等身

石碑には偉業が刻まれている。瀬人が残すのは、線と日付だけだった。


童実野町博物館。特別展「名も無き王」。
ガラスケースの中に、副葬品が並んでいる。黄金の腕輪、削られたカルトゥーシュの石板、復元された王冠。説明のパネルにはこうある。『若き王は自らの名と魂を封印の器に捧げ、世界を覆わんとする闇を退けた。その尊き犠牲により、3000年の平和が──』
瀬人は説明を睨みつけるように読んだ。初めは文章として。次に、決算書として。
これはまさしく粉飾決算だった。費用の欄に、少年が1人、丸ごと計上されていないのだ。
瀬人はアテムを王だと思ったことがない。神だと思ったことは尚更ない。3000年前の記憶も、魂の話も、次元の向こうも、今ではもう事実として処理している。
だが、事実として認めることと、膝を付くことは別だ。瀬人が認めないのは事実ではない。事実に貼られた"値札"の方だった。
王とは、瀬人の理解では、職業ですらない。
当時、子供に割り振られた負債の名義なのだ。本人が稼いだ肩書ではなく、本人に請求されたものである。それに、讃える人間は、請求額の利息の話をしていない。

帰還したアテムのために、瀬人は書類一式を金で作らせた。戸籍、経歴、在留の記録。書類上、アテムは18歳の民間人となっている。
生年月日はモクバが決めた。アテム本人の記憶にある誕生日は、収穫の季節、第三の月の19日、という形式で、3000年前に死んだ暦の日付だった。現行の暦への換算は、やるとしたら天文学者の仕事になり、それでも答えはある程度の期間に目処をつける程度でしか出せない。一致させることは不可能だった。
しかし、モクバが解決した。「俺の誕生日の次の日にしようぜ。覚えやすいし、2日連続でケーキが食べれるだろ。」アテムにも瀬人にも、それで問題はなかった。3000年ぶりに誕生日が更新されて、しかもそれはケーキの都合で決まった。
瀬人はそれを、悪くない決め方だと思った。少なくとも、神託よりは根拠が明快だったからだ。
根拠に関して言うなら、アテムについて書かれたあらゆる文書の中で、最も正確なのはこの偽造書類だった。
生きている、と書いてあるからだ。
石碑は嘘を吐く。住民票は、少なくともこの一点で正しい。



ガラスの前に、本人が立っている。
誰も気付かない。それも当然だ。墓の主は碑文の中で死んでいることになっていて、死んでいる者が来館する筈もない。
アテムは、自分の腕輪を、来館者の1人として眺めた。
学芸員の解説ツアーが、背後に追いついてきた。
「王の崩御は、推定10代の半ば。決して長い治世ではありませんでしたが……。」
自分の享年を、アテムは他人の声で聞いた。係の女性は丁寧で、声に悪意の影などなかった。なのに、死を、何故か他人事のように感じた。
小学生ぐらいの少年が隣に来て、説明をたどたどしく読み上げ、かっこいい、と言った。母親が、尊い犠牲ね、と返す。
アテムはつい、微笑んだ。3000年前にやっていた微笑だった。
尊い。その言葉に、アテムは寄りかかってきた。
意味は柱だ。あの暗くて長い時間を支えてきた。
王だった。民を守った。世界を救った。だからあれは、犠牲であって、ただの死ではない。封印であって、ただの監禁ではない。
柱を抜けば何が残るかは知っている。だから抜かないし、知らないままにすることを選んだ。
出口の手前に、感想ノートが置かれていた。開いたページに、子供の字があった。
『なもなきおうさま、せかいをまもってくれてありがとう』
アテムは、暫くその字を見ていた。3000年前に死んだことについて、礼を言われている。
受取人は碑文の中にではなく、ノートの前に自分の足で立っている。子供の礼は温かかった。
だが、どこかが弔辞に似ていた。
礼も弔いも、どちらも宛先は同じで、何かが済んだ者に向けて書かれる。

ミュージアムショップには、腕輪のレプリカが並んでいた。亜鉛合金製、2800円。アテムは手に取り、暫く眺めて、棚に戻した。
「欲しいのか?」
いつの間にか隣にいた瀬人が言った。
「いや。……作りが雑だ。重さも全然違う。」
それが、本物を腕に嵌めていた男の感想だった。瀬人は短く笑った。
少し離れて、瀬人はご意見用紙の記入台の前に立った。備え付けの鉛筆を一瞥して、胸ポケットから万年筆を抜いた。書き終わるまで数分かかった。どの展示の前で止まった時間より長かった。
「何を書いたんだ?」
「事実関係の訂正要求だ。」
それ以上は言わなかった。アテムも訊かなかった。用紙は几帳面に折られ、投書箱に落ちた。
あの男の視線にだけは、祭壇がない。昔からそうだ。神々が決闘場に実体化したあの時、あの男は自分の手で神を召喚して、そして拝まなかった。祈りもしなかった。
あの男のデッキにおいて、神は切り札であって、それ以上ではなかった。前世だの運命だのは戯言と切り捨て、目の前の現象とだけ、正面からぶつかった。
かつてなら、不敬であり、傲慢と呼ばれるだろう。だが、アテムだけは、別の名で呼んでいた。
息ができる、と。
拝まれている間、人は呼吸を見られている。崇敬は監視に似ている。瀬人の前でだけ、アテムは実物大だった。
出口で瀬人が言ったのは一言だった。
「出るぞ。長居する価値がない。」
展示にか、それとも碑文の文章にか。アテムは訊かなかった。



その夜、屋敷で、先に口を開いたのは瀬人だった。
「あの説明は粉飾だ。」
「事実だろ。世界は救われた。」
アテムはカップを置いた。
「世界が救われたことと、お前が使い潰されたことは、両立する。」
瀬人の声は平坦だった。かつてのように、怒鳴るような怒りではなかった。どこか冷静に、事実を監査する男の怒りだった。
「救済は結果だ。手続きを正当化しない。そしてその手続きは、16の子供の魂を封印装置の部品に使うことだ。」
「他に方法はなかった。」
「なかったのだろうな。」
瀬人はあっさり認めた。そして続けた。
「方法がないことと、正しいことは別だ。やむを得ない、までは認める。尊い、は認めん。それを尊いと言い換えた瞬間、周りの大人どもは反省を免除される。ふん、次の時代も、同じ手が使えるようになるだろうな。」
「俺は王だった。民を守るのが、俺の役目で……。」
アテムの声が僅かに硬くなった。
「役目か。」
瀬人が遮った。
「その語彙を、俺は知っている。役目。義務。後継者の責任。立派な言葉だ。子供に与えておくと、子供は逃げ道を自分で塞ぐ。教育する側の手間が省ける。」
アテムは瀬人を見た。瀬人は続けなかった。出典はそこか、とアテムは思った。
本人は気付いていないようだが、カップを持つ瀬人の指が白くなっていた。
「……憐れんでいるのか?」
「憐れみで言うのなら、もっと優しい言い方を選んでいる。」
「お前が憐れみを持つ筈もないか。」
瀬人は鼻で笑い、それから笑いを消した。
「俺は逃げた。あの男に勝ってな。お前には、逃げ場がそもそも設計されていなかった。差はそれだけだ。王と人間の差ではない。出口の有無の差だ。」
アテムは立ち上がり、窓辺へ歩いた。童実野町が、松明を知らない明るさで燃えていた。眠らない街だった。
眠れなかった夜のことを、アテムは思い出していた。
3000年、見なかった場所を、たった今、土足で点検された。腹が立ってもいい筈だったが、そうはならなかった。代わりに、奇妙に古い感覚が胸の底から浮いてきた。
それは、何かを降ろしてもいい、という感覚だった。
アテムは窓の外を見たまま、口を開いた。
何を言うか決めて開いたのではない。降ろしてもいい、と思ったら、言葉が勝手に漏れ始めた。
「最後の夜は眠れなくて、眠ったふりをした。侍従が泣くからな。目を閉じたまま、夜明けの物音を聴いてた。それも飽きて天井を見てた。天井には、星が描いてあった。子供の頃から数えてたから数は知ってたぜ。あの夜、数え直した。星の数は合ってた。……世界が終わるかもしれない夜も、星の数は合うんだな、と思った。」
瀬人は何も言わなかった。口を挟まないことが、この男の聞き方だった。
「明け方、出立の前に、侍従が俺の腕輪を嵌めた。いつもの朝と同じなのに、震えてた。嵌められる俺じゃなくて、先に震えられた。震える役は、先に取られてた。」
そこで言葉が切れた。次の一語は、3000年分の重さがあった。
「……怖かった。」
言ってから、アテムは自分の声に驚いた。
誰にも言ったことがなかった。言えるタイミングが、どこにもなかったのだ。
王は恐れない。神は悔いない。嘆く者の前で恐怖を語れば追い打ちになり、讃える者の前で語れば瀆神だ。この男の前でだけ、それらはただの報告だった。
「心残りは、大きなものじゃない。国の行く末は託した。民は守られた。残ったのは、くだらないものばかりだ。」
アテムは少し笑った。笑いは形にならなかった。
「自分の背が、どこまで伸びるのか。それを知らずに死んだ。父は高かった。神官達も高かった。俺は、16で止まった背丈のまま、また冥界で王をやった。……これが、皆の言う尊い王の心残りだぜ。墓に刻むにも、捨てるにも、困るだろ。」
沈黙があった。
「俺のために怒った人間はいない。嘆いた者と、讃えた者だけだ。3000年、ずっとだ。」
アテムは言った。
「そうか。ならば、俺の担当だな。」
瀬人は短く言った。
やはり、慰めの言葉はなかった。アテムも、それは要らなかった。ただ、部屋の空気の中で、何かが場所を変えた。3000年間どの決算書にも載らなかった怒りが、たった今、1人の男の負債に計上された。利息付きで、引き受けられた。
「お前が怒って、どうなるんだ。」
「どうにもならん。だが、誰もやらずとも良いということは、別だ。」
瀬人が言った。
その夜は、アテムはよく眠れた。





3週間後、博物館から封書が届いた。
瀬人宛だった。
『貴重なご意見をありがとうございます。いただきました内容は、今後の展示活動の参考とさせていただきます』
定型文だった。訂正の予定には、一行も触れていなかった。瀬人は一読して舌打ちをし、それからファイルに綴じた。
「言っただろ。どうにもならないさ。」
アテムは笑った。
「どうにもならんことと、記録しなくとも良いことは別だ。」
返答まで、定型通りだった。

会期が終わり、副葬品はエジプトへ帰っていった。搬出の日、アテムは見送りに行かなかった。
歯科の定期検診があったのだ。3000年ものの黄金と、半年に一度の検診なら、検診を取る。生きている身体の維持は、どんな副葬品より手がかかる。それは、悪くなかった。

その晩、瀬人がアテムを書斎の戸口へ呼んだ。手に鉛筆と、定規を持っていた。
「立て。そこの柱に背中をつけろ。踵もだ。」
「……何だ?」
「背筋を伸ばせ。猫背の数値を取っても意味がない。」
アテムは、言われるまま柱を背にして立った。頭の上に定規が触れ、鉛筆が短く線を引いた。瀬人は線の横に、小さく日付を書き入れた。
「これは?」
「成長記録だ。来年、また測る。」
瀬人は言った。
「この身体が伸びるかどうかは、分からないぜ。戻ってきた身体だ。」
「その場合は、来年、同じ高さに線が増えるだけだ。記録の価値は変わらん。データは連続してこそ意味がある。」
アテムは柱から離れ、振り返って線を見た。
消そうと思えば消える鉛筆の線だ。摩擦で薄れるし、100年も保たない。
石に刻んだ文字は3000年削れない。あれは死者の記録で、成長の済んだ高さを永遠に固定する。鉛筆の線は、来年には越えられることを前提に引かれる。
生者の記録は、消えることと、裏切られることを前提にしている。
「海馬。」
「なんだ。」
「来年もか?」
「再来年もだ。毎年やる。日程は、誕生日でいい。書類上の、だ。」
「ケーキの日だな。」
「そうだ。忘れようがないだろう。」
アテムは笑った。今度は、形になった。柱の線は目の高さより少し上にあり、神殿のどの碑文よりも正確だった。書いてあるのは線と日付だけで、偉業は1つも書かれていない。
それで良かった。偉業の欄がない宛先にだけ、人間は等身大なのだ。
「ああ。来年な。」

未来形は、生者の文法だった。
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