海馬邸のゲストルームに案内されたアテムに与えられたのは、KCロゴが誇らしく刺繍された重厚なスウェットと、触れるだけで溶けてしまいそうな最高級シルクのパジャマだった。
アテムは迷うことなくスウェットを選択した。あの馴染み深いグレーの肌触りには、アパートの万年床で培った「魂の安らぎ」が宿っていたからだ。
温水プールかと思うような広大なバスルームでシャワーを浴び、清潔なタオルで髪を拭くと、アテムはキング・オブ・ベッドへとダイブした。かつての砂漠の夜よりも深く、冥界の玉座よりも柔らかい寝心地。意識は一瞬で闇の彼方へと吸い込まれた。
そこからの3日間は、まさに廃人への階段を駆け上がるような(転がり落ちるような)生活だった。
夜中に空腹で目を覚ましては、広大な食堂で海馬邸専属シェフが作ったフルコースを「……うまい」と呟きながら詰め込み、またベッドに戻る。太陽が昇ろうが沈もうが知ったことではない。気づけば、アテムの体内時計は完全に崩壊していた。
そして3日後の昼過ぎ。ようやく空腹に負けてのそのそと食堂へ降りてきたアテムは、そこで珍しく早めのランチをとっていた瀬人と遭遇した。
「……よ」
アテムの顔色は、この3日間で驚くほど良くなっていた。
しかし、その頭頂部は豪快な寝癖でツンツンと爆発し、かつて世界を救った覇者の眼光はどこへやら、今の彼は、戦いも緊張も全て手放した、ただの「昼過ぎに起きた呑気な居候」の顔をしていた。
瀬人はスプーンを止め、その間の抜けた顔を冷徹なまでの観察眼で見つめた。
「……貴様、以前よりも覇気というものが欠片も感じられんな」
「あー……そうか? 飯は美味いし、ベッドは最高だ。文句なんかあるわけがない」
アテムは椅子に深々と腰掛け、だらりと背中を預けた。
海馬邸には、最新のゲーム機や広大なライブラリ、そしてカウチポテトのために最適なふかふかのカウチが完備されている。戦う必要も、書類と格闘する必要もない日々。かつて世界の命運を背負っていた男は、今や完全に「娯楽」という名の毒に浸かりきっていた。
「足りないものはないか」
瀬人の問いかけに、アテムは考え込むような素振りを見せ、結局何も思い浮かばずに首を振った。
「特にない。この邸には娯楽が山のようにある。……強いて言えば、このまま何もせず、一生を終えるのも悪くないなと思っているくらいだ」
その怠惰な回答を聞いて、瀬人はふっと短く笑った。不敵で、どこか悪巧みをしているような笑みだった。瀬人は無言でテーブルに置かれていた、最先端の薄型タブレットをアテムの方へ滑らせた。
「これは……?」
「KCネットのアクセスキーだ。お前の言う『何もしたくない』を完璧にサポートするための端末だ」
瀬人はコーヒーを一口飲み、淡々と使い方を解説した。
「我が社のネットワークと直結したECサイトだ。日用品から食料、果ては最新のゲームタイトルまで、ここで注文すればすぐに部屋まで届ける。……いいか、アテム。俺は金には糸目をつけん。必要なもの、欲しいもの、貴様の怠惰を加速させる道具があるなら、好きに使え」
タブレットの画面を覗き込むと、そこには童実野町の全店舗どころか、世界中の高級品がリスト化されていた。
「これを使えば、……指一本動かさずに、俺の欲しいものが全て手に入るのか?」
アテムの瞳が、少しだけ現代っ子のような好奇心に揺れる。
「そうだ。貴様がこの邸で、より高密度なニート生活を送るためにな」
瀬人の差し出したこの「魔法の板」こそが、アテムをさらなる怠惰の深淵へと誘う最強の武器であることに、この時のアテムは気づいていなかった。
タブレットという名の「現代の魔法」を手に入れたアテムが、初めての買い物として選んだのは、何とも庶民的な「宅配ピザ」だった。
かつて遊戯の体の中にいた頃、テレビのCMや深夜のテレビ番組で何度も見かけては、そのジャンクで魅力的なビジュアルに密かに心を奪われていたのだ。だが、武藤家では手料理が基本だったため、注文する機会を逃したまま冥界へ還ってしまっていたのである。
念願を叶えるべく、アテムは次に瀬人が食事を取るタイミングを見計らって声をかけた。
「海馬、今日の夕食時、俺の部屋へ来てくれないか。お前に見せたいものがあるんだ」
その時のアテムの顔は、かつての鋭利な三幻神の使い手とは思えないほど、平和そのもので、どこかほわほわとした空気をまとっていた。瀬人は「フン、妙な企みでなければいいがな」と鼻で笑ったものの、その日は幸いにも社内でのリモートワークのみで、夕方には時間が空く予定だった。
夕方、予告通り瀬人がアテムの部屋のドアを開けた。
「アテム。入るぞ――」
一歩足を踏み入れた瞬間、瀬人の眉間が見たことのない深さで歪んだ。
海馬邸の使用人たちが毎日掃除に入ってくれるおかげで、この数日間はなんとか「最低限の人間の部屋」としてリセットされていたのだが、今日の掃除はまだこれからだったらしい。
現在の部屋の状況は、まさに大破局。
キングサイズのベッドの上には、脱ぎ散らかされた何枚ものKCスウェット。高級ソファの上にはクッションが乱雑に積み上げられ、床一面には『アーク・ノヴァ』や『ウイングスパン』といった現代のボードゲームの駒やカードが、まるで地雷原のように激しく散らばっていた。当の本人は、その混沌の中心で、ツンツン頭を寝癖でさらに爆発させて座っている。
ピンポーン、とタイミングよく部屋のインターホンが鳴り、運ばれてきた「KCデリバリーピザ」の特大Lサイズボックスがアテムの手に渡った。
「おお、本当に届いた!すごいな現代の技術は!」
アテムは嬉々として箱を抱えて戻ってきたが、すぐに部屋を見渡してフリーズした。
「……あ。海馬、置く場所がない」
「貴様……この俺を招いておいて、床で飯を食わせる気か!」
瀬人は盛大な溜息をつくと、自ら高級ローテーブルの上に散乱していた初期カードや、食べかけのスナック菓子の袋をガサガサと脇へ除け、ピザの箱を置くスペースを強引に作り出した。
パカッ、と箱が開くと、とろけるチーズとペパロニの濃厚な香りが部屋いっぱいに広がる。
「これが……現世のピザか……!」
アテムは目を輝かせ、一切れを持ち上げた。びよーんと伸びるチーズに感動しながら、大口でかぶりつく。
「美味い……!濃いチーズと、このジャンクなソースの絡み合い……まさに完璧なコンボだ!」
瀬人もまた、渋々といった様子で一切れを手に取り、スマートに口へ運んだ。海馬コーポレーションの手がけるフードサービス部門のピザなのだから、味が良いのは当然である。
二人は無言で、だが確実にピザを消費していった。スウェット姿でコーラを飲み、ピザを頬張るアテムは、完全に現世の引きこもりライフを満喫している。
「フッ、これで通販の使い方は完全にマスターしたぜ」
最後の一切れを平らげ、指についたチーズを舐めながら、アテムは至高の満足感を漂わせて笑った。
「……そうか」
瀬人は手元のペーパーナプキンで優雅に口元を拭いながら、目の前の、未だに片付けられる気配のないボードゲームの山へと視線を落とした。
瀬人はそれをあえて言葉にはしなかった。
だが、最先端のブレインを持つ彼の頭脳には、この部屋の数週間後の未来が、寸分の狂いもなく予測できていた。
(……この調子では、一ヶ月後にはこの広大なゲストルームが、怪しい通販グッズとゲームの筐体、そして脱ぎ散らかされたスウェットで埋め尽くされ、足の踏み場もないゴミ屋敷と化す)
それでも、瀬人はその未来を拒絶しなかった。
現世の荒波に揉まれてくすんでいくくらいなら、自分の手の届く範囲で、好きなだけ物欲の沼に溺れさせてやればいい。
「欲しいものがあるなら、いくらでも注文するがいい。我が社のサーバーは、貴様のどんな下らない物欲の処理にも耐えられるよう設計されている」
「それは心強いな、海馬」
ほわほわとした笑みを浮かべるアテムの後ろで、床に転がったボードゲームのダイスが、まるでこのニート生活の継続を確定させるかのように、静かに「ピンゾロ」の目を上に向けて転がっていた。
あれから、さらに1ヶ月以上の月日が流れた。
海馬邸の奥深く、遮光カーテンで外界の光を完全に遮断したアテムの部屋では、時間の概念そのものが「墓地へ送られて」いた。
昼夜逆転どころか、30時間起きて20時間眠るような、終わりの始まりを迎えた生活スタイル。ゲームのログインボーナスだけが唯一の時間の指標であり、アテム自身、今日が何月何日で、何曜日なのかすらさっぱり分かっていない。
「フッ……この『動画配信サービス』という名の底なしの沼……。無限ループのコンボのようだぜ」
ポテトチップスの油が滲んだKCスウェットを着て、大画面モニターの前でソファに埋もれるアテム。かつて神のカードを操った指先は、今やタブレットの「次の動画へ」をタップするためだけに驚異的なスピードを発揮していた。完全に、現世の文明に骨抜きにされた引きニートの完成である。
海馬邸のアテムの部屋は、今や完全なる「王の繭」と化していた。
部屋の中心に鎮座するのは、瀬人が黒服に特注で買いに走らせた、特大サイズの『Yogibo』。
アテムはその限界まで柔らかいクッションの海へと、文字通り吸い込まれていた。かつて世界の命運を背負い、冥界の玉座で背筋を伸ばしていた男の肉体は、現世のテクノロジーによって完全に「ダメ」にされていた。ツートンヘアーはクッションに埋もれている。
「……海馬。この物体は恐ろしいな。俺の闘気が、物理的に外へ出ようとするのを拒んでいる……」
生存確認がてら様子を覗きにきた瀬人は、クッションと一体化して液体のようにとろけている宿敵を見下ろした。
普通の男なら「腑抜けたか!」と一喝するところだが、瀬人はフンと鼻を鳴らしただけで、一切笑わなかった。むしろ、あの冥界のブラック残業や現世の夜勤でボロボロだった男が、ここまで完全に警戒を解いて脱力している事実に、胸の奥で極上の満足感を覚えていた。
「貴様は今まで動きすぎたのだ、アテム。そのリラクゼーションの前にひれ伏し、そのまま泥のように眠っているがいい」
数日後。Yogiboの重力から辛うじて首だけを脱出させたアテムが、覗きに来た瀬人に声をかけた。
「海馬。ただ寝ているのも、少々退屈になってきた。……何か、ゲームはないか?現世の、頭脳を使うようなやつがいい」
「ゲームだと?」
瀬人は手を止め、ふむと顎を擦った。
病み上がりに、これ以上デュエルディスクを持たせて体力を削らせるわけにはいかん。かといって、市販のテレビゲームではその神がかり的な直感の前には一瞬でヌルゲーと化す……
瀬人の天才的頭脳が、瞬時に一つの「最適な娯楽」を導き出した。
「よかろう。アテム、貴様に現世の最高峰の戦略シミュレーションゲームの端末を与えてやる」
瀬人は即座に黒服を呼び、アテムの個人名義で「海馬証券の特級大口口座」を爆速で開設させた。そして、瀬人の個人資産から「適当な元手(一般人が見たら目玉が飛び出る億単位)」をドン⭐︎と放り込み、最新型の最高級タブレットをアテムに手渡した。
「これは……画面の中で数字が常に変動しているな。何をするゲームだ、海馬」
画面に表示されているのは、世界中の株価、為替、先物取引のリアルタイムチャートである。
「ルールはシンプルだ。画面に並ぶ企業の価値を見極め、上がると思えば『買い』、下がると思えば『売り』を選択しろ。軍資金が尽きればゲームオーバー。増えれば貴様の勝ちだ。……世界経済という名のフィールドを、貴様の直感で支配してみせろ」
「なるほど、デッキ構築と状況判断のゲームというわけか。気に入ったぜ、海馬!」
アテムはYogiboに深く埋もれたまま、目をキラキラと輝かせてタブレットの画面に指を走らせ始めた。
それから暫く、未だにYogiboから1歩も動かないまま、恐ろしいスピードで画面をタップし続けるアテムの姿があった。
「……ふむ。この『コロンビアの珈琲先物』のチャートの波……来るな。ここですべてを賭ける、ダイレクト・アタック!」
アテムにとっては、これはただの高度な頭脳ゲームだった。
背後に流れる、実在する数十億、数百億円の電子マネーの重みなど、彼は1ミリも知らない。ただのゲームの「スコア」だと思っている。だからこそ、一切の恐怖や躊躇などのノイズがない。
そこに、アテムの天性の「運命を引き寄せる力」が噛み合わさった。
「兄様……これ、ちょっと見てよ……!」
社長室に駆け込んできたモクバが、タブレットの管理画面を瀬人に突きつけた。そこには、アテムの口座の資産が、当初の元手から天文学的な倍率で爆増している履歴が表示されていた。
「アテムのやつ、世界中のヘッジファンドを完全にカモにしてるよ!アメリカの雇用統計の発表を完全に予知して、ドルを底値で全力買いして大勝利させてる!」
瀬人は渡されたデータを見て、思わずフハハハと低く笑った。
「フン、当然だ。あの男の直感が、現世の投資家ごときのアルゴリズムに遅れをとるはずがなかろう」
瀬人がアテムの部屋を覗くと、アテムはYogiboに埋もれたまま、スナック菓子をつまみつつ、画面を見て満足げに微笑んでいた。
「海馬、見てくれ。俺のライフポイントが、ついに『999,999,999』に達したぜ。このゲーム、なかなかの難易度だが、俺の戦術の前には敵ではない!」
「フフ……フハハハハ!よくやったアテム!貴様のその戦略、完璧だ!」
瀬人は声を大にして笑った。
アテムがゲーム感覚で、世界の市場から数千億円規模の資産を毟り取っているとは、本人には言わなかった。だが、瀬人にとっては、アテムがただのゲームとして機嫌よくダラダラと過ごし、かつ勝手に資産を無限に増やしているのだから、これほど愉快なことはなかった。
「海馬、次のステージの解放はまだか?そろそろこの『原油先物』というボスを粉砕したいのだが」
「よかろう、今すぐ次のフィールド、欧州市場の制限を解除してやる!存分に暴れろ、アテム!」
何も要求しない男と、ゲーム感覚で世界の経済を揺るがす、究極にダメになった王。
Yogiboの重力に囚われたアテムの「ニート生活」は、瀬人の完璧な隠蔽によって、誰にも邪魔できない最強のエンターテインメントへと昇華していくのだった。
アテムの「ゲーム」はその後も留まることを知らず、欧州市場、アジア市場、そしてありとあらゆる仮想通貨のフィールドまでを完全制覇していた。
元手を除いた純利益は、すでに中規模の国家予算を軽く凌駕。しかし、本人は未だにそれを「よくできたスコアアタックゲーム」だと思い込んでいる。
当然、彼はYogiboの重力から一歩も外へ出ていない。
たまに首だけを動かして、使用人が運んでくるコーヒーをストローで啜り、最高級のスナック菓子を口に放り込むだけの、完璧な「高貴なる液体」と化していた。
一方その頃、武藤遊戯は本気で途方に暮れていた。
「そんな……アテム、どこへ行っちゃったんだ……」
数週間前、アパートへ差し入れに行ったら、大家から「武藤さんは役所で海馬コーポレーションの黒服に連れて行かれて、部屋も解約された」と告げられたのだ。コンビニもとっくにクビになっている。
城之内や杏子、本田たちにもすぐに連絡し、みんなで童実野町中を必死に探しまわったが、手がかりは完全にゼロ。冥界からの不法滞在の身であるため、警察に届けることもできない。
悩みに悩んだ末、遊戯は一筋の望みに賭けることにした。
現在、新作ゲームの開発協力で関わりのある、海馬コーポレーションの本社ビルへと向かったのだ。
「お願いです!社長に、海馬くんにどうしても取り次いでください!」
受付で必死に食い下がる遊戯。童実野町のすべてを牛耳る瀬人なら、何か情報を持っているかもしれない。決闘王・武藤遊戯のただならぬ様子に、秘書が上層部へ連絡を入れ、奇跡的に最上階の社長室への入場が許された。
バタンと扉を開け、遊戯はデスクに座る瀬人へと駆け寄る。
「海馬くん!突然ごめん、でも、どうしても君に頼みがあるんだ!」
「フン、騒々しいぞ遊戯。新型ソリッドビジョンのバグ報告なら、開発部に――」
「違うんだ!アテムが……アテムが行方不明になっちゃったんだ!」
遊戯は悲痛な声をあげた。
「アパートも解約になって、仕事もなくて、どこかで野宿でもしてるんじゃないかって、みんなで探してるんだけど全然見つからなくて……!童実野町の情報網を持つ海馬コーポレーションの力で、どうかアテムを捜索してくれないか!?」
城之内たちと夜通し街を探し回ったのだろう、遊戯の目にはうっすらと隈が浮かんでいた。
そんな元・相棒の必死の訴えを、瀬人は至極冷めた目で見つめていた。そして、手元のコーヒーカップをゆっくりと置き、信じられないほど淡々と、こう言い放った。
「……何を騒いでいるかと思えば。アテムなら、我が海馬邸にいるが?」
「……え?」
遊戯は思考が完全にフリーズした。「へ?」と間抜けな声を漏らす。
「か、海馬邸……?君の家に!?じゃあ、黒服に連行されたっていうのは……」
「俺が保護した。あの男が『もう戦いたくない、休みたい』などと腑抜けたことをぬかすのでな。俺の名の元に、一切の労働を禁じた最高級のニート環境を提供してやったまでだ」
瀬人はフンと鼻で笑い、タブレットを操作して社長室のメインモニターに「ある映像」を映し出した。
そこに映っていたのは――
髪型こそ見覚えがあるものの、寝癖で爆発し、よれよれのKCスウェットを着て、口元にポテトチップスのクズをつけながら、画面に向かって「いけっ! そこで右ストレートだ!」と格闘ゲームの配信動画に夢中になっている、完全に生気を失った、しかし顔色はすこぶる良い元もう1人の自分の姿だった。
「ア、アテム……!?」
遊戯は絶句した。自分たちが涙目で街中を探し回っていた間、もう1人の自分は世界最高の富豪の家で、至高のダラダラ生活を極めていたのだ。
「そんな……僕たちに一言も連絡をくれないで、ずっとそんなことを……」
「当然だ。あの男は現在、一歩も部屋から出ずに動画、ゲーム、通販の無限ループに溺れている。外界と接触しようという闘争心が、完全に消滅している」
瀬人の言葉通り、アテムに「友達を避ける」ような悪意は微塵もなかった。ただ、現世の引きこもりコンテンツの快楽があまりにも強烈すぎて、完全に「現世の友達と連絡を取る」というタスク自体が、彼の脳内から綺麗さっぱりドロップアウトしていただけだったのだ。
画面の中で、「ふはは、このピザというやつは何度食べても飽きないな!」とコーラをラッパ飲みするアテムを見つめながら、遊戯は深い、本当に深い溜息をついた。
「……良かった。無事なのは分かったけど……なんか、僕たちのあの涙を返してほしいな……」
世界を救った最強の二人の決闘者は、今や一方が「過保護な飼い主」、もう一方が「重度の引きこもりニート」という、別の意味で誰も立ち入れない究極のコンボを完成させていたのだった。
「……海馬くん。アテムに、会いに行ってもいいかな?」
モニターに映し出されたもう1人の自分の「終わっている生活態度」からどうにか目をそらし、遊戯は恐る恐る許可を求めた。
瀬人はフンと鼻を鳴らし、関心なさそうに書類に目を落とす。
「会うか会わないかはアテム次第だ。あの男の時間をどう使おうが、俺の知ったことではない。……好きにするがいい」
実質的な許可をもらった遊戯は、すぐさま城之内たちに連絡を入れた。
数日後。海馬邸の重厚なゲストルームのドアの前に、遊戯、城之内、杏子、本田の4人が集結していた。
「おいおい、本当にあの公爵みたいな海馬の家にアテムがいるのかよ?」
「しかも引きこもりって……あのアテムが?信じらんねえぜ」
城之内たちが半信半疑のまま、遊戯がドアノブを回して部屋へと入る。
「お邪魔します……」
遊戯が怪訝そうな顔で部屋を覗き込んだ、その瞬間。彼の全身の時が止まった。
部屋の中央、巨大な特注Yogiboの海に深く沈み込み、片手にポテトチップスを持ったまま、最新型タブレットで原油先物を爆買いしている男の姿があった。
「あ……、あ……ッ!?」
遊戯の口から、言葉にならない悲鳴のような音が漏れる。
ツートンヘアー、あの鋭い眼、そして誰よりも気高く、魂の深い場所で繋がっていた、もう一人の――。
「もう一人の……僕……」
驚愕、歓喜、混乱、そして涙。あらゆる感情が一度に押し寄せ、遊戯のキャパシティは一瞬で限界を迎えた。
だが、当のアテムはというと。
「ん……?騒がしいな、海馬……。いま、大豆先物の最終決戦なんだ……。……あ」
のんきに振り返ったアテムの目に、遊戯と、後ろに控える友達。総勢4名の「かつての仲間たち」の姿が映り込んだ。
その瞬間、部屋の中に凍りつくような沈黙が流れた。
アテムは、お菓子の粉が盛大についたKCスウェット姿。頭は相変わらず寝癖で大爆破しており、足元には通販で買った怪しい腹筋ローラーやゲームのパッケージが散乱している。
対する城之内たちは、あまりの衝撃映像に開いた口が塞がらない。
「……アテム、お前……マジかよ……」
「……皆、久しぶりだな。君達もこのYogiboに座るか?魂が抜けるぜ」
「ちょっと待って!!久しぶりの再会なのに第一声がそれ!?あと、その持ってるポテトチップス、1袋3,000円くらいする最高級のやつじゃない!?」
感動の涙は一瞬で引っ込んだ。
目の前にいるのは、確かにアテムなのだが、その神々しさは現世の超絶ホワイトな引きこもり環境によって、跡形もなくゲシュタルト崩壊していた。
城之内が絶句し、杏子は両手で口を覆い、本田は遠い目をしている。かつて世界を救い、光の中に堂々と還っていったあの神々しい王の面影は、そこには微塵もなかった。完全に現世の快楽に敗北した重度の引きこもりニートがそこにいた。
しかし、次の瞬間、城之内がアテムの肩をガシッと掴んで激しく揺さぶった。
「お前なぁっ!!心配させやがって!!」
「わっ、ちょっと待て、城之内くん……!」
「アパートからいなくなったって聞いて、俺たちがどれだけ童実野町を走り回ったと思ってんだよ!コンビニもクビだし、事件にでも巻き込まれたんじゃねえかって、みんな本気で泣きそうだったんだぞ!なんで一言も連絡しねえんだよ!」
怒鳴る城之内の目は、怒りよりも、無事だったことへの安堵で少し潤んでいた。杏子も「そうよ! 水臭いじゃない!」とぷんぷん怒っている。
仲間たちの本気の怒りと、それ以上に深い優しさに触れ、アテムはさすがに胸が痛んだ。現世のゲームや動画が楽しすぎて、連絡するというタスクを完全に脳内から墓地へ送っていたのは事実だ。
アテムは寝癖はそのままだが、スウェットの襟を正しだが、神妙な面持ちで仲間たちに向き合った。
「……すまない、みんな。俺の配慮が足りなかった。君たちをそんなに心配させるつもりはなかったんだ。本当に、悪かった」
かつての王が、スウェット姿で素直に頭を低くする。
その姿を見て、城之内はハァーッと大きなため息をつき、頭をガリガリと掻いた。
「ったく……まぁ、無事ならいいんだけどよ。お前がこんな、海馬のヒモみたいな生活に馴染んでるとは思わなかったぜ」
「ヒ、ヒモじゃない!これは海馬の完全管理による休養期間だ!」
アテムが必死に弁明すると、遊戯がクスッと笑った。
「まぁまぁ。せっかくみんなで来たんだし、今日は楽しく過ごそうよ。アテム、そのゲーム、僕たちにもやらせてよ」
「うん、もちろんだ相棒!最新の格闘ゲームがあるんだ。城之内くん、君から相手をしてやる!」
そこからは、かつての賑やかな時間が一気に戻ってきた。
アテムはすぐさまタブレットを操作し、お気に入りの「KCデリバリーピザ」を特大サイズで大量に注文。ドローンが運んできた熱々のピザを囲み、コーラで乾杯した。
足の踏み場もなかった床は、本田と杏子によって強制的に片付けられ、全員でテレビの前に座り込んでゲーム大会が始まる。
「あーっ!またアテムに負けた!お前ニートになってゲームばっか上手くなってんじゃねえよ!」
「フフン、君の動きは見切っていると言ったはずだぜ、城之内くん!」
ゲームに負けて悔しがる城之内と、かつての不敵な笑みを取り戻して勝ち誇るアテム。服はスウェットだが、その瞳には久しぶりに決闘者としての楽しげな光が灯っていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、窓の外がすっかり暗くなった頃、遊戯たちは立ち上がった。
「じゃあ、俺たちはそろそろ帰るわ。海馬に見つかったらめんどくせえしな」
城之内が苦笑いしながら上着を羽織る。
杏子も笑顔でアテムを振り返った。
「アテム、また遊びに来るからね。次はちゃんと連絡すること!」
「ああっ。いつでも歓迎する。……今日は本当に、来てくれて嬉しかった」
ドアのところで見送るアテムに、遊戯が最後に振り返って、優しく微笑んだ。
「じゃあね、アテム。またみんなで、ゲームしに遊ぼうね」
「あぁ。またな、相棒」
パタン、とドアが閉まり、部屋に静寂が戻る。
しかし、先ほどまでの静寂とは違い、今の部屋にはどこか温かい空気が満ちていた。
アテムは残ったピザの耳を口に放り込み、ふかふかのベッドにゴロンと横たわった。
「……また、遊ぶ、か」
天井を見つめながら、アテムは小さく笑った。
戦いのためではなく、ただ「楽しむ」ためにまた集まろうと言ってくれる仲間たちがいる。瀬人の財力によって守られたこの怠惰な聖域で、仲間たちと過ごす現世の時間。
「悪くない。……いや、最高だな」
寝癖をさらにくしゃくしゃにしながら、アテムは今夜も幸せなターンエンドを迎え、深い眠りへと落ちていくのだった。
海馬邸の重厚な大理石の玄関ホール。
アテムの部屋を辞した遊戯たち4人が静かに歩いていると、正面から長い白コートを翻した瀬人が歩いてきた。会社から戻ってきたところなのだろう。
城之内たちは一瞬身構えたが、遊戯は一歩前に出て、瀬人を見つめた。
「海馬くん」
「フン、遊戯か。満足いくまであの男の腑抜け面を拝めたか」
相変わらずのトーンで返す瀬人に、遊戯はどこか全てを察したような、穏やかな苦笑いを浮かべた。
「うん。……ああいうことだったんだね、海馬くん」
遊戯の言葉には、いくつもの意味が含まれていた。アテムがどれほど疲れ果てていたのか、そして、それを誰よりも早く見抜き、彼がプライドを傷つけられることなく「ただのニート」として完全に休める聖域を用意したのが誰なのか。
瀬人は遊戯の視線を避けるようにふいっと顔を背け、フンと鼻で鳴らした。
「……そういう事だ。無駄な詮索はするな」
それだけ言うと、瀬人は長いコートの裾を揺らしながら、大階段を上って自室へと去っていった。
「相変わらず素直じゃねえヤツ」と城之内が呟いたが、遊戯は「ううん、あれが海馬くんなりの優しさなんだよ」と微笑み、仲間たちと共に海馬邸を後にした。
