「置いていく。」
海馬邸のエントランスで、家主が言った。
執事は、瀬人の斜め後ろに立つ小柄な人物を見た。ツンツンした髪。強い眼差し。
仕事をしようとしたが、荷物を持っていなかった。
「あの、お客様のお扱いは。」
「好きにしろ。」
瀬人はそれだけ言うと、書斎へ消えた。エントランスには、執事と、置いていかれた人物だけが残った。
「……すまない。俺にも、状況がよく分かっていないんだ。」
置いていかれた側が先に謝った。執事は、40年の職歴で初めて、客より先に客に気を遣われてしまった。
その夜、使用人一同の会議が開かれた。
議題「あの方は何者か」だった。
判明している情報はかなり少なかった。
名はアテム。
雇用主が連れてきた。
雇用主は敬称なしで名を呼ぶ。
そして、雇用主は「好きにしろ」と言った。
「好きにしろ、が一番困るのです。」
メイド長の言葉に、全員が頷いた。あの家主の「好きにしろ」には、「間違えたら分かっているな」と同じ意味と圧が含まれているからだ。
協議の結果、一旦の方針が決定した。
──迷ったら、上に間違える。
格下に扱って事故を起こすよりは、格上に扱って恐縮される方が被害は少ない。
どこまで格上として扱うかについて話し合い、国賓対応で行けば事故らないだろう、というのに満場一致で頷いたのだった。
国賓対応は、初日から破綻した。
まず、客間だ。当然、邸で最上級の客間が用意された。広さはもはや体育館に近かった。
アテムは初日の朝、寝室から浴室へ行こうとして迷子になり、廊下で若いメイドに保護された。
「すまない。この部屋は、内部に地図が要るようだ。」
「た、ただいまお作りします!」
「いや、冗談で言ったんだが。」
しかし、翌日には客間の全ての扉に案内プレートが設置された。
冗談は通じなかった。
次に、バスルーム。浴室に入ろうとしたアテムに、使用人が3人ついた。
「お背中を。」
「お召し替えを。」
「お髪を。」
「待て。待ってくれ。冥界でも自分で洗っている。」
冥界、という単語に3人が固まったが、アテムはとりあえず全員に廊下へ出てもらった。
しかし、用意されていたバスローブは瀬人のサイズだった。着ると裾が床に届き、袖から手が出ない。仕方ないので、アテムは無言でそれを着た。
この体たらくについては、王の沽券に関わるので、誰にも言わなかった。
翌日、アテムのサイズのバスローブが7着届いていた。言わなかったのだが、誰かは見ていたらしい。
食事は、もっと大変なことになった。
料理長は研究者だった。客の素性を執事から又聞きして「どうも、古代エジプトの、王?らしい」という胡散臭い情報を得ると、その夜から文献を漁った。
第18王朝の食文化。ナイルの魚。エンマー小麦のパン。蜂蜜と、無花果。
3日目の夕食に、とうとう再現メニューが出た。
アテムはパンを一口食べて、動きを止めた。
「……これは。」
「お口に合いませんでしたか。」
「いや、合う。合うんだが。」
「何でもリクエストしてください。」
アテムは、フォークを置いた。
「そうか……その、なら、普通のカレーを食べたい。」
料理長は衝撃を受けた。
受けたが、料理長は熱心な研究者だった。
翌日の夕食には「古代エジプト風カレー」が出た。カレーのどこが古代エジプト風なのかは分からなかったが、エンマー小麦のナンを添えられていた。
「違う。そうじゃない。普通のでいいんだ。普通ので。」
普通のカレーが食卓に上るまで、さらに2日を要した。
アテムはそれを3杯食べた。料理長は厨房で少し泣いた。研究より普通が勝った日だった。
そして、敬称問題もあった。
海馬邸の使用人には、業務連絡文書がある。その敬称欄が、崩壊しつつあった。
初日。文書には「お客様」と記された。
2日目。瀬人が電話で誰かに「あれは客ではない」と言っているのを、掃除中のメイドが聞いた。文書は「ご同居人様」に修正された。
3日目。執事が勇気を出して確認した所によると、瀬人の回答は「居候だ」だった。文書に「ご居候様」と書かれかけたが、そんな日本語があるのか、と使用人会議は紛糾し、保留となった。
4日目。2人目の家主が「アテムは王様だよ、あっちの世界の」と証言した。「王様」の欄が新設された。あっちの世界がどこかなのは、誰も聞けなかった。
5日目。アテムが暇を持て余して邸内を散歩していると、偶然だが警備の配置の穴を発見した。報告を受けた家主からの評は「あいつは監査対象でいい」に変化した。文書の敬称欄は、こんなことになっていた。
アテム様(客人/同居人/居候/王/監査対象 ※日によって変動)
もはや役職一覧だった。
6日目、アテムは手伝いを試みた。
世話になりっぱなしは、王の沽券に関わる気がしたからだ。
まず、食後の皿を下げようとした。すると、若いメイドが涙目で立ちはだかった。
「そ、それは私の仕事です。取らないでください。」
「取るつもりは。」
「お願いします。私の存在意義なんです。」
皿は死守された。
次に、庭へ出て庭師の剪定を眺めた。眺めていたら口を出したくなり、口を出したら手も出た。今度は止められなかったし、アテムの感性は、意外にも日本庭園にマッチしていた。庭師とだけは、話が合った。庭師は文書の敬称欄に「師匠」の追加を提案したが、却下された。
7日目、アテムはついに執事に直接尋ねた。
「聞きたいことがある。」
「何なりと。」
「俺はこの家で、何者として扱われているんだ。」
執事は、直立した。
「……私共も、それをアテム様にお伺いしたく。」
「俺に?」
「はい。」
「…………俺にも、分からない。」
執事は絶望した。本人が分からない正体を、使用人が分かる筈がなかった。
その夜の夕食。長いテーブルの端と端、ではなく、角を挟んだ隣同士の席で、アテムは切り出した。
「海馬。」
「何だ。」
「この家の者たちが困っている。」
「何にだ。」
「俺の扱いだ。客か、居候か、監査対象か…と困惑していた。お前の答えが日替わりだから、文書の敬称欄が役職一覧になっているらしい。」
瀬人は、食事の手を止めなかった。
「アテムだ。」
「……それは名前だ。」
「それ以外に何が必要なのだ。」
「分類だ。この家には分類が要るらしい。」
瀬人はそこで初めてナイフを置き、アテムを見た。
「この邸の既存の区分に、お前に該当するものはない筈だ。」
考えているのか、少しだけ間があった。
「客は帰る。居候は何もしない。監査は終われば去る。どれも不正確だ。」
「……それで?」
「新規区分を作る。区分名、アテム。定義、アテム。以上だ。」
瀬人はナイフを取り直し、食事に戻った。
アテムは、暫く黙っていた。
既存のどの区分にも入れない。それはつまり、この男の世界で、帰る予定も、出ていく理由も、終わることも、設定されていないということだ。
本人は素直にそうとは言わないだろうが。
「……そうか。」
アテムは、口元が緩むのを、水を飲みながら誤魔化した。それはきっと、角を挟んだ距離では、見えていたことだろう。
翌朝の業務連絡文書は、以下のように改訂された。
敬称:アテム様
分類:アテム
会議は開かれなかった。全員が、とりあえず納得した。
若いメイドは日誌にこう書いた。
「本日より、アテム様はアテム様として扱うことになりました。理由はよく分かりませんが、全員納得しています。アテム様は今朝、カレーをおかわりされました。」
