01 サンプルケース


サンプルケースは8キロある。
量ったから知ってる。入社して3ヶ月目のことだ。朝、右腕が上がらなくて、思い当たるのはこれしかなかった。一体何キロあるんだよ、と思って、体重計に乗せてみた。表示は8.2キロだった。床タイルが24枚に、壁材のサンプルボードが6枚と、レバーハンドルが4種類。それからでかいカタログが3冊。
昔の俺なら量らなかったと思う。重くたって、そんなもん、重いだけのことだ。
今は違う。正体の分からないものは、数字にしないと自分が何を持ってるのか分かんねえ。
1冊くらい減らせねえのかと思って先輩に聞いてみたら、「その日にどれを出せと言われるか分からないから全部持っていけ」、と返ってきた。
そりゃそうだ、と思ってカタログをケースに戻した。
6時40分、3丁目の現場に到着。直行するから事務所には寄らない。駅から14分。信号が2つあって、その2つ目で必ず引っかかる。

この区画は去年の秋から更地になってる所だ。柵で囲ってあって、中は削った土と重機があって、養生シートが風に吹かれてる。俺はヘルメットをかぶって安全靴を履いている。
これでも営業の筈だ。営業だが、体力があるからという理由で現場の立ち会いに回される。元からそういう約束でここに入社してるからそれに文句はない。
「城之内君、朝から悪いね。」
現場監督代理の江口さんが、手袋を外しながらやって来た。朝早いのはお互い様だ。
「大丈夫っす。タイルの見本、持ってきました。」
ケースを開けて、地面に並べる。江口さんが、屈んで一枚手に取って、裏返して、指の腹で表面をこすって、また置く。
その間、俺は手持ち無沙汰にその手の動きを見てる。この人が現物を触る時間はだいたい4秒だ。4秒で決まる。決まらない時は、それを3回くらい繰り返す内には決まる。
今日は2回で終わった。
「これでいく。数量は後で図面と突き合わせて送るよ。」
「あざっす。」
見本を拭いてケースに戻す。土が付いてると後で怒られる。っていうか、俺が拭くことになるだけだ。

帰りは駅と逆に歩いた。3丁目の角には、前はコンビニがあった。裏に細い道があって、高校の頃はそこを抜けると駅までの近道だったから、遅刻寸前の朝に何回も走った道だ。つまり、毎日走った。
そこは、今はシャッターの閉まったビルや、柵が立ってる更地になっている。
工程表は事務所の壁に貼ってある。完成予定は再来年の3月。ここには6階建てが建って、通りに面した所は商業施設になるらしい。
俺が売ってるのはその中の、目に見えない所の部品だ。壁の裏と、床の下と、天井の中。



会社に戻ったのは11時過ぎだった。
うちは童実野町の南に事務所を構えてる。建材と設備を売ってて、従業員は22人。親会社は大宮設備工業って所で、そのまた上には海馬建設。つまり、あの海馬コーポレーションがいる。
正確には親会社じゃないとか、資本関係とか、そういうことの説明を入社の時に受けたけど、俺が覚えてるのは、上にはもうまだ上があるってことだけだ。
自分のデスクについて、見積を3本作る。単価を拾って来て、数を掛けて、端数を落とす。電話が鳴って取ると、数量変更の依頼が入る。それを元に見積もりを訂正する。その間にまた電話が鳴る。
「城之内。」
戸倉課長に呼ばれた。
「来月の東地区、KCの絡みで動くらしいぞ。」
KC。海馬建設、つまり、海馬コーポレーション。うちの人間はみんなそう略す。略すと近くなった気がするんだろう。
「うちが噛めればな。」と課長が言う。「一次で入れれば、うちみたいなとこは10年食える。」
窓から見える所に、あのビルが立ってる。この町のどこからでも見える。高さで言ったら、俺が今日立ってた現場の完成予定図の何倍になるだろう。
俺はあれを毎日見てるけど、中に何があるのかは知らない。
スマホが震えた。遊戯だった。
『今度の日曜、皆で集まらない?』
日曜日。日曜は棚卸しの立ち会いが入ってる。次の日曜だけじゃない、先週の日曜も入ってた。その前の週は搬入だった。
後で返すつもりで、既読だけつけた。そうなってるやつが、3つある。
隣の席の卓上カレンダーが視界に入る。隣も、土曜のマスにも予定が書いてある。誰も彼も、同じように予定が詰まってる。



18時を回ってから、課長が上着を取った。
「城之内、今日、そのまま来い。大宮さんとこの安藤部長だ。」
「あ、はい。」
安藤部長は月に2回くらい出てくる。うちの見積りを通す側の人間で、酒が強い。っていうか、飲み始めると長い。
一軒目は、駅前の居酒屋だった。手前の席が俺の定位置だ。注文が通しやすいからだ。
ビールが来て、乾杯する。
安藤部長が今期の見通しの話をして、課長が笑って、その笑い方に合わせて全員が笑う。勿論、俺も笑う。笑ってる間にジョッキが空いて、次が来る。日本酒に変わったのは20時前だった。
「そういえば、城之内君。」
安藤部長が思い出したような顔で俺を見た。
「海馬社長と同級なんだって?」
課長が笑う。「そうなんですよ。すごい縁でしょう。」
「同級っす。まあ、マトモに話したことなんか殆ど。」
嘘だ。話したことはある。話したというか、あれを会話と呼んでいいのかは分からない。あいつは嫌な奴で、俺が噛みついて。
「へえ、どんな人なの。」
「どんな、っつうか。」
嫌な奴。そんなこと言えねえ。
言葉を探してるうちに、安藤部長の関心が別の所に移った。テレビで見た海馬コーポレーションの新製品の話になって、課長がそれに乗って。
いつの間にか俺の前には新しく酒の注がれたグラスがある。グラスを持つ前に、一瞬の間がある。
いつからか、この一瞬がある。

俺の親父は酒に負けた。あれは負けた人間だって思ってる。玄関を開けた時の匂いで、その日の親父の状態が分かった。転がってるか缶とか、テレビの音量とか、それから、声。
あいつは覚えていなかった。前の晩に自分が何を言ったのかとかそういうのを、次の日には全部忘れてた。
俺が言ってもいない話を俺がしたことになってて、俺が確かに聞いたあいつの話はなかったことになってた。
静香達が出ていってからは、あいつはどこで寝たかも覚えてなくなってた。台所で寝てた日もあるし、玄関で寝てた日もある。起こすと、「なんでこんなとこにいるんだ」と俺に聞いた。知らねえよ。
俺は荷物をまとめて出て、それきり会ってない。連絡先も消した。消したのは俺だ。

俺は負けない。
負けないというのは、こういうことだ。俺は飲んだ次の日も出勤する。一日も休んでない。俺は飲んだ次の日に、前の晩のことを全部覚えてる。誰が何を言ったか、俺が何を返したか、店の名前も、出た時間も。俺は自分の家で寝る。ちゃんと自分の布団まで行って寝る。金は先に家賃に回してる。滞納したことはない。誰にも借りてない。
数えられる。全部、数えられる。
数えられるうちは大丈夫だ。
「城之内は強いんですよ。」
課長が言った。安藤部長がこっちを見て、へえ、と笑って、俺のグラスに酌をする。
それを俺はありがたく受け取らなきゃなんねえ。
「すいません、ありがとうございます。」
「若いってのはいいねえ。」
「いえ、そんな。」
俺はグラスを持ち上げて飲む。アルコールで喉が熱い。
二軒目に移る途中で、外の空気が冷たかったのを覚えてる。そこから先は、何もない。それは記憶が飛んでるわけじゃなくて、本当に何もない。同じ会話が繰り返されて、同じ笑い方が繰り返されて、俺も同じ返事をした。
終わったのは23時40分だった。時計を見たから覚えてる。






アパートは駅から歩いて9分の所にある。二階の角部屋。角部屋は夏は暑くて冬は寒いけど、隣が片側にしかないから静かだ。
鍵を開けて、電気をつける。
流しに一昨日からの皿が3枚溜まってる。カーテンは閉めたまま何日になるだろう。
冷蔵庫を開けた。ペットボトルの水が2本と、卵が4つと、賞味期限が3日前のヨーグルト。ヨーグルトは見なかったことにして閉めた。
水を出して、そのまま飲んだ。
棚の上には、デッキケースが置いてある。その隣にデュエルディスクもある。たまに拭いてるから埃はかぶっていない。拭くけど、使わない。
最後に出たのは高校生の時の町内大会だ。決勝の相手の顔はまだ思い出せる。あの日は楽しかった。
ネクタイを外して、シャツを椅子に掛けて、シャワーは浴びずに横になった。浴びなきゃとは思った。思ったけど、体が動かなかった。
アラームは5時20分にセットしてある。明日は東地区の搬入立ち会いがある。だから4時50分に起きたほうがいい。4時50分に鳴らし直そうと思って、指が届かなかった。



翌朝、玄関でサンプルケースを持ち上げた。
8キロある。量ったから知ってる。
今朝も8キロだった。
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