14 未来のロード


有給が明けた翌週の月曜、俺は5時に目が覚めた。
アラームはかけてないのに、起きて時計を見たら、時刻は5時だった。
起き上がって、台所に行って水を飲んだ。
今日は現場がない。今日だけじゃない。3月は、丸ごと何もない。
とりあえず冷蔵庫を開けた。卵が4つ入ってる。
閉めた。
もう一度開けて、卵でも焼こうか考えて、他に何もないからやっぱりやめて、また閉めた。
何もやることがなかった。
6時になって、7時になって、外が明るくなってきて、やっとカーテンを開けた。
カーテンを開けたのが、いつぶりなのか分からないことに気付いた。
光が入ってきて、部屋の中がやたら細かく見えた。床の埃とか、壁とか机の上の染みとかもだ。
今までも、見えてなかったわけじゃないと思う。見るほとの余力がなかったんだ。これも、あいつの言ってた、見えていないのではなく見ていない、ってことなのかも知れない。

俺はまず、掃除を始めた。
流しの皿を洗って、伏せた。
それから、冷蔵庫の中を全部出してみた。セットになってるヨーグルトが出てきた。賞味期限は去年の11月だった。当然捨てた。
棚を拭いて、床も掃除機をかけた。押し入れを開けて、服を季節ごとにまとめ直してから、また戻した。
ようやく昼になった。
コンビニに行って弁当を買ってきて、部屋で食った。
食い終わって、時計を見たら、12時40分だった。
まだ昼間だ。
俺は座ったまま、暫く壁を眺めてた。

2日目も5時に起きた。
3日目も5時に起きた。
4日目は5時20分だった。
5日目に、やっと初めて7時まで寝た。
時計を見て7時の表示を見た時、背中がヒヤッとした。寝過ごしたと思ったからだ。
ちゃんと頭が働き初めて、寝過ごすものがないことを思い出した。
現場も、事務所もない。誰も電話をかけてこない。
スマホを見ると、通知が2件あった。1つはニュースアプリで、もう1つはカードゲームのアプリだった。
会社からは、何もない。有給が明けて、正式に退職して、それで終わった。そういうことになってる。
布団に戻って、もう一度目を閉じてみた。
次に起きたら、10時だった。
この日は、もう掃除も何もしなかった。



2週目の初め、平日の昼に、駅裏のカードショップに行った。
前も来てた店だ。あの時も店主が1人でカウンターにいた。
奥を覗くと、高校生が3人いた。高校は春休みか。
「あ、優勝した人だ。」
「よお。」
「今日、休みっすか。」
「まあな。」
4戦して、3勝1敗だった。
負けたゲームは、押し切られた。相手の子が丁寧に組んでくるタイプで、俺の攻撃が2回も止められた。3回目で何とか通したけど、その時には防御が崩されてた。
「攻めますねー。」
「そうか?」
「前に見た動画の人と、なんか感じ違いますね。」
動画。KC杯の決勝だ。あれは1年半前になる。
「おうよ、別人だろ。」
「同じ人ですよ。」
高校生が笑った。
帰り道で、少し考えた。
1年半前の俺は、伏せて、守って、削られて負けた。あの時は自分が守ってることに気付いてもいなかった。
今は攻めてる。
攻めて、負けてる。
同じ負けでも、疲れ方が違う。

その週の内に、あいつにメールを送った。
専務からのメールに書いてあったアドレスだ。4つに折って、リュックに入れたまま持ち歩いてた。
seto.kaiba@kaibacorp.co.jp
打ち込んで、暫く画面を見てた。
何て書くか決めてなかった。
『城之内だ。デュエルしねえか』
とりあえずそれだけ打って、送った。
返事は1時間もしないで来た。
『万全になったら相手をしてやる』
それだけだった。
俺は画面を見てた。
万全ってなんだ。俺は今、元気だ。7時まで寝てるし、飯も食ってるし、カードも触ってる。
『万全だっつの』
そう送ったが、返事は来なかった。

3日後にもう一度送った。
『今日はどうだ』
『弱った相手を叩き潰しても面白くない』
弱った、と書かれていた。
俺は少しむっとした。
『弱ってねえ』
『ならば証明しろ』
『どうやってだよ』
そんで、返事は来なかった。

3週目に入って、俺は自分の生活を見直した。
証明しろと言われても、証明の仕方が分からなかったからだ。どうしたら証明出来るだろう。
出せるものがあるとしたら、何だ。
まず、体重を量った。70キロだった。最後に量ってから、変わってない。
睡眠時間を計算した。7時間半だ。4年くらい、5時間とか6時間だったのに比べたらずっといい。
食った回数はどうだ。1日3食きちんと食ってる。これまで、朝は殆ど食ってなかったし夜も怪しい。
酒を飲んでない。3週間くらい、一滴も飲んでない。
証明できるものを数えてから、俺は自分がまた数えてることに気付いた。
数えるってことは、別に悪いわけじゃない、と思った。
数えるのが道具なら、道具は使えばいい。道具に使われるのが問題だっただけだ。
俺はスマホを開いて、メールを打った。
『3週間、酒飲んでねえ。7時間半寝てる。飯も3食ちゃんと食ってる。これで足りるだろ』
返事は10分で来た。
『なるほど、それを数えたのか』
『数えた』
『そうか』
それだけだった。
だが、その日も、日程は決まらなかった。






そんな感じで1ヶ月が過ぎた。
3月31日。俺は部屋で、翌日の準備をしてた。
作業着はもらってある。安全靴も新しく支給された。ヘルメットは前のを使っていいらしい。返せと言われなかったやつだ。
サンプルケースは、新しいのが向こうで渡されるだろう。何キロあるかは、まだ知らない。

4月1日、俺は大和設備工業に初出勤した。
朝礼で紹介された。
「今日から入る城之内君です。」
「城之内です。よろしくお願いします。」
拍手が起きた。
専務が前に出てきた。
「城之内君は東地区をやってた人です。うちのC街区に入ってもらいます。」
その日は書類を書いた。前に一度書いたのと似たやつを、また書いた。日付だけが違う。
昼に、先輩に飯に連れていかれた。
「城之内君、1ヶ月休んでたんだって?」
「あー、はい。」
「いいなあ。」
「すいません。」
「いや、いいことだよ。うちの専務がそういう人なんだ。」

17時半に、専務が事務所を回った。
「はい、帰る帰る。」
本当に言ってた。
俺は18時に事務所を出た。
まだ明るかった。



1週目が終わって、2週目に入った。
現場は動いてる。C街区は9月着工で、今は基礎の段階だ。前の会社で見てた図面と同じものを、別の立場で見てる。
残業は固定じゃなくて普通についた。
初めての給与明細を見るのは来月だけど、日報に書いた時間が、そのまま計算されるらしい。
「城之内君、今日何時まで?」
「19時までっす。」
「じゃあ、退勤時間ちゃんと書いといて。」
書いた。
書いていいものを書くのが、なんだか変な感じだった。
土日は休みで、最初の土曜は、10時まで寝た。






4月の3週目。
ある夜に、メールが来た。
『今週土曜、午後1時、ご都合いかがでしょう。お迎えに上がります』
差出人は磯野さんだった。
俺は画面を見た。
迎え。
『どこ行くんすか』
『ご自宅前にお伺いいたします。行き先は本邸でございます』
本邸。
海馬邸だ。
高校生の時に一度、2月に一度、運ばれて行った。迎えは来るが、今度は、自分の意思で行くらしい。

当日、12時50分にアパートの前に出た。
13時ちょうどに、黒い車が来た。
エンジンの音が静かだった。2月に乗ったのと同じ車かどうかは分からない。同じ気もするし、違う気もする。
運転手が降りてきて、後部座席のドアを開けた。
「城之内様、お待たせいたしました。」
「あ、どうも。」
少し緊張しながら乗り込んだ。
座席が柔らかい。これは覚えてる。2月に、押し込まれて落ちた時の感触だ。
車が発進した。
窓の外を眺める。4年間、いや、その前も毎日見てた町だ。今も見てる。ただ、見てる時間が違う。土曜の昼だ。
15分くらい走った。
商業地区を抜けて、街灯の間隔が広くなって、道の両側に塀が続くようになった。
この道はあんまり覚えてない。2月は寝てたし。
門が開いた。
相変わらず長い。門から玄関まで、車で1分近くかかったんじゃないだろうか。
降りると、正面にでかい建物があった。
久しぶりに来た気がする。
2月の朝、俺はこの中から出てきた。歩いて駅まで30分かかった。中から見た廊下と、階段と、食堂は最近のことだから覚えてる。
高校生の時に連れて来られた時は、急いで案内されたから、外からじっくり見たのは初めてだ。
「ようこそいらっしゃいました。」
玄関に、使用人の人が立ってた。
年配の女の人。2月に、朝食はこちらです、と3回言ったあの人だった。
その人の前で立ち止まった。
「あの。」
「はい。」
「2月に、部屋を貸してもらって。あの時、ちゃんと礼を言えてなかったんで。ありがとうございました。」
頭を下げた。
顔を上げたら、女の人が少し驚いた顔をしてた。
それから、優しく笑った。
「とんでもございません。お役に立てたのでしたら何よりでございます。」
「その、あと、俺、迷惑かけませんでした?」
「いいえ。」
「シーツとか、汚してなかったすか。」
「何も。」
「良かったっす。」
本当に良かった、と思った。そのことは、ちょっと気になってた。
「瀬人様がお待ちです。ご案内いたします。」
廊下を歩いた。
2月に歩いたのと同じ廊下だ。絨毯で、足音がしない。壁に絵が掛かってる。
あの時は、どっちに行けばいいか分からなくて、とりあえず左に歩いた。
今日は右に曲がった。
階段を降りると、また廊下だった。
「こちらでございます。」
扉が開いた。
覗き込むと、広い部屋があった。
高い天井に、黒い床。壁に機材が並んでる。本社の地下と同じ作りだった。
「テストプレイルームか?」
「こちらは瀬人様の私室の一つでございます。」
私室。
家に、これがあるのか。
奥に、あいつが立ってた。
コートは着てない。黒いシャツに、スラックス。腕にデュエルディスクを着けてる。
「来たか。」
「おう。」
俺はリュックを下ろして、中からデュエルディスクを出した。
「1ヶ月以上、経ったぜ。」
「知っている。」
俺はディスクを腕に装着した。カチッと音がした。
「禊は済んだぞ。」
あいつが止まった。
「……禊?」
「禊だよ、禊。1ヶ月休んだ。酒も飲んでねえ。飯も食ってる。だから、済んだ。」
暫く、何も言わなかった。
「貴様。」
「なんだよ。」
「言葉の意味を分かって使っているのか。」
「分かってるっつうの。禊ってのは、さっぱりするってことだ。」
「誰に対してだ。」
「え、誰って?」
「禊とは、神に対して穢れを祓う行為だ。貴様は誰に何を詫びている。」
「うるせえな!意味は伝わっただろ!」
「伝わってはいる。」
伝わってんのかよ。
じゃあいいだろ、と思った。
あいつがデュエルディスクの起動を確認した。
「行くぞ。」
「おう。」
デュエルは10ターンだった。
負けた。
でも、10ターンだ。
手札は使い切ってた。1枚も残ってない。
3ターン目で青眼が出た。相変わらず気の早いやつだ。
それでも俺は下がらなかった。下がったら終わるからだ。真紅眼を出して、攻撃して、返されて、それと同時に伏せてあったカードで一体持っていった。
5ターン目でもう二体目が出た。
そこからは、もう力任せの削り合いだった。俺のライフが先にゼロになった。
ソリッドビジョンが消えた。
俺は体を曲げて、膝に手をついて、息を整えてた。息が上がってる。これは久しぶりだ。
あいつがこっちを見てたけど、何も言わなかった。
前は、少しはマシな顔になった、とか言ってた。あれは去年の11月だ。
今日は言わない。
言わない理由は、なんとなく分かった。必要がないってことだ。
俺は立ち上がった。
「なあ。」
「なんだ。」
「今の、どうだった。」
「俺に聞くな。」
「なんでだよ。」
「自分で分かっているだろう。」
分かってた。
悪くなかったけど、負けた。
「あー、くそ。」
「10ターンか。」
「知ってるよ。」
「前回は11まで伸ばしたのだがな。」
「知ってるっての。」
あいつが壁際を顎で示した。
テーブルセットがあった。
いつものやつと同じ、反省会やってたテーブルと同じのが置いてあった。
俺はカードを持って、そっちに移った。

反省会は、1時間くらいやってた。
3ターン目の青眼を、どうすれば止められたか。5ターン目に何を持っていればよかったか。7ターン目の判断は正しかったか。
あいつは全部覚えてた。俺も、今日は8割方覚えてた。
途中で、使用人の人がお茶を持ってきて、置いて行った。
飲んだ。熱かった。
「俺、4月から、新しいとこで働いてんだ。」
デュエルの話が一区切りついた所だった。
「報告は上がっている。」
「聞いてんのかよ。」
「知る立場にある。」
そりゃそうだ、と思った。この男は町ごと管理してる。うちの会社もC街区に入ってる。
「それで。」
「それでって?」
「仕事だ。働いていて、何だ。」
俺は湯呑みを持ったまま、少し考えた。
「変な感じだ。」
「何がだ。」
「帰りに、外が明るいのが、まだ慣れねえ。」
あいつが黙った。
「残業はついてる。書いていいって言われて、書いてる。書いていいものを書くのが、なんか変な感じでよ。」
「おかしな話ではない。」
「分かってるけど、体が変だって言ってる。」
「そうか。」
「あと、専務が帰れって言って回るんだ。17時半になると、事務所歩いて、帰る帰るって言うんだ。」
「だろうな。優良企業だ。」
俺は茶を飲んだ。
「お前が、そうさせたのか。」
聞いてから、しまった、と思った。
「していない。」
即答だった。
「あの会社は元からそうだ。俺は入社日を動かすよう提案しただけだ。」
こいつのやることだから、果たして、本当に提案で済んでいたのかは、分からない。けど、専務も普通に接してくれるし、気にしないことにした。
「そっか。」
「貴様が選んだ会社だ。」
俺は湯呑みを置いて、顔を上げた。
何でか、近いなと感じた。
テーブルが小さいからだ。向かい合ってると、距離が1メートルもない。
反省会の間、ずっとこの距離だったのに。
盤面の話をしてる時は、気にならなかったのに。
でも、今は、別のことが気になった。
2月の、あの日と同じくらいの距離だったからだ。
俺は、話を続けようとしたが、何を言おうとしてたのか分からなくなった。
「……。」
「どうした。」
「いや。」
「言え。隠した所で通用すると思うな。」
「……。」
俺は湯呑みを見てた。
言えねえ。
ずっと、聞かなかったから。
5年前も聞かなかった。埠頭で海に落ちて、鍵が落ちてきて、誰が落としたかは知ってたけど、聞かなかった。
去年の5月も聞かなかった。水を渡されて、車が行って、なんで止まったのかを聞かなかった。
2月も聞かなかった。運ばれて、朝になって、何があったのかを聞かなかった。
聞かなかったのは、答えが返ってくるからだ。
答えが返ってきたら、こっちも何かを返さなきゃいけない。
俺は返せるものを持ってない。
ずっと、そう思ってきた。
でも、2月に、こいつは返してきた。
こっちが何も出してないのに、先に返してきた。
だったら、俺が返す番なんじゃねえのか。
返すもの、あるじゃねえか。
1個だけ、ある。
「あのよ。」
「なんだ。」
「お前、その、あれだ。」
「どれだ。」
俺は顔を上げた。
あいつがこっちを見てた。
「……い、言わなきゃ、わかんねーかよ。」
「言え。」
「言えねえよ!」
「ならば俺は知らん。」
あいつが茶を飲んで、少しだけ間があった。でも、分かってる顔だった。分かってて、言わせようとしてる顔だ。
何か、熱かった。でも、ここで止まるってことは出来ねえ。
「分かってんだろ絶対!隠したって無駄だっつったのお前だろ!」
「……それか。」
「それだよ。」
「それがどうした。」
どうした、じゃねえだろ。
俺は膝の上で手を握った。
「お前は、いいのかよ。」
訊いた。
「何がだ。」
「だから、その、俺で。」
言ってから、耳がじわじわ熱くなってるのが分かった。
もっと、違う言い方がある筈だった。でも肝心なそれが、出てこない。
あいつがこっちを見詰めてた。
「俺が判断を誤るとでも?」
返事は返って来た。
しかし、こいつは、そういう言い方しかしねえ。相変わらず、嫌な奴だ。
「だから、その言い方だよ!もっとこう、あんだろ!」
「何がある。」
「あるだろ、普通に!」
「知ったことか。」
「知ってろよ!」
俺は立ち上がった。
立ち上がってから、何をするか決めてなかったことに気付いた。
決めてないけど、座ってたら何も起きない。
4年間、そうやって何も起きなかった。
俺はテーブルを回って、あいつの横に行った。
あいつが見上げた。
そのまま、動かなかった。
「海馬。」
「なんだ。」
「目、つぶれ。」
「……。」
「目えつぶれって言ってんだよ。」
「指図するな。」
「いいから!閉じろ!」
暫く、何も言わなかった。
それから、目を閉じた。
閉じた。
本当に閉じやがった。
どうしよう。
焦りながら、とりあえず、俺は息を吸った。
吸って、屈んだ。
一瞬だった。1秒もなかったと思う。触って、離れた。
体を起こして離れたのに、心臓がうるさい。
あいつが目を開けて、こっちを見た。同時に、口の端が動いた。
少し、笑ってた。
面白そうに笑ってる。
2月に、扉の所で振り返った時と同じだ。
「な、なんだよ。」
「いや。」
「なんかあんだろ!」
「貴様にしては上出来だ。」
あいつが立ち上がって、こっちを見た。
俺より背が高いから見上げなきゃなんねえ。
手が伸びてきて、頬に触れられた。
「え、ちょっ……。」
近かった。
さっきより近かった。後頭部を押さえられて、もっと近付いて。
そんで。

──一瞬じゃ、済まなかった。

離れた時、俺は何も言えなかった。
何を返せって言うんだよ。
そう思った。
思ってから、これ、返されたんだよな、と改めて思った。
俺が返して、返された。
じゃあ、また返さなきゃいけねえのか。
これ、無限ループじゃねえか。
「城之内。」
名前を呼ばれた。
何回目かは、もう数えてない。
「なんだよ。」
「顔が赤い。」
「うるせえ!」



部屋を出て玄関に向かって廊下を歩いてた。
外はまだ明るかった。17時前だ。
階段を上がった所で、声がした。
「あれ、城之内?」
モクバだった。童実野高校の制服を着てた。学校から帰ってきた所らしい。高校生だったのか。
「よお。」
「来てたのか。」
「デュエルしに来た。」
「兄様と?」
「他に誰がいるんだよ。」
モクバが階段の所まで来た。
「負けに来たんだな。」
「負けたけど……。」
「ま、そうだろうな。」
「うるせえな。」
モクバが笑った。
「あ、城之内、夕飯食べてくか?」
「いや、もう帰るとこだ。」
「食べてけよ。今日カレーだって。」
「カレーか。」
「うちのカレー、美味いぜ。」
美味いんだろうな、と思った。2月に食った飯は美味かった。
「いや、いい。」
「なんでだ?」
「なんでって。」
言葉に詰まった。
理由がない。予定もない。腹も減ってる。
「泊まってってもいいんだぜ?」
モクバが言った。なんか、訳知り顔だ。俺、この高校生副社長、苦手かもしれない。
「部屋あるし。城之内、前に使っただろ。」
俺は固まった。
「いや、あれは。」
「あれって?」
「あれは、その、事故みたいなもんで。」
「事故で泊まったのか。」
「そうじゃなくて。」
高校生が首を傾げてる。
悪気はない。だけど、悪戯心はぜってぇある。
「あ、そっか。別に、別の部屋じゃなくてもいいのか。」
訂正だ。モクバのやつ、ぜってぇ楽しんでやがる。
「お、大人を揶揄うな。」
「へえ、揶揄われてるんだ。」
俺は観念して隣を見た。
あいつは廊下の窓の方を見てた。完全に他人事の顔だった。
「おい、海馬。」
「なんだ。」
「お前、弟の教育どうなってんだよ。」
「知らん。」
「知らんって。」
「どうする。選べ。」
こいつはこいつで手に負えねえ。
選べ、じゃねえよ。
「……今日のところは、帰る。」
「そうか。」
引き止めもしない。当たり前だ。この男は決定を人に渡す。渡して、こっちが決めるまで何も言わない。
「なんだよ、帰るのか。」
モクバが言った。
「ああ、今日は復帰戦だったからな。」
「そっか。じゃ、また来いよ。」
「おう。」
「あ、そうだ。城之内。」
俺は、何かを思い出したようなモクバの声に引き止められた。
「なんだよ。」
「会社にメール送って来んなよな。」
俺は止まった。
「……は?」
「社長宛のやつ。あれ、うちの部署が見てるぞ。」
「見てんのか。」
「見てるっていうか、振り分けてる。1日何百通来ると思ってんだよ。」
何百通。
確かに、海馬コーポレーションの、社長宛のアドレスなんて、営業も売り込みも、山程来るはずだ。
「今度から弾くぞ。じゃ、またな。」
そう言って、モクバが奥に行って、廊下に2人だけになった。
俺は隣のやつを見た。
「おい。」
「なんだ。」
「お前宛のメール、俺、送ったよな。」
「送られている。」
「届いてたよな。」
「届いていた。」
「……なんで届いたんだ。」
聞いた。
あいつが少し考えるみたいな顔をした。考えてない顔だった。考えてるふりをしているに違いない。
「宛先が正しかったからだろう。」
「そういう話じゃねえよ!」
「では、どういう話だ。」
「弾かれるって、今モクバが。」
「弾かれなかったのだろう。」
「だから、なんでだよ。」
「さあな。弾かれずに届いているから、貴様が今ここにいるのではないのか。」
噛み合ってない。でも何の問題もない。
俺は言葉に詰まった。
言ってることは確かに合ってる。
「それ、答えになってねえぞ。」
「答えている。」
だから、答えになってねえ。
俺は暫く黙ってから、分かった。
こいつは答えない。
去年からずっとそうだ。水のことも、車のことも、書類のことも、一度も理由を言わなかった。
でも、全部やった。
じゃあ、聞いても無駄だ。
「もういい。」
「そうか。」
俺はポケットからスマホを出した。
「だから、連絡先くれ。」
「メールは届いている。」
「社用だろ、あれ。」
「そうだ。」
「モクバに見られてんだろ。」
「モクバだけではない。」
「そんなの、余計に駄目だ!」
俺はQRコードを表示させて、スマホを差し出した。
「別のやつ、くれ。」
暫く、何も言わなかった。
あいつが俺のスマホを見た。でも、読み取ろうとかしなかった。
代わりに、ポケットに手を入れた。
出したのは、名刺入れだった。
黒い革のやつだ。俺のとは違う。俺のは入社の時に会社から支給されたやつで、合皮で、角が擦れてる。
1枚抜いた。
それから、ペンを出した。名刺を裏返して、サラサラと何かを書いた。
書き終わって、差し出してきたのを受け取った。
表を見た。
海馬コーポレーション 代表取締役社長 海馬瀬人。
本社の住所と、代表番号と、あの社用のアドレス。
紙が厚い。指で持つと、変わった感触の紙質だった。凝ってる高そうな名刺だ。
裏返してみた。
11桁の番号と、メールアドレスがあった。
綺麗な字だった。
「……これ、名刺か。」
「それ以外、何に見える。」
「いや、そうだけど。」
俺は名刺を見てた。
表には、誰でも知ってる肩書とかがいくつか書いてある。
裏には、誰も知らないやつが1つ。
「なんで名刺なんだよ。」
「他に紙がない。」
「いや、あるだろ。この家、紙くらい。」
「探すのが手間だ。」
そういう問題か。
俺は名刺を持ったまま、少し立ってた。
それから、リュックのポケットを開けて、名刺入れを出した。
会社が変わったから、中身は入れ替えてある。大和設備工業の名刺が、20枚。まだ1枚も渡してない。
4年、ずっとこれを数えてきた。20枚あるか、足りてるか、補充しなきゃいけないか。
その一番上に、もらったやつを入れた。
裏を上にして入れた。
顔を上げたら、あいつがこっちを見てた。
「なんだよ。」
「いや。」
「なんかあんだろ。」
「ない。」
「……トレードするか。俺のも1枚。」
「連絡先ならば去年受け取っている。」
「いいだろ、別に。」
ペンを借りて、裏に電話番号とメールアドレスを両方とも書いた。字は、綺麗に書けなかった。
あいつは何も言わずに、自分の名刺入れに入れてた。
俺は自分の名刺入れをリュックに戻した。
そういえば、こいつは、名刺なんて何百枚も配ってる筈だ。取引先にも、記者にも、行政にも。あの表面は、何百人が持ってる。
裏に書いたのは、何枚あるんだろう。
聞かなかった。
聞いたら、答えが返ってくる。
だから、今度、聞いてみようと思った。

乗り込んだ車が門を出た。
後部座席で、俺は窓の外を見てた。
行き先は、家じゃなくて、駅にしてもらった。帰りに買い物でもして帰ろうと思った。
リュックを開けて名刺入れを出して、一番上にあるのを見た。
裏が上になってる。
11桁の数字と、アルファベット。
スマホを出して、打ち込んだ。登録名をどうするか、少し迷った。
海馬、と打った。でも、瀬人、までちゃんと入力した。
なんとなく、そっちが良かった。
保存完了。
名刺は、折れないように名刺入れの一番奥に入れ直した。
それから、早速メッセージを打った。
『来週も行っていいか』
返事は、駅に着く前に来た。
『土曜だ。13時に迎えを出す』
俺は画面を見てた。
来週も、ある。
その次も、多分ある。
電車の中から窓の外を見た。
4年間、毎日見てた町だ。
道が出来てる。A街区は、来年の3月に完成する。
俺が売った床の上を、人が歩く。
それは俺の道じゃない。
俺の道は、まだ何も敷かれてない。
でも、どっちに行くかは決まってる。

決まってるなら、あとは歩くだけだ。
Page Top