大会優勝の副賞として与えられた「童実野町新築マンション・家賃1年無料」の有効期限――その運命のタイムリミットが、静かに迫っていた。
しかし、かつて違法建築アパートを追い出され、未払いの税金通知に怯えていた頃の「阿天 」の姿は、もうどこにもない。
今の彼は、海馬コーポレーション特別戦略顧問としての莫大な手取りと、プラチナカードがもたらす揺るぎない社会的信用 を手にしていた。格安SIMの通信制限に怯えることもなければ、ハローワークの場所を探して胃を痛めることもない。
仕事もプライベートも、恐ろしいほどの高効率で完璧に充実していた。
唯一、あの執念のライバル・海馬瀬人とのデュエルだけが、仕事の緊急トラブルやらデッキの不携帯やらで幾度となく先延ばしにされていたが、それすらも彼らの「変わらない日常」の心地よい余白となっていた。
そんなある日。アテムは久々に、社長室へと呼び出された。
重厚なデスクの向こうで、瀬人は書類のファイルを指でトントンと叩きながら、冷徹な眼光をアテムに向けた。
「アテム。お前が例の大会で手に入れた『1年間家賃無料』の契約更新期日が来月に迫っている。……今後の居所に関する事務手続きだ」
瀬人は手元の書類をアテムの前へスッと滑らせた。
「我が社が提供したあの部屋は、童実野町でも屈指の超高層・ハイクラスマンションだ。無料期間が終了すれば、来月からは当然、正規の家賃が発生する。……次はもっと身の丈に合った安いアパートへ引っ越すというのなら、それも自由だがな」
瀬人の言葉には、どこか試すような色が混ざっていた。
かつて「現世の生活苦」に摩耗し、めちゃくちゃな履歴書を書き、時給1,520円のコンビニ夜勤で死んだ魚のような目をしていた男の記憶が、瀬人の脳裏にも少なからず残っていたからだ。
しかし、アテムは書類に一瞥をくれると、自慢の高級ウォーターサーバーで淹れた水出し麦茶(マイボトル持参)を一口含み、どこまでも優雅に微笑んだ。
「何を言っているんだ、海馬。俺がなぜあの『聖なる領土』を手放さなければならないんだ?」
「……ほう?」
アテムは少しも躊躇することなく、更新の同意欄にサラリとサインした。
「今の部屋には何の不満もない。日当たりも良く、風の通りも素晴らしい。それに何より……俺の『丁寧な暮らし』の基盤が、あの部屋には完璧に構築されているからな」
瀬人は片眉をピクリと跳ね上げた。
ーー丁寧な暮らし、だと……?
瀬人のハイスペック脳内で、モクバや黒服たちから上がってきている「アテムのタワマン生活データ」が超高速でリプレイされた。
クローゼットに仕舞う概念が存在せず、全自動洗濯乾燥機から引き抜いた服をハンガーにそのまま吊るす「ローテーション完全自動化」。
高級な全自動調理鍋を手に入れながら、生の食材と麦茶パックを一緒に放り込もうとする狂気の家事力。
洗練されたハイクラスインテリアの中に、堂々と鎮座する「高級ウォーターサーバーで作った水出し麦茶」。
どこをどう切り取っても、あの最高級タワマンのスペックと絶望的に噛み合っていない、独特すぎるズボラ&型破りな「丁寧な暮らし(もどき)」。
当の本人だけが「俺は現世のライフスタイルを極限まで洗練させている」と本気で信じ込んでいるその図々しさに、瀬人は深い、本当に深いため息をついた。
「……フン、貴様のその狂った生活感があの部屋に見合っているとは到底思えんが……まあいい。家賃を滞納することなく払えるというのなら、好きにするがいい」
「当然だ。今の俺の手取り ならば、あの家賃は、毎月の自動ドロー で何ら問題なく支払える」
アテムはペンを置くと、自信に満ち溢れたファラオ・スマイルを浮かべた。
現世のシステムに押し潰されそうになっていたかつての男は、今やタワマンの正規家賃を自力で払い続ける「真の自立」を完璧に手に入れたのだ。
書類を回収した瀬人は、満足そうに頷くと、次にPCの画面に目を落とした。
「……ついでだ、アテム。我が海馬コーポレーションとの特別戦略顧問としての雇用契約も、ちょうど1年を迎える」
瀬人はキーボードから手を離し、組み上げた指の上に顎を乗せて、アテムを鋭く見つめた。
「どうする?1年前、貴様は『職務経歴書に我が社の名を刻み、無職扱いされないステータスを得るため』にこの契約を結んだはずだ。すでにその目的は達成された。我が社の名を背負った今、お前が他の有象無象の企業へ移ろうが、独立しようが自由だが……我が社でこのまま続ける気はあるか?」
ライバルを引き留めるような甘い言葉は一切使わない。どこまでもビジネスライクで、けれど確かな信頼を込めた瀬人の問いかけ。
アテムはフッと鼻で笑うと、腕を組んで背もたれに深く体を預けた。
「愚問だな、海馬。俺がこの城(海馬コーポレーション)を去る理由がどこにある?」
「……」
「お前の会社は、俺の能力を正当に評価し、最高の成果報酬を約束してくれる。福利厚生も完璧で、残業もなく定時で帰れる。何より……お前やモクバという、退屈しない最高のゲーム相手が常にいる場所だ」
アテムの瞳に、かつて古代エジプトを統治し、数々の闇のゲームを勝ち抜いてきたあの気高く、圧倒的に力強い光が宿る。
「俺は海馬コーポレーションの特別顧問を継続する。これからもお前の城で、最高のパフォーマンスを見せてやるさ」
瀬人の口元が、ゆっくりと不敵に吊り上がった。
「フッ……口だけは達者な奴だ。いいだろう!貴様が我が社に利益をもたらし続ける限り、相応の報酬とフィールドはいくらでも用意してやる!」
「ああ、期待しているぜ、社長」
契約更新のすべての手続きが終わり、アテムはスマートに立ち上がった。
「さて、手続きも済んだことだ、今日は定時で上がらせてもらう。今夜は我が家で、全自動調理鍋が召喚したカレーと、最高級の水出し麦茶を楽しむ予定だからな」
「貴様はどこまでも緊張感のない男だな……!いいか、来週こそは我が家の新型ホログラムフィールドのテストプレイだ!絶対に逃がさんぞ!」
「フッ、善処しよう」
どこまでも噛み合わず、けれどこれ以上なく完璧に噛み合っている二人の会話。
最高級タワマンでの「丁寧な暮らし(もどき)」も、海馬コーポレーションでの華麗なる無双劇も、まだまだ終わる気配はない。
現世のシステムを完全に自らのデッキへと組み込んだ古代の王は、最高の社会的信用と、確かな手取り、そして最高の宿敵を胸に、今日も誇り高く、自慢の「聖なる領土」へと帰路に就くのだった。
海馬コーポレーションの特別戦略顧問として、そして「丁寧な暮らし(もどき)」を極める一人の男として、アテムの現世ライフはまさに順風満帆そのものだった。
昼はハイスペック脳でバグを秒で粉砕し、定時になれば颯爽と帰宅。たまに城之内たちとの宴会で調子に乗って「二日酔い」という永続デバフを負った朝には、出社するとデスクの上に黙ってシジミの味噌汁とウコン、胃腸薬のフルセット(※磯野経由、差出人:海馬瀬人)が恭しく置かれている。
かつて退屈すぎて脱走してきたあの冥界の静けさとは打って変わり、現世の毎日は刺激と安心感、そして最高の「手取り」に満ち溢れていた。
そんなある休日。
アテムは久しぶりに遊戯、城之内、本田、杏子のいつものメンバーでカフェに集まっていた。
テーブルの上に並ぶジュースやパフェ(何故かアテムは、マイボトルから注いだ自慢の最高級水出し麦茶)を囲みながら、ワイワイと賑やかな雑談に花を咲かせていた時である。
「はぁ〜〜〜〜〜〜……っ!!」
突然、本田がテーブルに突っ伏し、地獄の底から響くような深い、深いため息を吐き出した。
「どうしたんだよ本田、急にデカい溜め息ついて」
城之内が呆れ顔でポテトを口に運ぶ。
本田は顔だけをヌッと持ち上げ、血走った目で仲間たちを見回した。
「……彼女が欲しい」
「唐突だな!」
「切実なんだよ!見ろよこのテーブルを!遊戯には杏子がいて!城之内には舞さんがいて!なんだよこのリア充空間は!俺のライフはもうゼロだ!」
頭を抱えて身悶えする本田。
そう、今の彼らのグループにおいて、遊戯と杏子、そして城之内と舞(※相変わらず口喧嘩は絶えないが)は、誰もが認めるオープンで睦まじい恋人同士の関係へと発展していたのだ。
本田はガバッと起き上がると、隣に座っていたアテムの肩をガシッと掴んだ。
「でも俺には……俺にはまだアテムがいる!なぁアテム!俺たち『恋人なし・フリー同盟』だよな!?お前がいてくれて本当に良かったぁ……!」
本田は感動に打ち震えながら、アテムを勝手に「仲間(ソロプレイヤー)」として認定し、熱い友情の握手を交わそうとした。
しかし。
「……え?」
「……いや、本田……」
遊戯、城之内、杏子の3人が、同時に微妙すぎる表情を浮かべて顔を見合わせた。
本田は握手をスルーされ、首を傾げる。
「なんだよみんな、そんな目で俺を見るなよ!実際そうだろ?ここでフリーなの俺とアテムだけじゃん!」
すると、杏子がちょっと言いづらそうに頬を掻きながら口を開いた。
「うーん……本田、気持ちは分かるんだけど。ね……?」
「なんだよ杏子」
「アテムの話を聞けば聞くほどさ……アテムと海馬くんの関係って、もう『それ』みたいなものじゃない……?」
「「「あ、やっぱり?」」」
遊戯と城之内が即座にコクコクと深く頷いた。
「はぁぁぁぁぁ!?待て待て待て!」
本田は目を丸くして叫んだ。
「お前ら正気か!?海馬だぞ!?あの海馬瀬人だぞ!?あいつら男同士だし、そもそも顔合わせりゃ『アテム!』『海馬!』ってバチバチやってるライバルだろ!?」
「いやいや本田、お前ちゃんと今までのアテムの話聞いてたか?」
城之内が指を折り折り、カウントし始めた。
「休日に海馬が車でタワマンまで迎えに来て、セレクトショップで服を全部コーディネートしてんだぞ?」
「服を買った帰りに、行列のできるスイーツ店を海馬が貸し切って二人でパフェ食べてたんだぞ?」
「アテムが『二日酔いだ』ってデュエル断ったら、午後にはデスクに二日酔い対策グッズがフルセットで黙って差し入れされてんだぞ?」
「……」
本田の顔から急速に色が失われていく。
「それにね、本田くん」
遊戯が苦笑しながら付け足した。
「この前もう一人の僕が『海馬に家賃無料期間が終わるから更新手続きで呼ばれた』って言ってたでしょ?普通そういうのって書類の郵送で済むのに、わざわざ社長室に呼び出して『我が社でこのまま続ける気はあるか?』って引き留めたんだよ?それに、もう一人の僕が『海馬コーポレーションを去る理由がない』って言ったら、海馬くんすっごく嬉しそうにしてたって……」
「え……それ、完全に『これからも俺の側にいろ』ってプロポーズじゃねぇかぁぁぁ!」
城之内が頭を抱えて叫んだ。
「くっそ!?聞けば聞くほど、海馬がアテムを自分の手元に置いて囲い込んで、至れり尽くせり世話焼いてるようにしか聞こえねぇんだよ!買い物の付き添いにパフェに体調管理って、それどこのスパダリだよ!」
「しかもアテムもアテムで、『海馬は普通に接すれば楽しい奴だ』とか言って、全く嫌がってないしね……」
杏子も遠い目をする。
本田以外の全員が、「アテムと瀬人の関係=もはや実質恋人のようなもの」に満場一致で一票を投じていた。
当のアテムはというと、みんなの白熱した議論を不思議そうに眺めながら、マイボトルからグラスへトクトクと琥珀色の液体を注いでいた。
「何をそんなに興奮しているんだ、みんな。俺と海馬は、互いの力を認め合い、高め合う対等な宿敵だ。……現世の『恋人』という定義は、些か過剰じゃないか?」
アテムは自慢の最高級水出し麦茶を優雅に一口含むと、至極真面目な顔で言葉を続けた。
「何しろ、あの男は俺が『最高級の水出し麦茶パック』をプレゼントしようとすると、毎回『いらん!!』と即座に一蹴してくるからな。恋人ならば、相手の真心の品をもう少し素直に受け取るもんじゃないか?」
「そこじゃねぇよ!!」
城之内、本田、杏子、遊戯の4人の完璧なツッコミが、カフェの店内に響き渡った。
「麦茶はいらねぇだろ誰だって!」
「海馬くんのツンデレはそこじゃないよ、もう一人の僕!」
「ちくしょう……ちくしょう!」
本田はテーブルに再び突っ伏し、涙目になりながら天を仰いだ。
「俺だけだ……!本当に孤独なソロプレイヤーは、この童実野町で俺だけだったんだ……!アテムのバカヤロー!海馬と末永くお幸せにな!」
「ん……?だから、俺と海馬は……」
首を傾げる元ファラオと、絶望する本田、そしてあたたかい(?)呆れ顔で見守る仲間たち。
冥界の退屈を抜け出し、現世のシステムを完全に攻略したアテムの充実は、今日も最高の友情と、本人たちだけが「無自覚」な最高級の絆に包まれながら、どこまでも賑やかに続いていくのだった。
残業の明かりがぽつぽつと灯る夜の海馬コーポレーション。
アテムは自分のデスクのタスクを定時通り完璧に攻略し、約束していた社長室へと足を向けていた。
今夜は珍しく瀬人からの誘いだったのだが、緊急の海外会議が長引き、予定の時間を大幅に過ぎている。
ーーフン……相変わらず城主というものは忙しないな。
そんなことを考えながら静かな役員フロアの廊下を歩いていると、前方にトレイに乗せた淹れたてのコーヒーを運ぶ秘書の姿が見えた。
「あ、阿天 顧問。社長へ御用ですか?今、ちょうど会議が終わられたところですが……」
「ああ。ちょうどいい、俺が持って行こう。これから部屋に入るところだ」
「助かります、よろしくお願いします」
丁寧にお辞儀をした秘書からトレーを受け取り、アテムは静かに重厚なドアをノックして社長室へと足を踏み入れた。
室内には、疲れを見せるどころか凄まじい覇気を発しながら端末の画面と睨み合っている瀬人の姿があった。上着を脱ぎ、シャツの袖を少し捲り上げたその姿は、相変わらず隙がない。
「海馬。あまり詰め込みすぎるなよ。働きすぎだ」
アテムは静かな足取りでデスクへ近づくと、湯気の立つコーヒーカップを瀬人の手元へそっと置いた。
瀬人は視線を画面から外さないまま、眉間を寄せて低く短く返した。
「……やかましい」
いつもの素っ気なく、突き放すような一言。
だが、拒絶の意がないことはアテムにも分かっていた。瀬人はそのまま迷いなくカップに手を伸ばし、一口口に含んだからだ。
ーー……ん?
その時、アテムのハイスペックな脳内で、突如としてある記憶の断片が繋がった。
ーー遅くまで働く男に、コーヒーを差し入れして『無理をするな』と声をかける……。そして素直になれない男が『やかましい』と返す……。
先日、部屋の高級テレビでなんとなく流していた現代の恋愛ドラマで、全く同じようなシチュエーションを見た記憶が鮮明に蘇ったのだ。
そして、それと重なるように、先日のカフェでの仲間たちとの会話が脳裏をよぎる。
『アテムの話を聞けば聞くほどさ……アテムと海馬くんの関係って、もう恋人みたいなものじゃない……?』
『買い物の付き添いにパフェに体調管理って、それどこのスパダリだよ!!』
ーー恋人、か
城之内たちの言葉を思い出していた時は「過剰な解釈だ」と一蹴していた。
しかし、今こうして静かな社長室で、自分の淹れた(持ってきた)コーヒーを飲みながらキーボードを叩く瀬人の横顔を見つめていると――。
トクン、と。
胸の奥で、今まで感じたことのない小さな高鳴りが弾けた。
ーー……なんだ、これは……?
カードをドローする直前の昂ぶりとも、神のカードを召喚する時の高揚感とも違う。
微かに熱を帯びる己の鼓動に気づき、アテムは思わずよれよれではない清潔なシャツの胸元にそっと手を当てた。
「……アテム?何をぼんやり立っている。座ったらどうだ」
コーヒーを置き、カップに指をかけたまま怪訝そうに自分を見上げてくる瀬人の鋭い瞳。
その視線と正面からぶつかった瞬間、アテムの胸のドキドキは、さらに確かな熱となって跳ね跳んだ。
「……いや。何でもない、海馬」
アテムは慌ててフッと不敵な笑みを繕うと、照れくささを隠すように背を向け、ソファへと腰を下ろした。
ーー現世の『恋人』というシステム……。案外、思っていた以上に奥が深いゲームなのかもしれないな……。
自慢の水出し麦茶のマイボトルを握り締めながら、どこか落ち着かない胸騒ぎを覚える古代の王。
静かな社長室に響くキーボードの音を聞きながら、アテムの現代サバイバルは、密かに新しいフェイズへと突っ込んでいた。
夜の社長室。
窓の外には、童実野町の広大な夜景が静かに広がっていた。
秘書から受け取ったコーヒーを渡したあの日以来、二人の間には、どこか不思議で、ほんの少しだけ心地よい変化が訪れていた。
アテムが少し遅くまで自席で作業をしていると、ふらりと現れた瀬人が黙って高級な焼き菓子をデスクの端に置いて去っていったり。海馬邸で新しいゲームの試運転をしている最中、少し寒そうにしたアテムに瀬人が何も言わず膝掛けを放り投げたり。
瀬人が仕事をしていると、秘書の代わりに定時退社が常のはずのアテムがコーヒーを持って来たり。放り投げられて散らかっている書類をハイスペックを有効活用して正しく分類したり。
お互いに特別な言葉を交わすわけではない。けれど、日常のふとした瞬間に差し出される小さな気遣いや、互いを気にかける視線。
それはかつて「宿敵」として火花を散らしていた頃とは違う、どこか温かく、胸の奥を静かに揺らすものだった。
「……ふぅ」
パソコンの画面が消え、静かな電子音と共に瀬人が椅子へ深く背を預けた。
今夜のタスクが、すべて完璧に終了したサインだった。
アテムはソファから立ち上がると、自慢の最高級水出し麦茶のボトルを手に、ゆっくりとデスクへ近づいた。
静まり返った部屋。外のネオンが、瀬人のシャープな横顔を優しく照らしている。
アテムは瀬人の手元を見つめながら、ふと、胸の中に溜まっていた言葉をポツリと口にした。
「……なんか、こういうの、恋人みたいだな」
静寂の中に落ちた、あまりにもストレートで、けれど飾らない一言。
瀬人の動きが止まった。
ゆっくりとアテムへ向けられた鋭い眼光。瀬人はフンと鼻で笑い、いつもの呆れたような調子で言い放った。
「……くだらん」
一蹴するような、冷たい言葉。
けれど、そこには拒絶の色も、激しい否定の響きもなかった。
「くだらん」と吐き捨てながらも、瀬人自身、その言葉が決して的外れでも、大きく外れてもいないことを、どこかで理解しているようだった。
言葉とは裏腹の、どこか柔らかい空気。
ふと、二人の視線が正面からぶつかり合った。
静寂が二人を包み込む。
瀬人の真っ直ぐな瞳を見つめていたアテムは、己の胸の奥から込み上げてくる愛おしさと照れくささに耐えきれず、
「……ふ」
と、小さく口元を緩めて吹き出した。
あまりにもアテムらしい、どこか楽しそうな笑い声。
それを見た瀬人は、呆れたように天を仰ぎ――そして、少しだけ遅れて、
「……フッ」
と、声を殺して小さく笑った。
いつもの不敵な高笑いでも、相手を見下すような嘲笑でもない。
ただ、目の前の男を受け入れた者だけが見せる、穏やかで静かな笑み。
窓の外のネオンが、二人の横顔を静かに彩っていく。
言葉による宣誓も、契約書へのサインも必要なかった。
現世のシステムを勝ち抜き、手取りと社会的信用を手に入れた元ファラオと、世界の頂点に立つ天才社長。
互いを唯一無二と認め合った二人の間に、また新しい、けれどどこまでも必然だった「関係」が誕生した瞬間だった。
