冥界の廊下に、静寂を切り裂くように足音が響く。
美しい歩みだ。左右どちらかに重心が寄っているでもなく、バランスの取れた、落ち着いた、乱れのない足音。
瀬人は、歩みを止めた。つられて、アテムも立ち止まる。
「…海馬?」
背後から、冷たい気配が漂う。
「王。」
セトの低い声。
瀬人には、抑えた声や感情の裏に、計算が透けて見えていた。いや、牽制として敢えて見せているのだ。
「随分と、楽しそうにしておられる。」
「ああ、まあな。」
瀬人はアテム軽く肩を引き寄せ、薄く笑みを浮かべた。
「古代の亡霊か…。行くぞ、アテム。今日は果実を送り込んでいる。」
精神状態は通常通りではある。思考も問題ない。だが、普段とは違い緊張が混ざる。瀬人は、いや、瀬人だからこそ、セトの存在を意識せずにはいられない。
セトはその心の内を見逃さず、冷ややかに笑った。
「現世での記憶の力か。現代の子、それで私の影響から逃れられると?」
アテムは不穏な気配に戸惑いながらも、「現世の記憶」を思い出せば、胸の奥に温かさが広がるのを感じた。
瀬人がくれた現世の記憶と愛情の記憶。
それらは、冥界にあっても、アテムの心を確かに守っていた。
瀬人は、セトと戦う覚悟ならばとっくに固めていた。現世で、アテムと出会った瞬間からずっと。
当初は己の意識とは関係なく見せられる記憶に、それは偏愛によって脚色されたものだと考えていた。だが、違った。実際にアテムに出会えば、どうしようもなく心が惹かれた。
そして悟ったのだ。戦うしかないと。
記憶が知っている。かつて王であったこの男を相手に、一切の油断ができないことを。それを誰よりも分かっている。
ただそこに立っているだけで場を制する威厳、何1つ見逃さず相手を追い込む程の観察力、全てを背負う覚悟を持った責任感、そしてそれらを遂行する為の揺らがない冷静さ。
知っているからこそ、瀬人にはセトを構成する様々な性質が、実際に対峙すれば噴水のように滲み出ているようだった。静けさの裏に潜むものは、支配する力。
冷静に長考するかのように見せかけて、動けば一撃で盤面を変える一手を指す。覆すことのできない破壊力を持った判断ですら迷わず選べる。
周囲にはそのような非情な存在には見えていないだろう。
だが、実際は街1つ切り捨てることすら、必要とあらば即座に選ぶことが出来る。人命も領土も計算に変える冷徹さを持っている。
冷静で合理的に振る舞ってはいたが、内には激情や独占欲を秘めていることも知っている。
激情は場の空気を一瞬で逆転させ、相手は恐怖や絶望に震える。独占欲は周囲の干渉の一切を排除し、戦慄するほどの制圧力を見せる。
だからと言って、どんな相手であろうと、アテムも、アテムに与えたものも奪わせることは出来ない。
瀬人は目の前のセトを見据え、口元の笑みを絶やさずに、しかしアテムの肩に置いた手は離さない。
アテムの目に、2人の存在が同時に映った。
何故か複雑な感情が入り混じり、心が揺れる。
冥界の空気は凍りついているようにも感じられた。
だが、その中であっても、やはり生の記憶と愛情の力は、見えない糸となって、アテムを守っていた。
瀬人とセト、それぞれの眼差しがアテムを射抜く。
静かな心理戦が、冥界の闇の中で繰り広げられている。
また別の日。
アテムの前に2つの影があった。
1つは現世から対峙し、愛し合い、生の記憶を背負って辿り着いた瀬人。
もう1つは、冥界の住人として、古代を共に生きた者として長くアテムを見守ってきたセト。
アテムは息を呑む。この2人が揃う時、場は穏やかではある。しかし、言語化出来ない妙な緊張感が拭えない瞬間があった。
「2人とも、どうしたんだ?」
セトは内心で、現世の記憶だけでは私の影響には勝てぬ、と冷たく微笑む。
その視線はアテムを射抜き、心理を探るように揺さぶりをかけた。
「現世にて、現代の子と約束をしたのでしたか。『変わらずにいる』ことを。」
「ああ。だが、俺は3000年前からずっと、俺のままだぜ?」
「アテム。お前はお前のままだ。変わっていない。」
瀬人は手をアテムの肩に置き、微笑みながらも緊張を隠せない。教えたものも、誓いも、誰にも奪わせはしない。
胸の奥では、セトの策略の周到さと冥界でのアドバンテージを知っているからこそ、覚悟に、普段なら認めはしない焦りすら混ざる。
そう時間をかけてはいられない。
アテムは妙な緊張感に戸惑いながら、知らず、セトの言葉に心を揺さぶられている。
現世で誓った「変わらないでいること」が、今、試される瞬間だと感じた。
セトは一歩近づき、低く囁く。
「変わらず…か。」
視線だけで、瀬人に告げる。だが、この世界にいる限り、心は私のものにもなり得る。と。
瀬人は視線を逸らさず、アテムの手に軽く触れた。アテムに与えた幸福も、記憶も、生も、愛情も。
「…全てアテム自身のものだ。」
冥界の空気はやはり凍りつくような緊張感に包まれる。
2人の視線と行動が、アテムの心を天秤にかける。
それでもアテムは、微かに笑みを浮かべ、心の奥で決め始めていた。
もう、気づき始めていた。
どちらも、自身のことを大事に思ってくれている、それは分かっていた。だから。
瀬人の与えた現世の幸福と、セトの冥界での影響力がぶつかり合う中、アテムの心は揺れながらも、2人の愛情に包まれていた。
アテムの部屋。瀬人とアテムは、互いにデッキを組んでいる最中だった。
アテムの心は確実に瀬人へと向いていた。だが、まだ勝利宣言としてセトに知らしめるには早かった。
セトは、アテムのスケジュールすらコントロールして邂逅の時間を奪う。
瀬人は今の所、妨害は力任せに薙ぎ払ってはいた。それが出来る内が勝負だった。
正しい情報を知られれば、セトは的確な策略を構築する。セトが心理戦に本格的に乗って来ることは避けなければならない。
だから瀬人は、アテムの想いを気取られぬよう、冥界では手を出してはいなかった。
時折アテムが見せる目に気付きながらも、軽く触れるだけで耐えた。
事実、内心では強烈に反応していた。
しかし、外には出さない。冥界はセトの領分、そこでは「古代の亡霊に隙を見せるな」という戦略が第一。
理由はセトに情報を渡さないためだけではない。
アテムの欲望に応じることは、選ばせる条件を自ら崩す行為にもなり得る。
触れそうで触れない距離はフラストレーションとなり、瀬人の狙い通り、アテムは、選ばせられる方向へ追い込まれていく。
瀬人は肩にかすかに触れたアテムの体温を、ただじっと受け止める。
だが、その瞳に応じることはない。代わりに低く、抑えた声で告げる。
「『今の』この冥界は、適していない。」
その一言で、アテムは言葉を失う。
瀬人はその沈黙すら計算に入れている。
焦らし、揺さぶり、追い込み、最終的に、自分を選ばせるために。
最善手。淡々と、機械のように選び続ければいい。
瀬人はその為、ストイックに手を出さないことを選び続けている。
一手先を読むのは当然、十手先を読むのも当然。その上で相手は罠を仕掛けてくる。
だが、セトには知らない変数がある。
それが現世におけるアテムとの、既成事実。そして、アテムの心が既にどちらへ傾いているかという事実。
計算づくの相手との戦いは、数字の殴り合いのようなものだ。相手が知らない変数を持つことは絶大な武器になる。
勝負は、すでに揺るぎ始めている、決着も近い。瀬人はそう確信していた。だが、油断も余裕もない。
瀬人にとって、勝ち筋は細い線。
アテムの心を知られず、セトへの変数としてぶつけて計算を崩し、前世の記憶すら覗いて妨害パターンを推測、そして計略の威力を削ぐ。
その間にアテム自身の心を育て、決定的なものにする。
瀬人には、セトの考えることなら手に取るように分かる。
血の積み重ねも知らず、ただ欲望で突っ走る若造、とでも見えている事だろう。そのように思わせておけばいい。大いに侮れば良い。
歴史に縛られ、自分の手で掴むことをしない臆病者になど渡さない。
だが、考えが分かるからといって余裕では居られない。
セトの立場や経験は誰よりも知っている。復興の王として積み上げた圧倒的な実務力、掌握力。暴力的なまでの合理。
それらを誰よりも理解しているからこそ、侮ることは出来ない。
冥界にあるという地の利も、物理的制約も、すべて妨害要素として機能し得る。
心理的には既に優位に立っていると自覚はしていた。
だが実際に勝ち取る為には、のんびり構えてはいられない。
アテムに微笑むだけで済むほど、状況は単純ではない。
全てを理解し、計算してはいる。それでも、あの相手の全力を前に、緊張は消えず、手を抜ける瞬間はなかった。
真実、これは、情報戦であり数字の殴り合い。
瀬人にとっては、論理と変数のぶつかり合いなのだ。
これは絶対に負けられない戦い。
「海馬?」
「…アテム。どうした?」
最適なタイミングで心理戦に持ち込み、極力短期間でアテムの心の傾きによる完全な優位を確保すること。
妨害を薙ぎ払い、すり抜けながら、セトがアテムを外側から包みきる前に、瀬人がアテムの心を内側から満たしきる必要があった。
セトの掌握範囲内である物理的、環境的制約と心理的安定にまで戦場を発展させては勝ち筋はない。
そうなった場合、1度アテム奪われ、取り戻す、という先の長いルートになる。一瞬ですら、手放すつもりなどなかった。
瀬人は頭の中で計算を巡らせる。ここで長期戦に巻き込まれた場合、セトの安定力と冥界の地の利で不利になる。
だから手は出さない。触れない。心理を揺さぶる以外の余計な行動は一切しない。
心理戦に加え、環境戦や影響力戦に持ち込まれては持久力で圧倒的に不利。
必要なカードはアテムの確固たる心。ここさえ、リミット「セトに戦場を広げられる迄」に確実に傾けば、全てが掌中に収まる。
現世で作った既成事実も、あの触れ合いも、誓いも、全てはその瞬間のための布石。
瀬人は情報をセトに渡すわけにはいかなかった。
勝利確定まで、欲も理性も封印し、気を抜かず、静かに、完璧に計算するだけだ。
呼吸一つ、目の動き一つにまで気を配りながら、瀬人は心の中で呟く。アテムの心を手に入れる。軽い甘いだけのものではない、重い決心だ。それだけが、勝利への唯一の道。
「お前、ありえないぐらい険しい顔してるぜ?どんな凶悪なデッキ組んでるんだよ。」
「…負けられぬ戦いに備えてカードを揃えている所だ。」
「そんなに全力で挑まれても、まあそれはそれでいつも通りのような気もするが。」
デッキを調整しながら、アテムが肩を竦めた。
アテムの心を手に入れられても、アテム自身を手に入れる過程で必ず妨害や計略を入れてくる筈だ。素直に渡すような奴ではない。
アテムの感情の揺らぎすら利用して、傾斜の向きを変えようと策を練る。
物理的に引き裂きにかかる可能性すらある。そここそが、解決しておかなければならない問題。そのための戦いでもある。
他人として実際に対峙した時の、かつて王であったあの存在感は、自分の中で記憶として見たものより、遥かに手強い印象を瀬人に与えていた。
「お前だけは、変わらずに居てくれ。」
「俺は、変わらない。誓ったじゃないか。」
「…そうだな。」
抱き締めれば難なく腕に収まるだろう。
これを奪わせはしない。その為にも、今はまだ、手は出せない。
手を出したが最後、セトはアテムの様子からそれを察知する。
大広間で偶然対峙したあの時にでも、アレを消しておけば良かったか。と瀬人は思う。
相手は迷わず心臓を狙っていたのだから正当防衛だ。合理の暴力。流石は交渉を飛び越えて暗殺すら厭わなかった男。
死人がまた死ぬかは不明だったが、痛みなどはあるらしいので、撃ち抜けば再起不能くらいには出来たかもしれない。
アテムが来なければ、互いに銃を向け剣を抜いた可能性は充分あった。
[newpage]
冥界の薄明かりの広間。
瀬人とセトは、既に互いを睨み合い、言葉の剣を交えていた。
「亡霊は亡霊らしく、いい加減に消えたらどうだ。」
「子にはまだ分かるまい。私は守る者だ。」
互いに温度のない目を合わせて一歩も引く気はない。吐き出される言葉は冷たいが、内心は燃え滾っている。
「貴様が守ろうとした王は、今は俺の隣にいる。」
瀬人の声音は冷ややかだが、同じ思いを持つセトにとっては隠しようもない熱を帯びて聞こえていた。
「借り物の現世でいくら誇ろうと、真実はこの冥界にある。王は私の魂に連なる存在だ。お前など、ただの通過点にすぎぬ。」
セトもまた一歩も引かず、強靭な眼差しを返す。
「貴様に出来ることは縛ることだけだ。俺は永遠に並び立つ。」
「瞬きの間の幻想で、永遠を名乗るな。仮初の永遠など王を惑わせるだけだ。」
二人の言葉がぶつかり合うその奥、王の座は虚しく空席のまま。だが、互いに見据えているのはその空席に座すべきただ1人の姿だった。
「貴様の安定は檻にすぎん。俺には自由を、翼を与える力がある。」
「渇望を力と呼ぶか。それはただの傲慢だ。強さではない。」
互いの言葉は、鋭利な刃となってぶつかり合い、広間の空気を震わせる。
その只中、柱の陰から現れた気配に、2人は一瞬だけ息を止めた。
「…海馬?…セト?」
困惑と驚きに満ち、震える声。
アテムだった。
アテムは、思いがけずその場に足を踏み入れてしまったのだ。
表面上は穏やかに振る舞い、アテムには隠してきたこの応酬。しかし瀬人は止まらない。
「俺は既に誤差は切り捨てた。残る端数は貴様だ。貴様の敗北によって数値は整う。」
セトは一瞬だけアテムに目をやったが、瀬人同様、止まることはなかった。
「計算ならば得意とするところ。誰よりも知っている筈だ、現代の子。」
「ふん、存分にな。だが、計算の果てに残るのは数字ではない。俺の意思だ。」
瀬人の眼光が鋭く光る。
「意志など砂上の楼閣。風が吹けば崩れ去る。王を導くには根が要る。」
セトの声音は揺るぎなく、堂々としている。
「そんなものは不要だ。未来とは掴み取るもの。俺はアテムと共に、その先を描く。」
「傲慢な。それは奪うことと同義。渇望の末に手にしたものなど、いずれは血に濡れる。」
「血で濡れようと構わん。それが俺の選んだ勝利ならばな。」
瀬人は一歩踏み出し、鼻で笑った。
セトもまた退かず、静かな圧力で返した。
「勝利に溺れた子は、いずれ己をも焼き尽くすだろう。しかし私は違う。私は、永遠に残る礎だ。」
「思い違いをしているようだな、亡霊。貴様の礎は、貴様の墓標だ。俺は生きたまま未来を築く。」
2人の視線が衝突し、虚空を焼く。
同じ王を想いながらも、導く形は決して交わらない。
「王は私の血脈。魂の絆。私を離れては存在し得ぬ!」
「アテムは俺の選んだ相手だ。血でも絆でもない。選ばれるのは、この俺だ!」
声が重なり、空席の玉座が揺らめく。
その場所に座すべき存在を巡る、古代の王と現代の覇者の矛先は、一歩も譲らない。
「やめるんだ…。お前…たち…、何を、争って…。」
やっとのことで絞り出したアテムの声は掠れ、恐怖に背を震わせる。
胸の奥で、薄々気づいていた予感が確固たる形を取っていく。
もう、逃れられない。
その重圧に、呼吸すらままならない。
セトが振り返るよりも早く、瀬人は鋭く言い放った。
「見れば分かるだろう。お前を巡る戦いだ。」
その言葉に、アテムの瞳は大きく揺れ、ドクンと大きく鼓動が跳ねる。
やはり。
「…俺を、巡って…。」
アテムは胸の奥が急速に熱を帯び、そして恐ろしく締めつけられた。
これまで、2人からは、惜しみない敬意や好意を受け取ってきた。だが、その根底に潜んでいた「戦い」には気づかないふりをしていた。
だがもう、否応なく突きつけられている。
視線を彷徨わせながら、アテムは理解するしかなかった。自分は、2人に取り合われているのだと。
言葉にならない衝撃と、どうしようもなく胸を打つ温かさ。
その両方がないまぜになって、アテムはその場に立ち尽くすしかなかった。
衝撃、それは近い未来に訪れるであろう義務の影。
現世で交わした誓い、幾度となく重ねた邂逅、共に過ごす日々。それらは、瀬人の方へ向いていたアテムの心を、より揺るぎないものへと育てていった。
カードを切り、アテムに今まで隠していた「取り合われていること」を突き付けることも、機を見て実行した。
心を揺らし、どちらかを選ばなければならないように仕向けるためだ。
瀬人は心理戦の垂直突破に集中し、ごく短期間でそれを制した。
後は、極力早いタイミングで敵を叩き潰すのみである。
しかし、ただ叩き潰せば良いわけではない。瀬人の敵はセトである。
次のカードは確実に相手が身を引く一手。セトの行動を唯一制限出来る一手。
しかし瀬人自身はそれを持っていない、だからそれは最強のカードを使って『指させる』。
冥界の広間。静寂が、2人の呼吸の音すら吸い込む。
瀬人は冷たい視線をセトに向け、心の中で既に勝利を計算していた。全ては予定通りである。唯一の変数はアテムの選択。だが、その確率も読み切っている。
カードは全て揃えた。今こそ、真に捕まえる時。
「決着をつけるぞ、古代の亡霊。これで貴様の終わりだ。」
セトは何も答えない。顔色1つ変えることもない。いつも通りの、冷静な表情。
対して、呼び出されたアテムは、何かを言いたそうな、しかし何も言えない、といった表情でそこに立つ。
「決着…。」
それだけをぽつりと呟く。
アテムも、頭ではその意味を理解していた。だが、心はまだ追いついてない。心臓が早鐘を打つ。
しかし、瀬人はそれを鎮める時間など与えず、言葉を放つ。
「選べ、アテム。俺か、古代の亡霊か。」
やはり、とアテムが口を引き結び、少し目を伏せた。分かってはいても、それを作業的に選ぶなど、難しい。
だが、選ばなければ、この戦いは永遠に続くだろうことも分かっていた。
「…分かった。俺は…。」
1度言葉を切る。
今、この瞬間に選ばなければならないのだ、どちらかを。でなければ2人はずっと戦い続けることになる。
それに、『今の』冥界は、適していない。触れ合ったのは、再会をしたあの一瞬のみ。
選ばなければ。
アテムは視線を彷徨わせ、しかし覚悟を決めた。
体を瀬人に向け、低く、確実に告げる。
「…海馬、お前を選ぶ。」
瀬人の口元に、わずかに、計算通りの微笑が浮かぶ。
チェックメイト。
心理戦は制した。勝利は、心と意思によって確定した。
セトの行動に対抗出来る唯一の一手、最後のカードは、アテム自身の確固たる意思だった。それを今、『指させた』。
瀬人は僅かに肩の力を抜き、しかし表情には甘さを滲ませず、静かにアテムを見下ろした。
「そうか。分かった。これで争いは終わる。」
瀬人が目の前の体に腕を伸ばし、肩に手を回した。
争いは終わる。アテムはほっと一息つき、安心したように仄かな笑みを浮かべ、瀬人の腕に自然と身を預ける。
その温もりを確かめながら、瀬人は思う。現世での対峙、腕に抱いた温もり、『この世の味』を与え続けた日々、育てた心、変わらないでいる誓い、全てが、今こうして形になったのだ、と。
セトは一瞬だけ眉をひそめ、沈黙のまま一歩引く。表面上は。しかし目の奥に潜む色は消えていない。
敵を叩き潰しはしたが、それは目に見える行動のみ。
瀬人はそれを意識しつつも、今はアテムの心を守ることが最優先であった。
「お前は変わらない、誓った通りにな。」
アテムの笑顔が、静かに瀬人の胸に溶け込む。
この瞬間、すべての計略も争いも、甘い幸福の影に覆われている。
アテムの意思によってセトを封じはした。だが、瀬人は知っている。セトは決して諦めないことを。
だからこそ、この安堵は、ほんのひとときのものに過ぎない。戦いはこれで終わりではない。油断すれば逆転される可能性は常に付き纏う。
瀬人はアテムを腕に抱きながら、視線をわずかにセトに向ける。
「これで分かっただろう、古代の亡霊。今はアテムの心を奪えはしない。」
声は静かだが、その中に含まれる圧力は明確だ。皮肉や罵倒ではなく、この数字の殴り合いでの勝利を示すような冷徹さがある。
セトは小さく息を吐いてみせた。表面上は穏やかに見せているが、その眼差しは鋭く、次に仕掛ける機会を虎視眈々と窺っている。
瀬人はそれを十分に理解している。隙を見せれば、即座に策を練り奪いにかかるだろう、と。
だからこそ、『今は』アテムの心は奪えはしない、と明確に口にしたのだ。今は引け、と。
だがその『今』は、アテムの心が自分に向いている。
それだけで、しばしの優位は確定したのだ。
セトは何も答えない。それが答えだった。『今は』しかし『いずれは』。
小さく吐き出された息、そして無言。瀬人にはセトの内心を把握するのにそれだけで充分だった。
「じっくり、永遠に、考えていろ。」
穏やかな言葉に、含意は明白。勝者の余裕、永遠の牽制、次の戦いへの警戒。全てが、一瞬にして示された。
心は完全に奪った。しかし瀬人は油断することは出来ない。セトは、決して諦めない。
この瞬間、3人の間には微妙な静寂と緊張が張り詰めていた。
甘くも、恐ろしくもある余韻が、ゆっくりと広間を満たしていく。
そして、目に見えぬ未来の可能性、勝利と争いの行方、まだ決して消えない火花が、その静寂の奥でかすかに揺れていた。
瀬人は静かに夜の部屋へと足を運ぶ。
「海馬…。」
アテムの視線がこちらに吸い寄せられるように揺れるのを、逃さない。ほんのわずかに瞳が開き、微かに呼吸が乱れている。
反抗の色など勿論ない。ただ、健気な愛情と期待がそこにあるだけだ。
「…待っていた。」
瀬人の声は低く、抑えてきた感情が滲む。やっと決着をつけた。やっと触れられる。
アテムが言葉を探す間もなく、腕を引き寄せられ、強く抱きしめられる。
熱を帯びた腕の力に、アテムは思わず息を呑んだ。
「俺は…。」
「ずっと、こうしたかった。」
現世でのあの時と同じ言葉を耳元で囁かれる。決して乱暴ではない抱擁。
それどころか、あまりに強く求められていると分かるほど優しくて、アテムは熱い息を吐いた。
瀬人はゆっくりと顔を上げ、アテムの瞳を覗き込む。
「もう誰にも渡さない。アテム、お前が選んだ。後悔はさせない。」
躊躇いはなかった。唇が重なる瞬間、冥界の冷たい闇は遠くに消え去り、ただ2人だけの熱が周囲を満たす。
触れられる度に身体は震え、アテムは全身が熱くなるような心地だった。
瀬人の手はアテムの肩から背中へと滑り、柔らかくも確実に抱き寄せる。指先が首筋や腕を撫でるたび、アテムの呼吸は浅く、速くなり、胸の奥で小さな波が立った。
身体が触れ合う度に、温度と鼓動が互いに共鳴し、息が交錯する。
唇から伝わる甘さと熱が、言葉を必要としない官能の言語となった。瀬人の舌先は緩やかに絡み、探るように、しかし確実にアテムの意識の奥まで届く。
ふわりとしたその甘い心地良さを、目を閉じて受け入れる。
「…んっ。」
唇が離れた後も、空気はまだ熱を帯びていた。残るものは、互いの呼吸と体温、そして胸の奥でうねる余韻。
瀬人はアテムの背中を包む腕の力を緩めず、微かに頭を傾け、その表情を観察する。冷静に見えて、心の奥底では確かに昂ぶりが走っていた。
瀬人の手は、アテムの首筋から胸元、そして腰のラインまで滑り、触れるたびに小さく震えるアテムの吐息を引き出す。
掌で感じるアテムの柔らかさ、肌の熱、微かに震える肩。全てが瀬人の支配欲と愛情を同時に刺激する。
手を腹の上に滑らせ、勃ち上がりかけている中心を指先で擽れば、ふるりと震え、反応を返す。現世と変わらぬその様子に愛しさが増し、目を細める。
「待っ、だめっ…。」
「嘘を吐くな。」
慌てるのを無視して手の中で弄ばれれば、アテムは熱い吐息とともに目を伏せた。
時折上がる甘い声。その度に瀬人が体中に口付ける。
瀬人は部屋に備え付けられている香油に目を遣ったが、それを視界から追いやり、ジェルを指に絡める。
粘度の高い液体に濡れる長い指先、見覚えのあるその光景にアテムは身体を硬直させ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「怖がることはない。」
アテムは小さく頷き、目を閉じて身を委ねた。
蕾に触れ、ゆっくりと挿し入れられる。この身体では初めてのことである。現世の時と同様痛みはあったが、受け入れ方は知っている。アテムは息を吐き、身体の力を抜いた。
指の数が増えれば圧迫感も増す。と、同時に快感が生まれることも分かっている。
「ぁっ…海馬っ…。」
薄く開かれた潤んだ瞳、上気した頬、熱い吐息、熱い身体。全てが瀬人を煽る。
「アテム…。」
先端が触れると、アテムは、挿入の衝撃に耐えるかのように瞼を閉じた。
震える長い睫毛すら愛おしく、瀬人は、引き寄せられるように目元に口付けた。
繋がったところから響くのは快感だけではない。甘さ、愛しさ、渇望、そして、自分のものであるという支配感。
肩を掴み、奥までを犯していると言うのに、瀬人の動きは普段の苛烈さが嘘のように甘い。
「 あぁっ…ん…ぁっ…あ。」
アテムは快感を拾っては反応を返す。瀬人が腰を掴めば、アテムは首に腕を回した。
蕩けそうな目が、薄く開いた唇が、何も口にしていないのに何かを告げていた。
瀬人はそれを的確に読み取る。
「分かった。」
短く答え、上体を起こし、アテムを抱き起こした。向かい合って密着し、口付けながら深く交わる。
息を吐いて安堵した所を突かれ、アテムは背筋を細かく震わせた。
アテムからのリクエストであり、現世で抱いたあの時、一番良い反応を見せた体勢。
首に絡む腕がきつく締められ、掴んだ腰を揺らしながら最奥を穿つ。
挟まれたアテムの雄は動きに合わせて揺れ、先端から染み出す体液は2人の間に糸を引く。
「はっ…っく…。」
瀬人はアテムの性癖なら把握済みだ。快楽に落とすだけなら、組み伏せて後ろから激しく犯してやればいい。
だが、アテムが好むのは抵抗は出来ず、しかし無理に奪われている訳では無いと見て分かる安心や信頼を感じられるものだ。
瀬人が動けば、アテムはその度に震え、首に回した腕に力を込めて縋り、わずかに身を捩らせる。
「…ぁっ…だめ…だっ…んっ。」
「また『だめ』か。素直に感じろ。」
笑みの混ざった瀬人の低く響く囁きに、アテムは小さく息を漏らす。
だんだん激しくなる律動に、飛びそうになる意識。何も考えられず、嬌声を上げ、無意識に瀬人の身体に縋り爪を立てる。
そして次の瞬間には瀬人の胸板に顔を埋め、全身でその熱を受け止めた。
互いの腹に迸る、ドロリとした温かさ。快楽の確かな証拠。
言葉ではなく、身体が応える。上がった息が、心臓の高鳴りが、快感と安心、信頼、そして解放の感覚全てを伝えていた。
身体の隅々に広がる感覚は、理性や思考を確実に溶かしていく。残るのはただ、瀬人に齎される快感の渦の中に身を委ねる自分だけ。
「…まだ…。」
アテムが小さく零し、瀬人にしなだれかかる。
「次は、どうされるのがいい?」
繋がったまま、抱き寄せられた腕の力加減は絶妙で、窮屈さもなく、しかし逃げる余地は与えられない。
アテムの身体が触れるたび、瀬人は微かに力を強め、アテムの全てを引き寄せる。
「お前の、好きに…。」
それを聞くと、瀬人はアテムの身体をそっと倒し、指を絡めて寝台に縫い付けた。抵抗する術を奪われ、だけど確かな温かさのある繋がり。これもまた、アテムが好む体勢である。
2度目を告げる代わりに、深く口付けた。
胸の高鳴り、頬を流れる熱、指先に走る電流のような感覚。全てが1つになり、世界は2人だけの時間で溢れた。
耳元で吐かれる低く柔らかい囁きは、命令でも誘惑でもなく、ただ「お前はここにいる」と告げる確認。
アテムはそれに応え、身も心も完全に瀬人に預けた。
捕えられて抗えない腕、打ち付けられる腰、汗ばんで少し乱れた前髪から覗く熱い視線。それらに犯され、快楽に溺れる身体。
瞬間ごとに強まる熱と、甘さの波が、心と体の境界を溶かす。瀬人の支配と快感は渦を巻き、アテムを2人の世界に完璧に閉じ込める。
そして、全てが止まるその合間に、アテムは小さく、しかし確かに心の底から呟いた。
「…ここに、いたい。」
場をリードし、動かすのは瀬人である。しかし内心で、その感覚は誰から来るものなのかを、心地よく感じていた。
胸の奥で震える感情を、瀬人は静かに押さえつつも、楽しんでいた。
瀬人にとってこれは、単なる情欲の行為ではない。現世で与えた「生の記憶」の延長としてアテムの心と体を確かめ、未来の心を盤石なものとし、守るための行為でもある。
そしてその静かな夜の時間は、2人だけの密やかな幸福を紡ぎ出す。
甘く、静かで、しかし決して外には漏れない、特別なひととき。
朝の光が差し込み、薄く部屋を照らす。
アテムはまだ眠そうな瞳をこすり、少し照れたように瀬人を見上げる。
「アテム。昨夜のことは、覚えているのか?」
瀬人の声は柔らかく、だが力強い安堵の色を帯びている。
アテムは小さく頷き、微笑む。
「ああ…だが、また少し記憶が飛んでる。お前、毎回やり過ぎだ…。」
瀬人は、甘えるように抱き着いてくる身体に腕を回し、しっかりと掴まえる。
「あれだけ求められれば応えもする…。」
瀬人が小さく笑う。
「…どこか、安心したんだ。お前、現世ではいきなりあんなことしたくせに。こっちに来てからはずっと…だから、つい。」
少し赤くなって目を泳がせるアテムの頭を撫で、引き寄せた。
「そうか。」
「だが、何故、今まで…?」
問いかける声に、瀬人ははただ微笑むだけだった。
その微笑みは優しく、まるで世界の全てが守られているかのようだが、その裏には計算が潜んでいる。しかしアテムがそれに気付くことはない。
瀬人が現世で関係を急いだのは、セトとの戦いに備えてのことでもあった。
最強の切り札である「既成事実」。
既成事実を作り、思いを育て、変わらないことを誓わせた。アテムの心の向きを瀬人に向けておくためだ。
アテムのもどかしさに気付きつつ、それすら利用して揺さぶり、心を、目線を向けさせ続けた。
外から包まれるより先に、心の奥まで届いて内から満たす。そして自分なしでは満たされない状態にする。
心を満たすことは、目には見えにくいが、その為に変数にもなり易く、一度成功したら奪還は不可能に近い。
それはアテムの意志や感情に直結し、一度作用すれば揺らがない、まるで依存や中毒のように強烈な一手。
セトが現れたとしても、アテムの心理的な傾きが瀬人に向いていることで、セトは思い通りに揺さぶることができず、その計算を崩す。そしてその理由を悟らせることはしない。手を出さなかったのは、その為でもあった。
更にはアテムに『裏切れない』そんな思いすら持たせることにも作用する。
それは、心理的拘束。
瀬人は最強の切り札を使い、この最後のカードを手に入れた。
全ては、アテム自身の揺らがぬ意思を、最強の、最後のカードとして手に入れ、瀬人を選ばせ、最後の一手を『指させる』ための布石。
その筈だった。だが、現世で実際に抱いた瞬間、合理だけでは済まなかった。欲が顔を出し、それは合理と融合した。想定内ではあったが想像以上だった。
触れた瞬間、離したくなくなった。合理のため、だけで済むはずがなくなった。
並の人間なら、合理と欲は拮抗して足を引っ張り合うものものだ。
しかし瀬人は違った。アテムを抱いたあの時、その合理の歯車に欲が噛み合った。
欲している、だがそれは合理の延長にすぎない。そう認識した。欲が、むしろ合理を加速させる燃料になった。
あの夜、冷静なはずの戦略は、熱を帯び、誰も止められないものとなった。
「俺は、アレの考えを知っていた。争いになることは分かっていた。だからだ。お前が、どちらかを選び、決着がつくまでは…。」
瀬人はそこで言葉を切った。待つつもりなどなかった、待たざるを得なかった不本意、そんなものは伝えるものでもない。
しかしその言葉に、アテムは瞬間、胸の奥が締めつけられたのを感じた。
現世での会話が脳裏に浮かぶ。
「決着は着けるつもりって、こう言うことだったのか。」
「これは1番大きな戦いだ。」
「…あいつも、ずっと…。」
瀬人の指先がそっとアテムの髪を撫でる。
「安心しろ。今はもう、お前は俺のものだ。」
甘い囁きに、アテムは心を奪われる。
だがその裏で、瀬人の意図は計算の中にある。
低く響く声に、合理と欲が絡み、冷静でありながら熱を帯びた瀬人の眼差しが注がれる。
瀬人はアテムを見つめ、そっと体を抱き寄せる。
冷徹な合理の目と、熱を帯びた欲の手。
アテムはどこか、ゾクリとした。
瀬人の腕に抱かれたまま、胸の奥で、アテムは安堵と静かな熱に包まれ、動けなくなる。
冷静に考えれば、現世でのあの夜からずっと瀬人が自分を狙っていたことは明白だった。
そして今、この瞬間に、全てが腑に落ちる。恐ろしく甘い現実に、心が震えた。
「…お前も、俺が選ぶまで、ずっと待っていたんだな。」
お前も。
少し頬を染めているアテムの声は小さい。
けれど、その小さな声に瀬人は微笑ひとつも返さず、ただ腕を固める。それだけで、自分のものだ、と言う想いは伝わっている。
アテムは『選ばなかった自分のせいで』手を出されなかったのだ、と思う。
実際にはセトに対する変数、最強の切り札を隠すため。しかしその勘違いすら瀬人は利用する。今後も心を縛り付けるために。
勝利の為に瀬人が制したのは垂直突破による心理戦。その心を、揺らがせることは出来ないのだ。
「お前を誰にも渡すつもりはない。その為なら、俺はどんな手を使ってでも戦うだけだ。」
低く響く声が部屋に残り、理と欲の両方が混ざった力でアテムを包み込む。
アテムはその想いに押されつつも、どこか安心している自分に気づいていた。
現世で触れられた時の驚きも、冥界で触れ合うことのなかった期間のもどかしさも、全てが今のこの瞬間のためにあったのだと。
「大丈夫だ。俺は、お前を信じている。だからお前も、信じてくれ。」
アテムの言葉に、瀬人はただ黙って微かに眉を上げるだけ。
それで充分だった。
言葉も、理屈もいらない。
全てはこの腕の中で、目の前の現実で証明されている。
2人の間に流れる空気は、静かで、深く、甘く、重い。
理性と欲が絡み合い、世界の外にあるかのような濃密な時間。
互いに妥協せず、互いに与え尽くし、互いに愛し合い、認め合う。
「信じている。これからも、変わらずにいてくれ。」
「ああ、俺は、絶対に変わらない。」
外の世界の喧騒やセトの影も、この部屋には届かない。
少なくとも今のところは。
