視えてしまうものから目を逸らすために、瀬人はアテムのためだけの「視界」を設計した。
海馬邸の朝食は時間が早い。瀬人に合わせて使用人が整え、その端の席に、先月からもう1人分の皿が増えた。
アテムは席に着く前に、一度だけ窓の外を見た。庭の芝が朝露で光っていた。それを眺めているようで、視線の焦点はガラスの辺りにあった。
「コーヒーでよろしいですか。」
使用人の問いに、少しの間があった。
「……ああ、頼む。」
「遅い。」
タブレットで何かを開いたまま瀬人が言う。
「考えていたんだ。」
「コーヒーかどうかの二択にか。」
アテムは、それには答えずに、置かれたカップに口をつけた。
「熱い。」
小さく息を吐く。その仕草は生者のものだ。熱さに舌がヒリつき、香りを吸い込み、カップの重みが手にある。そういうことを、アテムは一つずつ確かめるように行う。戻ってきてから、ずっとそうだった。
「今日は社に来るのか?」
「行く。約束しただろ。」
「お前が勝手に決めたのだがな。」
「勝手じゃないぜ。お前は拒否しなかったからな。」
「ふん、そうか。」
言いながら、瀬人はページをスクロールした。
アテムの視線が、ふ、と横に流れた。
タブレットでも、瀬人でも、使用人でもない。テーブルの端、誰も居ない席の辺り。一瞬だけそこを見て、すぐに戻る。
それから、アテムはパンをちぎり、何事もなかったように続けた。
「昼までには片付くのか?」
「いや。片付く仕事量なら俺がやる意味がない。」
「相変わらずだな。」
「お前が居た頃からそうだろう。」
居た頃、という言葉に、アテムは薄く笑った。もう1人の遊戯としてこの街に居た頃の話だ。あの頃と今とでは、同じ「居る」でもかなり違う。
瀬人はタブレットから目を上げなかった。ただ、ページをスクロールする指が、先ほどから同じ所で止まっている。
アテムがカップを置く。ソーサーに触れる直前、動きがほんの少し減速した。皿の位置を変えた。その程度のことだが、この食堂ではもう、朝から3つ目だ。
「アテム。」
「何だ?」
「いや。」
瀬人は画面を落として立ち上がった。
「時間だ。出るぞ。」
「ああ。」
アテムも立ち上がり、食堂の出口へ向かう。廊下では、右側に寄って歩いた。左側には何もない。壁と、飾り棚と、その手前の空間があるだけだ。
瀬人はその背中を見ながら歩いた。
何もない、というのは、瀬人の目で見た場合の話だった。
車の中で、アテムは練習をしていた。
窓の外を流れる街並みを見る。信号待ちの交差点で、歩道に人が立っている。学生、老人、犬を連れた女の人。その中に、いくらか多いものが混ざっていた。
──視える。
輪郭は曖昧で、色は薄い。生者のように光を返さない。ただそこに佇み、ゆっくりと同じ場所を回り、或いはじっとこちらを、車の中のアテムを見ている。
存在しない、とアテムは自分に言い聞かせる。
正確には、存在はしているのだろう。だが現世の側には属していない。生者には視えず、触れられず、干渉しない。つまり現世の理においては、存在しない。だから、無いものとして扱う。それが現世で生きる者の生き方だ。
アテムもそれを理解している。
問題は、視線が合うことだった。
交差点の隅に立つそれが、こちらを見る。アテムにはそれが視える。だから目が合って、アテムの体は反応する。
それが誰であれ、何であれ、こちらを見る者から目を逸らすことを、アテムはしたことがない。
向き合う。それがアテムだった。敵であれば受けて立ち、助けを求める者であれば応え、問いには答え、視線には視線を返す。ずっと、そうしてきた。
それが今は、目を逸らす練習をしている。おかしな話だった。
視界の端にそれが入ると、焦点を合わせないようにして輪郭を背景の一部として流す。街路樹と同じ、電柱と同じ、ただの風景だと思うようにする。
呼吸を変えず、視線の速度を変えず、何も視えていない者と同じ目の動きを体に覚えさせる。
3秒、保った。だが、それが動いて、こちらへ寄った。
アテムの目は、視線を合わせてしまった。
──また、だ。
それは何も訴えなかった。ただ見ていた。縋るでもなく、恨むでもなく、視える者を見ているだけ。
敵意なら弾けばいい、哀願なら応えるか断るかを選べる。だが「ただ見ている」ものに対して、アテムの中には、要は手札がない状態なのだ。無視という手札が有効なことを分かっていながら、それがどうしても使えない。
信号が変わり、車が動いた。それは流れて視界から消えた。
存在しないものとして扱う。応えないことは、切り捨てることではない。あれは自分が背負うものではない。民ではない。自分は王ではなく、ここでは1人の──
1人の、何なのか。
そこで毎回、分からなくなる。
「着くぞ。」
瀬人の声で、アテムは窓から目を戻した。
「ああ。」
「今日は会議が二本ある。応接で待て。読みたければ資料をやる。」
「お前の会社の資料を、部外者が読んでいいのか。」
「読んで理解出来たら部外者扱いをやめてやる。」
「言ったな。」
アテムは口の端で笑った。いつも通りの応酬。いつも通りの声。それが出来ている間は、自分が上手くやれていると思っている。
瀬人は先に車を降りた。降り際に、一瞬だけアテムの目を見た。
いつも通りの顔をした男の、目だけが疲れていた。視力が良すぎるために都会で目を酷使したような顔。
瀬人はまだ、何も言わなかった。
夜。書斎にアテムが来た。
瀬人が呼んだのだ。会議の合間に一言、「夜、書斎に来い」とだけ言った。理由は言わなかったし、アテムも訊かなかった。
書斎は静かだった。デスクの明かりと、壁際のランプ。瀬人はデスクの前ではなく、窓際の椅子に座っていた。向かいにも椅子が置いてある。最初からそういう配置だった。
「座れ。」
アテムは座った。部屋に入ってから座るまでの動線は、今夜は真っ直ぐだった。この書斎の中には避けるものがないらしい。瀬人はそれも黙って記録した。
「資料は読めたのか。」
「半分。お前の会社は略語が多すぎる。」
「覚えろ。3日やる。」
「2日で足りる。」
「ならばそれでいい。」
会話が途切れた。瀬人は敢えて途切れさせたままにした。
沈黙がこの男の交渉術だと、アテムは知っている。だが、今夜は沈黙を選んだ。窓の外の暗い庭を見ているようでいて、焦点はガラスのこちら側にあった。
瀬人が口を開いた。
「何に怯えている。」
アテムの視線が戻り、真っ直ぐに瀬人を見る。この目はいつでも真っ直ぐで、それは変わっていない。
「怯えてはいない。」
即答だった。強がっている様子はない。
瀬人は頷いた。そして問いを変えた。
「なるほど。では、何を見ている。」
アテムの目が揺れた。
真っ直ぐなまま、逸らしはしない。ただ、瞳の奥がほんの一瞬だけ。
図星を突かれたようでもあり、訊かれることを、どこかで待っていたような様子だった。
「……気付いていたのか。」
「朝食の時に、無人の席を見る。廊下は右に寄って歩く。車では決まった交差点で窓の外を見て、数秒ごとに目の動きが崩れる。ソファの端に座らない。エレベータに乗るのを躊躇う。まだ挙げるか?」
「いい。」
アテムは短く言って、息を吐いた。
「……いつからだ。」
「初日からだ。」
「ずっと、黙っていたのか。」
「お前が言わないからだ。」
責める口調ではなかった。誰のせいでもないのだ。
アテムは膝の上で手を組んで、少しの間、自分の手を見ていた。3000年前に死んだ手であり、今はカップの熱も、パンをちぎる感触も分かる手でもある。
死んでいて、生きている。どこから話を始めればいいのか、アテムは順番を探していた。
瀬人は待った。
「視えるんだ。」
やがて、アテムは言った。
「お前達には視えないものが、俺には視える。」
瀬人は頷きも驚きもしなかった。ただ椅子の背から体を起こし、聞く姿勢は見せた。
「続けろ。」
「死んで、還って、それから戻ってきた。その順番が問題なんだろうな。」
アテムは話し始めた。言葉を選びながら、しかし止まらずに。
「相棒のもう1人としてここに居た頃は、視えなかった。あの頃の俺は記憶のない魂で、相棒の体を借りていた。生者の目で世界を見ていたんだ。だから知らなかった。一度冥界に還って、死者として境を越えて戻ると、目が、向こうのままになるらしい。」
「向こうのまま?」
「死者の目だ。味も、熱も痛みも分かる。だが、目だけが、まだ半分、冥界の目で視ている。」
「何が視える。」
瀬人の問いは短い。診察のような問い方だった。どこが痛む、いつから、どういうときに。感情を挟む余地を作らない。アテムには、今はそれが一番ありがたい訊き方だった。
「……渡っていないもの。」
「死者か?」
「死者と呼んでいいのかも分からない。冥界で会う死者とは違う。冥界の死者には顔と名前もある。生活をしている。俺がこっちで視るものにはそれがない。輪郭が薄くて、色がなくて、同じ場所に留まっているだけの…渡るべきものが、渡らずに残っている。そういうもの、としか言えない。」
「数は。」
「多い。お前が思うより、ずっと多いぜ。交差点にも、廊下にも、この屋敷にも。」
「この屋敷のどこだ。」
即座に訊いた。だが、恐怖からというより、物件の欠陥を確認するような声だったので、アテムは少し笑いそうになって、やめた。
「食堂の、東の端の席。2階の廊下の左側、飾り棚の前。あとは、庭に、2つ。」
「害は。」
「ない。何もしないし、触れも話しかけもしてこない。ただ、居るだけだ。」
「ならば、問題は実害ではないか。問題は、お前がそれを無視出来ないことだ。」
アテムは黙った。沈黙が答えだった。
そして、ゆっくり口を開いた。
「そうだ。存在しないものとして扱えばいい。頭では分かっている。あれは俺に何も求めていないんだ、応える義理はない。だが、目が合うんだ。」
組んだ手に、僅かに力が入った。
「視えれば目が合う。目が合った相手から視線を外すことを、俺はやったことがない。誰が相手でも、何が相手でもだ。それが……。」
「お前だからだろう。」
瀬人が引き取った。アテムは顔を上げた。
「決闘者は目を逸らさん。王は民から目を逸らさん。お前はそれで通してきた。今さら目だけが言うことを聞く筈がなかろう。」
「……うん。あれは俺の民じゃない。全部分かってる。だが、視界の端にあれが立つと、体が向き合おうとする。それを抑えるたびに、何かを見捨てているような……。」
そこで言葉が切れた。言い過ぎた、という切れ方だった。アテムは息を整え、口調を戻した。
「すまない。お前に言うことじゃないな。」
「何故だ。」
「視えないものの話だぜ。確かめようがない。信じろと言う方が無理がある。」
「信じるかどうかの話はしていない。」
瀬人は背を伸ばしてから椅子の背にもたれた。
「お前の行動には一貫した偏りがある。偏りには原因があるものだ。お前は今その原因を説明した。説明は観測事実と矛盾しない。以上だ。俺が信じる必要はどこにもない。整合していればいい。」
アテムは瞬きをした。それから、ゆっくりと息を吐いた。長い息だった。
「……呆れた。お前、相変わらずだな。」
「それが俺だ。」
「疑わないのか。俺の頭がおかしくなったとか。」
「おかしくなった人間は、視えるものに向かって喋り出す。」
「一理はある。」
「一理しかないと思うのなら納得しろ。」
アテムは今度こそ、少し笑った。この書斎に入ってから初めての、力の抜けた笑い方だった。
瀬人はそれを見て、デスクから一冊のノートを取った。表紙に何も書いていない、新しいノートだった。
「場所を言え。この屋敷の分から全てだ。」
「……何をする気だ?」
「地図を作る。」
当然のことのように、瀬人は言った。
ノートは初めの週で10ページが埋まった。
書いているのは瀬人だ。アテムに逐一報告させる方式は初日で捨てた。報告のためにあれらを注視させるのでは本末転倒だ。代わりに瀬人は、アテムを見ることにした。
視線が流れた方向。歩行の逸れや動作の減速。着席位置の選択まで。それらが起きた時刻と場所を、瀬人は記録した。会議の合間に、車の中で、食事をしながら。元々、人間の挙動を読む男だ。交渉相手の瞬きの回数から嘘を拾う目で、アテムの1日を拾った。
アテムはすぐに気付いた。
「……俺を観察してるだろ。」
「今更か。」
「悪趣味だぜ。」
「お前に訊くよりも精度が高い。お前は自分が避けたことに気付いていない場合がある。今朝は廊下の飾り棚で、右に寄る前に一度立ち止まった。」
「……そうだったか?」
「そうだ。」
アテムは反論をやめた。代わりに、瀬人の観察に協力するでもなく妨げるでもなく、ただ普段通りに過ごすことにした。普段通りにしていれば勝手にデータが溜まっていくからだ。悪くない感覚だった。隠す努力も、取り繕う必要もない。この屋敷の中では、アテムは目を逸らす練習の他に何も自分を抑えなくて良かった。
翌週。
瀬人は屋敷の見取り図を出してきた。書斎のデスクに広げ、記録を突き合わせて印を付けていく。アテムは横からそれを眺めていた。
「……こうして見てみると、多いな。」
「だが、法則はある。」
瀬人はペンの反対側で図面を叩いた。
「端だな。部屋の中央には殆どない。壁際、角、柱の陰、家具の裏。通路ならば幅の狭い側。開けた場所を避けている……いや、溜まっているのか。水と変わらん。流れの弱い場所に溜まる。」
「……言われてみれば、そうだ。冥界でもない、現世でもない。行き場のないものが、流れの淀みに残る。」
「外のデータもある。交差点では隅、ビルの入口では柱の脇、例外は墓地や病院付近、事故の起きた場所。ここは中央にも居る。密度も高い。理由は考えるまでもないな。」
「お前、この1週間でそこまで……。」
「3週間だ。ここに書く前から観察していた。」
アテムは図面を見下ろした。自分がずっと目を逸らすことだけに費やして、それでも掴めなかったものが、そこに線と印で置かれている。視えない男が描いた、視える者の地図だった。
「法則が分かれば予測は可能だ。目が合う前に視界の置き方を決めろ。廊下は右、食堂は西側の席、車では進行方向の遠くを見ろ。開けた場所では正面だけ見ていればまず居ない。不意打ちさえ減らせば、お前のその練習とやらの成功率は上がる筈だ。」
「………。」
「何だ。」
「いや。」
アテムは首を振った。それから、図面の上の印を指でなぞった。食堂の東の端。毎朝、視線が流れていた席。
「助かる、と言おうとしたが、少し違うな。」
「何がだ。」
「助かる、じゃ足りない。」
それ以上は言わなかったし、瀬人も訊かなかった。ノートを閉じ、図面を畳み、「明日から試せ」とだけ言った。
その夜、アテムは廊下を歩きながら、飾り棚の前で右に寄った。いつもの回避だった。ただ、いつもと違うことがあった。少しずれるその動きを、今夜は誰かの設計に沿って行っている。1人で目を逸らすのと、預けた上で逸らすのとでは、同じ動作でも重さがまるで違った。
見捨てているのではない。手順に従っているだけだ。
そう思える夜は、初めてだった。
効果は数字に出た。
瀬人のノートには、いつからか正の字が並んでいる。1日のうち、アテムの動作が崩れた回数だ。初週は平均15。地図を渡した週は9。その次の週は6まで落ちた。
「昨日は6だ。」
夜の書斎で、瀬人がノートを開いて言った。
この会議も定例になっていた。週に2度ほど、夜にここで経過を突き合わせる。診察のような時間でもあった。
「……そんなに少なかったのか。」
「エレベータ前が消えた。車内の視線の崩れも減っている。慣れてきたようだな。」
「慣れた、というのとは少し違う。」
アテムは向かいの椅子で、ゆっくりと言葉を探した。この部屋でだけ、アテムは言葉を探す速度で話す。外では即答する男が、ここでは間を惜しまない。
「視界の置き方を先に決めておくと、目が合わない。向き合う必要がない。だから、目を逸らしてもいない。お前がくれたのは、逸らす練習じゃなくて、最初から勝負をしない練習だった。」
「戦わずに済む配置は俺の得意分野だ。」
「だろうな。社の資料で知ってる。」
アテムは笑って、それから、少し黙った。
沈黙が落ちた。瀬人は埋めなかった。いつものように沈黙を保った。
「なあ、海馬。」
「何だ。」
「ひと月前、ここでお前に話した夜。俺は、本当は、誰にも言わないつもりだったんだ。」
アテムは膝の上で手を組んでいる。あの夜と同じ姿勢だった。
「視えるものの話は、生者にはできない。信じられなければ俺は狂人だ。信じられたとしても、今度は相手が怖がるだろ。だから、この目の話は、死ぬまで……もう一度死ぬまで、1人で抱えるものだと決めていたんだ。」
「合理的な判断だな。前提が正しければの話だが。」
「ああ。前提が間違っていた。」
アテムは顔を上げた。
「お前は信じもしなかったし、怖がりもしなかった。整合していればいい、と言った。」
アテムにとって、それがどれだけのことだったか、当人は分かっていないのだろうと思った。
「事実を述べただけだ。」
「そうだ。事実として扱われたんだ、俺は。」
声は、静かなまま、少しだけ深い。
「哀れまれもせず、崇められもせず、疑われもせず、ただの観測対象として扱われた。行動に偏りのあるだけの男として。……生きて、死んで、戻ってきて、俺をそういう風に見た者は、お前が初めてだ。」
瀬人は何も言わなかった。ノートの上のペンが、止まっていた。
「毎朝、お前は俺の動きを観察している。視線の流れる先を、俺自身が気付かない癖を、俺より知っている。俺のことをそんなに見るのは、後にも先にも、お前だけだ。」
アテムは、そこで一度、息を吸った。
「惚れた。と、言っているんだ。」
沈黙。
瀬人は瞬きをした。一度。二度。三度目の途中で止まり、視線が僅かに天井を巡り、それから戻ってきた。
この男の処理速度で三瞬きは、常人の絶句に相当するな、とアテムは考えていた。
「……順番を確認するが。」
ようやく出た声は、平坦を装っていたが半音低かった。
「それは経過報告の一部か。別件か。」
「別件だ。だが、報告のたびに大きくなっていた案件ではある。」
「いつからだ。」
「『整合していればいい』と言われた夜から、種はあった。地図を渡された週に、認めた。……お前は?迷惑なら、そう言え。この件でお前との今を壊す気はない。」
瀬人はノートを閉じて表紙に一度目を落とし、答えた。
「迷惑な相手の観察記録など、つけると思うか?」
「……それは、つまり。」
「考えれば分かるだろう。俺以外に誰がお前の不審な行動を解析できる。」
アテムが目を丸くした。それから、堪えきれずに笑い出した。声を立てて笑うアテムを、瀬人は不本意そうに眺めていたが、その口の端も、抑えきれずに僅かに緩んでいた。
「それが答えでいいのか、海馬。」
「不服か?」
「いや。」
アテムは笑っている目元のまま、続ける。
「お前らしくて、いい。」
暖炉の薪が、小さく鳴った。書斎の隅、図面に印のなかった場所。そこに、夜の静けさだけが溜まっていた。
季節は次へ移っていた。
ノートの正の字は、いつからか数えるほどもなくなった。それでも瀬人はタブレットで記録を続けていて、もはや趣味に近いのではとアテムは呆れ半分に思っていた。
観察されることには慣れた。というよりは、この男の視線が生活の中にあることが当たり前になっていた。
視えるものは、変わらず視えている。
食堂の東の端。廊下の飾り棚の前。庭の2箇所。それらは今もそこに居る。ただ、アテムの1日の中で、それらが占めるウェイトは格段に変わった。目が合う前に視界を別の場所に置く。合ってしまっても、風景として流す。応えないことは、切り捨てることではなく、ただの、手順。
上手くやり過ごせる日が増えた。当然、やり過ごせない日も、まだある。それでいい、と思えるようになったのが、一番の変化かもしれなかった。
その夜。
瀬人は書斎の窓際に立って、資料を読んでいた。
アテムが部屋に入って来る。いつもの定例の夜だ。ソファに向かいかけて、その足が止まった。
書斎の隅に意識が行っている。今まで図面に印のなかった場所だ。
アテムの視線は流れなかった。ただ、そこから先へ進む足だけが、進まなかった。声をかける訳でもなく、部屋の中程で立ち止まって、手に持った本の置き場所を探すふりをしている。
瀬人は資料から目を上げないまま、記憶を辿った。
──新しいな。ここは今まで空白だった。
隅、流れの弱い場所。条件は合っている。溜まるものが増えたか、動いたか、そんなところだろう。実際、アテムは進んで来ない。つまり、アテムとの間に、何かが居る。
瀬人には視えないし、確かめようもない。
だが、挙動は整合している。それで証拠は揃っている。
瀬人は資料を閉じ、窓際から歩き出した。敢えて書斎の隅の、何も見えない、何もない空間を横切った。死者の目には何が映っている場所なのか、瀬人は知らないし、知る必要もなかった。視えない者は、視えないなりの歩き方をするだけだ。
そして、アテムの正面まで来て、止まった。
「……海馬、今、お前。」
「俺には何もない場所だ。」
言って、瀬人はアテムの顎に手をかけ、腰を引き寄せて、口付けた。
短く、だが確かめるように。生者の熱で、生者の重さで。
至近距離で目を見詰めたまま、瀬人が尋ねる。
「何が視える。」
アテムは瞬きをした。
視界には男の顔しかなかった。隅のそれも、廊下のそれも、この距離ではどこにも入らない。3000年の目に、今、映っているものはひとつだけだった。
「……お前の顔しか、視えない。」
「ならば、それでいい。」
瀬人は言った。当然の帰結を述べる声だった。
「視えて困るときは、俺を見ろ。お前の目の届く範囲に、俺は大抵居る。」
「……随分な荒療治だな。」
「文句があるのか。」
「ない。」
アテムは笑って、今度は自分から、瀬人の襟を引いた。
書斎の隅で、何かが静かに薄れて、消えた気がした。
それを視た者は、もうこの部屋のどこも見ていなかった。
