01 広がる守備範囲


冥界の門が開いた日、空気が変わった。
乾いた風が神殿の回廊を抜ける。永く止まっていた砂時計が、誰にも触れられぬまま一粒落ちたようだった。
玉座の間へ続く大階段の下に、セトは立っていた。
王冠はない。杖も持たない。だが長く冥界を預かってきた者の静かな威厳が、その姿にはあった。
門の向こうに光が満ちる。
やがて、1人の男が現れる。
見慣れた顔。忘れることなど出来なかった顔。
アテムは数歩進み、辺りを見渡し、そしてセトを見つけた。
「……セト。」
その声だけで、3000年が縮んだ。
セトはすぐには答えなかった。もし答えてしまえば、何かが崩れそうだった。
少ししてから、いつものように眉を寄せる。
「遅すぎます、王。」
アテムは目を見開き、次いで笑った。
「3000年待っておいて、第一声がそれか。」
「もっと早く戻られる予定でした。」
「予定表でもあったのか。」
「ありました。」
「あるのか。」
アテムが階段を上がる。セトも下りる。
中段で、2人は止まった。
しばし見詰め合い、そしてセトは深く頭を垂れた。
「…お帰りなさいませ。」
アテムの表情が静かに揺れる。
「ただいま、セト。」
それだけで充分だった。

玉座の間ではなく、まず通されたのは小さな私室だった。
「いきなり政務じゃないんだな。」
「疲労、混乱、感傷。帰還直後の王に不要な負荷です。」
「…優しさが身に沁みるぜ。」
「茶です。」
既に湯気の立つ杯が置かれている。
アテムはそれを受け取り、一口飲んだ。
「…うまいな。」
「3000年で改良しました。」
「何をしていたんだ…。」
「統治と研究です。」
「相変わらず抜かりない奴だな。」
セトはアテムの対面に座る。
それから視線を落とし、淡々と尋ねる。
「現世での記憶はどこまでありますか。」
「断片的に。特に、あの時のことが、いくつか曖昧だ。」
「予想通りです。」
「予想していたのか。」
「336通りほど。」
「多いな。」
「少ない方です。」
アテムは吹き出した。
「お前、少し変になったか?」
「3000年待機すると誰でもこうなります。」
「誰でもではないだろ。」
やがて、セトは机上にパピルスの山を置いた。
どさり、と重い音がする。
「何だ、これは…。」
「引き継ぎ資料です。」
「多くないか?」
「要約版です。」
「要約で、これ…。」
アテムの顔が引き攣る。
「本編は倉庫一棟分あります。」
「やめてくれ。」
上から順に題名が見える。
冥界行政概論、死者流入管理の変遷、供物物流の最適化、神官組織再編記録、3000年分の苦情一覧。
「最後のは何だ。」
「読まなくて結構です。私が怒っておきました。」
「頼もしいな…。」
アテムは1枚手に取って、すぐ戻した。
「今日は読まないぜ。」
「賢明です。」
「後でお前が説明してくれ。」
「徹夜になりますよ。」
「なら、明日。」
「賢明です。」
少し沈黙が落ちる。
セトが何気なく尋ねた。
「…現世に、何か未練は。」
問いは平静だったが、声音はやや硬かった。アテムは窓の外を見た。
「ある。」
セトの瞼が微かに動く。
「友がいた。大切な者たちが。」
「そうですか。」
「だが、それだけじゃない。」
「……。」
「まだ、果たしていない約束もある。」
セトは静かに頷いた。
「ならば、その時が来ればまた道は開くでしょう。」
「容易く言うな。」
「3000年待った者です。少し待つことには慣れました。」
アテムは笑い、そしてふと真顔になる。
「セト。」
「何でしょう。」
「寂しかったか。」
問いに、セトは即答しなかった。
代わりに茶を注ぎ直し、整った手つきで杯を差し出す。
「冥界は常に静かでした。」
「誤魔化すな。」
「…寂しい、とは少し違います。」
「嘘だな。」
「いいでしょう、そうしておいてください。」
アテムは肩を震わせて笑った。

夕刻、神殿の庭を2人で歩く。花が咲き、風は穏やかだった。
「王。」
「何だ。」
「今後の方針ですが。」
「その話は明日からだ。」
「良い話ですよ。3000年の待機中に概ね整理済みです。」
「怖いな。」
「第一に、生活環境の再調整。第二に、公務負担の分配。第三に…。」
「待て。」
「何ですか。」
「今日は働かない。」
「……。」
「お前もだ。」
「私は平気です。」
「命令だ。」
セトは僅かに目を細めた。
「久しぶりに、王らしいことを言われますね。」
「王だからな。」
「承知しました。」
そして2人で庭の東屋へ向かう。
何も決めず、何も裁かず、ただ座って茶を飲むだけ。
3000年越しの再会にしては、穏やかな時間だった。
その夜、セトは執務室で1人、記録に書き込む。
『王、帰還。心身安定。笑顔あり。茶二杯。資料未読。明日より段階的引き継ぎ開始。』
筆が止まる。
少し考えて、最後に一行足そうとして、やめた。
やはり、生きてお会いしたかった。と。







アテム帰還から暫くの間、冥界は穏やかだった。
王が徐々に公務へ復帰し、民は安堵し、神官達は忙しく走り回る。セトは相変わらず全体を捌き、必要な時に現れ、ついでに不要な時にも現れた。
そして、アテムを観察していた。
アテムは笑うようになった。茶の好みは少し変わった。夜更けに空を見上げる時間がある。時折、何かを待つような顔をする。
セトは観察記録に記す。
『現世由来の未練、継続中。』





その日、冥界の空が裂けた。
雷鳴に似た音と共に、見慣れぬ機械仕掛けの飛行体が神殿上空へ現れ、警備兵が大騒ぎになる。
「侵入者です!」
「迎撃準備!」
セトは一目見て眉を顰めた。
「面倒そうな顔ですね。」
飛行体から降り立った男は、白い外套を翻し、周囲を一瞥した。
「アテムはどこだ。」
声音が既に喧嘩腰だった。
セトは静かに答える。
「名を名乗れ、無礼者。」
「誰だ貴様は。」
「用件は何だ。」
「決着をつけに来た。」
「帰れ。」
「断る。」
会話開始数秒で交渉決裂だった。
結局、アテムが出迎えるしかなかった。
階段の上からその姿を確認し、次いで口角を上げる。
「海馬。」
「……。」
「来たのか。」
「貴様、見果てぬ先まで続く闘いのロードはどうした。」
再会の第一声としては温かさはなかった。
その5分後には、神殿前広場で盛大に闘っていた。
アテムの力と瀬人の執念がぶつかり、石柱が3本折れ、池が吹き飛び、見物人が増えた。
セトは腕を組んで立っていた。
「止めなくて良いのですか。」
侍従が震えながら問う。
「無駄だ。」
「ですが建造物が。」
「保険に入っている。」
「保険…?」
「先ほど作った。」

3時間後。
2人は肩で息をしながら向かい合い、妙に満足げだった。
「流石だな。」
「当然だ。」
「だが、俺は…もう、腹が減った。」
「…何だと?」
「茶でも飲もう。」
「何故そうなる。」
「久しぶりだからだ。」
結局、2人で去っていった。
セトは記録に書いた。
『初接触:交戦。その後、茶。理解不能。』



それから、瀬人は頻繁に冥界へ来るようになった。
理由は毎回違った。
「決着の続きだ。」
「技術検証だ。」
「王宮の防衛が甘い。」
「たまたまだ。」
セトは知っていた。全て嘘の顔だったからだ。
しかし、アテムは瀬人が来る度に嬉しそうだった。
セトが最初に異変に気付いたのは、アテムの行動だった。
瀬人の来訪時、アテムの公務終了速度が2割上がる。
衣装選択時間が長くなる。丈は僅かに短い。
茶の銘柄指定が変わる。鎮静作用のあるもの。
そして瀬人が帰る時は、露骨に機嫌が悪い。
セトは、即日結論を出した。
『相互執着、成立。』

結論が出れば、その確認作業も早かった。

その日の茶会は、少しだけ様子が違った。
「現世の様式を取り入れました。」
そう言って、セトが指し示した卓は、見慣れた対面ではない。横並び。所謂、カップルシート。
細長い卓の片側に、2人分の席。中央には段になった皿と、綺麗に整った小さな菓子。そしてポットが1つ、最初から置かれている。
瀬人が眉を顰めた。
「…何のつもりだ。」
「補給を自己完結させる形式です。」
「それは分かる。何故この形式にした。」
「合理的です。」
アテムは面白そうに笑った。
「座ろうぜ、海馬。」
自然と、隣に腰を下ろす形になる。2人の距離は、近い。
暫くは他愛もない話だった。闘いの話、冥界の話、現世の話。いつも通りだ。
やがて、言葉が途切れる。静かだった。いつもなら呼べば誰か来る、はずなのだが、いつもと違って呼ぶ理由がない。茶は目の前にあり、菓子もある。
つまり、誰も来ない。
「…妙だな。」
瀬人が低く言う。
「何がだ。」
アテムは小さく息を吐き、そのまま茶を注ぐ。距離が近いため、動作は自然と小さくなる。
瀬人の手が、ふと触れた。そのまま離さなかった。
視線が合う。逸らさない。暫く、互いに何も言わない。それでも成り立つ沈黙があった。
「…お前は。」
「何だ。」
言葉は続かないが、距離は縮まる。瀬人が僅かに身を寄せる。額に、触れるだけの口付け。確認のようなそれに、アテムは微かに微笑んで目を細める。
そして、目を閉じた。
次は迷わなかった。短く、しかし確かに触れる。静かな、決定。

どれくらい経ったか。茶は冷めていない。菓子は減っている。誰も来ない。
やがて2人は席を立った。何も言わないが、距離は変わっている。
回廊の角で、セトが一礼した。
「お疲れ様でした。」
「…ああ。」
瀬人の返答は淡々として短い。アテムは何も言わないが、機嫌が良い。セトは一瞬だけ2人を見た。
距離。視線。呼吸。沈黙の質。それら全てを確認する。
出した結論は、
『成立。』
「本日の形式、問題はありませんでしたか。」
何も知らない顔で問う。
「…悪くない。」
「そうですか。」
その夜、記録に一行記す。
『関係性の変化を確認。次段階へ移行。』
こうして、行動での確認作業は即、済んだのだった。



中庭で2人が言い争っていた。
「だからお前は無茶をするなと言っている。」
「王に命令するな。」
「知ったことか。」
「ならせめて、もう少し…。」
「もう少し、何だ。」
「…瀬人…。」
アテムがじっと見詰める。瀬人が溜息を吐いた。
「……恋人、として言う。」
「…今、何て言った?」
「……。」
瀬人が黙り込む。
アテムは数秒停止し、次いで満面の笑みになった。
「今のを、もう一度言ってくれ。」
「断る。」
「恋人!」
「黙れ!」
セトは静かに物陰に居たが、しかと記録に書いた。
『口頭確認完了。』





以後も、セトのやることはやはり速かった。
新たな制度を整え、王宮内で周知徹底し、スケジュールまで調整した。

一、来訪者登録制度の改定
瀬人を顔パスにする。
「瀬人殿は王宮へ来られる際、事前申請不要です。ただし破壊行為は弁償。」
「誰が払う。」
「あなたです。」
「ふざけるな。保険に入ったのだろうが。」

二、王の予定表調整
瀬人の来訪日には、重い会議が密かに消える。
アテムは首を傾げる。
「今日は妙に楽だな。」
「偶然です。」
勿論、偶然ではない。

三、喧嘩時の対応指針配布
王宮内に注意事項が通達された。
大声でも心配不要。
本気の殺意ではない。
茶を置くと静まる可能性あり。
『お似合いですね』は禁句。

四、本人達への塩対応
干渉しないことが徹底される。
アテムが上機嫌で言う。
「海馬と…瀬人と付き合うことになったんだ。」
「存じています。」
「何故だ。」
「顔です。」
瀬人が不機嫌に言う。
「何か文句でもあるのか。」
「ありません。想定より早かっただけです。」
「何の想定だ。」
「長期計画です。」
「……。」

セトは、やれることは何でもやった。
ある夜、セトは1人執務室で茶を飲み、静かに息を吐いた。
3000年待った主君は、ようやく誰かと並んで笑っている。
喧嘩をし、騒ぎ、物を壊し、面倒で、だが、確かに幸せそうだった。
記録に記す。
『王、幸福傾向強。相手、騒音大。だが有能。当面、容認。』
少し考え、追記する。
『……かなり容認。』






ある日。
「瀬人殿。」
「何だ。」
「夜間の滞在についてですが。」
「帰る。」
「宿泊設備は既に整っております。」
「誰がそんなことを頼んだ。」
「必要と判断しました。」
「勝手に判断するな。」
「合理的です。」
セトは、淡々としながらも、かなり押していた。引くという発想はない。
背後ではアテムが笑っていた。
「こちらです。」
案内された扉を見て、瀬人が止まる。
「…こんな場所に部屋はあったか?」
当然の問い。しかしセトは一切迷わない。
「ございました。」
「いつからだ。」
「以前より。」
嘘ではない。全く嘘ではなかった。
扉を開くと、中は整っていた。
寝台、調度、最低限だが質の高い家具。余計なものはない。
そして、明らかに誰かが使う前提で整っていた。
アテムが覗き込む。
「俺も知らなかった。」
「ご利用の予定がなかったためです。」
「今はあるのか。」
「はい。」
即答だった。
瀬人が低く言う。
「俺か。」
「必要と判断しました。」
「勝手に判断するなと言っているだろう。」
「合理的です。」
瀬人が部屋の中を見渡す。無駄がない。過不足もない。
そして何より、アテムの部屋と、壁一枚。
「…近いな。」
「移動効率を考慮しました。」
「違う。」
「何がでしょう。」
「全てだ。」
やはり、背後でアテムが笑っていた。
「いいだろ、瀬人。」
「お前は軽い。」
「便利だ。」
瀬人は小さく息を吐くが、否定はしなかった。
「…いつから用意していた。」
ふと、問う。
「想定段階からです。」
「それはいつだ。」
「関係性が成立し得ると判断した時点で。」
瀬人が黙り、アテムが目を細める。
つまり、かなり前からこの部屋は存在したことになる。
「随分と早いな。」
「遅いよりは。」
そのままセトは一礼する。
「ごゆっくり。」
そして去った。
残された2人と、少しの沈黙。
「…周到だな。」
「昔からだ。」
「そうか。」
瀬人が一歩、部屋の中に入る。
戻らない。
アテムがその背を見て、静かに笑った。
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