2000年の木

言えなかった言葉を、アテムは土に注いだ。


冥界はいつも乾いて晴れていた。
瀬人が次元を超えて降り立つと、光が燦々と降り注ぐ。それは古代のアテムの世界と同じ光で、神殿の柱の影が真っ直ぐに伸びていた。
アテムは、すぐには振り向かなかった。
側に居る神官がパピルスを広げて読み上げていた。それにアテムが答えて、神官が頷き、筆を墨に浸して書きつける。少し書いてはまた読み上げるのを、繰り返していた。それが王の務めというものらしかった。
瀬人はタブレットを取り出すと、別の仕事を進めて待った。
決闘 デュエルをしに来たのであって、インタビューの真似事を眺めに来たのではない。生身で次元の壁を越えるためにどれだけ積み上げたと思っている。時間は買えるが、ここで捨てる分には、誰も値をつける者はいない。
そう思ったが、神官の手は遅く、ほんの些細な事で筆が止まった。アテムが言い直し、神官が訊き返す。同じ問答は何度も繰り返された。
「アテム。」
返事はあったが、片手で待ってくれと示されただけだった。
瀬人は舌打ちをして、手の中のタブレットを描画モードにしてアテムに突き出した。
「済ませろ。それで書けるだろう。」
アテムは一瞬それを見て、受け取った。
指が画面に何度か触れると、迷いなく何かを記していく。先程まで筆の前でのんびりしていたのが、別人のように速かった。すぐさま全ての解答が記され、タブレットは神官に渡った。神官はそれを筆でパピルスに写していく。
律速していたのは問答ではなく、道具の方だった。
神官が一礼して去る頃には、柱の影が少しだけ傾きを変えていた。
アテムがタブレットを差し出して返す。
「助かった。ここには無かったからな。」
瀬人はそれを受け取って仕舞った。礼を言われるようなことはしていない。早く始めたかっただけなのだ。
「決闘だ。」
アテムは頷いてデュエルディスクを構えた。



次に瀬人が来た時にも、アテムは神官と話していた。
瀬人は柱の影に立って待った。今日の影は、前回より長い。タイミングを選んで来ているわけではない。だからこそ、来られる時に来るだけだ。
アテムはパピルスに目を落としたまま、何かを答えていた。ちらりと、視線を寄越してから、また神官に戻った。
それから、ひと束ほど経って、ようやく神官を下がらせた。
「待たせたな。」
「待たせるな。俺の時間の方が高い。」
事実だった。海馬瀬人がここで立っている1分間は、現世ではとんでもない額に化ける。それを承知でやって来ているのだが、決して待つために来たのではない。
アテムは悪びれずに笑った。
「分かった。それなら、次からはお前が来る時に、俺の時間を空けよう。神官は後にする。」
瀬人は黙った。悪い話ではない。日時を決められれば良いが、それは無理な話だった。約束出来る時刻は、瀬人にもない。ならば、来た時にアテムが空いている、というのは最善の状態ということだ。
「だが、俺にも公務がある。務めを後回しにするんだから、相応のものはもらうぜ。それでいいか?」
「いくらだ。」
「金じゃない。紙とペンでいい。まともなやつだ。」
アテムは思いついたように言った。
それから、筆では遅い、と付け足した。先日の端末を思い出したのだろう。書いて渡す。確かにあれは速かった。
くだらん。それが瀬人の感想だった。そんなものは、ペーパーレス化で使われずに倉庫にいくらでもある。
「良かろう。」
紙とペンのセットでアテムが決闘の時間を空けるのだ。あまりにも破格で、瀬人はその場で取引をしたことを忘れた程だった。
アテムはもう場所を移していた。デュエルディスクを構えるのが、いつもより早い気がした。
瀬人も、デュエルディスクを起動させた。



それから、来る度に何かを頼まれるようになった。
紙はすぐに尽きた、次は替えのインク。その次はもっと厚い紙を。ある時は、現世の事を調べて来て欲しいと言われた。
何を調べるのかと尋ねれば、何でもいい、と言う。アテムの知らない今を、アテムは瀬人を通して覗いていた。
どれも断る程ではない頼みだった。要望は毎回小さく、対価はきちんとある。断らないままでいたら、数が増えていた。
気付くと、次元の壁を抜けて初めにすることが、決闘ではなく注文を聞くことになっていた。紙とインクと、今の世界の話。
瀬人が来ているのは、勿論そのためではない。

ある日、アテムが小さな頼みをいくつか口にした辺りで、瀬人が遮った。
「なるほど。分かった。」
アテムが口を噤んだ。まだ全て頼み終えていない。
瀬人はタブレットを出した。この前の端末だ。指先で操作して、アカウントを作り、海馬コーポレーションのサービスに繋いだ。
「注文をすれば、ここへ届く。」
冥界へ何かを運べる前例を持っているのは、世界で瀬人だけだ。しかし瀬人がしたいのは決闘だけ。だからこのシステムを作ったのだ。決闘のために。
「これは?」
「必要なものを検索して、欲しいものは自分で発注しろ。俺は運び屋ではない。」
タブレットをアテムの手に押しつける。
「支払いは?」
「必要ない。」
支払いは瀬人に乗る。自社サービスなので確認は可能だが、今までの要求を考えれば、額など見るまでもなかった。
冥界まで来るような男が、紙とインクの伝票を気にする筈がないのだ。こうすれば、瀬人が注文を聞かなくても、アテムも時間を空けておくのだから最適解だった。
そう思っていた。
「これで、決闘の前に足止めをされることもない。」
アテムはタブレットを両手で持って、少し黙っていたが、いつもの顔で頷いた。
「助かる。」
その日の決闘は、久しぶりに最初から始まった。
帰り際に振り返ると、アテムはまだタブレットを見ていた。注文の仕方でも確認しているのだろう。瀬人はそう思って、現世へ戻った。
何を頼むつもりかなどは、どうでも良かった。






アテムが最初に注文したのは、やはり紙とペンだった。
取引通りの品が、翌日、タブレットの脇に届いていた。どういう理屈で届くのかは分からない。それは次元を越えてくる瀬人の管轄であってアテムの管轄ではない。
紙に試し書きをしてから、別のものを注文した。
今までの取引とも公務とも、全く関係のない物だった。画面の中でそれを探すのには、少し手間取った。何を探しているのか、自分でもはっきりしていなかったからだ。
長く生きる木。その種。
ある程度の調べはついていた。2000年生きるという木がある、と聞いたことがあった。殆ど水のない土地で、自分で幹に水を蓄えると、雨を待たずに生きることが出来るのだと。
それを選んだ。購入ボタンを押す時にも、理由は言葉にならなかった。
種は、いつもの納期で届いた。
真珠程度の大きさしかなかった。手のひらに転がすと、ざらついて、乾いて、硬い。摘んでみるも、これが2000年になるとは信じられなかった。

そんなことをしている間にも、瀬人はやって来た。
これまで通りに、アテムは時間を空けて、決闘はすぐに始まり、すぐに終わった。
瀬人は、来て、決闘をして、帰る。それだけの男だった。
何を買ったのか、と訊かれることはなかった。
アテムが何をして時を過ごしているのかは、瀬人の関心の外側だったようだ。
以前、外の世界のことを尋ねたときも、立ったまま一行ニュースで済む程度だったのだからそれも当たり前だろう。
別段、購入したものについて訊かれるのを待っていたわけではない。
瀬人が去った後、アテムは私室に戻って、種を摘み上げた。

それから暫くして、鉢を頼んだ。
更にもう少し間を置いて、土を頼んだ。
まとめて頼まなかったのは迷ったからではない。育て方なら一通り調べてあった。
種を手に入れ、置き場所を決め、それから土を用意する、それだけだ。

土が届いた日、早速、種の休眠打破に取りかかった。
この硬い種は、そのままでは芽を出さない。殻に傷をつけ、湯で目を覚まさせなければ、中の命は外へは出て来られない。
種を指で挟み、どこに傷を入れるか、暫く確認していた。根のある側を傷つければ、殺してしまう。丸い背中の側を、薄く。
小刀の先を当て、力を加減して、ゆっくりと引いた。ざらついた表面に、浅く一筋。深すぎても、浅すぎてもいけない。確かめながら、何度も指で向きを変えて薄く傷を入れていく。
こんな小さなものを、こんなに丁寧に扱ったことはなかった。
傷を一箇所入れるのに、かなり時間をかけた。生かすために、まず傷付ける。それを、出来るかぎり優しくやったつもりだった。
湯に落とすと、種は底に沈んだ。沈むことが、生きている証らしい。
一晩そのまま置いて、傷のある側が少し膨れた種を土に埋めて、鉢を明るい場所に置く。古代と同じ光が、照らしてくれる。
後は、発芽するのを待つだけだった。
待つのは、あまり得意ではなかった。



芽は、大体10日程で出た。
傷を付けた殻を割って、緑のものがまっすぐ伸び、種の中から出ようとしていた。生かすための傷から命が吹き込まれた。アテムは、暫く黙ってそれを眺めていた。
それからは、世話をするのは日課になった。
直射日光が当たりすぎないよう、場所を変える。土の乾きを指で確かめて水をやる。日が落ちて冷える頃は、室内へ入れる。
葉が増えて根が回ってきたのを確認して、ひと回り大きな鉢に移した。
注文は、間を置いて続いた。月に1度の少量の肥料、時々、ひと回り大きな鉢と土。それらは、タブレットの履歴にだけ、痕跡が積もっていった。


瀬人は、相変わらずやって来た。
来て、決闘して、帰る。変わらないスタイルだった。月に幾度か、次元の壁を越えて生身で死者の国へやって来る。それがどれほどの手間なのか、アテムも分からなくはなかった。しかし、瀬人は決闘のためにそれを惜しまなかった。
決闘のためだ、と瀬人なら言うだろう。
アテムは、そう思おうとした。
だが、それだけだとは思いきることが出来なかった。ここへ来る頻度も、長引く決闘の盤面も、過去の手を細かく覚えていることも。
やっていることはアテムが胸に抱えているものと同じだった。それを、別の名で呼んでいるだけではないのか、と。
だが、やはりそれは言わなかった。きっと、否定するだろうし、そうなればこの繋がりが切れるかもしれない。
だから、アテムは黙って木に水を遣った。
決闘で言えなかった分なら、いつも余っていたから。言葉にはしないが、土に注いだ。カードの前で飲み込んだものは、夜になると溢れそうになる。それを木に遣って、そうして木は伸びていった。

木が伸びるのは、ある程度の時間を要した。
2000年生きる大木は、1ヶ月かけて掌の長さ程しか伸びないし、何より頼りない細さだった。
早く大きくなれと、つい思った。瀬人の時間は、有限だから。永遠を持っている筈の自分が、なのに焦っているのだった。
間に合うのか、いや、何に間に合わせたいのか、何も分からないふりをしたまま、アテムは鉢を覗き込んでいた。
やがて、木は膝の高さになった。幹は少し木質化して来ているが、まだ、あの幹の太さはなく、2000年の片鱗もない。それでも、こうして根付いた。それは、もう、簡単には枯れないということだった。
この木は、アテムが手をかけた分だけではなく、これから2000年を生きるのだろう。永遠かもしれない。そんな確証を得た。

確証を得たが、それは静かなものだった。
木は枯れない。根付いた。これから2000年、陽の下に立つだろう。アテムは鉢の前に蹲み込んで、暫く様子を確認していた。
手をかけた甲斐があった。守りきった。そう思っていい筈だった。
なのに、それは、少しずつ重くなった。
──2000年。
口の中で転がしてみる。長すぎて、想像もつかない。
自分はそれを見届けられる。死者にはいくらでも時間がある。問題は、その時間を一緒に過ごしたい相手が、2000年を持っていないという事だった。
瀬人は生身の人間で、生きている。ということは、終わるということだ。せいぜい後、数十年程度て、それは木の一生とは比較すら出来ない。
アテムが死者の国で確保した永遠は、永遠を分けてやりたい相手には、届かない。
この木は、間違った場所に、間違った永さで、立つことになる。
正しいのは、月に何度か次元の壁を越えて来て、決闘をして、帰って行く方だ。そして、その度に、少しずつ歳を重ねていくのだろう。
話し方が変わったような気がしたし、体格も変わった気がした。
前に来た時より、ほんの少しずつ。変わらないようでいて、変わっていく。死者の目は、生者の時間に敏感らしい。止まっている側からは、変わっていくものがよく見える気がした。

今までは、良かった。
決闘で言えなかった分は、土に注げば良かった。木が際限なく飲んでくれたからだ。
芽が出て、葉を広げて、大きくなれば鉢を替える。そうやって、世話をして注ぐ先があった。手を動かしている間は、考えずに済んだ。
ある程度育つと、木は、もう、それほど水を必要としなくなる。乾いたら遣る程度でいい。
根を張った木は、自分で水を抱えるようになる。だから敢えて水捌けの良い土に変えたりもした。
それでも、木は調べた通り乾燥を好むらしい。乾燥気味にして置いておくしかなくなった。そうすると世話の手が空いてしまう。注げなかったものは、行き場をなくしてしまった。
そうして残ったものが、心のどこかを押していた。
あの硬い種を思い出した。傷を付けなければ、中のものは外へ出てこられなかった。場所を選んで、生かすために、まず傷付ける。調べて、その通りにした。
今、似たことが自分に起きている気がした。
確かになった事が、まるで刃のようだった。場所は選べなかったし、優しくもなかった。浅い傷では済まず、それは少しずつ深くなっていく。
そうして、傷の奥から、2年の間抱え込んで来たものが、出ようとしていた。
生かすために、まず傷付ける。こんな形で返ってくるとは、思っていなかった。傷は、生かされることを保証してはくれないのに。
夜、アテムは鉢の前に座っている時間が、長くなった。
することは、もう殆どない。土は湿っているし、葉はピンと張っていて、明日の朝の為に向きも直してある。それでも立ち去れずに、葉を一枚ずつ見詰めていた。そうすれば、まだ何かしているふりが出来た。

それも、時間の問題だった。しているふりが、効かなくなって来ていた。

ある時、決闘の最中に、手が止まってしまった。
フィールドの上に居るのに、次の一手が、出て来なかった。見えていないのではない。見えている。なのに、別の事が頭に割り込んだ。
あと、何十年。今で、1000分の1。この男は、いつか来なくなる。来なくなった後も、自分はこの盤面の形を覚えているだろう。それに何の意味があるのだろうか。
「アテム。」
呼ばれて、我に返った。瀬人が、じっとこちらを見ていた。
「どうした。」
「何でもない。」
手を動かして、次の手を指した。完全に悪手だったことには、置いてから気付いた。こんなミスは、これまで一度もしたことがなかった。
殻の傷は、こんな所まで届いていた。
巻き返せる筈もなく、その日はそのまま負けた。
負けた事は、これまでも何度かあるので問題ではない。問題は、なぜ負けたのかを、なぜあんな悪手を放ったのかを、瀬人が分析している様子だったことだ。
帰り際に、瀬人が振り返った。
何かを言いかけて、しかしそのまま戻って行った。
アテムは暫く動けなかったが、気付けば、いつものように、鉢の前に向かっていた。木は、何も変わらず、真っ直ぐ立っていた。これから2000年、ここに立っている筈の木。
水を遣る必要は、なかった。
それでも、遣った。
手を、動かしていたかった。






あの日の決闘が、瀬人の頭から離れなかった。
アテムが負けたからではない。あの男が、見えている手を指して来なかったからだ。フィールドの上に、置くべきカードは決まっていた。アテムは恐らくそれを見ていた。それなのに、悪手を放った。
こんなことは、今までになかった。
瀬人が他人の私事に関心を持つことはない。アテムが冥界で何をしていようと、どうでもよかった。
だが、決闘の中の異常だけは別だった。フィールドの上に出た綻びを、見なかったことには出来ない。それは、瀬人にとって、唯一見過ごせない他人の事情だった。
何があった。
考えても、材料はなかった。アテムのことを、瀬人は殆ど知らなかった。知ろうとしたことなどなかった。それでも、手元にヒントが1つだけ存在した。
KCネットの、アテムのアカウントだ。
タブレットの履歴を開いた。自社のサービスであり、元々自分の使っていた端末だ、それくらいは残っているし辿れる。
アテムの注文記録を開くのは、初めてだった。領収書など出していないし、これまでは見る必要など感じなかった。履歴には紙とペンしか情報はないだろうが、解析すれば何かしらは分かるかもしれない。
購入履歴に並んでいたのは、やはり、想像通りのものだった。
紙。ペン。インク。ここまでは、覚えがある。実際に実物を持って行ったこともある物だ。
その下から、知らない列が続いていた。
種。
播種用の、小さなポット。
鉢。
土。
肥料。
そこから先は、同じ品が、間を置いて繰り返されていた。定期的に肥料を、鉢も2回。後のものほど、大きく深い。日付を確認すると、今もまだ続いているようだった。
瀬人は、画面を上から下へ、もう一度辿った。
何かが、この2年をかけて、少しずつ育っている。鉢が深くなるだけの、根の張る何かが。月に1回の肥料は、その月もそこに手をかけた者がいたということだ。
アテムが土に手をかけている2年は、瀬人が次元を越えて通っている2年と、重なっている。
アテムが何をしていたのかを、瀬人は今、知った。
そして、自分が何をしてきたのかも、同じ履歴の中に書いてあった。生身で死者の国へ向かう。月に何度も、決闘のために。
──決闘のため。
画面を消した。
問いの答えは、履歴の中に載っていた。確かめるには、実際に行くしかなかった。
キューブが、手の中で起動した。
今日は、決闘のためではなかった。





朝から、アテムは水を遣ろうとしていた。
陽の当たる場所に鉢を出し、その前に蹲んで葉の艶を眺めていた。土はまだ乾いていなかったし、要らないと分かっていて、それでも器を傾けようとしていた。手を動かしていたかったのだ。
そこに、影が、落ちた。
鉢の上に、長い影が伸びている。アテムは、顔を上げる前にそれが誰のものか分かった。
顔を上げると、瀬人が立っていた。
いつも決闘をする場所ではない。こんな朝に来たこともない。
アテムが毎朝ここで鉢の前に居ることを、瀬人が知っている筈などなかった。だが、瀬人は、真っ直ぐここへ来ていた。
器を持ったまま、アテムは動けなかった。傾けかけた縁で、水は落ちる手前で止まっていた。
瀬人の目が、木に向いた。アテムの膝から胸程の、細い一本。まだあの幹の太さもない、頼りない若木。アテムが、毎日手をかけてきた、それ。

見られた、と思った。
隠していたものを、隠していたかった相手に、見られたくない格好で、見られた。
器を持って、要りもしない水を遣ろうとしている、その手つきごと、見られた。
瀬人が、履歴を見たのだ。だから、ここにいる。だから、来た。
何か言わなければ、と思って言葉を探した。
「好きだ」とは言えなかった。
「居てくれ」とも言えなかった。
2年かけて言えなかったものが、こんな時にだけ出てくる筈もなかった。
沈黙が長かった。
やがて、アテムは、木のことを話すことにした。
「……これは、2000年生きる。」
それでも、これだけしか出て来なかった。
自分で水を抱えて、誰が居なくなっても立っている木だ。お前がいつか居なくなっても、2000年生きる、という言葉は、やはり都合よく出て来る筈もなかった。
瀬人は、答えなかった。
代わりに、アテムの手から、器を取った。
アテムが2年間、自分の手だけでやってきたことを、瀬人が、自分の手でやった。器を傾け、木の根元に、水を落とす。土は湿っていて、要らない水だったのに、それでも、溢れさせた。
土が、また黒く湿っていく。
アテムは、それを見ていた。何も言えなかった。今度は、言葉が見付からないからではなかった。
水を遣り終えると、瀬人は、空の器を、アテムに返した。
返す手が、一度、止まった。
それだけだった。それで、足りた。

アテムはそっと、その指に触れた。
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