家を建てる─grg pr─

結婚するということ


次元転送の光が空気に溶けると、顔に風が来た。
砂の匂いのする、乾いた風だった。冥界の空は今日も晴れていた。瀬人はこの空が曇った日を一度も見たことがない。
石の柱は、午後の影を石畳へ長く伸ばしている。アテムが、その影の先に居た。
王宮のテラスに設えたテーブルセットに腰掛けている。
「海馬。」
「時刻は。」
「予告通りだ。それがなくても、お前が来る日は風で分かるけどな。」
出迎えは、もうこれが定型になっていた。乗り込んで、即刻、決闘をしていたのも過去のこと。
アテムの視線が、瀬人の手元の書類の束へ向かった。この世界に綺麗な紙の束を持ち込む人間は、どこの次元を探しても恐らく瀬人だけだろう。
「仕事の話か?」
「婚礼の話だ。」
アテムの眉が僅かに上がった。
瀬人は、それには構わずテラスのテーブルに束を置き、1枚目を見せた。
「式次第だ。神官による祈り、顔見せ、誓約の文言、宴の構成、余興。壁画資料と研究論文から再構成した。異論があるなら今言え。3日で直す。」
アテムは黙って紙を取った。1枚目、2枚目、と目を通し、3枚目の途中で指が止まった。
「……余興、決闘?」
「宴には余興が要るのだろう。記録にある。」
「俺の時代の宴の余興は舞踊と楽の演奏だ。」
「改良しておいた。」
アテムは紙に目を戻し、暫くは堪えていたが、肩を震わせて笑い始めた。そして、笑いながら残りのページを捲り、読み進める程に笑いが止まらなくなっていった。
「何がおかしい。」
「よく出来てるぜ、本当だ。清めに焚く香の種類まで指定してる。……だが海馬、惜しいことを教えてやる。これは全部、後の世の作り話だ。」
「出典は全て記載してあるが。」
「その出典が創作なんだ。」
アテムは紙をテーブルに戻した。笑いすぎて緩んだ表情のまま続ける。
「俺の国に、婚礼の儀式は無い。」
瀬人は、すぐには答えなかった。
「……記録が失われたのではなく、ということか。」
「そうだ。初めから無いんだ。王の戴冠は壁に描かれた。葬列、狩り、宴、戦……パン焼きだって描かれてただろ。だが、婚礼は、どの神殿のどの墓のどの壁にも無い筈だ。描き忘れたんじゃない。そもそも無かったんだ。」
瀬人も、調査の途中で同じ疑念に行き当たってはいた。膨大な記録の中に、不自然なほど綺麗な空白があった。
そして仮説は立てた。その上でこうして確かめに来たのだ。文献を更に100年掘るよりは、生き証人──正確には死んでいるが──に訊くほうが早いからだ。
「では、何をもって婚姻が成立する。要件を言え。」
「……家だ。」
アテムは短く言い、テーブルの上へ指を伸ばした。白い石の面に薄っすら積もった、風の運んだ砂。そこへ指先で印を刻んでいく。
まず、間口の開いた囲い。
「ペル……『家』だ。読めるだろ。」
「家屋の平面図の象形。基礎語彙だ。」
アテムは頷いた。
そして、囲いの前に、更にいくつかの文字を並べた。
「グレグ・ペル。『家を建てる』。設える、とか、確立する、と訳してもいい。これが、『妻を娶る』と同じ言葉だった。」
瀬人は砂の上の文字を見た。
「家を建てることが、婚姻を結ぶということか。」
「『同じ言葉』といったところだ。式も宣誓も無い。女が自分の財を携えて男の家に入る。寝台や鏡、上等の麻布なんかだ。その日から2人は夫婦で、妻は家の女主人と呼ばれた。」
「手続きは。」
「無い。」
「届出や神殿への登録は不要なのか。」
「ああ。神官も書記も要らない。必要なものは、強いて言えば隣人だな。あの2人は同じ家にいるって知っていること。それで足りる。」
「随分と、杜撰だな。」
「確実だって言え。パピルスは焼ける。神殿は崩れる。王の名すら、壁から削られる。だが、2人が同じ家で暮らしてるって事実だけは、削れも燃やせもしない。」
アテムは椅子の背に身を預けた。
3000年残る記録媒体は石でも紙でもなく、生活だと言った。生き証人から聞くと妙な説得力が、ないこともなかった。
「その隣人という要件。この場合は誰が該当するのだ。」
瀬人は一応、尋ねた。
「冥界の民、全員がなるさ。」
「……全員?」
「お前が通い始めて何年になると思ってるんだ。船着き場から厨房まで、皆が知ってる。現世から王の所へ通って来る青い目の生者が居る。有名だぜ。公示ってことなら、とっくの前に満たされてる。」
瀬人は黙って川の方を眺めた。遠くの渡し守の男が、こちらへ向かってゆっくり手を振っていた。
「契約書はあった筈だ。」
気を取り直して、瀬人は次の議題に移った。
「婚姻契約。財産目録と扶養条項の記載がある文書を、資料で確認している。」
「あったらしいな。ただ、俺の時代よりずっと後だ。契約書の習慣は、ここに来た後の時代の者から聞いたことがある。妻の財の目録と、離縁の際の財産分与。夫が年に渡す穀物とか衣の量とか。俺の時代にも必要だったかもな。」
アテムは事も無げに言った。
「採用する。」
瀬人はケースから白い紙を引き抜き、ペンを取った。
「甲、海馬瀬人。乙、アテム。まずは乙の資産を申告しろ。」
「待て。俺は昔話をしただけだ。」
「契約は目録から始まるのだろう。申告をしろ。」
アテムは暫く瀬人の顔を眺めていたが、止めるより面白がる方を選んだらしい。テラスの外へ、緩く顎をしゃくる。川と、緑の岸と、白い都と、金色の砂丘と、その全部の上の空。
「冥界 ここの、全てだ。」
「……譲渡可能性は。」
「無い。王権ごとお前に譲るわけにはいかないだろ。」
「評価額の算定方法は。」
「死んでから自分の目で確かめろよ。」
「担保設定はどうする。」
「冥界を取り上げる気か、お前は。」
ペンが止まった。譲渡不能。算定不能。執行は死後の世界。目録の一行目から、契約書の体を成さなかった。
「そっちはどうなんだよ。甲の持参する財は。」
「海馬コーポレーション株式、特許群、不動産、その他資産一式。時価総額はおよそ……。」
「現世の株とかが冥界で執行できるのか?」
アテムは穏やかに笑ったまま遮った。
沈黙が落ちた。
ペン先のインクが、紙に触れないまま乾いていく。
互いの全財産が、互いの世界では1枚の紙切れにもならない。瀬人がこれまでに組んだどの契約とも違う仕組みだった。差し押さえるものが無く、担保が成立しない。違約金の振込先すら無い。
「そもそも、あの契約書は別れる日のためのものだ。離縁の際に妻が飢えないよう、財の分け方を先に決めておく。婚姻のための書類じゃない。婚姻が終わる日のための書類だ。」
「……。」
「離縁の予定でもあるのかよ。」
「無い。」
即答だった。
「なら、俺達には、要らない。」
要らない。論理的にはそうなる。それでも瀬人はペンを置かなかった。扶養条項の代わりに、書けることが1つだけあった。

──甲は乙のもとへ、週に一度以上、渡航する。

「穀物と衣の代わりだ。現状、俺がお前に供給できる資産はこれだ。」
アテムが覗き込む気配がした。
返事に、少しだけ間があった。
「……年の穀物より良いものだ。」
続けて、もう一行追記した。

──本契約に解約条項を設けず、期限の定めも設けない。

「『死が2人を分かつまで』とかいう文言は、使わないのか。」
「執行地はここだ。ここでは死は終了事由にならん。入口だ。」
瀬人はペン先で冥界の大地を指した。
アテムは、今度こそ、声を出して笑った。
「つまり、だ。お前の死は、本契約においては。」
「単なる転居だ。」
「そういう契約書を書く男を、俺は他に知らない。」
筆ではなく、瀬人のペンで、アテムは自分の名を記した。3000年前の王の署名と、現代の署名が並んだ。
条項が2つだけの、世界で最も短いであろう婚姻契約書が出来上がった。
法的効力は2つの世界のどちらにも無い。それを互いに完全に理解した上で、それでも完全に本気で署名した。
インクが乾くのを待つ間に、アテムが訊いた。
「海馬。1つ聞いていいか。神も伝統も認めないお前が、なぜ婚礼なんだ。」
瀬人は答えを持っていた。しかし、実際にそれを口に出すには、数秒を要する類の答えだった。
「……仕様が未定義のシステムは、運用に値しない。」
「何だよその言い方。」
「この関係には正式名称が無かった。決闘者、好敵手。全て現状を記述しきれていない。定義されていないものは、管理も保守も出来ん。」
アテムの目が細くなった。まだ笑っていた。
「つまり、呼び名が欲しかったんだな。俺が、お前の何であるかっていう……。」
「……そのような言い方をするな。」
「それは図星のときの顔だぜ。」
ふん、と鼻で息を吐いてから、書類を仕舞いながら瀬人は言う。
「儀式が無いのなら、実務上は何をすれば成立する。」
「もう殆ど済んでる、って言ったら怒るか?」
「何だと?」
「まあ、そうなるだろうな。」
「ならば何故言わなかった。もっと早くに言え。」
アテムは立ち上がった。
「お前はこの"家"に何年も通った。ここで食べて、道を知ってて、俺の居場所を見付ける。要件なんて満たしている。……だが、1つだけやり直そう。」
「何をだ。」
「入り直すんだ。お前は今日まで、客としてこの"家"に入った。それを、家の者として入って来るんだ。」
アテムは、柱の向こうにある王宮の入口を指した。冗談の気配は無かった。
3000年前、それが婚礼の全てだった、とでも言いたげな顔をしていた。実際、そうだったのだろう。
瀬人はケースを持ち直し、思い出して中身を1つ検めた。
それから、柱の間を戻って行く。並んだ柱の影が、縞になって過ぎる。すれ違った侍従が足を止め、深く礼をした。いつもより深い礼に見えたのは気のせいではないのだろう。
公示要件は満たされている、とはこういうことか。そう思った。
入口の、石の敷居を跨いで外へ出る。そして、振り返る。
数え切れない程、通った入口の筈だった。敷居ひとつ意識しただけで、王宮は少し違って見えた。
「財を携えて入るのが作法なのだろう。」
敷居の外から瀬人が言った。ケースの中の書類では不適格。株券も特許も、この世界では紙屑同然である。
瀬人は、コートの内側に手を入れ、それを出した。
デッキケース。
柱の間でアテムが目を見開き、それから、破顔した。
「全財産か。」
「この世界で価値を失わない資産は、これだ。」
「なるほどな。……充分すぎる。」
瀬人は敷居を跨いだ。片手にデッキ。それだけで、3000年前の法が満たされる。石の床を踏み、アテムの前へ向かう。風が柱の間を抜けて、2人の間を通った。
「おかえり。」
アテムが言った。
それが儀式の全文だった。清めも、行列も、誓約の文言も無い。ただ、決まった言葉をひとつ返せば成立する。
「…………ただいま。」
何とも言えない、収まりの悪い言葉だった。この言葉を向けた相手は、生涯でモクバしかいない。2人目が冥界の王になるとは、人生は設計図どおりには進まないものだ。
そのモクバには報告済みであった。何度か聞き返されたが、納得した後は、腹を抱えて暫く笑われたのだった。
アテムは笑わなかった。笑う代わりに瀬人の手からデッキケースを受け取り、両手で一度だけ大切に持ち上げ、返した。
財の受領。
目録一行、評価額算定不能。ただし本人比で、全財産。
テーブルには、いつの間にかパンが載っていた。丸く焼かれた素朴なパンと、素焼きの器に注がれたビール。給仕の姿はもう無かった。
手回しの良さから、この婚礼がアテムの側ではずっと前から待たれていたことを察したが、聞かないでおいた。
「宴にしよう。2人分だけどな。」
「式次第では200人規模だった。」
「2人で足りるものを、200人でやる必要は無いだろ。」
「余興の決闘は。」
「……後でやる。」
アテムはパンを手に取り、2つに裂いた。少し大きい方が瀬人の前に置かれた。
「パンとビールは、この国の基本だ。神への供物も、働く者への給料も、パンとビールだった。神の食物と、人が稼ぐものは、同じだった。」
「合理的だな。」
「だろ。家族は同じパンを裂いて食べる。家ってのは、それだけのものなんだ。」
裂いた所から酵母の匂いがした。素朴で、微かに酸味のある、まだ温かいパンだった。ビールは白く濁り、甘みの奥に穀物の味が残った。旨くはないが、不味くもない。もう慣れたものだったし、3000年前の"家"の味だと思えば、不思議と悪い気持ちなどなかった。
半分ほど食べたところで、アテムがふと、器の中を見たまま言った。
「俺は生前、婚礼を挙げていない。16で死んだ。神官達はいずれ妃を、と考えていたかもしれないが、その『いずれ』は来なかった。……つまりこれが初婚だ。3000年と少し、遅れたが。」
瀬人は手を止めた。
アテムの声は淡々としていた。こういう時のこの男は、案外、多くを語っている。瀬人は、もうそれを知っていた。
瀬人も、淡々と返す。
「遅延損害金を請求しろ。3000年分だ。」
「誰にだよ。」
「歴史にだ。」
アテムは吹き出して、それから暫く笑っていた。
夕暮れ時の光が、その横顔の輪郭を金色に縁取っていた。
「これで全てか?」
「ああ、これで全部だ。家は建った。」
「そういうものか。」
「儀式が長くなるのは、疑いがある時だ。神や200人に証人になって貰って書類に残す。疑いを埋めると式は長くなる。……俺とお前に、証人が要るのか?」
アテムは器を置いた。
要らん、と即答できる程度には、瀬人はこの男との年月を重ねていた。魂の在り処を賭けた決闘の回数も、このテラスで潰した午後の数も。
だから代わりに、ケースから最後の1つを出した。
小さな箱だった。開けると、金の環が、ふたつ並んで収まっていた。
「現代の流儀を、1つだけ足す。」
アテムは身を乗り出して箱の中を覗いた。長い睫毛が伏せられ、片方が摘み上げられる。傾き始めた日を受けて、環の周りをゆっくりと光が反射した。
「俺の国に、指輪を贈る習慣は無かった。」
「知っている。もっと後の時代の風習だ。」
「だが、円の意味なら、あった。」
「シェヌ。」
アテムが目を上げた。
「知っていたのか。」
「カルトゥーシュの原型。端の無い縄の環。意味は永遠、保護。」
アテムは、指輪を瀬人の手に戻し、左手を差し出した。
「……お前の調査資料は、創作ばかりでもなかったようだ。王の名は円環の中に書く。名を永遠の中に置き、永遠が名を守るように。つまり、お前はこれから俺の指に、永遠を嵌めるわけだ。」
「大袈裟なことを。ただの金属だ。」
「照れるなよ。」
「黙れ。」
冥界の王の指に、現世の金属は驚くほど馴染んだ。次いで、アテムが瀬人の左手を取る。3000年を待った指が、環を根元までゆっくりと送っていく。

端の無い環も、解約条項の無い契約も、同じ形をしていた。





日が傾いていた。冥界の日没は遮るものがなく、現世より色が濃い。テラスの白い石が金に染まり、川が一本の光の帯になった。帰還の時刻まで、あと僅かだった。
「もう行くのか。」
「仕事が残っている。次は木曜に来る。」
「契約通りだな。」
「契約通りだ。」
瀬人はケースを持ち、敷居まで歩いて、そこで一度だけ止まった。今朝までなら、ここで口にする言葉は決まっていた。ではな、とか、次だ、など。要するに、別れの言葉だ。
だが、家は、建ってしまった。
この敷居の内側が家になったのなら、現世へ発つのはもう別れではない。ただの外出だ。同じ敷居で、同じ男が見送る同じ夕刻でも、言葉は変わる。
「行ってくる。」
背中で、アテムが小さく笑う気配がした。泣くのと紙一重の、静かな笑い方だった。
「行ってらっしゃい、海馬。」
転送の光が満ちていく。風が最後にひとつ、頬を撫でた。
砂の匂いのする、乾いた、家の、風だった。
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