救急の受付がある大きな病院だった。そこに、今回のキリコへの依頼人が入院していた。
灰皿が置いてあるのを良い事に煙草を取り出し、火をつけると日本ではあまりない甘い匂いが広がる。3度程深く呼吸をした頃に、足音が聴こえてきた。院内を走るとは何をそんなに慌てているのかと4度目の深い息を吐く。その忙しない足音はキリコの居る部屋の前で停まり、勢いよく扉を開けた。
「随分早い到着だったな間!君のお陰で今はこの病院で、って、あれ?ああ、っと、すみません。人違いしちゃったみたいで。」
人違いに照れ笑いし、頬っぺたをぐるぐると掻く。
BJの知り合いにしては滅多にない友好的なタイプだ、などとじろじろ眺めていると首をかしげながら「I’m very sorry.」と訊ねるように言われた。言葉が通じていないのだと思われたようだ。キリコは別にそれでも構わないのだが、居心地悪そうにされる必要もない。
「日本語でいい。気にしないでくれ。アンタ、BJの知り合いか?医者なのに随分仲が良さそうだ。」
「ありがとう。間は、BJは大学の同期なんだ。」
「へえ。彼とは今でも親交を?」
「たまにね。ところで貴方は?」
「ただの外部の医者だよ。ああそうだ、BJもここへ来るんだろう。いつ来る、患者の名前は?」
「3日後って聞いてたけど、彼せっかちだからたまに予定より早く来たりするんだ。それで貴方の事も身形だけ聞いて飛んで来てしまったんですよ。名前は次郎くん、7歳だったかな。やっとドナーが見つかったんだ。」
自分の事のように嬉しそうな様子に、キリコは若干面喰った。BJもある意味ピュアな奴だが、こういった純粋純白交じりっ気なしのイイ奴系ピュアとは違う。BJの場合は情熱が濃縮されただけの我儘を突き抜けたものだ。
それに患者がバッティングしている訳でもないようだと安堵する。年齢も違えば、それもその筈キリコへの依頼は明日の約束でBJが3日後だというのなら日程も違う。
「そりゃあ良かった。きっと助かるだろう。」
ああ、と嬉しそうに頷く。そしてハッと気づいたようにキリコを見た。
「そうじゃなくて、貴方は?いや、僕から名乗った方がいいよね。僕は辰巳。見たままここの勤務医だ。」
「け、覚えてやがったか。俺はキリコだ。」
キリコ、と辰巳が口の中で呟く。一瞬だけ何かを思い出せそうだったが無理だったらしい。数秒だけ唸って記憶を探った辰巳だったが、すぐに力を抜いてキリコに向き直った。
「どこかで聞いた名前だった気がしたのですが、思い違いだったかもしれません。」
「正直な奴だな。」
「ちょっと色々あってから、正直に生きる事にしたんですよ。」
「そいつは興味深い。俺の知り合いに我儘なくせに捻くれて意地っ張りなのがいるんだが、是非とも聞きたいね。」
「ははは、そんな話すようなことでもないですよ。」
「そうか、それは残念だ。」
時刻は14時の20分前。
「また明日も来る、と思うから。バッタリ出くわしたら聞かせてくれ。ドクター・辰巳。」
煙草を消し、キリコは部屋を出た。指定された面会時間までまだ少し余裕はある。
今から契約内容の確認を取れば、夜中にやっぱり死にたくないと電話が掛かってきたり、容体が急変したり、BJが出て来て患者を横取りしたりとよっぽどの事がない限りキリコは安楽死を実行する。死の直前の興奮状態では話にならないからだ。一時の迷いで生きたが為に苦しみ、痛みに苛まされた患者もいた。
部屋番号を確認して、軽く戸を3度叩く。それを2回。
静かに室内に入ると、依頼主とその親が待っていた。
「こんにちは。お加減は。」
「意識も、殆ど戻る時間はありません。ただ痛みに唸るだけで意味のある言葉など。」
うう、と唸っている患者に変わり、母親が答える。依頼してきた時にはまだ仕事もしており意識があったのだが、今では殆どこの状態のようだ。
「もう苦しむ事はない。明日のこの時間に私は来ます。それまでに別れを。悔いのないように。」
「よろしくお願いします。」
翌日のやはり同じような時刻。キリコ今度はどこにも寄り道をせず患者の個室へ向かった。唸り声と計器の音を聴きながら処置を進める。今回望まれたのは痛みからの解放だった。
吸い込むガスのチューブをつけ替え、専用のボンベからの供給に変えてやる。一呼吸ごとに、眉間のしわも唸り声も消えていき、5分もすれば眠りについて、そのままゆっくり楽になれるガスだ。
注射針1つの痛みさえ与えたくなかったために手段を変えたがこれは毒ガスに違いない。キリコも処置の間の数分だけガスマスクを装着していたが、やがてそれも外し、全ての機器を元に戻した。患者の息が止まるまで寄り添うか否かは事前に決められるが今回は決めることが出来なかった為、眠りに着いた頃合いを見計らって退室した。
死なせた後だからと言って、別段キリコの気分が悪くなったりすることはなかった。初めは思う所もあったが、それは興味や好奇心に近しいものであって、胸を痛めるようなものでもなく罪悪感もない。だからそんなセンチメンタルな瞬間も数ヶ月で消えた。麻痺したか、慣れてしまったのだとキリコ自身は気にしていなかった。
実際キリコは思いやりのない全くの冷血漢でもなく、そこそこに周囲の人々と触れ合いながらやっていけているのだから周りの言葉を気にしなければ気にする必要もない。
「キリコ!ドクター・キリコ。」
エレベータを降り、歩くキリコの元へ忙しない足音が近づく。
「ドクター・辰巳。」
院内を走るな、とキリコが足を止めて振り返る。キリコを追っていた辰巳は、急に立ち止まられてスピードを殺せず、肩を掴もうとしたその手もそのまま真っ直ぐキリコの居る場所へ突っ込んでいった。
「お前さんもうちょっと周り見て、で、歩いた方がいいぜ。」
「すまない。」
キリコはするりと衝突を躱し、つんのめった辰巳の襟首を掴んで救出してやった。
ぐ、と苦しそうな声を上げて止まると、辰巳はまたも頬をぐるぐると掻きながら謝った。
「助かったよ、危うく正面衝突する所でした。」
「衝突した所で疾走している訳でもなし、スキップみたいなもんだ。だがちょっとは気にしろ。」
もし全身複雑骨折した患者が相手だったら大惨事だろ、と文句をつければもう一度小さくsorryと呟いた。
「でも、昨日の約束思い出して、それで来たんですよ。バッタリ会ったでしょう。それで話さないと、と思いましてね。」
「ああそうだ。是非とも聞かせてもらおうかね。ブレーキのついていない医者になった経緯を。」
「ブレーキについては僕もっと酷い人知ってますから、僕がそこを主張する訳にはいかない。」
「そうかい。ま、俺もアクセルについてももっと酷い奴知ってるがな。」
顔を見合わせて、辰巳が笑う。
「違いない。間に勝るノーブレーキドクターはいないよ。」
で、お前の話はどうなった。とキリコは思ったが言わなかった。
「確かにあいつはアクセルとエンジンのオンオフしか着いてないようなドクターだな。」
「そうだろう!いや、分かってもらえて嬉しいよ。なのに彼、頑固だろう?だからいっつも僕が突っ走るみたいな言い方ばっかりするんだ。可笑しいだろ。笑っちゃうだろ。なのに誰も共感してくれる人が居なくて。僕は今日と言う日に、いや昨日か?とにかく貴方と出会えた事に心から感謝するよ。」
「オーバーな奴だな。分からんでもないが。」
BJといい辰巳といい、暑苦しい。喋り始めると止まらない。確かに2人ともブレーキはない、か。思わぬ共感にキリコも笑みを浮かべた。
「本当なんだって、アイツの話だったらどんどん出てくる。もし用事なかったら、今晩飲みに行きません?まだ引っ越したばっかで暇な時は暇で暇で。」
いっそ既に飲んでいるのではないかと疑いたくなる元気の良さ。是非にと辰巳の顔に書いてある。
確かに引っ越したばかりは暇だ。フレッシュな気分で何かしたいくせに勝手が分からないからすることがない。
「ならお前さんが終わる時間に迎えに来るよ。」
「ありがとう!助かるよ17時に終わるから、半くらいに裏口でいいかい?居なかったら」
「緊急で何かあるかもしれない。誰かに訊くよ。」
何て気の利いた、間はこんな友達が居て幸せだ。と感動の独り言を呟くが残念ながらキリコとBJは友達ではない。
軽く一言二言会話を交わし、キリコと辰巳は別れた。職務に向かう辰巳はちょっと頼りないが、患者の目線で向き合える近づきやすい医師なのだろう。道すがら入院患者に話しかけられている。もう少し経験を積んだらいっそ開業して、田舎の町医者になればピッタリだろうとその様子がいとも容易く想像出来る事に何度目かの笑みを浮かべて病院を後にした。
ホテルに着き、軽く商売道具の手入れをする。ガスは注射器の痕も残らないがあまり沢山持ち歩けない。それ故にある程度高濃度で在る為漏洩など許されず、ロックとパスコードも着けて厳重に取り扱っている。
毒と薬は紙一重だが、人が死ぬという事には変わりない。実際、かつては敵を壊滅、または皆殺しにする為に製造された兵器を改良したものだ。キリコがこの毒薬をこんなに慎重に管理せずとも、世界中にこういった兵器は多々存在しており、杜撰な管理をされているのは事実だ。
それどころか使い果たして関係者諸共消してしまう算段すらある。
それを根絶やしにし、全てを苦痛のないものに置き換えたりすることはまず不可能だ。中には苦しめる目的で使用されていることもある。全ての人間を楽に救いを、と思うほどキリコは自惚れても居ないし夢を見ても居ない。現実がある、それが誰しもにとっての足枷。如何に救う力があろうとも、目の前の患者しか救えないのだから。
手入れを終え、適当に身繕いして病院へ向かった。17時20分。辰巳の姿はまだない。少し長引いているのなら中で待たせて貰おうと裏口から入り、辰巳を迎えに来た旨だけ伝えておく。
それから更に20分程経って辰巳が姿を現した。
「お疲れさん。」
「待たせてしまいましたね。何か食べたいものありますか?」
「いや。でもお前さんは随分やられてるみたいだな。」
「急患で。でも助かりそうで良かったよ。」
「そうか。」
それにしてもお腹空いたなー、と売店でメロンパンを買って齧りながら歩く辰巳。よほど我慢が出来なかったのか正直マイペースが板に着いたかそれが本性か。恐らくどれも当てはまるのだろう。
並んで裏口から外へ出た。そこから門を抜けようとした所に、サイレンの音が聞こえてきた。
この辺りで救急の受付をしている病院はここしかない。キリコと辰巳は顔を見合わせ、病院へと足を向けた。
サイレンの音が単体なら、戻りはしなかったかもしれない。警備員に軽く話を聞いて飲みに出かけただろう。だが何台もこちらへ向かっているらしい。辰巳の持つ携帯電話にも着信があった。警備員を素通りし、救急救命受け入れ体勢を整えるスタッフに状況を訊ねる。
「何があったんですか。」
「事故だそうです。辰巳先生が戻ってくれて助かりました。そちらの方は?」
「俺?結構腕のいいドクターだ。気にするな。それよりドクター・辰巳。」
「ああ、この辺りにはここしか受け入れられる病院はない。患者にとってはここが最後の望みだ。皆受け入れて、重症の方から処置をする。落ちついて受け入れてくれ。」
そういう辰巳の顔色は緊張で少し青くなっていた。外科の医師達は運悪くオペの最中だったり、運び込まれる予定の患者の数が予想以上だった。といったところか。
「出来るだけ近い手術室に複数名ずつ入れていくぞ。細かく状態を聞かせてくれ、部屋割する。」
「キリコ?」
「お前さんの昔話への前払いに俺の昔話をしておくよ。俺は昔軍医でね、前線に居た。物資はない、場所はない、怪我人は増える、治したそばから狙われる。それに比べてここは素晴らしい。物資はある、場所もある、治した患者はもう安心だ。」
辰巳は肩を叩かれ、どちらがこの病院のスタッフか分からないなと苦笑した。そろそろ到着する。手術着に着替え、マスクをかけ、並んで手を洗う。身支度は整った。
移動に必要なスペースを残してベッドの入った手術室は常と違って、それだけで辰巳は窮屈で燻されるような気持ちになった。
「辰巳は隣の患者達を。」
「貴方にそんな負担はかけられない。」
「おい、この状況でそんなことを気にするわけないだろう。子どもの相手はお前さんに任せる。」
辰巳が担当する部屋の前に立つと中からギャーギャー泣きわめく子どもの声が聞こえた。
ちらりとキリコを振り返れば、苦虫を噛み潰したようなまずそうな表情でじとりと見られた。
「子どもは性に合わん。大人も痛いだの何だのと我儘で話は通じないが子どもは痛くなくても大騒ぎを続ける。任せた。」
「分かった。後で合流する。」
それを合図に、それぞれ手術室へ入った。他の手術室でも何人か処置が始まっているのだろう。全ての部屋のランプが点灯していた。そして、キリコと辰巳が入った手術室のランプも点灯した。
辰巳が担当することになった子ども達の中には幸い酷い状態の子はいなかった。それでも何人も、順番に処置を施し、皆に話しかけ、励まし、確実に1人ずつ退室させていく。最後の1人は中学生くらいの少年だった。この中で一番年長だからかずっと泣きわめくのも耐えていたが、恐怖と混乱で顔は真っ青だ。
「ヘイ、ボーイ。」
ドアが開閉し、キリコが入って来た。隣にも沢山の患者がいた筈だ。
「待たせたお詫びだ、お前にいいものをやりに来たぜ。」
「キリコ、隣は?」
「そんなのとっくに処置したさ。何のために患者を割り振ったと思ってる。ここが戦場なら処置の手遅れより先に銃弾で死ぬぜ。それを避けるためなら俺は何と言われようと容赦しねえよ。」
一瞬浮かべた冷やかな笑みに辰巳はぎょっとしたが、少年の治療が先決だ。
「隣の大人たちは痛いだのもっとじっくり検査してからやってくれだの何だのと大騒ぎさ。なのにお前はよく耐えた。ご褒美にとっておき一番をやるよ。苦しくない治療だ。」
言うが早いか、キリコが何かの薬を投与した。毒と薬は表裏一体。完璧に計算された量の麻酔を注入し、処置にあたる。とっておき一番はそのついでだ。
「足の怪我終わったら、丸刈りにでもして、で、血液全部交換するくらい綺麗にしてやる。」
「血液までかい?」
「ああ、薬やってる。入院してスッキリサッパリそんなもんとは縁を切ることだ。」
「どうして分かる?」
「俺が何の専門医なのかは昨日の内に調べたんだろ?思い出せないのはスッキリしないからな。少なくとも、薬物についてはここの誰よりも知ってるつもりだ。」
「それでも入院中に禁断症状が出るんじゃないか?」
「表で手に入るようなモンならたかが知れてる。そんなものは出ないようにしてやるよ。それが俺からのとっておきだ。」
酷い目に遭った、とキリコと辰巳は諸々の手続きを済ませて病院を後にする。時刻どころか日付すら変わっていたが、辰巳は全く眠気など感じていなかった。
「僕、キリコが麻薬の専門医だなんて知らなかった。」
「そりゃ、そうだろうな。」
そんな事は初めて言われた、とキリコは笑った。麻薬専門になった覚えはない。
「俺をなんだと思ってたんだ。」
「安楽死を請け負う闇医者だって聴いたよ。」
「ああ、それならよく言われるな。」
既にどこかの店で飲もうか、なんて時間ではない。タクシーで帰るか近場のホテルに泊まるかの選択をする時間だ。
「でも全く危ない奴には見えないし、救急救命の専門みたいだったじゃないか。あ、でも最後の少年の治療の時に入って来た時は流石に怖かったな。」
「どういう意味だよ。」
「僕達殺されちゃうのかって。」
「なんであの場でそうなるんだ。」
「だって、容赦しないとか言うから。」
ああ、あれか。身に覚えもあり、言葉の取り違えをどこから説明しようかとキリコは思案した。
仕事を終えたキリコはともかく辰巳は翌日も仕事だ。もう時間も遅い。
「はあー。お腹空いたよ。」
「メロンパン齧ってただろうが。」
「流石にメロンパンとカフェオレじゃ、キツイ。こんな時は、屋台でラーメンかおでんでも食べたくならないか?」
いつの間にカフェオレなんて飲んでたんだ。大人しく帰って寝たらどうだ。言いかけて、やめる。
徐に辰巳が着替え一式詰まった大きな鞄をがさがさして、キリコを振り返った。
「それか近場に泊まる事にして、メロンパンとか食べる?」
「やけにでかいなと思ったんだその荷物。」
辰巳は買い物だけ済ませて、キリコの泊まっているホテルの別の部屋を取った。病院も近く、話もしやすい。一石二鳥だと買い物袋から中身を出して並べる。
シャワーを軽く浴びて汗を流し、タオルを下げて涼んでいれば程なくしてキリコがやってきた。
「何か飲む?」
「ワインでいい。」
「うん、はい。」
部屋に備え付けの硝子のコップを2つ持ってきて片方にワインを注ぐ。もう片方にはビール。
ワインとビールでお互いを労い、乾杯すると、唐突に辰巳が言った。
「色気がなくてごめんね。」
「何でだ?」
「シャワーも浴びて、なのに男2人で居るなんて、何だか貴方の印象に合わなさ過ぎて。」
「アンタは明日も仕事だろう。不衛生なのは戴けない、そんだけのことだろ。それにベッドの上に何から何まで並べといて色気だと?よく言うぜ。オンナ相手でもこんなことするのか?」
「いや、流石にそれはない。と、思いたい。」
それから幾らか他愛のない話をした後、キリコの方から先の話の続きを切りだした。
「昼間の、容赦しない、ってのは、別に何か恐ろしい事をしようって訳じゃない。」
「分かってるよ。キリコは彼らを救ってくれた。」
「治せる患者は治す。」
その為なら誰の心にも寄り添わず、誰の声も無視して、効率だけを考えて作業に専念する。それはキリコが得意とするスタイルだった。
味方はもちろん、敵兵ですら。運び込まれた患者の状態をスキャンし、苦しもうが騒ごうが場合によっては後回し。投げれる分は誰かに投げて次のアプローチへ移る。自身が治療を施せばろくに会話もなしに次の患者へ。次から次へとキリコは疾走した。
「だが、治したって掻っ攫われる事もあった。治せと言われたから治したのにだ。敵兵に対して尋問する為に治させるのは、まあ理解出来る。」
キリコは煙草に火を付け、手酌でワインを注ぎ足し、辰巳のグラスにもビールを注いだ。ふうー、と長く煙を吐き出す。
「拷問まではまだとりあえずよくあることだとする、胸糞悪いがね。しかし挙句死なせるってのは戴けない。許し難い。だから先に俺がやった。寧ろ、なにもやらなけりゃ良かったのかもしれないがね。」
「そこで安楽死を?」
「いや、俺は軍医だったが軍師としても超一流だったのさ。現場に居合わせた奴らから知識を教えられると共に策を練り、高確率で殲滅戦を成功させた。早く楽に死ねる。ま、治して拷問して時間をかけようが苦しませようが、一瞬で苦しみが少なかろうが、結局一番戴けない結果になっちまってたんだがな。」
治せる患者は治す、殺す時は殺す。治すか殺すかのどちらかをチョイスし、キリコはそれを遂行する。容赦なく。
ビールでは余りにも重い。辰巳は渇いた喉を一気にビールで潤し、グラスを漱ぐこともせず今度はワインを注いだ。
「まったく安楽さが感じられないんだが、本当に安楽死の専門なのかい?」
「殺しのスペシャリストに見える、ってか。確かに殺しをさせればかなりの腕利きだろうな。だが、安楽死は本当だ。」
「まだ殺し屋の方が納得出来るんだけどなあ。今の話で安らかな最期を患者に寄り添う姿が一気に想像できなくなっちゃったよ。」
失礼な奴だな。と言いながらも悪い気のしないキリコは笑っていた。
翌日、辰巳が出勤すると個室に入院していた青年が自然死したという話が耳に入って来た。重篤患者は沢山いるし、昨日死亡した患者も他に居る。だが、辰巳にはそれがキリコの仕業なのだとすぐに分かった。
まだ話せていた時は仕事に復帰したい事や、やりたい事などを語っていた。意志の強そうな印象の青年だった。そんな彼が、通りかかるたびに意識が定かでなかったり混乱していたりするようになり、やがては唸り声だけになった。家族だって、見ているだけで辛かっただろう。その内の誰かが依頼をしたのか、意識が生きていた内に本人が依頼をしたのか、真相は分からない。
眠い目を擦って、アイスコーヒーを一気飲みした。ほぼ語り明かしてしまった為に睡眠不足は否めないが、それによって気が立ったり散ったりということはなく、何故か穏やかだった。眠いが意識は冴えていて、感情の起伏は平坦で、仕事には文句のないコンディションだ。
1日を乗り切れば、旧友に会える。というのもあったが、俺は寝る、ともう一泊を決めたキリコによるものだ。飲んで喋って楽しくなり、仕方ないからお開きになった時、それはもう楽しそうな顔をしたキリコが別れ際に軽くキスしていったためだ。ごく自然な流れの仕草で、性的な雰囲気などは一切感じなかった。だから挨拶に違いない、と思おうとするも頬にでなかったのがどうにも不思議だ。そんな不可解な状況ではあるのだが、何故か急に心が和んだのだ。何とも不思議だが事実は事実。慌ただしい数時間も、キリコの暗い過去の話も、どちらも現実であった筈なのにそれらを一瞬でふわりと取りはらってしまった。
恋だったらどうしよう、呟いてぶんぶん頭を振る。しかしそうして払拭したつもりの思考は、駄目だきっと叶わない、などと口にしていた。更には眠いからもう1日だけ泊まってから帰ると言ったキリコを思い出し、会いに行こうかな、と再度の独り言に今度こそ辰巳は驚いて、どこへともなく走り出した。とりあえず病院の外周を走っていれば落ちつく気がした。いや、したかった。
仕事終わりに昨日の事故での患者達の顔を見て回ると、大体の人はほぼ検査入院で退院の用意をしたり、既に退院した人もいた。順に回って、最後に例の少年のいる部屋へ行くと、青い顔をしていた。
「大丈夫かい?」
「あ、辰巳先生。昨日はありがとう。気持ち悪かったり、苛々はするけど、事故に比べればなんとかなる、ような。」
「本当に大変になったらあの先生に貰った薬を飲むんだよ?」
「はい。」
「じゃあ、おやすみ。また明日。」
設備の整った大きな病院だ。BJへの依頼人はここの入院患者で、病院から内密に依頼があった。というのも辰巳が取り持ったからだ。
喫煙可能な部屋を宛がってもらい、煙草に火をつける。早く実際に会って状況を確認しなければ、と頭の中で行動表を立てていると足音が聴こえてきた。その忙しない足音にBJは心当たりがあった。
「久しぶりだな間。君のお陰で今はここにいるんだけど、前とは全然違うよ。凄くいい。」
「そうか。なによりだ。」
「ところで君、ドクター・キリコを知っているかい?」
「何だって。あいつが来たのか、もう誰か殺したのか!?」
「え、ああ。来たよ。一昨日の事故で搬送された患者を片っ端から治療して、今朝発った筈だよ。」
これは、一昨日の自然死の件は話さない方がいいタイミングである。鈍い辰巳にそれが分かったのは、キリコのアドバイスのおかげだ。BJ限定で、血圧が上がっていそうな時には刺激のある話を極力控えてより平和的な話に努める事、と言い残したのを実行したに過ぎない。
「他に、何かしていかなかったか?」
いや、それに、疑わしくかつ限りなく真実であろう仮説を辰巳は持っていたが、証拠もないのだからキリコ以外には何も分からないのだ、あくまで仮説なのだ、と判断しておいた。
「僕と一晩中話をしたくらいだよ。」
「君と?一体何の話をしていたんだ?」
「それは、秘密。」
なんてわけにはいかないんだよね、君の場合は。と辰巳は困ったように笑い、オペの後でね、と時計を見た。そろそろ時間が迫っていた。
アクシデントに見舞われる事も無く、手術は無事に終わった。だが、もちろん容易ではないし、時間もかかった。正午に始めたのが、既に夜中だ。
時間を意識した途端、BJは眠気を覚えた。とりあえず荷物を取りに元の部屋へ戻ると、明かりがついていて、ドアを開けば辰巳が本を読んでいた。
「やあ。長かったね。お疲れ様。」
「どうしたんだ?」
「君だろ、キリコとの話を聴きたいって言ったの。そんな事、すっかり忘れてたと思うけどね。思い出して明日の早朝から来そうじゃないか、君。」
流石にそんなことはしない、とは言い切れないBJは肩を竦めて見せた。
辰巳がインスタントのコーヒーを淹れ、夜勤の必需品だよ、とテーブルに2つ並べた。
「本当は、ワインがいいんだけどね。」
キリコの話は重かった。ワインなんて1年で総量1本飲むか飲まないかというくらい飲まない辰巳が、2本も空けてしまうほどの重さだった。それは辰巳が、こういった残酷な話とは縁のない一般市民だったからであって、BJにとってはなるほどと聴いてしまう話なのかもしれなかったが、それでもコーヒーのカップを掴んで、どこから話したらいいのか考えていた。
「口止めでもされたのか?脅されているとか、何かされたのか?」
「そんなに彼の事が気掛かり?何かってまあ、キスはされたけど。」
言ってしまってから暫くして、あ、と気がつく。幸いBJからの突っ込みは未だないが、これは言わない方が良い話題にカテゴライズされていた筈だ。しかしそれを決めたのは辰巳自身なので、BJが激昂、興奮して血圧が上がっている気配がないのだから言っても良かったのかもしれない。そう思って安心して顔を上げるが、しかし辰巳が見たのは引き攣ったまま固まっている旧友の顔だった。
「は、間?」
辰巳がそっと話しかけるも、どうにも声が届いていないのか、BJは意識が飛んでいるような、心ここに在らずのフリーズ状態で、別の意味で失敗したようだと気付いた。キリコの話題になった途端怒っているような様子を見せていたが、少し違う。怒っていると言うよりは、混乱で意地っ張りが拗ねている顔だ。
君、酔っ払ってないよね。なんて聴く必要はない。酒などなくともBJがヒートアップすれば簡単に色々とぶっ飛ぶ人間だということはよく知っていた。
「キリコが、辰巳に、き…そんな。」
考え始めると周りが見えなくなるのは昔から。騒ぎ始めないのなら問題もない、これもいつものことかと
辰巳は友人の事は一先ず放置する事に決めた。もう一度BJの珍妙な表情を眺め、伏せた本を拾い、コーヒーと入れ替えに脇に寄せた茶を啜った。
