01 脱走王


冥界の黄金の扉が閉ざされたあの日。誰もが、若き王が永遠の安息を得たと信じて疑わなかった。
当の本人が、現世の、それも勝手知ったる童実野町のゲーム屋の2階で、もこもこの布団にくるまって爆睡しているとは夢にも思うまい。



「……ふわぁ。よく寝たぜ、相棒」
翌朝。差し込む朝日に目を細めながら、アテムは実に3000年と数ヶ月ぶりとなる「戦いのない健やかな目覚め」を満喫していた。
振り返れば、彼の人生、および死後はブラック企業も真っ青の過密スケジュールだった。幼少期は英才教育、即位した途端に大邪神との世界崩壊デスマッチ。パズルに封印されてようやく休めるかと思いきや、現代に呼び覚まされて休む暇なく闇のゲーム、決闘者の王国、バトルシティ。
ようやく冥界へ還り、「さあ、令和のニート生活を始めよう」と一息ついた瞬間、冥界の役人から「あ、新体制の王としての執務が山積みですので、こちらの玉座へどうぞ」と書類の山を差し出された時の絶望たるや。
冗談じゃない。俺はもう働きたくない!
王の権力と神のカードの残光をフル活用し、冥界の警備の目を盗んで次元の壁を突破、現世へ文字通りの「脱走」を敢行したのが昨夜のことである。
行き着いた先は、やはりここしかなかった。
突然の元・相棒の不法侵入に、武藤遊戯はひっくり返るほど驚いたものの、そこは世界を救った相棒同士。「とりあえず、おじいちゃんに見つからないように」と、昨夜は一晩部屋に泊めてくれたのだった。
だが、朝食のトーストを齧りながら、遊戯は至極まっとうな現実をアテムに突きつけた。
「……で、アテム。これからどうするの?」
「どうする、って?」
「いや『どうする』って……。まさか、ずっとここにいるわけにはいかないよ? 冥界から脱走してきたのは百歩譲っていいとして、君、今のアレでしょ? 戸籍もないし、無職の不法滞在者状態じゃないか」
アテムはふっと不敵な笑みを浮かべ、胸を張った。
「案ずるな、相棒。衣食住の恩をただで仇で返すような俺じゃあない。俺がこの『亀のゲーム屋』で働こう。店番でも、仕入れの荷物持ちでも、店の奥でデュエルの相手をする『看板ファラオ』でもいい。どうだ?」
その提案に、遊戯は困ったように頬をかいた。
「うーん……気持ちは嬉しいんだけど、うち、おじいちゃんと僕だけで手は足りてるんだよね。それに、見ての通りの一般家庭だから、もう一人分の生活費をずっと出し続けるのは、経済的にもちょっと厳しいかな。部屋も広くないし……」
「な……ッ!?」
アテムに衝撃が走る。
決闘王たるこの俺が、まさかの書類選考(身内の内定)で落とされた。
「店の戦力にならないというのか……!?俺がレジに立てば、千年に一度の確率でしか起きない『お釣りの奇跡の合致』すら引き起こせるというのに!」
「それ、ただのレジ締めが合うってだけじゃないかな!?あと、君がレジにいたら威圧感が凄くて、近所の子どもたちがカード買いに来づらくなっちゃうよ」
遊戯の指摘は極めて冷静だった。
確かに、いくら「もう戦いたくない」と私服(遊戯の服の借り物)に着替えていても、アテムの放つ「強者のオーラ」は隠しきれていない。パックを買いに来た小学生に「貴様の未来(ドロー)を賭けてみせろ!」などと言い出しかねない危うさがある。
「くっ……」
「というわけでね、アテム。しばらくは僕の部屋にいていいけど、近い内に何か仕事(現世の)を見つけて、自立して出ていってもらうことになると思う。……あ、でも、不法滞在で警察に捕まらないような仕事って、何があるんだろう……」
頭を抱える遊戯の横で、アテムは腕を組み、深刻な顔で考え込んだ。
3000年前の古代エジプトにおいて、国家の頂点に君臨していた王。
現代の童実野町において、履歴書すら書けない、住所不定・年齢不詳の謎の青年。
「……闘い、か」
アテムの鋭い瞳が、キラリと光る。
「フッ、面白い。冥界の玉座を蹴って掴み取ったこの自由。現世の『就職活動』という名の新たな闇のゲーム……、受けて立つ!」
「いや、闇のゲームじゃないからね?ちゃんとハローワーク的なところから始めようね?」
アテムの、現世でのサバイバル職探しの日々が、今ここに幕を開けようとしていた。神の加護が、果たして現代のアルバイト面接に通じるかどうかは、また別のお話である。



あれから数週間。
「王の威光」というやつは、現世の複雑怪奇な官僚制度と、家賃・光熱費という名の容赦ないライフポイント削りの前には、驚くほど無力だった。
現在、アテムが根城にしているのは、童実野町の片隅にある築30年の木造アパート(家賃3万2千円、風呂トイレ共同)。
保証人なし身元不明の彼が部屋を借りられたのは、遊戯がおじいちゃんを必死に説得し、なんとか名義を工面してくれたおかげだった。
だが、そこからの生活は文字通りの「壊滅」である。
まず、行政手続きという名の現代の試練。
役所の窓口で「現住所と前住所を」と問われ、「前住所は冥界、その前は千年パズルの中だ」と本気で答えようとしたアテムを、同行した遊戯が必死で羽交い締めにして止めた。
「あ、あの! この人、ちょっと記憶喪失気味で!戸籍の新規作成の手続きを……!」
冷や汗を流す遊戯の横で、アテムは「民を統べる法が、これほどまでに煩雑とは……」と、窓口の職員を前にしてただただ圧倒されるしかなかった。
さらに、壊滅的だったのが家事スキルだ。
3000年間、身の回りの世話はすべて神官や侍女がやってくれていた。現代にいた頃は「精神体」だったため、食事も洗濯もすべて遊戯(と、その母親)がこなしていたのである。
肉体を得て一人暮らしを始めた初日。
アテムは全自動洗濯機を前に、腕を組んで30分間睨み合った。
「……動け。なぜ動かない。命じているのに!」
ボタンを押さねば動かないという基本概念すら知らなかった彼は、翌日、遊戯に「あの白い箱は、王の命に背く不届き者だ」と真面目に訴え、遊戯を遠い目にさせた。
料理に至ってはさらに悲惨で、ガスコンロの点火ボタンを押した瞬間に上がった炎に「何っ、炎の罠だと!?」とリアルにバックステップを踏み、最終的に出来上がったのは、炭化して冥界の土へと還った「元・食料」だった。
そんな彼がようやく見つけた仕事が、深夜のコンビニバイト、週5夜勤である。
顔だけは無駄に良いのと、遊戯が必死に教え込んだ「いらっしゃいませ」の呪文の甲斐あって採用されたものの、待っていたのは過酷なフリーター生活だった。



そして現在。
かつて世界の命運を賭けて戦った気高き王の姿は、そこにはなかった。
昼下がりの午後2時。
遮光カーテンの隙間から漏れるわずかな太陽光を浴びながら、アテムは万年床の上で、のっそりと上体を起こした。
髪型だけは相変わらずツンツンと鋭く尖っているが、身にまとっているのは、ドン・◯ホーテで遊戯に買ってもらったグレーの上下スウェット。それも、膝のあたりが少し伸びきっている。
「……うーん。もう、日が出ているのか……」
重い頭を抑えながら、よろよろと立ち上がる。
夜勤明けの身体は、千年の呪いよりも重い。昨夜は深夜3時に、酔っ払いの客から「おい、お釣り10円足りねえぞ!」と理不尽に絡まれ、危うく「貴様に罰ゲーム(マインドクラッシュ)を……」と手をかざしかけ、店長に「武藤くん(※遊戯の姓を借りている)、接客スマイル!」と怒鳴られたばかりだ。
かつて肩にかけていた翻るマントは、今や100円ショップの安っぽいサンダルに変わり、胸元で輝いていた千年パズルは、コンビニの名札(『研修中・むとう』)に代わっている。
冷蔵庫を開けると、中には遊戯が差し入れてくれた5個パックの140円の袋麺と、惣菜の見切り品(30%OFF)のコロッケしかない。
「フッ……今日の昼食ドローは、塩ラーメンか……」
スウェットのポケットに手を突っ込み、電気ケトル(これも遊戯の施し)にお湯が沸くのをぼんやりと待つ。湯気を見つめるその瞳には、かつて三幻神を従えていた頃の鋭さはなく、ただただ「今日の夜勤、廃棄のお弁当残ってるかな……」という、極めて世俗的で切実な願いだけが宿っていた。
かつての宿敵・海馬瀬人が見たら、怒り狂ってブルーアイズでアパートごと吹き飛ばしそうなほど、アテムの威光は完全にくすみ、現世の荒波に揉まれて泥臭くなっていた。
しかし、当の本人は、プラスチックのフォークでインスタント麺をすすりながら、ふと窓の外を眺めて呟く。
「……だが、悪くない。誰も俺の命を狙わず、誰も国の命運を押し付けてこない。この……『しふと』とやらの闘いさえ生き抜けば、俺は自由だ」
スウェットの袖で口元を拭い、アテムはニヤリと、どこか昔のような不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、夜勤までに、あと2時間は寝られるな。……ターンエンドだ」
再びもこもこの布団へダイブするアテム。彼の現世での本当の戦いは、今夜も22時のシフト開始とともに幕を開ける。





アテムの現世サバイバルは、さらなる絶望のフェイズへと突入していた。
初の満額支給となるはずだった給与明細を、アテムはアパートの薄暗い電灯の下で凝視していた。そこには、彼のライフポイントをダイレクトに削り取る、無慈悲な数字が並んでいる。
「な……ッ!? 課税……住民税、所得税……!? 待て、何なのだこの『ぜいきん』という罠カードは! 俺の労働の結晶(マイルーム代と袋麺代)が、なぜこれほどまでに強奪されなければならない!」
3000年前は民から税を「徴収する側」だった王、現代日本の容赦ない天引きシステムに血の気が引く。残高はすでに風前の灯火。一玉30円のうどんで食い繋ぐピンチが訪れていた。

だが、真の絶望は、その翌日のシフトへ入る直前にやってきた。
「武藤くん、ちょっといいかな……」
バックヤードに呼び出され、いつもは温厚な店長が、見たこともないほど真っ青な顔で震えていた。その手には、海馬コーポレーションのロゴがギラギラと輝く、一通の電子書面。
「店長、どうした? 顔色が死者のようだが」
「武藤くん……君、まさか『デッキ登録』をしてないんじゃ……!」
「でっき、とうろく……?」
アテムが首を傾げた瞬間、店長はガタガタと机を叩いた。
「童実野町の住民は、全員マイナンバーと連動した『所持デッキ』をKCのデータベースに登録しなきゃいけない義務があるんだよ!抜き打ちの監査が入ってさ、うちの店舗に『未登録の不審者』が働いてるって通報が……!頼むから今すぐ辞めてくれ!海馬コーポレーションに睨まれたら、うちのフランチャイズなんて一瞬で潰されるんだ!」
「な、何だと!?」
問答無用でクビを言い渡され、エプロンを剥ぎ取られたアテムがトボトボとアパートへ戻ると、そこにはさらに、大家の老人が今にも心臓を止めて死にそうな顔で待ち構えていた。
「武藤さん!あんたデッキ未登録だってね!?KCの黒服がうちにまで来て、デッキ未登録の者を住まわせるアパートは、今後の土地開発の対象から除外(物理)するって脅されたんじゃ!頼むから出ていっておくれ、海馬社長は本気になったら何をするかわからんお人じゃ……!」
店長も大家も、童実野町を支配する絶対権力者・瀬人の影に怯えきっていた。
もちろん彼らは知らない。目の前の、膝の抜けたスウェットを着た青年こそが、その瀬人が執念深く追い回している伝説の決闘者本人だということを。
「待ってくれ、大家!」
アテムは生まれて初めて、一介の民に対して必死の交渉(命乞い)を試みた。
「俺にも事情がある!今すぐ路頭に迷えば、俺は文字通り干からびて冥界へ逆戻りだ!次の住処を見つけるまで、せめて、せめて少しの猶予を……!」
「無茶を言うな!わしだって命は惜しい!」
王の必死の眼力に押されたのか、大家はガタガタと震えながらも、一本の蜘蛛の糸を差し出した。
「……二日!二日だけ待つ!その間に、役所の『市民生活相談課』にでも行って、どうにかしてもらいなさい!それ以上は一秒たりとも置けん!」
バタン、と激しく閉められたドアの前で、アテムは立ち尽くした。
二日の猶予。手元には、税金で毟り取られたわずかな小銭。
誇り高き王が、デッキ登録という現代のシステム(というか瀬人の嫌がらせ)によって、ついに家も職も失う「完全なるホームレス」の危機に直面したのである。
「な……なんということだ……」
アテムは誰もいない部屋で、前髪をくしゃりと掻きむしりながら、乾いた笑いを漏らした。
「まさか、三幻神をも従えたこの俺が……『役所に相談に行け』と言われる日が来ようとはな……」
スウェットのポケットの中で、かつて世界を救った相棒・遊戯からもらった数枚の千円札が、寂しくカサリと音を立てた。現世の闇のゲームは、冥界のデスマッチよりも遥かに世知辛く、容赦がなかった。






翌日。アテムは重い足取りで童実野町役場の「市民生活相談課」の門を叩いた。
スウェット姿でパイプ椅子に腰掛け、担当職員の眠そうな顔を眺めながら、アテムは昨日からの災難を反芻していた。店をクビになった理由も、アパートを追い出されそうになっている理由も、すべては「デッキ登録」とやらのせいだ。
「……要するに、その『デッキ登録』をすれば、俺はここで生き延びられるんだな?」
「ええ、まあ、童実野町の市民義務ですからね。こちらの機械に、お持ちのカードをすべてスキャンしてください」
差し出されたのは、海馬コーポレーションのロゴが入った最新型のスロットイン式端末だった。
アテムは懐から、遊戯が「何かあった時のために」と持たせてくれた最低限のデッキを取り出した。かつて戦い抜いた魂のカードたち。ブラック・マジシャンをはじめとする、彼を象徴する面々だ。
「ふふ、これらをこの箱に通せば良いんだな」
何気なく、カードの束を端末へ滑り込ませる。
その瞬間。
役所の端末が、見たこともない真っ赤なエラー警告を点滅させた。
『【警告】登録パターン:コード・ネーム "ファラオ" と99.9%一致。直ちに最高警戒アラートを発令。対象データをKCメインフレームへ直送します』
「え?あ、あれ?なんだこれ、バグか……?」
職員が慌てて端末を叩き始めたが、時すでに遅し。
数分もしないうちに、役所の自動ドアが激しく開き、黒いスーツにサングラスをかけたガタイのいい男たち、海馬コーポレーションの黒服部隊が、怒涛の勢いで相談課へと突入してきた。
「何事だ!?」
アテムが立ち上がる暇もなく、黒服のリーダーが冷徹に告げる。
「武藤アテム。我が社のデータベースに極めて特異な反応があった。社長の命令だ、同行してもらう」
抵抗する間もなく、アテムは最高級仕様の黒塗りのリムジンへと押し込まれた。
向かう先は、童実野町の中心にそびえ立つ、あの忌々しくも巨大な要塞、海馬コーポレーション本社ビル。



最上階、社長室。
重厚なドアが開くと、ガラス張りの大空間の向こうに、あの男が背を向けて立っていた。
白いロングコートを室内の微風に翻らせ、童実野町の街並みを見下ろしていた瀬人が、ゆっくりと振り返る。その鋭い青眼が、グレーのスウェットを着たアテムを頭の先から足の元まで凝視した。
沈黙。
やがて、瀬人はふっと、狂気を孕んだいつもの不敵な笑みを口元に浮かべた。
「……フン。まさか本当に、あの冥界の扉をこじ開けて戻ってくるとはな。服のセンスは最悪に退化したようだが……その眼、その魂の波長。間違いなく、お前本人だな、アテム」
「海馬……」
アテムは腕を組み、かつての宿敵の名を呼んだ。しかし、いかんせん膝の抜けたスウェットのせいで、王の威厳はいつもの3割増しで締まらない。
瀬人は顎で、部屋の中央にある高級な革張りソファを示す。
「座れ」
アテムは無言でソファに深く腰掛けた。瀬人もまた、その対面に腰を下ろす。
ここから、息が詰まるほどの長い「沈黙」が始まった。
アテムは黙っていた。
家を失い、職を失い、生活費すら尽きかけているこの現状を、よりによって最もプライドの高いこの男に知られたかもしれないという事実に、内心冷や汗が止まらない。
瀬人もまた、黙っていた。
組んだ足の膝の上に肘を置き、指を組んで、じっとアテムを見つめている。その目は、獲物の生態を観察する学者のようでもあり、怒りを通り越して呆れ果てているようでもあった。
部屋の時計の秒針の音だけが、カチ、カチ、と贅沢な空間に響く。
沈黙を破ったのは、瀬人だった。
彼は手元のタブレットを起動すると、冷酷極まりない声で、画面のデータを読み上げ始めた。
「……武藤アテム。年齢不詳。数週間前、童実野町に出現」
「!」
「その後の足取り。武藤遊戯の家に一晩密航。翌日、自立を促され退去。築30年のボロアパートに入居。家賃、3万2千円」
瀬人の口から紡がれる生々しい数字に、アテムの眉間がピクリと跳ねる。
「家事スキル、皆無。洗濯機の使い方が分からず30分放置。料理を試みるもガスコンロの火に怯え、食材を黒焦げの炭へと変える。……さらに、近所のコンビニで時給1520円の深夜夜勤アルバイトを開始。主な主食は140円の袋麺と、30%引きの見切り品コロッケ」
「お、お前……そこまで調べて……!」
アテムは思わずソファから身を乗り出しかけた。
瀬人はタブレットを放り投げ、ソファの背もたれに深く寄りかかると、信じられないものを見るような目でアテムを睨みつけた。
「お前を探し出すために、俺がどれほどのテクノロジーと予算を投じたと思っている。それを……俺が宇宙にまで手を伸ばして追い求めた伝説の決闘者が、現世に戻って最初に始めた『闘い』が、コンビニのレジ打ちだと?笑わせるな!」
瀬人の怒号が社長室に響く。
しかしアテムは、スウェットのポケットに手を突っ込み、ふいっと視線を逸らした。
「ふん……お前に現世の『税金』という罠の恐ろしさがわかるか、海馬。どんなに深夜に働こうとも、奴らは容赦なく俺のライフを毟り取っていく。それに……お前の作った『デッキ登録』という理不尽なルールのせいで、俺は昨日、家も職も失った。2日後には路頭に迷う身だ」
アテムは高級ソファの背もたれにどっかりと体重を預け、スウェットのポケットから手を抜くと、堂々と人差し指を瀬人に向けた。
「だから、お前が俺に『仕事』を用意しろ。それが筋というもんだぜ。ついでに、あの大家にも話をつけて、引き続きあのアパートに住めるように手配してもらいたい。猶予は2日しかない」
かつて古代エジプトの富を一身に集め、民を導いた王が、今や「仕事の斡旋」と「賃貸の強制更新」を対戦相手に要求している。
あまりにも図々しく、そしてあまりにも世俗的すぎる交渉。
瀬人は一瞬、言葉を失った。
かつての決闘で見せた神々しいまでの気高さ、あの超越的な強さはどこへ行ったのか。目の前でグレーのスウェットを着た男は、完全に「現世の生活苦に追われるフリーター」の顔をしている。
「……」
瀬人の口から、珍しく小さく、そして深い溜息が漏れた。怒りを通り越し、あまりの変貌ぶりに頭痛を覚えたような落胆の息だった。
「アテム。お前という男は、そこまでしてなぜ現世にしがみつく。そもそも……なぜ冥界から戻ってきた?お前はあの日、すべての因縁を断ち切り、王としての永遠の安息へと旅立ったはずだろう」
瀬人の青い瞳が、まっすぐにアテムを射抜く。
そこには、純粋な疑問があった。宇宙へ旅立ち、次元を越えてまで追い求めた宿敵が、なぜ安息の地を捨ててまで袋麺をすする生活を選んだのか。
問われたアテムは、一瞬、バツの悪そうな顔をして視線を泳がせた。
「冥界から脱走してきた」という事実は、誇り高き王としては極めて後ろめたい。だが、今はプライドを投げ打たねば、2日後には童実野町の路上で野宿する羽目になるのだ。背に腹は代えられない。
アテムは意を決し、自らの身に起きた「悲劇」を重々しく語り始めた。
「……聞いてくれ、海馬。あの日、俺が黄金の扉の向こうへ還った時のことだ。ようやくすべての戦いが終わり、心穏やかな眠りにつけると思った瞬間、冥界の役人どもが俺を囲んだ。そして、こう言った。『新体制の王、お待ちしておりました。過去3000年分の滞っていた行政書類と、今後の冥界の都市開発計画書がこちらです』とな」
アテムは拳を握りしめ、魂の叫びをぶつける。
「俺の人生は、生前も死後も過労デスマッチばかりだった!即位すれば邪神と戦い、現代に蘇れば闇のゲーム!ようやく還った安息の地ですら、待っていたのは終わりのない書類の山だ!俺は……俺はもう、王としての重圧から解放され、静かに暮らしたかったんだ……!」
悲壮感たっぷりに「過労の悲劇」を訴え、アテムはソファから身を乗り出した。
「だから海馬、お前の会社で雇ってくれ。贅沢は言わない。現世の書類整理でも、本社の受付でも!日給、いや時給での雇用で構わない……」
必死の形相で「受付でもやる」と言い放ったアテム。
だが、そのすべてを聞き終えた瀬人の表情は、冷徹そのものだった。ふっ、と鼻を鳴らし、怜悧な笑みを浮かべる。
「……悲劇だと? 笑わせるな、アテム。それはただの『敵前逃亡』……いや、『冥界からの職場放棄(脱走)』だろうが」
「なっ……!」
「そんな後ろめたい理由で、神聖なる決闘の聖地、童実野町をスウェットでうろついていたとはな。呆れて物も言えん」
見事に見抜かれ、アテムはぐうの音も出ない。
瀬人は立ち上がり、ガラス窓の向こうの街並みへ視線を戻した。
「仕事など、俺の権力があればいくらでも与えてやれる。海馬コーポレーションの資本力を持ってすれば、お前を一生遊んで暮らせる身分にすることも造作もない」
そこで言葉を区切り、瀬人は再びアテムを振り返った。その目には、冷酷なまでの「理解」があった。
「だが、アテム。お前が『書類整理』だと?コンビニのレジ打ちすらまともにこなせず、未登録でクビになるような男が、海馬コーポレーションの緻密なデスクワークに耐えられるわけがないだろう。お前のような大雑把な男がコツコツと働くなど、向いていないことくらい、この俺が一番よく知っている」
「向いていない、だと……?」
瀬人の指摘は、ぐうの音も出ないほど的確だった。
王とは、大局を見て決断を下す存在であり、領収書の束を電卓でパチパチと計算するような地道な作業は、それこそ「滅びのバーストストリーム」級のストレスを彼に与えるに違いないのだ。
瀬人の容赦ない現実突きつけに、アテムはソファの上で、これ以上ないほど悲壮感たっぷりの表情を浮かべた。
これまで数々の絶望的なデュエルを逆転してきた男が、今や「適性のなさ」を指摘され、完全にライフポイントが初期値の1割を切ったような顔をしている。

その時、社長室の重厚なドアが静かに開き、洗練された身のこなしの秘書がワゴンを押して入ってきた。
ワゴンから手際よく机に並べられたのは、淹れたてのブラックコーヒーが2つ。
そして、それとは明らかに不釣り合いな、グラスの底からコーンフレーク、生クリーム、フルーツ、チョコソースがこれでもかとそびえ立つ、規格外の巨大チョコレートパフェだった。
トン、とアテムの目の前に置かれる巨大パフェ。
アテムが呆気に取られていると、瀬人は自身のコーヒーを手に取り、ふんと鼻を鳴らした。
「我が社のリサーチによれば、お前は現世に戻って以来、まともな糖分を摂取していないようだからな。……それを摂取しながら、自分が本当は何をしたいのか、その滅びかけの脳味噌でよく考えろ」
「海馬、お前……」
一瞬だけ宿敵の不器用な配慮に目を見張ったアテムだったが、空腹と、目の前の魅惑的な甘味には勝てなかった。
「……いただこう」
スプーンを手に取り、まずは一番上のバニラアイスと生クリームをすくって口に運ぶ。
「……っ!」
現代の洗練されたパティシエの技術が、3000年前のハチミツ菓子しか知らない王の味覚を直撃した。あまりの美味さにツンツンとした前髪が一瞬震える。
アテムは無言で、もぐもぐとパフェを食べ進めた。
俺が、本当にしたいこと……?
生クリームを頬張りながら、考える。
またデュエルがしたいか?いや、現世を救う戦いはもう相棒が綺麗に終わらせてくれた。今更自分がしゃしゃり出る幕でもない。
では、コンビニの夜勤を極めたいか?昨夜の酔っ払いの顔がフラッシュバックして、生クリームの甘さが一瞬苦くなった。御免被る。
ならば、この会社で出世を狙うか?さっき「向いていない」と断言されたばかりだし、そもそもパソコンの起動のさせ方すら怪しい。
もぐもぐ、もぐもぐ。
スプーンがグラスの底のコーンフレークを砕く小気味良い音が響く。
しかし、考えれば考えるほど、何も浮かばなかった。
というか、厳密に言えば「浮かび上がってくるひとつの答え」が、あまりにも王としてのプライドに反しすぎていて、言葉に詰まってしまうのだ。
パフェが完全に空になり、最後のチョコのソースを名残惜しそうにスプーンですくい取ったところで、アテムの手が止まった。
その顔は、先ほどの悲壮感とはまた違う、どうしようもなく困り果てた、迷子の子供のような表情になっていた。
瀬人は空になったグラスを一瞥し、コーヒーカップをソーサーに戻した。
「グラスは空だぞ、アテム。答えが出たなら口にしろ」
「それは……」
アテムは視線を泳がせ、スウェットの膝のあたりをきゅっと握りしめた。口をもごもごとさせ、どうしても言葉が出てこない。
そんな宿敵の、かつて見たこともない歯切れの悪さを見かねて、瀬人は腕を組み、ふっと少しだけ声音を和らげて促した。
「今更、何を恥じることがある。冥界を職場放棄してスウェットで泥水をすすっていた男が、何を格好つける必要があるのだ。……正直に言ってみろ。お前は何がしたい」
瀬人のそのストレートな、だがどこか全てを受け止めるような言葉に、アテムはついに降伏した。
ふう、と小さく息を吐き出し、隠しきれない本音を、絞り出すように訴えた。
「……実はな、海馬」
「ふん」
「俺は……何もしたくない」
「……」
アテムは両手を少し広げ、情けないほど正直に、自分の魂の叫びを吐露した。
「もう戦いたくない!誰かの期待を背負うのも、世界の命運を賭けるのも、冥界の書類を整理するのも、深夜のレジ打ちで酔っ払いに怒鳴られるのも、もう嫌だ!俺はただ……ただ、休みたい……!誰にも邪魔されず、昼間は眠り、夜は静かに過ごす……そういう、何も生み出さない『休み』が、俺には必要なんだ……!」
言い切ったアテムは、肩を落としてソファに深く沈み込んだ。
キング・オブ・デュエリストの、これが完全なる本音だった。彼は、心底疲れ果てていたのである。3000年分の過労の反動が、今、チョコレートパフェの甘みによって完全に決壊していた。
「……良かろう」
アテムの魂の、いや、限界フリーターとしての魂の叫びを聞き届けた瀬人は、事も無げにそう承諾した。
「え……?」
アテムは呆然と顔を上げた。何が「良かろう」なのか、さっぱり理解が追いつかない。自分の本音は、要約すれば「俺は一切働かずにニートとしてぬくぬくと休みたい」という、およそ誇り高き決闘者の風上にも置けない怠惰な宣言だったはずだ。あの妥協を許さない男が、なぜこれほどあっさりと受け入れたのか。
瀬人は立ち上がり、デスクの上の内線インターホンへ向かいながら、冷酷なまでのトーンで事務的に告げた。
「お前の住んでいるあの築30年の木造アパートは、我が社の権限で即刻解約させる。当然、お前に『仕事』などという高尚なものは一分たりとも与えない。書類整理も、受付も、コンビニのレジ打ちも、一切禁止だ」
「な、何だと……!?」
アテムの顔が瞬く間に絶望に染まる。
「待て、海馬! 話が違う!俺は先ほど、お前の作ったルールに従って役所でデッキ登録をしたんだぜ!?それなのに家も職も完全に奪い、俺を完全に路頭に迷わせるつもりか!この鬼畜め!」
「黙れ、アテム。俺の言葉を最後まで聞け」
瀬人はアテムの抗議を鼻であしらうと、インターホンのボタンを押した。
「モクバ、社長室へ来い」
数秒と経たずに、社長室の重厚なドアが勢いよく開いた。「兄様!」と声を弾ませて入ってきたのは、海馬コーポレーションの副社長であり、瀬人の最愛の弟であるモクバだった。
「どうしたんだ、兄様?急に呼び出して……って、ええっ!?ア、アテム!?」
モクバはソファに座るグレーのスウェット姿の青年を見て、漫画のように目を丸くした。
「お前、本当に戻ってきてたのか!?っていうか、なんだその格好……!」
「モクバ」
瀬人は弟の混乱を無視し、冷徹かつ絶対的な声で指示を下した。
「今すぐこの男を我が海馬邸へ連れ帰れ。そして、屋敷の中で最も日当たりの悪い、遮光カーテンを完備した最高級の部屋を用意しろ。こいつの生活費、食費、その他すべての面倒は永久にカバーする。一切の労働を禁じ、完全に『休養』させるよう、使用人たちに通達しておけ」
「えっ?えええーっ!?」
モクバは兄とアテムを交互に見つめ、あまりの規格外な命令に口をあんぐりと開けた。
一方、当のアテムもまた、開いた口が塞がらなくなっていた。
「か、海馬……お前、今何を……?」
瀬人はふっと不敵に、そしてこの上なく愉悦に満ちた笑みを浮かべ、スウェット姿の宿敵を見下ろした。
「言ったはずだ、アテム。お前が『戦いたくない、休みたい』と言うのなら、その望みを完璧に叶えてやる。お前は我が海馬邸の奥深くで、一切の俗世の苦労から隔離され、好きなだけ泥のように眠り、好きなだけパフェを貪り、ただ英気を養っていればいい」
瀬人はコートを翻し、再びガラス窓の向こうの街並みへと視線を向けた。その背中は、絶対的な支配者のそれだった。
「お前をそこらの一介の民として、現世の不条理な生活苦などで摩耗させてたまるか。お前の魂を再びあの頂点へと引き戻し、俺と完璧な決闘をするその日まで。お前の衣食住、そしてその命のすべては、この海馬瀬人が完全管理プロデュースしてやる!」
「兄様……それ、要するにアテムを我が家で『極上ニート』として飼うってことだよね……?」
モクバの至極まっとうなツッコミが社長室に虚しく響く。
しかし、アテムはもはや反論する気力すら起きなかった。
家賃の心配もない。税金の手続きに怯えることもない。夜勤の酔っ払いに怒鳴られることもなく、昼間に堂々と、最高級のベッドで眠ることができる。
「……フッ、完全管理フォージド・プリズン、か」
アテムはスウェットのポケットに手を突っ込み、どこか遠い目をして、だが確実に安堵の混じった複雑な笑みを浮かべた。
現世の闇のゲームの果てに、アテムが手に入れたのは、宿敵の財力による「完全なるニート生活」という名の、あまりにも贅沢な聖域だった。
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