01 灼かない太陽
死者の国に、温度という概念は存在しない。
正確に言えば、過不足がないのだ。冥界は常に実りの直前、川は常に満ちる前夜、風は常に肌に快い強さで吹いている。暑くも寒くもなく、乾きも飢えもない。死者に必要なものなどなく、温度もまたそうだった。
光はあった。空には太陽が昇り、昼を渡って沈む。だがその太陽は現世のそれのような灼熱ではない。額に汗をかくこともなく、肌を刺すこともなく、ただ世界を照らしている。
生前は、太陽神の子と呼ばれた。玉座から見上げた太陽は、直に見ると視界が白くなった。じりじりと照りつけては川を細らせ、地表を、人を、容赦なく焼いた。
神とは本来そういうものだ。それに比べて、ここの太陽は優しい。誰かを灼くことはない。
最初の内は、ここを楽園と呼ぶことに疑いはなかった。父が居て、マハードも居た。マナが走り回り、神官達が並び、果たすべきことは全て果たされていた。
別れるべき者とは、もう、別れを済ませてきた。
済ませてきた、筈だった。死者の務めはただ1つ。それはここに在ることで、アテムはその務めをよく果たしていたつもりだった。3000年に及ぶ封印に比べれば、永遠は短いとすら思っていた。
空が割れた日のことは鮮明に覚えている。死者の国にカレンダーはないが、近い概念はある。あの日は、「それ以前」と「それ以後」の境界線になった。
天頂に稲妻のように青白い亀裂が走り、見たことのない物体が次元の継ぎ目を強引に抉じ開けて降りて来たのだ。神々の怒りではないか、死者達はざわめいた。
アテムだけが、平静だった。降り立った人影の輪郭に沿って、空気が歪んでいた。一瞬、陽炎かと思った。冥界では初めて見る"熱"の形だった。
誰何する必要などはなかった。あの歩き方を忘れる死者がいるのなら、いっそもう一度死んだ方がいいレベルだ。
「決着を付けに来た。」
挨拶も、経緯も、奇跡のような状況への言及もなかった。1年と少し前に黙って消えた相手に向けて、この男に可能な唯一の呼びかけがこれだったのだろう。
決闘の中身について、敢えて考察することはしない。あれは、後の誰かの記録のためのものではない。
ただ、1つだけ書くなら──盤面を挟んで向き合っただけで分かった。男は、熱かった。攻撃宣言の声に呼気が混じり、肌を汗が伝っていた。
アテムは自分の指を見た。冷えてはいなかった。温度が、熱がなかった。比較するものが現れるまで、無いことにすら気付かなかった。
決着は着いた。どうなったのかは、2人だけのものだ。アテムは誰にも言うつもりはなかった。
瀬人が、機体に戻りながら振り向きもせずに言った。
「次だ。」
亀裂が閉じると、空は元の明るい青に戻った。男の立っていた場所が、暫く熱を覚えていたようだった。アテムは裸足でそこに立ってみた。足の裏に、微かな温みがあった。
死者の国に持ち込まれた最初の異物だった。
それが冷め切るまで、その場を動けなかった。
それからの楽園は、少しずつ味を失った。
パンは変わらず満たしたが、満たすだけだった。ある筈のない美味いという感覚を、いつの間にか探すようになっていた。
風は変わらず快かったが、それは風が快いものだという記憶をなぞっているだけなのだと気付いてしまった。
痛みのないことが、痛みになった。満ちている川を見て、これは満ちる前夜のまま決して溢れない川なのだと初めて思った。
完結した楽園とは、そういうことだった。
父は何も訊かなかった。死者は互いの完結に踏み込まないらしい。マナだけは、一度だけ、王は最近、空ばかり見ている、と言っていた。
アテムは否定しなかった。死者は嘘が下手になるのだと分かっていたからだ。死者には、嘘を吐く必要もないからだ。
男は何度も来た。
機体は来るたびに改良されて、滞在は少しずつ延びた。決闘をして、時に決闘もせず、冥界を並んで歩いてみた。生者の靴が土を踏む音は、死者の誰の足音とも違う気がした。重さがあり、速度があった。まるで、何かを必要とする音だと思った。
男は現世の話をした。モクバのこと、会社のこと、新しい技術のこと、かつての友がそれぞれの道で立てている生きる音のこと。
死者の国に変化の報せはない。報せとは時間の産物で、それは、ここに必要の無いものだからだ。
アテムはそれらを、日差しに照り付けられるかのごとく聞いていた。問いを重ねれば滞在の数分を言葉で埋められると学んでからは、訊き方も上達してしまった。死んでから身に付くものがあるのだと思った。
一度、髪を湿らせたまま降りてきたことがある。急な雨があったのだ、と男は言った。機体に向かう寸前まで外にいたらしかった。
冥界に雨は降らない。川は満ちていて、実りがあって、もう降る必要がないからだ。アテムは話を聞きながら、その髪が乾いていくのを眺めていた。
現世の水が、温度のない風に奪われて消えていく。それが、何故か惜しいと思った。雨水ひとつを惜しむ王が、かつてこの世のどこにいただろうか。
そして、来るたびに、瀬人には少しずつ変化があった。
冥界では、誰も変わらない。だからこそ、変化は、この男の上にだけ降り積もった。髪の長さ、声の出し方、やっていること。そう言ったものを数えてみたりした。
一度だけ、ここへ来るのに何を払っているのかと訊いたことがある。
「金だ。」
答えではなく、答えない、という答えだった。だが分かる。次元を抉じ開ける度に軋むのは、機体だけの筈がないのだ。
生者の時間は、言わば燃料であり、つまり、燃やすものである。この男は、来る度に、自分を焚いてここまで来ている。
死者には永遠があり、生者には残りしかないというのに、その残りを空の裂け目に注ぎ込んでいる。
何度目かの訪問の終わりに、閉じかけた亀裂を背にした男に向かって、アテムは言う。
「海馬。もう、来るな。」
「断る。」
即答だった。
いつものことだが、考える素振りすらなかった。
「死人に生者の予定を決める権利はない。」
「お前が来る度に、ここが冷えていくんだ。」
アテムは続けた。声が硬くなるのが、自分で分かった。「俺は満ち足りていた。欠けているということを知らなかった。お前が"熱"を持ち込むまでは。ここは楽園だ。なのに、今では、お前が帰った後は、ただの温度のない場所に見える。風も、川も、パンも、全部だ。お前は、俺の永遠を、壊しに来ているんだ。」
瀬人は遮らずに聞いていた。
「知っている。」
「……知っていたのか。」
「初めからだ。」
「最初、から。」
「お前は黙って消えて、黙って完結した。誰の許可を得て満ち足りた。俺は認めていない。お前の死も、お前の納得も、お前の楽園もだ。俺にとっての決着は、相手を打ち負かすことではない。相手の完結を壊すことだ。」
亀裂の青白い光が、男の輪郭を縁取っていた。
アテムは、笑いそうになった。
冥界の、死者の王として過ごして、これほど傲慢な弔問客は初めてだった。供物の代わりに熱を置いて行って、祈りの代わりに永遠を壊していくなど。
「次だ。」
男はそう言って、裂け目に消えた。いつもの捨て台詞は、その日だけ、約束の形に聞こえた。
マハードが来たのは、その後だった。
死して、なお仕えることをやめない魔術師は、王の顔を一目見て、魔術師の目で全てを見抜いた。
「王。お心が、重くなっておられます。」
死者の心臓は、真実の羽根と釣り合っていなければならない。それがこの国の唯一の法だった。欲のない心臓は軽く、それがここに在るための条件だ。欲を知った心臓は重くなる。
誰も咎めはしない。咎める必要がないからだ。釣り合いを失った者は、ただ、ここに在り続けられなくなるだけ。楽園とは完結した者の国であり、欲とは、未完の証なのだ。
アテムは、自分が計量を受けた日のことを思い出した。皿に載せられた心臓は、羽根と寸分違わず釣り合った。何ひとつ思い残さなかった者の心臓だった。
あの軽さを、今は、ほんの少しだけ恥のように思ってしまった。あれは果たし終えた軽さではなく、まだ何も惜しんでいない軽さだったのではないか、と。
「下ろす術は、ございます。」
マハードは静かに言った。何を下ろすのかは、言わなかった。言う必要がなかったからだ。
"熱"を忘れれば、心臓は元の軽さに戻るだろう。冥界に在りながら、再び、パンに満ち、風を快く受け、永遠を短いと感じるようになるだろう。
「考えておく。」
そう言ったが、死者は嘘が下手なのだ。
マハードは深く一礼して、それ以上は何も言わなかった。3000年前と同じ忠義の礼で、主の重さを黙認した。
カレンダーはない。だが、次に空が割れる日は分かっていた。アテムは葦の野の真ん中で、空を見上げて待っていた。
待つ、という行為を死者はしない。待つとは、未来を欲することで、必要だからすることだ。
行き交う死者達が怪訝に眺めているのが分かったが、それでも構わなかった。
心臓は重い。それでも、確かに死者である自分のものだった。名を取り戻した時のように、手放した筈のものが、再び、輪郭を持ち始めていた。
天頂に最初の亀裂が走る。青白い光、そして歪みはじめる空気。
──熱が、来る。
灼かない太陽の下で、死者は熱の方へ、一歩を踏み出した。
02 火傷
裂け目は、まだ完全には開かない。アテムは葦の野の真ん中に立って、空を眺めていた。
天頂が裂け、青白い光が落ち、機体が降りる。歪む空気の中に降り立った瀬人は、数歩でこちらに気付いて、足を止めた。
「……待っていたのか。」
「ああ。」
死者は嘘が下手だ。嘘を吐く必要がないまま長いこと居ると、嘘の吐き方なんて忘れてしまう。
瀬人は何かを言いかけて、やめた。代わりに、いつもより少しだけ長く、こちらを観察しているようだった。仮説が立証された時の研究者の目。新技術の開発を話す時と同じだった。
アテムはその視線の意味を問わなかった。問えば、答えまでの距離が縮んでしまう。
まだ、縮め方を決めていなかった。
その日は決闘をしなかった。冥界を歩いた。男は現世の話をし、やはりアテムは日差しに照り付けられるかのように聞いていた。
話が途切れた時──どちらが途切れさせたのかは分からないが──アテムは、手を伸ばした。
考えてからの行動ではなかった。考えていたら、3000年程かかっていたかもしれない。
瀬人の手首。
触れた瞬間、灼けた。
痛みと呼ぶしかないものだった。死んでから、初めての熱と痛みだった。
生者の体温が36度程度だというのは知っていた。だが、温度を持たない指にとっては、それは熔けた金属と何ら変わらなかった。骨まで届く"熱"。反射としては、引っ込めるのが正しい。なのに、アテムの指は引っ込まなかった。
瀬人は、動かなかった。振り払いもせず、握り返しもせず、ただ、歩みを止めて掴ませていた。
脈は、触れた指に伝わり続けた。速かった。表情よりも先に、脈が答えていた。
「灼けるな。」
アテムが呟いた。
「……それが死人の感想か。」
「死人の感想だ。」
それでもアテムは指を離さなかった。
「痛い。驚いた。痛いということが、こんなに……。」
言葉が続かなかった。こんなに、何なのか。死者の語彙に、その先を埋める言葉など、ありはしなかった。
生者の語彙にはあるのかもしれなかった。それを確かめたいと思った時点で、もう、認めたようなものだった。
「海馬。」
「何だ。」
言いかけて、アテムは一度、口を閉じた。
舌が、命令しか覚えていなかった。
来い。行け。許す。禁ずる。
王の言葉は全て、上から下に流れる。3000年前もそうだった。死んでからもそうだ。もう来るな、とこの男に言った時すら、自分は命じていたのだ。命令は安全だった。拒まれても、王のまま拒まれるだけだ。
頼む、というのは、頼んだ瞬間に王を脱いでしまう。
「手を、貸せ。」
言ってみたが、それでも語尾は命令になった。防壁の最後の一枚だった。
瀬人は少し黙って、それから、ひどく不機嫌そうに言う。
「遅い。」
「……遅い?」
「3年待った。設計は終わっている。」
事務的な声だった。この男にも事務的過ぎる声、というものはあるのだ、と思った。
「器が要るだろう。お前の魂の質量に耐える身体だ。理論はできている。実装に3年。長くて5年。」
「待てると思うか。」
「永遠を待った男なのだろう。」
「永遠は、短かった。お前を知ってからの数年の方が、長い。」
瀬人は答えなかった。
だが、答えない、という答え方を、アテムはこの男から学んでいたから知っていた。
「それまで、お前は来るな。」
「断る。」
やはり即答だった。
「お前は来る度に、自分を焚いている。3年分も焚けば……。」
「俺の燃費を、死人が計算するな。」
瀬人は手を引き抜いた。それから、まるで事務手続きのように、今度は自分からアテムの手首を掴んだ。
「っ……。」
「灼けておけ。忘れない程度に。」
熱が、骨に書き込まれるようだった。
死者の記憶は完全だ。色も、声も、葦の擦れる音も、一度通れば永遠に保存される。
"熱"だけが、保存できなかった。
冷めた熱の記憶は情報でしかなくて、知っているだけのそれに温度はない。手首を掴まれた感触を何度再生しようとしても、その度に温度は抜ける。だから、待つしかなかった。
次の裂け目を。
次の火傷を。
これを渇きと呼ぶのだと、アテムは思い出した。ナイルの民が最もよく知るその言葉を、死んでから随分と長い間、忘れていたものだ。
裂け目が開く度に、アテムは葦をひと結びした。死者の国にカレンダーはない。必要がないからだ。要るようになった者は自分で作るしかない。
結び目は少しずつ増えていった。それを数えながら、思った。暦とは天体の運行のことではなかったのだ、と。待つものがある、ということだった。
あの男が、俺の暦だった。
楽園は、もう完全に味がしなかった。それで良かったのだ。欠けた場所の輪郭は、欲しいものの形をしていた。
父に呼ばれたのは、計量の前夜だった。
アクナムカノンは多くを語らなかった。死者は互いの完結に踏み込まないからだ。その礼節を父は最後まで守ったが、別れ際に、たった一度だけそれを破った。
「お前は二度、誰かのために死んだ。次は、誰かのために生きるのだろう。同じことのようであって、まるで違うぞ。死ぬのは一度で済むが、生きるのは毎日だ。覚悟しておきなさい。」
静かな声だった。
マナは泣いて、笑おうとして、それでもやはりまた泣いた。
マハードは何も言わずに境界まで付き従い、3000年前と同じように礼をした。ただ、それは仕える者の礼ではなく、見送る者の礼だった。
計量の間は、最初の日と同じだった。
皿と羽根、そして秤。
アテムは、自分の心臓が載せられるのを見詰めていた。一度目の計量の時は、針は微動だにしなかった。何ひとつ思い残さない者の完璧な軽さだった。
今度は、傾いた。
躊躇うことなく皿は沈み、羽根は浮き、そのまま釣り合いは戻らなかった。
欲を覚えた心臓。渇きを思い出した心臓。火傷の痕を抱えた心臓。
それは、この楽園の基準で言えば、不合格だった。
書記の神が何かを記した。罪状ではない、出国の許可だった。
沈んでいく自分の心臓を、アテムは恥じなかった。寧ろ今は、あの完璧だった軽さの方が、少し寂しいものとして思い出された。
何も惜しまない者だけが持てる軽さ。あれは、清らかさではなく、まだ誰にも灼かれていなかった、というだけのことだった。
裂け目が開く。
青白い光の中に、機体が降りてくる。3年ぶり──現世の暦で、と後で聞いた──の陽炎。タラップに立つ男は、ほんの少ししか変わっていなかった。差し出された手もほぼ同じだ。
「器は出来た。動くかどうかは、賭けだ。」
瀬人が言った。
「分の悪い賭けか?」
「3割だ。」
アテムは笑った。死んでから、一番、人間の顔で笑ったと思った。
「上等だ。」
手を取った。やはり、灼けた。骨までだ。今度は、引っ込める反射ごと火の中に置いて来た。今の自分には、正しくない。
裂け目の向こうは、現世の色をしていた。
灼かない太陽が、背中で沈んでいく。
アテムは振り返らなかった。
一度目は、帰るために振り返らなかった。
今度は、目を逸らす理由が、もう、どこにもなかった。
灼かれに、行く。
03 生身
カードの縁で指を切った。
スリーブに入れ替える前、剥き出しの束をシャッフルしていた時だった。
浅く裂かれた皮膚に、薄い血の線が滲んだ。
アテムは、痛みよりも先に、その色を眺めていた。
「何をしている。」
デスクの向こうでタブレットに視線を落としていた瀬人が顔を上げる。アテムは指を立てて見せた。
「血が出た。」
「だから何だ。」
「いや。出るんだな、と思ったんだ。」
アテムは少し笑った。
瀬人は何も言わず、引き出しから絆創膏の箱を出して投げて寄越した。海馬コーポレーション社長の机に絆創膏が常備されている。少しおかしなその理由を、アテムは訊かなかった。
モクバが小さかった頃の名残かもしれないし、もっと最近の、誰かのための備えかもしれなかった。訊けば、何かの理由が確定してしまう。
この身体を得て、こちらに戻ってきて1年が経つ。
戻り方については、語れることは少なくはなく、語るべきことは少ない。
その経緯についてを言葉にすると、きっと、どの言葉も少しずつ嘘になるのだろうと思った。確かなのは結果だけだ。食べれば満ち、眠れば朝が来て、切れば痛んで血の出る身体。
影があり、熱があり、痛みがある。
指の傷は翌日には塞がり、もう何日かすると薄い線になっていた。新しい生の、最初の傷跡だった。アテムは時折それを眺めた。
3000年前の記憶はどれほど抱えても重さを持たないのに、この1センチにも満たない線は、確かに皮膚の上にある。
記憶は薄れる。傷は残る。身体とは、記録する装置なのだ、と今更のように思った。
かつての自分は、生まれた瞬間から墓を持っていた。王とはそういうものだった。玉座に座るより先に、死後の住所が定められている。
幼い頃、建設中の王家の谷を遠望したことがある。岩肌に穿たれていく暗い口を指して、いずれあなたの家になる、と神官の誰かが言った。
王になってからも、シモンが綿密な計画を立てて設計していると言っていた。
それらは脅しではなく、祝福としてのものだった。
死というものは、遠い予定ではなく、薄いヴェールのすぐ向こう側だった。毎朝の祈りは死者に捧げられ、暦は氾濫と再生を数えた。
王の務めの半分は、正しく死ぬための準備だったのかもしれない。
だから怖くなかったのだ、と今なら分かる。行き先が決まっている旅を、人は恐れない。
今のアテムに墓はなく、行き先はどこにも書かれていない。
検診は3ヶ月ごとと決められていた。前例のない身体だからデータを取る、と瀬人は言った。
白い部屋で電極をつけられ、アテムは天井を見ていた。モニターには波形が走っている。規則正しく、しかしよく見ればわずかに揺らぐ線。
「健康そのものです。驚くほど、普通です。」
医師はそう言った。
「この身体は普通に老いるのか?」
「データ上は、そうなります。」
普通に老いる。その言葉は安堵の形をして、まったく別のものを運んで来ていた。帰りの車で、アテムは胸に手を当てた。鼓動は、服越しにも分かった。
これは、いつか止まるのだな、と思った。いつかは分からない。だが、必ず。
あの波形は、予言に似ていた。
その夜から、心臓の音が聞こえるようになった。正確には、ずっと鳴っていたものが、聞こえるようになった。静かな寝室で枕に耳を沈めると、規則正しい音が響く。
生きている証だと思えば良かったのだろうが、アテムが思うのは逆のことだった。止まるまで鳴り続ける音。文字盤のない時計。
一度気付いてしまった音は、もう消し方が分からなかった。
変化は、静かに増えた。
交差点で、車の速度を測るようになった。青信号でも、曲がって来る車を目で追ってから踏み出す。階段では、手摺りの位置を確かめる。雨の日には、路面の艶を見る。どれも一瞬のことで、誰にも気付かれない筈だった。
気付く男が、1人だけいた。
海外出張のジェットが乱気流に入った時、アテムの指は肘掛けを掴んでいた。揺れが収まるまでの少しの間、瀬人は書類から目を上げなかった。
それがもう、見ていた証拠だった。
それ以来、移動の予定が僅かに変わった。深夜の便が減り、車の手配が早くなった。瀬人は何も言わず、アテムも何も言わなかった。沈黙の配慮はありがたく、そして、同じ分量だけ堪えた。
自分の変質が、他人の予定表に反映されるほど確かなのだと、知らされるからだった。
月1の決闘は、2人の間の儀式や祭祀のようなものだった。勝敗はもちろん、展開も何もかも記録される。
その日、アテムには勝ち筋が見えていた。デッキ残り枚数は少ない、目当ての1枚を引けば盤面を貫通する。確率はおよそ3割。かつての自分なら迷わず踏み込んだ数字だった。運命は引き寄せるものであり、確率とは、怯える者のための言い訳だった。
アテムは別のカードを切った。場を固め、消耗戦を選び、3ターン後に押し切られて負けた。
しかし、瀬人は勝者の顔をしていなかった。
「今のは何だ。」
「負けは負けだ。」
「そのような話はしていない。」
瀬人はフィールドを片付けもせず、アテムを真っ直ぐに見詰めながら続けた。
「貴様にはドローをしにいく選択肢があった。」
「3割だった。」
「お前は、その3割を引く男だった。」
アテムは、返す言葉を持たなかった。怯えはとうとうここまで来たのか、と思った。魂の領域だと信じてきた場所にまで。
瀬人はそれ以上踏み込まなかったが、カードを整える音が、いつもより硬かった気がした。
眠れない夜が、2ヶ月程続いていた。
午前3時のキッチンで水を飲んでいると、足音がした。瀬人が何も言わずに隣に立ち、自分のグラスに水を注いだ。
問い詰めないのが、ここ数年のこの男のやり方だった。沈黙を、椅子のように置いて、座るかどうかを相手に任せる。
その、任せる時間が非常に長い。これ以上は無理だ、隠すことを諦め、アテムは座ることにした。
「海馬。俺は臆病になった。」
水面の揺れが静まるまで、瀬人は黙っていた。
「俺は、死を恐れたことがなかった。16のとき、名ごと封じられた。あれは死というより供託だった。差し出すと決めていたものを、決めた通りに差し出しただけだ。それから3000年眠り、果たすべきことを果たして、扉を潜った。あの時も、振り返らなかった。あれは終わりではなく、帰還だった。最初の死には目的があって、二度目の死には行き先があった。恐れの入る隙は、どこにもなかった。」
「そうか。俺は、その場にいなかったがな。」
瀬人の声は平坦だった。
アテムは一瞬、口を噤んだ。決着を付けないまま消えた男と、知らされなかった男。あの欠席の意味を、2人とも別々の角度から知っていた。
「……あれは。」
「いい。先を話せ。」
終わっていない声で、しかし、瀬人は先を促した。
「今は紙の縁で指を切っただけで血の色を長く見てしまう。心臓の音を数えてしまう。交差点で車を確認して、階段で手摺りを探す。決闘で3割から、降りる。王として、死者として在った俺が、今更。」
アテムは一度、言葉を探した。結局見つからなくて、一番短いものを選んだ。
「死ぬのが怖い。」
声に出すと、思っていたよりシンプルな言葉だった。そして飾り気のない分だけ、本物だった。
瀬人は水を飲み干してから言う。
「当然だ。」
アテムは顔を上げた。
「恐怖は欠陥ではない。計算だ。失うものの総量に比例して増える。3000年前のお前は、差し出すものしか持っていなかった。名、玉座、命。何もかも、初めから捧げるためにあった。今のお前には、惜しいものがある。だから恐れる。それだけの話だ。」
「そんな単純に言ってくれるなよ。」
「単純だからだ。お前は退化したわけではない。獲得したのだ。失いたくないものを持つという、人間の標準装備を。」
瀬人がこちらを見た。
「王には、不要の装備だ。」
「だが、お前はもう王ではない。ここでは、誰もお前に死に方を要求しない。生き方もだ。お前が何を惜しもうと、それは全てお前のものだ。」
声は静かだった。
アテムはグラスの水面を見ていた。揺れの収まった水が、キッチンの薄明かりを反射している。
「……お前は、怖いと思ったことが、あるか。」
訊いてから、愚問かと思った。この男が恐怖を認める筈がないからだ。だが、瀬人は笑わなかった。
「俺は、お前の死を受入れなかった男だ。世界が終わったことにした死を、黙って消えた男の不在を、1人で却下し続けた。次元に穴を開けてまでな。臆病の年季ならば、俺の方が上だ。」
臆病。
その言葉に、アテムは、呆気に取られたまま瀬人を見た。なんとか気を取り直して、口を拓く。
「あ、あれを、臆病と呼ぶ奴が居るかよ。」
「呼び方の問題だ。失うことを認めない。認めたくないほど怖いからだ。同じものを、俺は執念と呼び、お前は臆病と呼んでいる。中身は同じだ。」
瀬人が立ち上がった。
「……海馬。」
「何だ。」
「お前のそういうところに、俺はいつも……。」
言いかけて、やめた。言葉にすると、どの言葉も少しずつ足りなくなる。嘘は嫌だった。アテムは言葉の続きを飲み込み、代わりに残った水を飲んだ。瀬人は追及しなかった。確かなのは結果だけだ、という顔をしていた。
数日後、執務室で書類の束を渡された。中期経営計画の草案だった。アテムがページを捲る間、瀬人は窓の外を眺めていた。
5年後の欄に、自分の名前があるのを見つけた。新規部門の監修として、当然のように印字されている。
「海馬、これ5年後の話だぜ。」
「読めば分かるだろう。」
「こういうの、鬼が笑うって言うんだぜ。」
「笑わせておけ。未来は信じるものではない。予約するものだ。埋めた者の勝ちだ。」
瀬人は振り向きもしなかった。
アテムは万年筆を取った。承認欄に自分の名を記入する。一度はこの世界から消えた名を、5年後の日付の隣に。
インクが乾くまでの数秒の間、アテムはそれを眺めていた。墓碑銘ではない場所に自分の名が刻まれるのは、思えば、初めてのことではないだろうか。
瀬人は、書き終えた書類を一瞥して、何も言わずに引き取った。
次の決闘で、同じ局面が来た。デッキは残り少ない、引けば通る1枚、引ける確率は3割を切っていた。
指がデッキに触れる。心臓の音が響く。止まるまで鳴り続ける音、文字盤のない時計。
アテムは一度だけ目を閉じ、それから、カードを引いた。
引いたカードがどうだったかは、記録に残っている。語られることはない。
ただ、その夜の瀬人の機嫌が、口数の少なさに出るほど良かったことと、片付けられるカードの音が柔らかかったことだけが、確かだった。
寝室の暗がりの中、アテムは隣の手首に触れた。内側に規則正しい音がある。自分のものより、少し遅いだろうか。2つの時計が、僅かにずれたまま時を刻んでいる。どちらが先に止まるかは、どこにも書かれていない。
「数えると眠れなくなるぞ。」
瀬人が目を閉じたまま言った。
「経験者の言うことか?」
「1年と少し、毎晩だ。」
アテムは短く笑った。笑えたことに、少しだけ驚いた。
恐怖は消えていない。きっと、消えるものではないのだろう。
心臓は明日も鳴り、いつかは止まる。傷は増え、いくつかは跡になる。それを抱えたまま朝を迎えることを、人は生きると呼ぶらしい。
3000年かけて、アテムはようやくその初歩を学んでいるのだった。墓のない人生の、行き先の書かれていない旅の、最初のページを。
指先で、薄くなった傷跡をなぞる。もう殆ど見えない傷だ。だが確かに、そこにある。この身体に刻まれた最初の記録。失うことを、惜しむことを、覚え始めた日の。
隣の呼吸が深くなっていき、アテムは、数えるのをやめて目を閉じた。
2つの音は鳴り続けていた。僅かにずれたまま。
それは怖い音であり、同じ強さで、確かな音だった。
