アテムは最近、“現世の社会制度”というものに興味を持っていた。
きっかけはまたしても、あのピンクの表紙の雑誌。
そこに「事実婚」という言葉が載っていたのだ。
「…瀬人。俺達は、これに該当しているんだよな?」
「今更、何を言っている。とっくにそうだろう。」
「やはり、そうか!漸く理解したんだ。読んでみるものだ。」
「嬉しそうにすることではない。何冊読んだ?」
だが、冥界の王が「事実婚」を理解し、誇らしげに頷くその光景は、海馬コーポレーションの広報部の誰かに見られていた。
その日の午後、社内に回覧が回る。
『新設・ブライダル事業部 広告モデル起用案:海馬社長・アテム氏』
「…誰が許可を出した。」
「社長ご本人が最適と判断された、ということで。」
「そんな記憶はない。」
「瀬人、俺達の愛はもはや“社会貢献”になるんだな。」
「…勝手に意味を拡張するな。」
だが、確かに広告効果は絶大と見込まれた。
結局のところ、最適と判断するしかなかった。
2人が撮影に臨むと情報が流れれば、SNSは即座に爆発した。
ピンクの表紙の雑誌は創刊以来の売上を記録し、ついにはニュース速報でこう報じられた。
『海馬瀬人氏とアテム氏、“事実婚”を超えた理想のパートナーシップ』
冥界でも現世でも、祝いの声が止まらない。
アテムはその報道を見ながら、瀬人の腕に頭を凭れさせて言う。
「瀬人、どうやら俺達は、もう“生活感”どころではないらしいぜ。」
「…違いない。もう“社会現象”だ。」
撮影スタジオ。
白い照明より瀬人の思考は眩しく、背景紙の皺1つにすら、その目は反応する。
「ライティングが甘い。角度を五度下げろ。シャドウが中途半端だ。」
「…は、はいっ!」
カメラマンよりも速く光の計算を済ませ、構図を理詰めで決定する男。
海馬瀬人は、もはや撮影対象というより、現場の監督だった。
その横で、アテムは、実に楽しそうに笑っていた。
指輪を嵌めた手を光に翳し、衣装担当に「これは、どの文明の装飾を参考にしたんだ?」などと質問している。
「瀬人、これは『自然体』で良いんだろ?」
「“自然体”とはいっても、構図の黄金比から逸脱するな。」
「つまり、自然を理論で導くんだな。」
「その理解で合っている。」
スタッフ一同は悟った。
この2人は、理屈で愛を語るタイプだ。
撮影は予想を超える熱量で進み、瀬人の細密な指示と、アテムの王らしい存在感が重なり合う。
画面の中の2人は、モデルというよりも“対の理想像”そのものだった。
撮影終盤。
カメラマンが思わず呟く。
「…もう少し距離を詰めてください。愛を、感じるように。」
アテムは、瀬人の横顔を見て柔らかく微笑んだ。
瀬人は、視線を逸らさずに言う。
「愛は感じるものではない。定義するものだ。」
「なら、定義の実験を続けようか。」
シャッター音が響く。
その瞬間が、表紙を飾る“奇跡の一枚”となることを、スタッフの誰もが確信した。
「控室の理論。愛と世の常識の等式。」
撮影が終わり、照明が落ちたスタジオは、まるで戦場の後の静寂のように穏やかだった。
控室。
鏡の前でネクタイを解く瀬人と、衣装のままソファに腰を下ろし、雑誌の校正紙をめくるアテム。
「“理想のパートナー像”だそうだ。」
「定義が曖昧すぎる。理想とは個々の尺度に依存するものだ。」
「…だが、彼らにとっては“俺達”がその理想らしいぜ。」
「冗談だろう。お前の相手が誰に務まる。」
アテムは笑い、指輪を軽く叩いた。
「社会的概念としての“夫婦”。この文明では、それを“生活の単位”と呼ぶそうだ。」
「生活の単位、か。企業なら、合併のようなものだな。」
「つまり、俺達は共同経営者ということか。」
「…事実上、そうだ。」
沈黙。
ふとアテムが、校正紙の一枚を瀬人の方へ差し出した。
見出しにはこうある。
『理想の愛とは、努力と理解のバランスで成り立つ』
瀬人は少しだけ眉を上げた。
「理解は理論で導ける。だが努力は感情の領域だ。そこが厄介だ。」
「瀬人、お前は“愛”を理論で扱おうとする。」
「それが俺のやり方だ。」
「だが、俺は“愛”を感情として扱う。つまり俺達の愛は、両立型だな。」
瀬人、僅かに息を吐いて笑った。
「統合モデルの成立、というわけか。」
「“愛の統合理論”。学会に出せそうだぜ。」
2人の笑い声が、静かな控室に溶けていく。
瀬人は時計を見やり、立ち上がる。
「帰るぞ。次は“家庭という社会的実験”のフェーズだ。」
「実験結果は、今夜の食卓に出るんだな?」
「お前が料理をするのならな。」
「ならば、実験は成功する。俺が包丁を持てば、お前が手伝うからな。」
ドアが閉まる。
残った光は、鏡に映る指輪の輝き。
“理論と感情の両立”それこそが、彼らが導き出した“愛の定義”であった。
撮影から一週間。
ある昼下がり、海馬コーポレーションの広報部は静かなパニックに包まれていた。
『社長、今SNSのトレンド全部“海馬社長”で埋まってます!』
『“#理想の夫婦”が世界一位です!…って、あの…“夫婦”扱いです!』
瀬人はデスクの向こうで、書類にサインをしながら一言。
「それで株価に変動は?」
『寧ろ上昇傾向です!』
「ならば問題ない。」
経済とロマンスを同じ尺度で扱えるようになった男、それが海馬瀬人だった。
一方その頃、アテムは冥界の神官たちに取り囲まれていた。
「王!現世の通信機器にて、王の“結婚発表”が拡散されております!」
「…発表?俺は何も発してないぜ。」
「ですが! “公式広告モデル=公式夫婦”と認識されております!」
「なるほど、“文明の誤解”だな。」
神官たちが騒ぐのを眺めながら、アテムはスマートフォンを操作した。
「“いいね”とは、現世における祝福の儀式か。」
「“いい”のだからそうなのでしょう…!“王が祝福を受けておられる”と、冥界中が喜んでおります!」
「それは良いことだ。」
淡々と笑うアテムの指には、瀬人が作った指輪が光る。
海馬邸。
ニュース番組の特集がテレビに映る。
『"王"と現代の王、次元を超えた愛』
『経済誌による分析:2人の関係がもたらすブランド効果とは?』
「愛の理論、再現可能なのか。続いては特集です。」
アナウンサーが特集を述べる。
「瀬人、どうやら俺達は“特集対象”になったようだ。」
「好きにさせておけ。情報操作する必要もない。」
「つまり、“俺達の存在が理論の証明”ということだな。」
瀬人は僅かに口角を上げた。
「…ならば、次の課題は“持続可能な愛”だな。」
「いい言葉だ。学会で発表するか?」
「海馬コーポレーションの年次報告書にでも載せておけ。」
2人の間に、また笑いが生まれる。
社会がどう解釈しようと、彼らにとって世界は常に「実験室」であり「日常」だった。
指輪が照明に反射し、煌めく。
それは“偶像”ではなく、“理論と愛情の交差点”の証。
そしてこの日、世界は正式に認識した。
「愛とは理論で説明できないが、海馬瀬人とアテムなら、証明できるかもしれない」と。
現世。海外出張先のホテルラウンジ。
瀬人はノートPCを開き、アテムは対面でコーヒーを啜っている。
2人ともスーツ姿。完全に「経営陣の会議前」といった風情だった筈なのに。
突然、報道陣が駆け込んできた。
「海馬社長!そしてアテムさん!お2人のご関係について、少しだけお話を…!」
「“少しだけ”という枕詞を信用したことはない。」
「なるほど、現世の“奇襲取材”というやつだな。」
「社長!広告以降、世界中が“理想のパートナー像”としてお2人を…!」
「感情ではなく相性の問題だ。最適化の結果だ。」
「理想とは、求めるものではなく、維持する努力の総称だ。」
「つまり、努力して関係を続けていると?」
「違う。努力の定義が違う。」
「俺達にとって“努力”とは、会話の継続だ。愛とは論争を避けず、理解に至る過程だ。」
記者は、完全に言葉を失った。
数秒後、別の記者が恐る恐る尋ねた。
「で、では…“愛している”とはお互いに?」
「愛は定義よりも運用だ。今も運用中だ。」
「つまり、“愛している最中”ということだ。」
カメラのシャッター音が、一瞬止まった。
その沈黙の中、アテムはにっこり笑い、続けた。
「取材という儀式は悪くない。だが、次は予約してから来ることを勧めるぜ。」
取材陣は、総撤退を余儀なくされた。
冥界でもそれは変わらなかった。
少し顔を出しただけでアテムは囲まれていた。
「お、王よ…少しだけお話を…!」
「また“少しだけ”か。どこもかしこも学習しないな。」
「い、いえ、冥界でも“理想の夫婦”特集を…!」
「冥界に報道番組なんてあったのか。」
「急遽立ち上げました!」
「行動力は評価するけどな…。」
「お2人の関係を、一言で表すならば?」
「"量子状態"だ。」
「は?」
「観測されるまで定義できない。だが確かに存在している。」
神官は、沈黙を余儀なくされた。
その夜、冥界では“量子婚”という新語が爆誕した。
なお、勿論、量子の意味など分かっていない。
再び現世にて。
海馬邸に戻り、ネクタイを解き、ジャケットを脱ぐ。
「…面倒な時間だった。」
「だが、楽しかった。」
「お前はな。」
「“理論上の愛”という言葉、次の特集に使われるかもしれない。」
「商標登録しておくか。」
2人の笑い声が、窓の外の夜景に溶けていく。
報道の嵐の中でも、揺らぐことはない。
理屈と愛情の境界を歩きながら、今日もまた、静かに「愛の運用」を続けていた。
現世の昼下がり。海馬コーポレーション 本社
「…“量子婚”、トレンド一位です。」
磯野の言葉に、瀬人は二度瞬きをした。
ディスプレイには、無数のタグが並ぶ。
#理論上の愛
#愛の運用
#量子婚
そしてニュースキャスターが読み上げる。
「“観測されるまで定義できない関係”。まさに現代の理想のパートナーシップといえるでしょう!」
「…まさに現代の混沌だな。」
「社長、コメントのご要請が殺到しております。“量子婚”を提唱されたのは、社長のご意向ということで…。」
「誰がそんなことを提唱した。勝手に観測されたのだろう。…世界を動かす誰かにな。」
ちょうどその時、ドアがノックされた。
入ってきたのはアテム。
ピンクの雑誌(◯クシィ)を片手に、軽やかに言う。
「見たか?俺達の“量子婚”が世界を動かしている。」
「動かしてるのはお前の発言だ。俺は止める側だ。」
「だが、結果としては好ましい。愛が理論で語られる時代とは、実に愉快だ。」
「…アテム、愉快と混乱を同義語で使っているのではないか?」
「違いは紙一重だ。だが、観測者が幸福なら、それで良い。」
「つまり、俺が幸福なら、これも成立する理論だと?」
「当然だ。お前が幸福であれば、愛は確率100%だ。」
瀬人は溜息を吐いた。
「…お前の確率計算は、浪漫主義を装ったバグだ。」
「量子とは不確定性こそが美学だ。」
磯野は、隣でこっそり涙を拭った。(社長…ついに結婚を超えた哲学に…。)
冥界でも、似たようなことは起こっていた。
「王よ、あの“量子婚”は冥界でも話題です!」
「ああ、ネフェル・リンクがあったな。」
「瀬人様の通信網を通して!ですが…。」
神官たちは口を揃えた。
「“観測されない愛”をどう祝えばよいのか、わかりません!」
「祝わなくていい。感じ取ればいいんだ。」
「感じ取る…!」
「つまり、王は“感じ取らせ婚”を推奨されるのですね!」
「…勝手に派生を作るな。」
現世、夜。海馬邸。
「…冥界でも拡散しているらしいな。」
「ああ、良い傾向だ。」
「良いとは言えん。もはや“婚姻届が量子状態で提出された”などという報道まで出ている。」
「事実、提出はしていないが、心は観測済みだ。」
「……。」
沈黙。
アテムはハーブティをひと口啜り、満足げに微笑む。
「瀬人。トレンドとは、人々の“理解したいという欲求”の集合だ。ならば、理解不能な俺達が頂点に立つのは当然だ。」
「…諦めるしかないな。」
「何を?」
「お前を、そしてこの現象を。」
アテムは小さく笑い、頷く。
「賢明な選択だと思うぜ。愛は理屈を超えた時、最も安定する。」
「…不安定こそが安定、か。」
「量子とはそういうものなんだろ?」
結論。
世界と冥界を席巻した“量子婚”ブームの中心で、2人は今日も静かに、観測されないまま愛し合っていた。
夜。
海馬邸のリビングには柔らかな灯りが落ちている。
アテムはソファに腰を下ろし、タブレットを手にしたまま笑っていた。
「まだ“量子婚”が世界トレンド一位だぜ。冥界でも同じらしい。」
「ふん。くだらん分析をつける奴が多すぎる。“観測すれば成立する婚姻”だの、“波動が一致した愛”だの…。」
瀬人もハーブティを手に、溜息を1つ。
それでも、口調にはほんの少しだけ柔らかさが混じる。
「お前が絡むと、どんな概念も宗教めいてくる。」
「そういうお前も、学術論文みたいな返しをするじゃないか。」
アテムは笑いながら、指先で瀬人のマグカップの縁をなぞった。
瀬人は視線を逸らすふりをして、その動きを止めようとはしない。
「それにしても、どこを見ても祝福の嵐だな。」
「…勝手に祝えばいい。」
「お前、顔が少し嬉しそうだぜ。」
「気のせいだ。」
アテムがくすっと笑う。
その笑いが心地よく響いて、瀬人は一瞬だけ肩の力を抜いた。
「瀬人。現世でも冥界でも、どこにいても俺はお前の隣にいる。それが自然だと思うんだ。」
「当然だ。」
「当然、か?」
「俺たちは、観測される側でも、観測する側でもない。ただ“同じ式に存在している”だけだ。」
「ふふ…お前も詩人になったな。」
「理論だ。」
瀬人が淡々と返す。
だがアテムの笑みが崩れない。
その穏やかさを見ている内に、瀬人の表情も緩んだ。
「ほら。」
アテムが指輪を軽く持ち上げる。
瀬人も自分の指輪を合わせるようにして、2つの金属が小さく音を立てた。
「これが俺たちの定義、だろ?」
「…ああ。」
「なら、定義を更新しようぜ。」
「更新?」
「“量子婚”ではなく、“確定婚”に。」
アテムの声は、冗談のようで真剣だった。
瀬人は一瞬だけ言葉を失い、次の瞬間、低く笑った。
「お前が言うと、本当に物理が泣く。」
「でも、お前は笑ったぜ。」
「…認めよう。論理破壊だ。」
2人は笑い合い、そのまま静かに寄り添った。
指先が触れ、互いの温度が確かめ合うように重なる。
外の世界では“量子婚”がニュースを賑わせている。
だが、この空間だけは、観測も記録もされない。
ただ確かに存在する、2人の定義の中で、夜は静かに、甘く、続いていった。
