海馬瀬人と幸運という名の受難


始まりは一通の通達だった。
居る筈のないアテムが現れたと思ったら、無表情のまま白い封筒を差し出してきたのだ。





「お前に渡せと言われた。」
社長室に転がり込んで来た男は、それだけ言った。挨拶もなければ、前置きもない。
瀬人はキーボードを叩く手を止めないまま、視線だけをアテムに寄越した。
「何故お前がここに居る。それは何だ。」
「さあな。俺も渡せとしか言われていない。」
差し出された封筒には、見覚えのない紋章が捺されていた。太陽と、翼を広げた何か。エジプトの神殿にでもありそうな図案だった。
瀬人は封を開けた。
中に入っていたのは、一枚の紙きれだった。文字数は少ない。だが、内容は少なくなかった。
『神官セトの魂、及び海馬瀬人としての奉仕に対し、褒賞としてこれを与える。運を良くする。なお、アテムを海馬瀬人の邸に置いておくとよい。オブジェとして扱ってよい。』
瀬人は読み直し、「オブジェ」と声に出した。
「何だこれは。」
「まあ、そうなるよな。」
アテムは他人事のように腕を組んでいる。
「オブジェとして扱っていい、っていうのは俺の意見じゃない。書かれていた。」
「知ったことか、そこではない。」
瀬人は紙をデスクに叩きつけた。
「3000年前の男の魂だと?神官セトとやらが誰にどう尽くしたか知らんが、それが俺と何の関係がある。俺は海馬瀬人だ、お前の国の坊主でも兵士でもない。」
「俺に言うなよ。俺だってその理屈は分からないんだ。」
「分からないのに黙って寄越したのか、お前は。」
「使者だ、拒否権はない。」
悪びれもせず言ってのけるアテムに、瀬人は舌打ちする。
「くだらん。神とやらの気まぐれに付き合う義理はない。」
「だったら突き返せばいいだろ。俺は渡した、以上だ。」
アテムはあっさりとそう言うと、勝手にソファに腰を下ろした。
「……何故、お前はそこに座っている。」
「置いておけと書いてあったからだ。」
「読んだ上で言っている。何故お前が、俺の指示ではなく神の指示で、俺の邸に住むことになる。意味が通っていない。」
「俺にも分からない。だが、書いてあることは事実だ。」
アテムは至極真面目な顔でそう言った。ふざけているわけではないらしいというのが、余計に瀬人の苛立ちを煽った。

その日の夜。
瀬人は自ら車を出し、アテムを近くのホテルに放り込もうとした。理由は単純だ、邸に置く義理などない。
だが。
「満室でございます。」
フロントの人間は申し訳なさそうにそう言った。あり得ない。この街で瀬人の名を出して満室を告げられたことなど、これまで一度もない。
「他を当たる。」
車を走らせ、次のホテルへ。
「生憎、本日より改装中でして。」
その次。
「実は先ほど水漏れが発生しまして……。」
瀬人はハンドルを握る手に力を込めた。偶然にしては出来過ぎている。
助手席のアテムは窓の外を眺めながら、他人事のように呟く。
「なるほど。運がいいな、海馬。」
「黙れ。」
邸に戻る車中、細かい雨が降り始めた。ワイパーを動かそうとした瞬間、雨は唐突に止んだ。
まるで最初から降っていなかったかのように。
瀬人は無言でフロントガラスを見つめた。
隣でアテムが小さく笑ったのが、視界の端に映り、苛つきは増した。

「……客人の面倒を見ておけ、俺は関わらん。」
邸に着くなり、瀬人はそれだけ言い残して自室へ向かった。
使用人達は戸惑いながらも一礼した。誰も、この居候がいつまで続くのかを尋ねようとはしなかった。
瀬人は、自室のデスクで先ほどの紙をもう一度睨みつけた。
オブジェとして扱ってよい、か。
くだらない冗談だった。だが、雨は確かに止んだ。ホテルは確かに三軒とも埋まっていた。
「……オカルトか。」
吐き捨てるように呟いたその声には、苛立ち以外の何かも、僅かに滲んでいた。
ただし、認める気など、毛頭ない。



数日が経った。
アテムは相変わらず邸に居座っていた。使用人たちは最初こそ戸惑ってはいたが、今では当たり前のように朝食の席を用意している。
瀬人はそれを見るたびに眉を顰めて舌打ちをしたが、追い出す算段は思うように進まなかった。
「モクバ、駅前のマンションを一部屋押さえておけ。」
「兄様が言うなら押さえるけど。何に使うの。」
「アテムを放り込む。」
モクバは、へえ、と半眼で兄を見たが、何も言わずに手配した。
翌日、内見の予定だった部屋の管理会社から連絡が入った。
「大変申し訳ございません、契約直前になりまして……以前そちらの部屋で、その、事件がございまして。ご案内出来かねまして……。」
電話を切った瀬人は、暫く無言だった。
事故物件。よりによって、契約前日に発覚するとは。
「次を当たれ。」
しかし。二軒目は上の階で漏水事故。三軒目は隣室の住人が失踪騒ぎを起こし、警察が出入りする羽目になった。いずれも、瀬人が動く直前に発覚している。
「……偶然にしては、出来過ぎだな。」
瀬人はリビングのソファに深く座り、腕を組んだ。
向かいでは、アテムが優雅に紅茶を飲んでいる。まるで自分が原因だとは微塵も思っていない顔だった。
「何故、俺を睨んでいるんだ。」
「お前がここにいる限り、俺の計画が悉く潰れる理由を考えていた。」
「知るかよ。俺は普通に生活しているだけだ。」
「その普通の生活が、俺の物件選びを妨害している。」
「被害妄想だろ?」
アテムはカップを置き、瀬人を見返した。やはり、悪びれる様子は一切ない。

その夜、庭の生垣が異様なほど見事に花をつけているのに気付いた庭師が、興奮気味に使用人頭に報告していた。
「今年の生垣は今までで一番の出来です、こんなのは見たことがない…。」
瀬人はその会話を廊下の端で聞き、無言で自室に戻った。
偶然が積み重なりすぎている。雨、ホテル、生垣、そして事故物件。どれも単体なら気にも留めない些事だ。だが、並べれば嫌でも1つの結論に行き着く。

「……あの紙切れか。」
デスクの引き出しから、あの通達を取り出す。運を良くする。書いてある通りだとすれば、瀬人の周りで起きている出来事の大半に説明がついてしまう。
認めたくはない。だが認めないままでは、次の一手も打てない。
瀬人は紙を睨みつけたまま、低く呟いた。
「……ふざけるな。」





翌週。
瀬人は定例の役員会議に出ていた。議題は半年前から難航している海外企業との買収交渉だった。先方の弁護士団が強硬で、担当者たちは誰もが渋い顔をしていた。
会議が始まって10分も経たないうちに、秘書が資料を手に駆け込んで来た。
「社長、先方から連絡が。買収先の企業の株価が、突然……。」
資料を一瞥した瀬人は、眉一つ動かさなかったが、内心では舌打ちしていた。
先方の主要株主が急に態度を翻し、条件のほとんどを丸呑みする形で合意してきたという。半年かけても動かなかった案件は、一晩で決着した。
「何があった。」
「それが、こちらとしても把握出来ておらず……。先方の会長が心変わりしたとしか。」
瀬人は資料を閉じた。
会議室を出た廊下で、モクバが小走りに追いついてくる。
「兄様、聞いたよ。買収、まとまったんだって?おめでとう……で合ってるんだよね?」
「合っていない。」
「え?」
「俺の交渉術で落ちた案件ではない。」
モクバは兄の不機嫌の意味が分からず、首を傾げるしかなかった。

その夜、瀬人はアテムを社長室に呼びつけた。呼びつけると言っても、邸から連れ出す必要すらない。アテムはソファに座って本を読んでいた。
「アテム。」
「何だ。」
「お前がここに来てから、俺の周りで都合の良いことばかりが起きる。」
「知ってる。さっき社内で聞いた。」
「今度は買収交渉だ。半年拗れていた案件が、俺が何もしないうちに片が付いた。」
アテムは本から顔を上げた。
「それの何が不満なんだよ。上手くいったんだろ。」
「上手くいった、が問題だ。」
瀬人はデスクに手をつき、身を乗り出した。
「俺は実力で捻じ伏せるつもりだった。それを、得体の知れない力に横取りされた。」
「横取り、ってのは言い過ぎじゃないか?お前がやったことに変わりはないだろ。」
「俺がやっていないから言っている。」
アテムは暫く瀬人を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……分からなくもない。」
「分かるなら黙って神とやらに突き返してこい。」
「使者に返品権限はない。」
にべもない返事に、瀬人はこめかみを押さえた。

数日後。
瀬人は、都心の一等地に、急ぎで社有ビルを一棟建てさせることにした。目的はただ1つ、アテムをそこに住まわせ、邸から追い出すことだ。最早、意地だった。
工期は異例の速さで進んだ。天候にも恵まれ、資材の遅延も一切なく、完成予定は当初の見積もりより2割も早まった。
「兄様、これ本当にすごいよ。うちの建設部門、こんなペースで仕上げたことないって現場が驚いてる。」
「褒めなくていい。」

竣工検査は無事に終わった。設備も配管も地盤も、何の問題もない。むしろ模範的な仕上がりだと検査官に太鼓判を押されたほどだった。
「兄様、他のフロアはもう入居希望が殺到してるよ。テナントも一般居住者も、抽選になるレベル。」
「それはいい。アテムの部屋はどうなっている。」
「それが……。」
モクバは資料を差し出した。最上階、瀬人が用意した専用フロア。書類上は完璧に整っている。だが、住民登録の手続きだけが、なぜか通らない。
「システムエラーで不受理……。もう一度試したけど、今度は担当窓口の職員が急病で……最後は、書類自体が何故か白紙になって届いたって。」
瀬人は資料を捲る手を止めた。
他の入居者は問題なく手続きが進んでいる。アテムの分だけが、判で押したように弾かれる。

その夜。
社長室に呼びつけたアテムに、瀬人は資料を突きつけた。
「見ろ。他の人間は誰でも住める。お前だけが住めない。」
アテムは資料に目を通して、片眉を上げた。
「……これは、俺のせいじゃない。」
「お前のせいだ、それ以外の説明がつくのか。」
「単に、お前が困ってるってことだろ。俺を追い出したくても、追い出せないってのが証明されただけのことだ。」
アテムの言葉に、瀬人は舌打ちした。図星だった。
「……あの紙切れに書いてあった通りということか。置いておけ、と。」
「そういうことになる。」
瀬人は暫く沈黙し、それから低く吐き捨てた。
「くだらん。」
だが、資料を握る手は、まだ諦めていなかった。





今日も、雨が上がった。
傘を差しかけた瞬間、雲間から陽が差し込む。運転手は「今日はついてますね」と軽口を叩いたが、瀬人は無言で車に乗り込んだ。ここ最近、天気に恵まれない日がない。
商談へ向かう車の中で、資料に目を通す。今日の相手は業界内でも渋いことで知られる老舗企業の社長だ。過去に何度か、他社が交渉に失敗している。瀬人自身、今回も長期戦を覚悟していた。
応接室に通されると、先方の社長は開口一番、こう言った。
「実はね、海馬さん。ちょうど今朝方、方針を変える気になっていたところでね。」
理由を問えば、社長は懐かしそうに目を細めた。
「昔、うちの若い頃に世話になった男を思い出したんだ。名前も忘れてしまったが、面影がなあ……不思議とあなたに似ていた気がしてね。」
商談は1時間もかからずまとまった。過去数社が半年かけても落とせなかった案件が、雑談から流れるように決着した。
社を出る車内で、瀬人は暫く無言だった。
「面影、か。」
呟いた声に、助手席から返事はない。アテムは同乗していなかった。だが、瀬人の頭には、あの通達の一文が浮かんでいた。
神官セトとしての奉仕。
昼食に立ち寄った店では、注文していないはずの一品がサービスで出てきた。
「本日、お客様が100人目のお客様でして。」
店員は満面の笑みでそう言ったが、店内を見渡す限り、客はまばらだった。
午後、モクバから電話が入った。
「兄様、聞いてよ。例の半導体の件、値上がり止まらないんだけど。うちが仕入れ契約結んだタイミング、完璧すぎない?誰かが未来から教えたのかってくらいだ。」
「偶然だ。」
「……兄様がそれ言うと逆に怖いんだけど。」
モクバの声には、疑いより先に単純な喜びが滲んでいた。それが余計に、瀬人の苛立ちを煽った。
夕方、邸に戻る道すがら、信号という信号が青だった。渋滞する時間帯だというのに、車は止まらなかった。
奇妙なのは、それが童実野町の外の道でも変わらなかったことだ。自分の息のかかった町ならばまだ分かる。だが、管轄外の交差点まで、律儀に青が続く道理はない。
運転手は上機嫌だったが、瀬人は窓の外を睨みつけたまま、口を開かなかった。
邸に着くと、庭先でアテムが猫と戯れていた。近所を彷徨っていたのだろう野良猫が、まるで飼い猫のようにアテムの足元にすり寄っている。
「アテム。それも何か関係あるのか。」
「知らん。猫が懐いてきただけだ。」
アテムはそう言うが、猫はアテムの膝に頭を擦りつけて動かない。瀬人は舌打ちし、玄関へ向かった。

その夜、書斎で今日の商談の記録を見返しながら、瀬人は考え込んでいた。
交渉のシナリオは、自分が組んだ。落としどころも、譲歩案も、すべて自分の頭で用意したものだ。
だが、社長の心変わりは自分の交渉術ではない。仕入れのタイミングも、信号も、猫も。
どこまでが自分の実力で、どこからが、あの紙切れの仕業なのか。
境界線が、はっきりしない。
「……くだらん。」
いつもの言葉を吐き捨てたが、声には、いつもより力がなかった。



翌朝。
食堂に降りると、当然のようにアテムが席についていた。
瀬人の分と、アテムの分。2人分の食器が並んでいるのを見て、瀬人は一瞬だけ足を止めたが、何も言わずに椅子を引いた。使用人に「好きにさせておけ」と告げたのは自分だ、今更文句を言う筋合いはない。
「……随分と馴染んでいるな。」
「置いておけ、と言われたのはお前だろ。俺は置かれているだけだ。」
アテムはパンにバターを塗りながら、いつものように悪びれもせずに返す。
給仕係が慣れた手つきでアテムのカップに紅茶を注ぐ。2週間前には存在しなかった席次が、いつの間にか固定されていた。
新聞を広げる瀬人の隣で、アテムが窓の外を見ている。
「今日も晴れているな。」
「知っている。」
「お前の予定、外での商談だったか。」
「何故知っている。」
「モクバに聞いた。」
弟がいつからアテムと予定を共有する仲になったのか、瀬人には把握しきれていなかった。だが、詰め寄るほどのことでもない気がして、黙ってコーヒーに口をつけた。
出社の準備をしていると、モクバが顔を出した。
「兄様、行ってらっしゃい。」
「ああ。」
モクバの後ろで、アテムも短く言った。
「行ってこい。」
言われる筋合いはない、と思ったが、瀬人は何も返さずに玄関を出た。振り返らなかったのは、意地だった。

その日の商談も、滞りなく進んだ。滞りなく進みすぎて、担当者たちが拍子抜けした顔をしていたのを、瀬人は横目に見ていた。

夜。邸に戻ると、リビングでアテムがモクバと並んでゲームをしていた。声を上げて悔しがるモクバと、涼しい顔で勝ち続けるアテム。
その光景は、瀬人が思っていたよりずっと前から、そこにあったもののように見えた。
「……いつまでここに居座る気だ。」
瀬人が呟くと、コントローラーを握ったままアテムが振り返った。
「置いておけと言われている間は、ここにいる。」
それだけ言うと、また画面に向き直る。
瀬人は何も言い返せなかった。理屈は正しい。だが、正しいということと、納得出来ることは別だった。
自室に戻り、今日の商談の記録を見返しながら、瀬人はふと気付く。
今朝、玄関でアテムに何か言われた気がする。
「行ってこい」それだけの言葉だったが、思い出すと、妙に耳の奥に残っていた。
「……くだらん。」
いつもの言葉で切り捨てたが、今夜はその後に続く言葉が、なかなか見つからなかった。



その週。
海馬コーポレーションの案件は異様なほど順調に進んだ。
交渉は初手で決着し、契約書は誰の手も煩わせずに戻ってくる。担当部署からの報告は、どれも「特に問題ありません」で締めくくられていた。
本来なら火消しに追われているはずの時間が、まるごと空いた。
瀬人は自室でスケジュールを睨みつけたが、埋めるべき火種が見当たらない。
「……空白時間、だと。」
声に出してみると、それはそれで苛立たしい響きだった。
手持ち無沙汰のまま、瀬人は普段なら後回しにしている社内資料に目を通し始めた。
福利厚生の見直し案。半年前に人事部から上がってきたまま、優先度の低い案件として棚上げにしていたものだ。
中身に目を通すと、粗が目立つ。育休制度の運用が硬直的で、現場の裁量が狭すぎる。手当の基準も古い。
瀬人はペンを取り、片端から書き直し始めた。理屈は単純だった。優秀な人材を長く働かせる方が、結果的に得だ。それだけの話だった。

翌週、改定案は役員会を通り、そのまま実行に移された。
効果が数字に出るまで、通常なら半年はかかるはずだった。
だが、施行から10日と経たないうちに、人事部から報告が上がってきた。
「離職希望者数が大幅に減少しています。それと、これは……偶然かとは思うのですが、複数の優秀な人材から、他社からの引き抜きを断ったという報告が。」
瀬人は資料をめくる手を止めた。
「理由は。」
「『海馬コーポレーションの姿勢が変わったから』、と。」

その週末。経済誌の取材が入った。テーマは「働きやすい企業ランキング」だという。
瀬人は最初、断るつもりだった。
だが、磯野が「もう回答済みの資料で足りると先方が」と言うので、面倒な取材自体が発生しなかった。断る必要すらなかった。
翌月。ランキングの結果が出た。海馬コーポレーションは、業界内でトップだった。
モクバが誇らしげに雑誌を持ってきた。
「兄様、すごいよ、これ。」
「見ればわかる。」
瀬人は雑誌を一瞥しただけで、机の隅に置いた。
喜ぶべきことの筈だった。だが、素直に喜べない自分がいる。

その夜、書斎で瀬人は考えていた。
福利厚生の見直しは、自分の意思で、自分の手でやったことだ。運に頼った覚えはない。
だというのに、結果が出るのが速すぎる。数字も、評判も、何もかもが上振れしている。
「……これも、あの紙切れのせいか。」
自問しても、答えは出なかった。
努力と幸運の境目が、また1つ、曖昧になっていく。






海馬邸の朝食の席で、モクバがタブレットを片手に切り出した。
「兄様、前々から言ってたリゾート事業、そろそろ動かしてみない?ゲーム機だけじゃなくて、体験型の方にも広げるって話。」
「時期を見ていた。今か。」
「うん、丁度いいタイミングかなって。」
瀬人は頷き、着手を決めた。畑違いとはいえ、遠すぎる畑でもない。アミューズメント企業の延長線上に、レジャーという選択肢があるのは以前から分かっていたことだった。

そして。
蓋を開けてみれば、驚くほど話が早かった。
社内には以前からその分野に興味を示していた人材が複数いた。元レジャー企業から転職してきた社員、既存のオフィシャルホテル部門の担当者、独自にマーケットリサーチを進めていた企画部の若手。それぞれが別々に温めていた案が、まるで最初から1つの計画のために用意されていたかのように噛み合った。
「候補地の選定なんですが、実は個人的に前々から調べていまして……。」
「うちの部門でも、同じ海域を見ていたんです。」
会議室で交わされるやり取りを、瀬人は黙って聞いていた。誰も示し合わせた覚えはないという。だが、資料の完成度も、候補地の重なり具合も、偶然にしては綺麗すぎた。
買収先の選定も滞りなく進んだ。目をつけていた中堅のレジャー企業は、ちょうど後継者不在で売却先を探していたところだった。条件交渉は初回で8割方まとまり、次の会合で正式に合意に至った。
「社長、こちらの物件なんですが、開発許可が既に下りていまして……本来なら数年がかりの手続きが、もう済んでいる状態です。」
担当者の報告に、瀬人は資料を捲る手を止めた。
「何故だ。」
「前の所有者が、以前から動いていたようで。今回、その権利ごと引き継げる形に。」
言葉を失う程ではないが、瀬人の中で、また1つ、何かの天秤が傾く。
マリンリゾートの構想は、着手からひと月と経たずに実現の目処が立った。人員も土地も許認可も、集めるというより、揃うのを待っていただけのように感じられた。
「兄様、これもう発表しちゃっていいレベルじゃない?普通ここまで来るのに1年はかかるよ。」
「知っている。」
瀬人は資料の束を机に置き、窓の外を見やった。
海の向こうに描く予定の施設群。手を伸ばせば、そこに何もかもが揃っているような気がした。

その夜。書斎の椅子に深く座り、瀬人は今日の報告を思い返していた。
自分が判断を下したことに間違いはない。決めたのは自分だった。
だが、決めた先に転がっているものが、あまりにも都合よく整っている。
「……そろそろ、笑えなくなってきたな。」
独り言は、誰に向けたものでもなかった。ただ、机の引き出しの奥にしまい込んだ、あの一枚の紙切れに向けられていた。



マリンリゾートの件が経済誌に取り上げられた朝、アテムは新聞を広げてそれを読んでいた。
「海馬、これ、お前がやったやつだろ。」
「そうだ。」
「良かったな。」
短い一言だった。皮肉も、含みもない。ただ純粋に、素直な祝いの言葉だった。
瀬人はタブレットから視線を上げず、何も返さなかった。返す言葉が見当たらなかった、というのが正確なところだった。
その日、瀬人は社長室から内線一本で指示を出した。
「アテムを山の別荘へ送れ。猫も一緒でいい。」
何度目になるか、数えるのも馬鹿らしい。だが諦める気は毛頭ない。運転手からの報告を待つ間も、瀬人はデスクで通常業務をこなしていた。

1時間もしないうちに、運転手から連絡が入った。
「土砂崩れで、山道が暫く通行止めのようです……。」
瀬人は受話器を握ったまま、暫く無言だった。それから、往生際悪く命じた。
「ヘリを出せ。近くの空き地から拾わせて送れ。」
手配は社長室から遠隔で進められた。ヘリが到着するまでの間、待機していたアテムから、モクバ経由で一報が入る。
『猫が茂みに逃げたから追いかけたら、外国人が道に迷って困ってた。連れて行く。』
「知らん奴を勝手に拾うな、と伝えろ。」
モクバがそのまま伝えると、返事は簡潔だった。
『もう乗せた。』
瀬人は舌打ちして電話を切った。
ヘリは童実野町、海馬コーポレーションの屋上へ向かう指示に変更された。アテムが「足を痛めているようだから医務室に」と言い出したためだ。瀬人は「知ったことか」と切り捨てた。
建前は報告を受けたついでに、アテムに文句の1つでも言おうと、自ら医務室へ足を向けた。
処置室に入るなり、瀬人はその男の顔に見覚えがあることに気付いた。基本的には会った顔は忘れない性質だ。数年前、国際フォーラムの壇上で見た顔だった。何度か接触を試み、その都度、多忙を理由に断られていた相手でもある。
男は英語で丁寧に礼を述べ、足を庇いながら名刺を差し出してきた。瀬人の名を見て、驚いたように目を見開く。
「あなたが、あの海馬さんの……。」
そこから先は、早かった。世間話のつもりで交わした会話が、いつの間にか業務提携の下地になっていく。付き添っていた秘書が隣で必死にメモを取っていた。
医務室を出た廊下で、瀬人は低く呟いた。
「……この、オブジェが。」
振り返ると、アテムが涼しい顔で付いてきている。
「何の話だ。」
「何でもない。」
瀬人は前を向いたまま歩き続けた。
幸運な成功であることに、疑いの余地はなかった。
アテムを追い出すことにだけは、今回もまた失敗したという事実を除けば。



使用人は、もう「客人」という呼び方をしなくなっていた。
「アテム様のお好きな紅茶、切らしてないわよね。」
「アテム様、今日は猫が庭に来ておりますよ。」
誰に指示されたわけでもないのに、いつの間にか、そういう空気が邸の隅々まで行き渡っていた。
始まりは瀬人が最初に放った「好きにさせておけ」の一言だけだというのに、その一言の射程は、想定よりずっと広く育っていた。
モクバは、もはや遠慮がなかった。
「兄様、今度アテムと3人で食事どう?新しく出来た店、予約取れそうなんだけど。」
「3人で行く理由がない。」
「え、でも前も普通に3人で行ったよね。」
言われて、瀬人は思い出す。確かに行った。断った記憶がない。いつからそれが「普通」になったのか、思い出せなかった。
猫は、いつの間にか名前まで付けられていた。庭師が「クロ」と呼んでいるのを聞いて、瀬人は片眉を上げた。
「野良に名前を付けるな。居着かせる気か。」
「もう居着いている。」
アテムが縁側で猫を撫でながら、事実だけを述べる。反論の余地はなかった。

ある晩、遅くまで書斎で仕事をしていた瀬人の元に、アテムが茶を運んで来た。頼んだ覚えはない。
「使用人に運ばせろ。」
「もう休んでいる時間だ。」
アテムはそう言って、机の端に湯呑みを置いた。湯気が資料の上を漂う。
「随分、根を詰めているな。」
「見ればわかる。」
「お前がそうやって数字と睨めっこしている間に、会社が回っている理由が分かった気がする。」
瀬人は視線を上げた。
「どういう意味だ。」
「運じゃない部分もちゃんとある、という意味だ。」
それだけ言うと、アテムは長居せずに部屋を出て行った。
瀬人は湯呑みを見つめたまま、暫くペンを動かさなかった。

別の日。リゾート計画の視察から戻った瀬人に、アテムがぽつりと言った。
「あの海の色、お前が選んだ場所か。」
「候補地の1つに過ぎん。」
「悪くない色をしていた。」
何の脈絡もない感想だった。だが、瀬人はその晩、なぜか報告書の中にあった候補地の写真を、もう一度眺めてしまった。
食卓の会話も、いつしか業務報告の延長ではなくなっていた。
「今日の会議、どうだった。」
「知ってどうする。」
「知りたいから聞いている。」
理由になっていない理由で押し切られ、瀬人は仕方なく、その日あった些細な出来事を話す羽目になる。愚痴とも報告ともつかないそれに、アテムは相槌を打つだけで、口を挟まない。ただ聞いている、それだけのことが、思いのほか瀬人の肩の力を抜いていた。
「大概、お前は良くやっていると思うぜ。」
ある夜、そんな一言をアテムがこぼした。文脈もなく、唐突だった。
瀬人は新聞から顔を上げず、聞こえなかったふりをした。
だが、その言葉は、思ったより長く耳の奥に残っていた。
「くだらん。」
いつもの一言で片付けようとしたが、今夜のそれは、以前よりずっと軽かった。






リゾート事業の成功が社内に知れ渡ると、瀬人の中で何かが変わり始めた。
これまでは、必要な事業にだけ手を伸ばしてきた。
だが今は違う。どこまでが自分の実力で、どこからが幸運なのか、その境界線を確かめるように、瀬人は次々と畑違いの分野に手を広げ始めた。

まず、飲食チェーンの買収に動いた。ゲームセンターとの相乗効果を狙った程度の理由だったが、交渉相手はまるで待っていたかのようにすぐ首を縦に振った。
「社長、こちらの担当者、実はずっと社長のファンだったそうで……。」
次に、教育系のアプリ開発企業への出資を決めた。畑違いも甚だしいが、担当役員の反対も長くは続かなかった。役員会の最中に競合他社の不祥事が発覚し、風向きが一気に変わったからだ。
「これは……偶然、ですよね。」
誰かがそう呟いたが、誰も本気で偶然だとは思っていなかった。
「兄様、最近手広すぎない?」
モクバが心配そうに資料を捲る。
「試している。」
「何を。」
「知らなくていい。」
瀬人自身、明確な答えを持っていたわけではなかった。ただ、どこかで1つでも失敗すれば、それが「運の限界」の証明になる。そう思っていた節がある。
だが、失敗は訪れなかった。
不動産、物流、果てはアパレルブランドの立ち上げまで、手を出した先はことごとく軌道に乗った。専門外の分野であるほど、まるで足りない部分を誰かが埋めてくれるかのように、都合の良い人材や情報が向こうから転がり込んでくる。
ある夜、書斎に積み上がった資料の山を前に、アテムが呆れたように言った。
「これで新しいのは何個目だよ。」
「数えていない。」
「数えていないくらい増やしている自覚はあるんだな。」
瀬人は資料から目を離さなかった。
「お前には関係ない。」
「関係なくはない。お前がここまで根を詰めるのを、隣で見ている身としては。」
何気ない言い方だったが、隣で見ている、という言葉が妙に残った。
「に、しても。よくやる男だ。」
アテムはソファに腰を下ろし、資料の山を眺めながら呟いた。
「呆れているのなら黙っていろ。」
「感心している。運に頼っていないところが、お前らしい。」
瀬人は手を止めた。運に頼っていない、という言葉には、皮肉より先に、確かな響きがあった。
「……お前がそれを言うか。」
「俺が言うから意味がある。誰よりも近くで見ているんだ、俺は。」
その一言に、瀬人は何も返せなかった。
資料を捲る音だけが、暫く部屋に響いていた。
事業の拡大は、止まる気配を見せなかった。むしろ加速していた。
瀬人自身、どこまで手を広げれば「これは運では説明がつかない」という一線に届くのか、次第に分からなくなっていた。
そして、その一線を探すことそのものが、いつしか目的にすり替わり始めていた。



海馬コーポレーションの事業は、もはやどの分野に手を出しても失敗しないという評判が、社内外に静かに定着し始めていた。
瀬人自身は、それを喜ぶ気にはなれなかった。むしろ、苛立ちだけが澱のように溜まっていく。
実力で成し遂げたと胸を張れる瞬間が、ここの所どこにもない。
「……何をやれば、これは運では届かないと言い切れる。」
深夜の書斎、誰に問うでもない呟きだった。
現代の事業で証明出来ないなら、もっと別の領域で試すしかない。そう考え始めた時、瀬人の脳裏に浮かんだのは、あの通達の文言だった。
神官セトの魂、及び海馬瀬人としての奉仕に対し。
「3000年前、か。」
声に出すと、苛立ちの矛先が急に輪郭を持った。
自分の知らないところで、自分の魂とやらが、3000年前の誰かに結びつけられている。その誰かの存在が、今の自分にまで影響を及ぼしている。
ならば、逆に辿ってやればいい。神々が根拠にしている「セト」とやらの実在を、こちらの手で暴いてやる。
それが証明出来れば、少なくとも1つ、はっきりする。神の理屈がどこまで本当で、どこから自分の実力なのか。

翌日、瀬人は考古学部門への出資という名目で、専門のチームを立ち上げさせた。表向きの理由は「文化事業への貢献」。本当の目的を知る者は、社内に1人もいない。
「アテムの治世下、新王国第18王朝の記録なら、童実野町の博物館に揃っている。俺が探すのはそこではない。」
瀬人は資料に目を通しながら続けた。
「セトだ。神官セトの記録、遺構、痕跡……その男が実在した証を、根こそぎ探し出せ。予算は気にするな。」
唐突な指示に、担当者は戸惑いながらも動き出した。
「遺跡?」
夕食の席で、瀬人が発掘プロジェクトの資料を広げているのを見て、アテムが眉を寄せた。
「趣味が変わったのか。」
「お前には関係ない。」
「関係あるかどうかは、その資料の中身を見てから言う。」
アテムが資料を覗き込む。地名、時代区分、想定される遺構の分布図。
「……セトの記録を探しているのか。」
「お前の記録なら、石板になって博物館に飾られている。俺が探しているのは、その男の方だ。」
アテムは資料から顔を上げ、暫く瀬人を見つめた。
「何故、セトを。」
「知ったことか。俺を勝手に結びつけた根拠だ、この目で確かめてやる。それだけだ。」
瀬人はそれだけ言って、資料を閉じた。
アテムは何かを言いかけて、やめた。ただ、その視線だけは、暫く資料の表紙から離れなかった。
その夜、瀬人は書斎で考えていた。
手段と目的は、とうに入れ替わっている。自覚はあった。事業の拡大も、遺跡の発掘も、本来は「神の力を借りずに成功する」ための手段だった筈だ。
だが今、瀬人の頭を占めているのは、もっと単純な、子供じみた意地だった。
3000年前の男が何者だったのか、この目で確かめてやる。
それだけだった。

「件の男、セトについて、お前が知っていることを話せ。」
夕食の席、唐突な要求に、アテムは箸を止めた。
「今更か。」
「今、必要になっている。」
アテムは暫く黙っていたが、やがて静かに語り始めた。
「セトは、俺の神官だった。誰よりも近くにいて、誰よりも俺を疑わなかった男だ。」
「王だったという記述もあったが。」
「俺の後を継いだ。俺が去った後、王座に就いた。」
「神官が、王になれるものなのか。」
「問題なかったんだ。あいつは、俺にとっては従兄弟に当たる。王家の血筋を引いていた。……これもまた、運かもな。」
瀬人は資料を捲る手を止めなかったが、耳だけは話に向いていた。
それ以上、アテムは多くを語らなかった。瀬人も、それ以上は聞かなかった。

発掘チームからの報告は、意外なほど早く進んだ。ナイル川上流域、これまで未調査だった岩窟地帯。地質調査の段階から、まるで最初から座標が分かっていたかのように、掘削は的確に進んでいった。
「社長、玄室と思われる空間を確認しました。壁面に碑文が残っています。」
報告を受け、瀬人は自らエジプトへと飛んだ。



玄室は静かだった。埃と、乾いた石の匂い。ライトに照らされた壁面には、びっしりとヒエラティックが刻まれている。専門家たちが解読に手間取っている脇で、瀬人はその文字列に目を落とした。
読めた。
文字の意味が、当然のように頭に流れ込んでくる。教わった覚えもない言語のはずだった。
「……何故、読める。」
低く呟いたが、答えが返ってくるはずもない。以前、あのカードの文字を読み解いた時と、同じ感覚だった。あの時も理由は分からなかった。今回も、理由は分からないままだった。
碑文の一部が、目に留まった。
『私はなすべきことを成した。あなたもまた。』
瀬人はその一文を、何度も目で辿った。
罵倒する言葉を、いくつか用意してきたつもりだった。3000年前の男が、自分の魂だの奉仕だのと、勝手なことを吹聴した張本人だと思っていた。
だが、目の前にあるのは石に刻まれた文字だけだ。反論もしなければ、弁解もしない。怒る対象が、そもそもここにはいなかった。
『遥か魂の交差する場所へ我を導け』
以前、記憶の石板に刻まれていたという、セトの願いをイシズから聞いたことがあった。あの願いが、こうして自分をこの場所まで引き寄せたのだとすれば。
辿り着いたこと自体が、既にセトの望み通りだったということになる。
「……くだらん。」
声に出しても、以前ほどの勢いはなかった。
玄室を出て、強い日差しの下に立つ。何かを成し遂げた実感はなかった。ただ、これまで抱えていた苛立ちの矛先が、握る場所を失って、手の中で崩れていくような感覚だけがあった。
童実野町に戻り、報告書を書き上げた夜。瀬人はデスクの前で、暫く動かなかった。
実力で幸運を上回るはずだった。だが辿り着いた先にあったのは、証明でも勝利でもなく、ただの一文だった。
なすべきことを成した。あなたもまた。
それが、褒賞などという名目の、本当の中身だったのかもしれない。
認めるのは、まだ癪だった。

邸の庭では、アテムが猫と遊んでいた。
枯れ枝を振ると、猫が飛びつく。それだけの、他愛のない光景だった。
瀬人は玄関先で足を止め、暫くその様子を眺めていた。
セトの遺構も、碑文の文字も、飛行機の中で何度も反芻してきた筈だった。だが今、目の前にあるのは、猫とじゃれるだけの、いつもの男の姿だった。
なすべきことを成した、という一文が、頭の隅をよぎる。
この男は、今日も自分のなすべきことを、ただ黙って成しているだけなのかもしれない。
そう思うと、抱えてきた苛立ちの輪郭が、急に間の抜けたものに見えてきた。
猫が走り去ると、アテムがようやく瀬人に気付いた。
「おかえり。」
いつも通りの、短い一言だった。
瀬人は何も返さず、鞄を持ち直して玄関へ向かう。
その背に、アテムの声が続いた。
「おかえりって言うのも、中々いいなと思ってるんだぜ。」
瀬人は足を止めた。振り返りはしなかった。
「……何がだ。」
「言われる方じゃない。言う方が、だ。」
それだけ言うと、アテムはまた猫の方へ視線を戻した。
瀬人は暫くその場に立っていたが、結局、何も言わずに邸の中へ入った。
玄関の扉が閉まる音が、いつもより小さく聞こえた。





不動産事業は、相変わらず順調に進んでいた。都心の物件、郊外の開発地、瀬人の名前が付けば付くほど、話は速くまとまった。
だが、これだけ物件を扱っていながら、瀬人はもう、アテムのための部屋を探そうとはしていなかった。
ある夜、資料に目を通す瀬人の隣で、アテムがぽつりと言った。
「そういえば、この頃、俺を追い出そうとしなくなったな。」
瀬人は資料から目を離さなかった。
「気のせいだろう。」
「気のせいにしては、随分と静かなものだが。」
瀬人は答えなかった。代わりに、頭の中で、あの碑文の一文が蘇る。
私はなすべきことを成した。あなたもまた。
石板に願いを刻み、3000年の時を隔てて誰かに届けようとする男の執念を、瀬人は玄室の奥で確かに読み取った。だが、あれほどの執念も、結局は文字でしかなかった。
張本人が目の前にいないのでは、何千年残った石板も、意味を成さない。
そう思うと、目の前にいる、この面倒な男の存在が、急に別のものに見えてきた。
「悪くないオブジェだ、と思っただけだ。」
瀬人は資料をめくりながら、独り言のように呟いた。
「本体が居ないのでは、何かをされても逃げられかねんのでな。」
アテムは一瞬、目を見開いた。
それから、小さく笑った。
「分かる気がする。」
その言葉に、瀬人は資料から顔を上げなかった。だが、めくる手は少しの間、止まっていた。



翌朝、食堂にはいつも通りの2人分の食器が並んでいた。
アテムは相変わらず猫を膝に乗せ、パンをちぎっては投げ与えている。使用人が「お行儀が」と苦笑しながら咎めるのも、いつも通りの光景だった。
「今日の予定は。」
アテムが紅茶に口をつけながら尋ねる。
「知ってどうする。」
「知りたいから聞いている。」
以前と同じやり取りだったが、瀬人は今度は、面倒がらずに答えた。
「視察が一件、あとは書類仕事だ。」
「それだけか。随分と平和だな。」
「お前のせいで、危機感を持つ暇がない。」
皮肉のつもりだったが、口にしてみると、思ったより刺々しくなかった。
出がけに、玄関でアテムが見送りに立つ。
「行ってらっしゃい。」
「……ああ。」
以前は返す言葉を持たなかった一言に、今日はそれだけ返して、瀬人は靴を履いた。振り返りはしなかったが、足取りに迷いはなかった。





書斎の引き出しには、あの通達が入っていた筈だった。
何日か前、片付けのついでに確かめようとした時、瀬人はふと手を止めた。確かめる必要が、もうどこにもない気がしたからだ。
運か実力か、その境界を追いかけることに、いつからか興味が薄れていた。

封筒は、誰にも知られず、いつの間にかどこかへ消えていた。
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