剥がすと、そのまま無慈悲に、王座の前の床へと放り投げた。
「我が社のサーバーの無駄遣いはここまでだ、アテム。週休5日で数分労働という、お前の怠惰にこれ以上ないほどおあつらえ向けの環境だ。ここで精々、王としてのプライドとやらをデトックスするがいい」
「か、海馬ーーーッ!!」
「フン。気が向いたら、気が遠くなるほど進化した新作ゲームを持って、お前の『週5日の休日』に決闘をしに来てやる。……それまで、ターンエンドだ」
瀬人は不敵に笑うと、白いロングコートを美しく翻し、次元の光の中へと消えていった。
「現代の子……中々に素晴らしい手際だ!」
セトの歓喜の声が響く中、一人取り残されたアテムは、床にへたり込んだまま絶望のどん底に突き落とされていた。
その後。
アテムは約束通り、週に2日、それも数分で終わる冥界の公務をこなすようになった。セトの言う「王としての義務」は最低限果たされるようになり、冥界の治安は完璧に保たれた。
しかし、公務が終わった後のアテムはといえば――。
「フッ……今日の仕事(ボタン押し)は終わったな。……では、失礼する」
王としてのオーラを完全にオフにし、現世から持ってきたお気に入りのKCスウェットに着替えると、アテムは王宮の奥深くの自室へと光の速さで引きこもった。
そこには現世のようなWi-Fi環境はない。
だが、彼は諦めなかった。現世から持ち込んだ、あらかじめ動画やオフラインゲームを限界までダウンロードし尽くしたストレージ端末を最新のポータブル機に接続し、薄暗い部屋で一人、もくもくとゲームをプレイし続ける日々。
たまにセトが「先代様、少しは外の空気を――」と部屋を覗きに来ても、アテムはヘッドホンをつけたまま、
「今、裏ボスの実質的なラストターンだから話しかけるな。ターンエンドだ」
と、一切の闘争心のない、だが職人のような目つきで画面を見つめるだけだった。
王としての義務は果たすが、プライベートは完全なる「オフライン引きこもり」。
こうしてアテムは、古代の誇りと現代の怠惰を奇跡的なバランスで両立させながら、冥界の奥深くで、誰よりも贅沢で静かな「二度目の安息」をオタクとして満喫し続けるのだった。
それからまた、数ヶ月の時が流れた。
初めは部屋に閉じこもり、オフラインのゲーム画面とだけ睨み合っていたアテムだったが、人間、ずっと同じ部屋でポテトチップスを貪っているのにも限界が来るものらしい。
ある日を境に、アテムは少しずつ、王宮内を歩くようになった。
さすがにスウェット姿でうろつくのは3000年前の英才教育の記憶が許さなかったのか、その身にまとうのは、かつて見せた白い衣と、まばゆい黄金の装飾品。寝癖だらけだったツンツン頭も、今や威厳を湛えて完璧に整えられている。
「フッ、この王宮の回廊……。直線ルートのエンカウント率はゼロだが、BGMの重厚感はなかなかのものだな」
脳内は相変わらず重度のゲーム脳に侵されたままであったが、それでも週に2日、数分で終わる公務の場に現れる彼の姿は、まさに民を導く気高き王そのものだった。セトの差し出すホログラムの計画書に、鋭い眼光でスッと指先を滑らせ、迅速に決済を完了させていく。
王としての自覚と誇りを取り戻し、立派に職務を果たすようになった我が主の姿を、セトは陰からそっと見守っていた。
「……先代様。よくぞ王の心を思い出した……!」
これなら、もう大丈夫だろう。
確信を得たセトは、かつて現代の自分から「何かあればこれで連絡しろ」とこっそり渡されていた、冥界でも繋がる超時空仕様のオンライン通信端末を懐から取り出した。
数日後。
次元の壁を切り裂き、海馬コーポレーションの若き社長・瀬人が再び冥界の王宮へと降り立った。
「古代の亡霊。わざわざ俺を呼び出すとは、あの男がまた何か不祥事でも起こしたか」
「いや、現代の子よ。まずはこれを見ていただきたい」
セトが促した先――玉座の間では、アテムが背筋を伸ばし、威風堂々とした態度で冥界の役人たちの報告を聞き届けていた。かつて瀬人の後ろで「働きたくない!」とスウェットでコートの裾を掴んで震えていた男の面影はどこにもない。
「……フン。少しはマシな面構えに戻ったようだな」
「先代様は深く反省され、今や王としての職務を完璧にこなしておいでです。……さあ、本人を交えて今後の話をしましょう」
集まったのは、瀬人、セト、そしてアテムの3人。古代と現代の最高権力者が一堂に会する、前代未聞の「最高首脳会議」の幕が上がった。
「さて、アテム」
瀬人が腕を組み、冷徹な青眼で宿敵を見据える。
「これでお前の『デトックス期間』は終了だ。貴様はこれからどうしたい」
問われたアテムは、少しだけバツの悪そうな顔をしたが、すぐにまっすぐな瞳で二人を見返した。
「……俺は、やはり現世にいたい。相棒たちと過ごす時間も、あの街の空気も、俺にとってはかけがえのないものだ。……もちろん、現世の娯楽が恋しいというのも、否定はしない」
正直に白状したアテムに、セトは深く頷いた。
「王としての自覚と誇りを胸に刻み、公務を怠らないと誓うのであれば……私は先代様が現世に留まることを、これ以上反対はいたしません。……ですが!」
セトはキッと目を剥き、瀬人に視線を移した。
「この男をそのまま現世へ完全に返せば、またあの『動画とピザの無限ループ』に溺れ、瞬く間にグレーのスウェットと同化する未来が見えております!」
「そうだな」と瀬人はふんと鼻で鳴らした。
「俺のフィールドで、ただの無価値な居候をのさばらせておくつもりはない。アテム、現世にいたいというのなら、条件は前と同じだ。海馬コーポレーションで、一日数時間のコアタイム勤務をこなせ。それをする者にのみ、海馬邸の最高級ルームの使用権利と、無限のブラックカードの決済を認める」
現世の過酷な「シフト(週5超短時間コアタイム勤務)」の提示。
しかし、セトも負けてはいなかった。彼は懐から、もはや相棒となった電卓を取り出す。
「先代様、こちらの条件も聞きなさい。あなたが王の義務を果たすというのなら、私も鬼ではありません。現在の効率化された冥界の公務のうち、週に1日分であれば、私がこれまで通り変わって差し上げましょう。つまり、あなたが週に1日だけ冥界に戻り、数分の公務を終わらせるだけで、冥界の王としての面目は完全に保たれるのです!」
瀬人の提示した「現世での週5超短時間勤務(+快適ニート環境)」。
セトの提示した「週に1日だけの冥界帰還(+残りの公務は身代わり)」。
アテムの脳内で、現代の高度な計算式(ライフワークバランス)が弾き出される。
「……分かった」
アテムは不敵に、だがどこか晴れやかな笑みを浮かべて宣言した。
「俺は、【週に1日は冥界へ還って王の務めを果たし、残りの6日は現世で海馬の会社で働きつつ、全力でダラダラする】という道を選択する!」
「フン、妥当な選択だ。お前の怠惰を適度に引き締めるには、それくらいのスケジュールが丁度いい」
「素晴らしい。これならば王の矜持も保たれ、皆の胃の痛みも最小限で済みます」
古代と現代のセトが、同時に満足げな笑みを浮かべた。
こうして、アテムの、前代未聞の「二重生活」が確定した。
火曜日は冥界の玉座で神々しくボタンを押し、水曜日から月曜日までは現代の童実野町で、レザージャケットを着てKCの最新ゲームをデバッグし、夜は仲間たちとピザを貪り、昼過ぎまで爆睡する。
現世の荒波と、冥界の義務。そのどちらからも都合よく美味しいところをドローしたアテムは、今日も最新のスマートフォンを片手に、「ターンエンドだ!」と、誰よりも充実した(そして少しだけ忙しい)ニート生活へと駆け出していくのだった。
