「幸せに終わりたい派」にはリターン推奨。
好奇心・心理スリル派は、歓迎かもしれません。
本編は終わってるので、幸せに終わりたいけど読むぞ、という方は、ぜひ心の準備とやらをしてどうぞ。
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無事に結婚式も済ませ、アテムは瀬人と共に冥界へ里帰りをしていた。
アテムは玉座の間を歩きながら、かすかな違和感を感じていた。
自分とは、このようなものだっただろうか。
自身のことにも関わらず、上手く思い出せない。以前通り、何も変わらずに居られているはずだ。何も変わっていないのだから。
だが、分からない。
自分でも整理できず、言葉にすることができない違和感があった。
胸の奥で広がる違和感は静かに、しかし確かにある。
その名もない感情、いや、名を付けてはいけないものは一体。
「…俺は…。」
声にならない呟きが、喉で溶けた。
その時、柱の影から優しい低い、声がかけられた。
「幸せですか?」
セトだった。
その響きは、問いであるようで、確信しているようで、だからこそ少しからかっているようにも聞こえた。
アテムは咄嗟に顔を上げた。
セトは、今の日常のような、穏やかな表情で見つめて来る。
幸せ。
その言葉を聞いた途端、胸にあった違和感の影は、不意に足場を奪われたように揺らいだ。
影が、言葉になる前に、消えてしまう。
「セト…。」
この違和感を話してしまおうか。セトならば、きっと言語化してくれる。
しかし、この影について口にすれば、きっと戻れなくなる。
戻れない。一体どこに。それは何故。
答えのないアテムに対し、セトは特に気にしていない様子で、面白そうに、ふっと息を吐いた。
「アレが待っているのでは?」
一瞬のことだった。
セトがアレと呼ぶのは、瀬人。
瀬人。その名によって、黒い影は、温かな現実の光に塗り替えられた。
違和感は、一時の揺らぎに見えなくなり、胸に残るのは少しばかりの恥ずかしさや幸福。
頭に浮かぶのは、待っている瀬人の姿だけ。
ずっと隣に居てくれる、愛しい、確かな存在。自分の、『幸福な居場所』。
影はかき消され、名前を、言葉を、奪われた。
もう、口にされることはない。
代わりに口を突いたのは、そこへ戻るための呟き。
「セト、俺は幸せだ。」
まるで、花が綻ぶようだった。
その言葉が吐き出された瞬間、胸の痛みは消えた。
本当は、消えたわけではない。アテムが自覚出来ない所へ沈んだだけ。
そこの扉が音もなく閉じたからだ。
逃げ道を塞がれたことに、アテムは気付かない。
セトは視線を伏せ、薄く笑む。
「実に、良いことです。」
その声音に冷たさはなく、むしろ慈悲に似ていた。
何人かには報告をしたいから、と言うアテムの希望で、門を潜り冥界へ足を踏み入れた。
アテムを再び冥界へ連れて来るつもりなどなかったが、望むのなら仕方がない。
集まっていた数人の神官が玉座の間を後にし、出て行くのを、柱に背を預けて眺めながら、アテムを待った。
仮に、アテムを冥界に留めようとする声が出た場合に備えて控えていたが、それは杞憂であったようだ。
「悪い、待たせたな。」
ごく自然に、アテムは戻って来た。
「おかえり。」
「ただいま。…なんか、お前に、おかえり、と言われるのは慣れないな。」
おかえり、それに対してアテムは、ただいま、と答えた。そこには、アテムの帰る場所がどこであるのかが証明されている。
「久しぶりの冥界はどうだ?」
「ああ、皆、変わらないな。」
アテムは目を細め、ゆったりと答える。
変わらないだろう。あの働き者の神官が、変わらず働いているに違いないのだから。
3000年、代理としてこの世界を治めていたとは聞いたが、その施策の中でも、アテム抜きでも回るシステムは、かなり早い段階で構築されていたことだろう。何せアレは周到な男だ。
「そうか。」
アテムが少し恥ずかしそうに、嬉しそうに口を開く。
「…さっきセトに、幸せかと聞かれたんだ。」
「それで?」
「幸せだ、と答えた。」
アテムの瞳には、純粋な安堵と満足、瀬人への愛が宿っている。
幸せ。その一言が、冥界の静けさの中で確かに響いた。
瀬人の心の中もまた、静かに、幸せや喜び、愛が満ちている。
アテムがこうして幸せでいること、それを目の当たりにできること。
この手で成した。何ものにも代えがたい、深い満足感もあった。
瀬人はその言葉を、真正面から受け止めたふりをする。
視線は柔らかく、静かな声で、ただ一言返しただけ。
「そうか。」
その裏側、瀬人の内心では愛と支配の快感が走っている。
これは、計算通りにここへ戻ってきた証明。
自ら望んで「幸せ」と口にし、鎖をかけたのだ。もはや誰にも責められることはない。誰にも責めさせはしないが。
アテムが嫉妬をすれば、瀬人はその独占欲を満たし、それはアテム自身に愛を纏わせその動きを奪う。
アテムが束縛をすれば、瀬人は自ら束縛され、アテムに捕まえているという満足感や安堵を与え、それはアテム自身を束縛する。
瀬人は、自由も、愛すら、容赦なく与えられる全てを与え、掌握し、閉じ込めた。
この、見えない『幸福な温室』へ。
アテムが戻る場所がここである歓喜。だが、笑みは浮かべない。
アテムには決して見せない仄暗い笑み。
代わりに、穏やかな笑みを浮かべ、優しくその肩を抱き寄せた。
「こうして、側に居てくれ。それだけいい。」
瀬人の胸に縋りながら、アテムが返す微笑みにあるのはやはり愛と、ここが居場所であるという安堵。
そしてその顔を見下ろす瀬人の心中には、誰にも知られぬ笑い声が響いている。
勝利と愛情と、甘美な掌握の快感に満ちた幸福な笑いだった。
アテムが安堵の笑みを浮かべ、瀬人の腕に抱かれ胸に顔を埋める、その一瞬。
瀬人の背に、冷たい眼差しが注がれていた。そこに悪意は一欠片もない。ただの観察者の視線。
セト。瀬人の心中を、目論見を、「見せない笑み」を、ただ1人見抜いている存在だ。
その口元が微かに歪む。これもまた、不快感からではない。
「満足そうだな、セトカイバ。」
小さく、零す。勿論声は届かない。
セトは、瀬人がアテムを完全に手中に収めたことなど把握していた。
そして同時に、瀬人自身がこの檻の共同制作者でありながら、己もまた囚われているということも。
「その幸福、快感ごと、檻の一部にしてやろう。」
それは褒美でも慈悲でも何でもない。
アテムを、幸福、に縛るのに都合がいい、ただそれだけの理由だ。
セトの囁きは誰にも聞かれることはなく、風のように消えていく。
瀬人は振り返らない。ただ、腕の中の幸せそうなアテムを抱きしめる。
そうだ、それでいい。
セトの影は静かに遠ざかりながら、全てを掌握していた。初めから、ずっと、今もだ。
セトには、アテムが違和感を感じていたことも、その正体すら分かっていた。
それは、知らず、人間に落とされたために、もう、王や神ではいられないことへの絶望だ。
折角アレに神を殺させたのだ。もう神になどさせはしない。
そんな芽は、早めに摘むに限る。
「幸せですか。」アテムへのあの問いは、幸せの現実へ目を向けさせ、思考を違和感から、共犯者の待つ幸福へと差し替えるための盤面調整。
そうすれば、後は勝手に幸福で上書きしあっていくのだから、アレは最高の駒だ。
計画通りに事を進め、アテムの中の神を殺し、愛で縛り、結果、檻はさらに強固になる。
そして、檻はただ閉じ込めるだけでは足りない。
幸福という名の囚われは、時に緩み、時に軋むことがある。アテムには、適切な囚われ方をしてもらわなければならない。
だからセトは、瀬人の幸福や快感すらも檻の材木にするのだった。
アテムが「幸せだ」と口にするたびに、アレは支配と愛情の快感に、幸福を覚えるだろう。
その愛や快感こそが鎖となる。
するとアレはより多くを与えようとする筈だ。そしてアテムはより素直にそれを受け取り、気持ちを返そうとする。その連鎖が永遠に続く。
セトはただ、遠くから見ているだけでいい。
愛し合い、互いに絡み合い、自ら強化されていく檻。
幸福の現実で補強され、もはや内側から破ることはできないだろう。
セトは先程アテムに向けた時と同じように薄く目を伏せ、笑みを浮かべる。
「実に、良いことです。アテム。」
僅か16歳で生涯を終えた少年。
セトにとっては、王などただの神でしかない。
しかしその王という、神という事実は重すぎた。王であったばかりに自由を持たず、縛られ、未来すら閉ざされた。
だからせめてこれ以後は、ただ幸福であれば良いのだ。
神は死に、アテムは人となり、幸福の中にいる。
アテムが幸福を感じ「幸せ」と口にする。セトのこの手向けは完成図を見せた。
セトの声は、風のように虚空に消えていった。
だがその一言は、最後の鍵を打ち込む槌音のように響いていた。
設計した檻は完成し、その錠を閉じた。
願った幸福な未来は完成した。
そしてその幸福は、何よりも頑丈な牢獄になった。
人気のない玉座の間に、セトは静かに佇む。
王など、神などと。そんなもの。
目の前には盤面もなければ駒もない。しかし確かに、セトの掌握する世界、盤面は常に動いている。
勝手に最善手を選び続ける、最高の駒があるからだ。
初めて龍を見た時、これは使えるかもしれない、そう思った。目的を果たすために最適な駒になり得る。しかしそれは、冥界の王の隔離、目的の代替案としてだ。
暫く観察すれば、決定打は間もなく訪れた。
アテムに寄り添うように、常に隣に立っていた。人目を気にせず、躊躇わず、隠さず、誇るように。何より、力があるのだからそれは当然の態度とも言える。
その男がアテムを見る眼差しを目にした時、セトは確信した。アレの持つものは、ただの執着や対抗心ではないのだと。
アテムは気づいていないだろう。まるで燃やすように見つめるその色、手放すことを許さない執着。
恋情だった。
セトがそれを見つけた時、胸の奥には笑みすら浮かんだ。
ああ、これはいい。
これほど都合のいいものがあるだろうか。
最適どころではない、最高の、至高の駒だ。
義務でもない、責務でもない。
ただの個人の欲望として、アレはアテムを求めていたのだ。
そしてそれに応えるように、アテムもまた、その萌芽を見せ始めていた。
無理もない、アレとアテムでは系統が違う。相性の問題だ、色恋において純粋では合理に勝てない。どう見積もってもアテムは籠絡される。
本当に、これ以上ない都合の良さだ。
セトは、元より目的の為の手段など何でも良かった。
恋情、結構なことではないか。
「なるほど。」
低く呟き、セトは目を伏せる。本当に笑い出してしまいそうなのを堪えた。
これでいい。いや、これ以上があるだろうか。これこそが求めた最適、最高の駒。これを使えることが出来れば、盤面を大きく変えられる。
そして駒は、アテムを欲するのならセトの思惑通りの動きをするしかない。冥界の王の、隔離どころではない。冥界から連れ出し、そこで神を殺すまで。
利害は一致している。環境を整えさえすれば、駒は勝手に最高の機能を発揮するだろう。
その盤面なら、頻繁な来訪に少し裏で手を回すくらいの、そんな軽い手を打てばいい。
やるべきは、アテムがある程度絡め取られるのを待ち、冥界から出す時が来るのに合わせて打つ手を決めておく事だ。
そしてそれもまた、セト自身が直接することは特にない。最高の駒が、勝手に動くのだから。
王位を継いでからだ。セトの中で描かれる未来予想図は、今となっては外れることを知らない。
完全なる掌握を出来なければ、解釈1つ間違えれば、操作1つ間違えれば、国は滅びる可能性があった。毎日がその判断の繰り返しだった。
人を見る目はある。場も然り。
アレの愛し方は容赦がない筈だ。だから互いが互いを望むのなら、檻は自然に組み上がるに違いない。
アテムは気付かぬまま、幸福という名の鉄格子に守られることだろう。
あの力のある手で、あの揺らがぬ深い愛で。
愛を語るか、優しさを見せるか、手段は分からないし興味はない。セトの頭にあるのは目的のみ。
だが、その動きのひとつひとつは、アテムを檻へと導き、幸福という名の鎖をかけると推測出来た。
女神との交渉。アテムをただの人間の女に。
アレがアテムを選んだのは、男だから、ではない。見ていて分からない筈がない。
だが、セトにとって、瀬人が持つものが恋情ならば、合理的に考えて、その関係や周囲の状況を最適化するのは当然のことだった。
障害になりそうな芽は摘んでおくに限るのだ。
重要なことは、結果としてアテムの望みが叶い、幸福な状態が保たれること。
愛し合う男と女、ごくありふれた、誰もが違和感なく受け入れる状況。ならばその最適化された盤面は調整して作らせればいい。
アレはアテムが男でも女でも気にはしないのだから女でも構わない。そうして、最適化された盤面で、存分に能力を発揮すれば良い。
セトはいつでも、ほんの少しの調整を加えておくだけで良い。
最高の駒によって、盤面は実に自然な形に整って行くのだから。
そして今、アレ自身もまた、快感と愛で自ら檻を締め上げていることだろう。
セトは微かに口元を歪める。いつもの薄い笑みだ。
本当によい駒だ。これ以上のものはない。
褒めているのか、確認しているのか、声に出さずともそれは明確だった。
駒は完璧に動いている。
最高の駒でありながら、駒自身はそのことを知らなかった。今は…それはどうでもいい、アレの認識になど興味はない。
アテムも瀬人も知らぬ間に、檻は堅牢になり続ける。
セトはただ見守るだけ。
手を下す必要はない。アテムを託した時点で仕事は終わっている。
想定より遅いので、アテムには色恋が分からない、と盤面にほんの小さな一手を加えた程度だ。すぐさま行動に移したことだろう。アレは仕事が早い筈だ。
それだけでもう、あとは勝手に組み上がる。
セトは本当に見ているだけで良かった。
全ては、あの最高の駒が最善手を選び、完璧に動いてくれるのだから。
瀬人は、それには気付かないふりをした。
気付いた所でそれをどうにかする合理的な理由がない。
だが、いつからか、心の奥底では、確かに感じていた。
自分もまた、最高の駒として静かに動かされていることを。
ただ、完全に利害は一致していた。
適切に、手段を選ばない。
それに、瀬人にとっても、共犯者からの認識になど興味も意味もなかった。
目的はアテム。そしてアテムの自由と幸せだからだ。
そうして、セトによって設計された、恐ろしくも優しい檻は完成していく。
誰も知らない内に全てを掌握し、全てを導き、全てを愛と幸福で満たした。
それはセトの思惑であり喜びであった。
幸福は檻の中で、美しく、静かに、確実に、形作られていく。
それを誰にも強制はしない。強制などせずとも、勝手に選ぶのだから、予め与える選択肢を吟味しておけば良い。どの選択肢を選び取ろうと、変わらない結末を見せるものを並べておけば良いのだ。
操作しているようにも見せはしない。ただ、静かに観察するだけ。
この幸福は、アテム1人の意志の産物ではない。だが、セトはそれで構わなかった。
壊れることなく、恐怖も疑念もなく。
アテムに、自由で、ただ幸福な未来があればいい。セトにとってはそれだけが目的、それだけで充分だった。
瀬人の手腕も、アテムの陶酔も、セトによって完璧に設計された舞台の一幕、盤面の状況に過ぎない。
2人の手によって、幸福は二重の檻として完成する。
瀬人。愛情と導きで、アテムを直接的に心地よく快楽の中に落とし、自由と愛を体感させ、容赦なく幸福を与え続ける。
セト。理知的に全体を掌握し、選択肢を絞り、間接的にアテムの自由を制御し、神性の芽を摘み、幸福そのものを檻の形に組み上げた。
その檻の中で、アテムは未来永劫、自由を感じ、安心感に浸り、幸福で在り続けるのだ。
その自由は完全に計算され、逃れられない形で設計されているにも関わらず。
美しく、冷たく、愛に縛られた幸福。
王であった少年に与えられた究極の自由。
それは二重に掌握され、施された『幸福の檻』だった。
