22才の別れ

季節のない冥界に、2人で過ごした5度の春があった。『22才の別れ』(伊勢正三)より


冥界の王宮は、神事の気配が満ちていた。
香が焚かれ、供物が運ばれ、神官たちの足音も常より多く、どこか忙しない。廊下の柱には布が巻かれ、どこもかしこも装飾が施されていく。
その朝にも、瀬人が来て居た。次元の境界を破って来る。皆、その音にも慣れてしまったようで、驚く者はもういない。

「何の騒ぎだ。」
タブレットから顔も上げずに瀬人が言った。冥界のデスクで現世の仕事をするのが、海馬瀬人の通常運転だった。
「俺の誕生日らしいぜ。実際は、死んだら、もう年は取らないんだがな。」
瀬人の手が止まった。
顔を上げて、アテムを見た。
「いつ、死んだ。」
「16だ。」
「封印は。」
「3000年ほど。」
「その間の記憶は。」
「ない。」
瀬人はタブレットを置いて腕を組んだ。これは仕事をしてる時の、数字が合わない時の仕草だと、アテムは知っている。
「意識のない時間は稼働していないということか。止まった装置と同じだ。」
「装置。」
「3000年は停止期間として除外するのが正しい処理だ。パズルから出て以降と、ここでの年数を足せ。」
瀬人は立ち上がった。
「今年はいくつになる?」
「……何がだ。」
「お前がだ。」
「17になるらしい。」
それだけ聞いて、瀬人は装置の方へ歩き出した。
神事に巻き込まれる前に、現世へ戻ると言う話だった。

神事の日。
祝宴が終わり、神官たちが下がり、王宮が静かになった夜に、境界が破られた。
瀬人は、何も持っていなかった。
書類も、タブレットも、ケースも。手ぶらのこの男を、アテムは初めて見た。
「祝いにでも来てくれたのか。」
「祝われたいのか。」
瀬人は長椅子に座り、背を預けた。
「祝ってくれるのなら、有難く祝われるぜ。珍しいからな。」
「酔狂な奴め。まあいい、17を始める年にしてやる。」
何を始める、とまでは言わなかったが、アテムには分かった。それから、アテムは自分の心臓が神事の太鼓より速くなっている事に気付いた。
その夜、あの男は朝まで居た。
何も始まっていないような顔をしていたくせに、全部の始まりの夜だった。





当然だが、冥界に四季はない。
春という言葉を、アテムは冥界に来る前に存在していた分だけ知っていた。3000年前の氾濫の後の緑は知っている、現世の桜も同様だった。
ここには緑は生まれる。しかし、四季のない場所だと、色も温度も変わり映えしない。まるで、季節がないような気がしていた。

18の神事の後、瀬人がケーキを持ち込んだ。
その年、初めて目の前に自分のローソクが並べられた。
「点けろ。16までだ。」
「……16?」
「お前が1人で使った年数だろう。」
アテムが火を灯していく。1本目から、16本目まで。3000年前の年月に、火が一つずつ立っていく。
16本目で、瀬人が火種を持つアテムの手を取った。
そして、17本目に火が灯る。
「去年の分だ。」
続けて、18本目にも。
「今年の分だ。」
言葉は少なかったが、17本目が何の年かが、ケーキの上に灯っていた。
始まった年からは、2人で点ける。アテムは隣を見上げて、少し笑った。
この年のケーキは、どちらの味覚にとっても甘過ぎた。瀬人は一口で「改良の余地がある。」と言ったが、アテムは二切れ食べた。

その年から、境界はあってないようなものになっていた。
瀬人は仕事の山を提げて来て、デスクで現世の仕事をしている。
アテムは玉座の間で冥界の仕事をした。別々の部屋で働いて、夜だけ同じ場所にいた。
効率が悪い、と瀬人は文句を言った。それでも、来る回数を減らさなかった。
アテムは珈琲を淹れるようになった。瀬人が装置ごと持ち込んだものだ。
アテムはそこまで拘らなかったが、瀬人は冥界の水で淹れると味が違うからと言って、拘りの水まで運び込むのだった。
神官達は、王の机に置かれた黒い液体について、最後まで供物の一種だと思っていたらしい。



19本目の年、何故か箱は2つに増えていた。
「試作が出た。比較しろ。」
買収したのか出資したのか、そんなところだろう。瀬人の拘りが強いことをアテムは知っている。
そして、2つとも食べて、アテムは黒い方が好みだと答えた。瀬人は白い方だと言った。
結論は出なかったが、味の好みなど、そんなものだ。



20本目の年、火を点けた後、何故か瀬人が火を消させてくれなかった。
「燃え尽きるまで置いておけ。」
「溶けるぜ。」
「測定する。」
「何を。」
何を測るのかと思えば、20本のローソクが、何分で燃え尽きるのか、ということだった。そして、あの男は本当に計っていた。
ケーキの甘い香りとローソクの芯が燃える匂いが混ざる中、アテムは待った。
瀬人は、計り終わって、手元のタブレットに数字を打ち込んで、それから言った。
「来年は、これより長く持つ蝋を用意する。」
1年に1本しか増えない数のために、蝋の配合を変える。ここまで行くと拘らなくては居られないのは、この男の仕様なのだと諦めるしかなかった。
アテムは、声を出して笑った。こんなに笑ったのは、冥界に来てから初めてだったように思う。



21本目の年、アテムは訊いた。
「海馬。春って、どういうものだと思う。」
火の揺れる机の向こうで、瀬人は少し黙った。広辞苑のような答えを考えている様子ではなかった。アテムも、そんな答えは求めていない。
「……終わる迄は気付かんもの。」
「へえ、体験談か。」
「一般論だ。」
21の火が揺れて、ケーキはやはり2つあって、珈琲は現世の水で淹れられていて、椅子の背にはコートが掛けられている。
季節のない場所に、確かに季節があった。
名前を付けるなら、それしかなかった。
春は、長かった。
長過ぎて、アテムは、長さを計ることを忘れていた。

計らないままで居られる時間を、時期を、幸福と呼ぶのだと、それを知るのは、計り直す時が来てからだった。





沙汰は、公務として届いた。

神々の意向は、いつもの書類の様相でやってくる。手の中の文書に、魂の循環の調整と記されていた。冥界の王位は次代へ、現王の魂は輪へ。
転生の道が、決裁待ちの束の一番下に、他の書類と同じ紙で挟まっていた。
アテムは、それを何度か読み返した。
断ってもいいという話だった。命令ではなく、これからについての道の1つだった。選択肢は、開いているのだと。

その夜から、アテムは考え始めた。
転生すれば、年を取れる。誕生日が来て、1年に1つずつ、誰かに数えて貰わなくとも、勝手に増えて行くのだ。生まれて、育って、老いる。
16で止まった針が動く。
欲しくなかったと言えば、それは嘘になる。
欲しいと知らずに居た頃には、戻れなかった。17本目の火が点けられた夜から、戻れなくなっていた。

──だが、記憶は。

アテムは執務の手を止めて、部屋の隅のデスクを見た。瀬人が滞在のたびに座る場所。今は空だった。
あの男が、セトの転生だという憶測は、恐らく外れていないだろう。
3000年前、共に戦い、後を託した従兄弟。その魂は、目の前でタブレットを眺め、ローソクを数え、ケーキの試作を比較しろと言った。
しかし、何も覚えていない。
神官の名も、王宮の決まりごとも、託した言葉も。あの魂は記憶を全てどこかに置いて来た。そのことに、気付いていない。
いや、気付いていないのではない。持っていないのだから当然だ。
5年間、隣に座っていた、ずっと見ていたから、知っている。瀬人の全てが、答えだった。
残ればいい、と願うことはできる。
だが転生をしたことのある者は、この王宮のどこにもいない。居たとしても覚えていないのかもしれない。
分かっているのは一例だけで、その一例は、覚えていない。
だから、きっと、消えるのだろう。
アテムは文書を決裁の山に戻した。一番下ではなく、一番上に置いた。
それから、断るという道を、一度も考えていなかったことに気付いた。
王位に留まり、毎年の火を、23、24と積んでいく選択肢があるのに、そちらには手を伸ばしていなかった。
目の前に置かれた道は、あまりにも明るかった。
明る過ぎて、その道の先にあの男がいないことが、影のように分かりにくくなっていた。
いや、分かってはいた。
分かっていて、アテムは、目の前にあった明るい方に指を伸ばしたままにした。

縋り付いてしまった、と自分の中で言葉に出来たのは、ずっと後のことだ。この時はまだ、選んでいるつもりでいた。





神事の気配が満ちて、香が焚かれ、柱に布が巻かれた。6度目の、その日だった。
境界が破られ、瀬人が箱を提げて入ってくる。今年のケーキは現世の新店のものだと言った。また買収したのか出資したのか、やはりアテムは訊かなかった。
机の上に、ローソクが並んでいる。
瀬人の手が包みを解いていくのを、アテムは見ていた。
長い指が、22本のローソクを立てていく。間隔は等しい。あの男の並べるローソクは、いつも等間隔だった。最初の年からそうだった。几帳面なことに、測ったように揃っている。
アテムは、それを覚えていようとしている自分に気付いた。
指の動き。蝋の色。卓に落ちる影の数。現世のケーキの甘い香り。窓の外の、色のない空。
記憶してどうする、とは考えなかった。考えれば手が止まる。そうすれば、この男は気付いてしまう。
異常を、絶対に見逃してくれない。
「点けろ。16までだ。」
6年間、変わらない言葉だった。
アテムは火を移した。1本目。父の手。2本目。乳母の歌。砂の色、川の匂い、神官達の声、玉座の重さ。毎年なぞる年月なのに、今年だけは、1本ごとの火が長かった。長く感じるだけだと、アテムは自分に言い聞かせた。火の燃える速さは、最適化されている。去年と同じだ。
16本目。
死の年に、火が立つ。
火種を持つ手に、手が添えられる。
17本目に火が点いた。
「一つ一つが、全部お前の実測値だ。」
瀬人は毎年そんなことを言う。言葉は少しずつ違うが、意味は変わらない。無駄な火は1本もなく、停止期間は数えない。お前の生きた年数は、ここに全部ある。
18。19。20。21。
そして、22本目に火が点いた。
22の火が、ケーキの上で揺れた。
存在しなかった筈の年が、6つ。瀬人と数えた年が、5つ。
「揃ったな。」
これも、アテムが毎年言う言葉だった。声は、いつも通りに、出た。筈だった。
だが、瀬人が顔を上げた。
火に照らされながらも、青い目がアテムを見た。
「……どうした。」
「いや。」
アテムは笑った。
「綺麗だと思っただけだ。」
瀬人は何も言わずに、火に視線を戻した。
22の火が燃え尽きるまで、並んでそこにいた。毎年より、少しだけ長く居た気がする。
どちらが長くしたのかは、分からないままだった。





その日は、何の日でもなかった。
神事もなく、香も焚かれず、柱の布も仕舞われたままだった。境界が破られ、瀬人が入ってくる。タブレット、アタッシュケース、それから、現世の時間。通常運転でデスクにつき、タブレットを手に取った。
アテムは、その通常運転が一巡するのを待った。
言えるのは、今日だけだった。タイミングを待った。
「海馬。」
「何だ。」
「次の火は、点かない。」
タブレットを操作する手が、止まった。
瀬人は顔を上げなかった。タブレットの上に視線を置いたまま、動かなかった。だから、アテムには分かった。この男は今、言葉の意味を、推測しているのだ。次の火が点かない条件が成立し得る、解釈の全てを。
そして同時に、楽な解釈から順に棄却しているのだ。ずっと見てきたから、分かる。
やっと、瀬人が口を開いた。
「……転生か。」
残ったのは、正解だけだった。
「ああ。」
「いつだ。」
「近い。」
瀬人はタブレットを置いた。その音は、いつもと同じで、静かだった。恐ろしい程、いつも通りだった。
「王は。」
「王位は次代に渡る。引き継ぎは終わっている。」
「記憶は。」
すぐには言葉が出なかった。この問いだけは、覚悟をしているのにすぐに答えられなかった。
「消えるんだろうな。……前例が、目の前にいる。」
瀬人が瞬いた。信じているかは別として、自分のことを言われたのだと、理解したようだ。石板の神官の男については、どちらも口にしなかった。しなくても、口にされたのと変わらない。3000年分の忘却が、証拠としてそこに在った。
「残ればいいと、願いはしてみた。」
アテムは言った。その声は静かだった。
5年間、火を点け続けた。
「だが、転生したことのある者に、答えを訊けたことがない。分かっているのは一例だけだった。その一例は、何も覚えていないのに、俺の年を数えていた。」
瀬人は何も言わなかった。
反論の材料を探しているのではないのは分かっている。この男が黙るのは、結果が動かせない時だ。
「数は、22で止まる。」
アテムは続けた。
「お前が数えてくれた分で、終わりだ。その先は……。」
「その先は、俺の管轄外というわけか。」
瀬人の声は低く、落ち着いていた。声だけだ。怒りの形をした何かは、平静の下で張り詰めている。アテムはそれを受けたが、逸らすことはしなかった。
「言えるのは、今日だけだ。」
今日まで、言えなかったから。明日になって、またあの熱い腕に抱かれたら、きっと言えない。
沈黙が落ちた。
冥界の窓の外は、色のない夜の空だった。ずっと、変わらなかった。
「海馬。」
アテムは立ち上がった。
「お前は、お前のままで、変わらずにいてくれ。」
言ってから、その言葉の形に気付いた。忘れる側が、忘れられる側に、変わるなと願う。こんな勝手な願いはない。それでも、そのままでいてほしいから、他の言葉がなかった。
瀬人は、長い間アテムを見詰めていた。火に照らされるのでもなく、何にも遮られる事なく、真っ直ぐに。
それから、口を開いた。
「知ったことか。」
アテムは目を見開いた。
瀬人は荷物を片付け、立ち上がり、境界の方へ歩き出した。足取りは、いつも通りだった。
見送りに追うアテムに向かって、肩越しに、続きが告げられた。
「変わらずに居られるのは、22までだ。数を増やしたければ……。」
瀬人は一度そこで言葉を切って、小さく口付けてから、続けた。
「──変わるしかあるまい。」
現世の時間が、部屋から引いていった。

静かになった部屋で、アテムはローソクの仕舞われた抽斗を見た。
年が欲しかったのだ。
欲しいと知ったのは、この抽斗の中身のせいだった。
覚えていられないと、知っていた。
知っていて、反芻していた。指の動き、蝋の色、等間隔、青い目、知ったことか、と言った声。最後の口付けの味。
消えるのだろう。それでも、消える瞬間までは、持っていられる。
それが、去る側に許された、荷物の全部だった。






その子供は、火が好きだった。
火の前でだけ、静かになった。誕生日の夜、母親が小さなローソクを立てると、子供は椅子の上に立ち上がり、じっと見詰めて待つ。
「点けていい?」
火は危ないので、母親が点けた。5本目の前で、子供が手を伸ばした。
「そこからは、いっしょ。」
母親は笑って、子供の小さな手に火を持たせ、上から自分の手を重ねた。5本目に、火が点いた。
去年も、一昨年もそうだった。何本目からかは毎年違うが、言葉を覚えてからは、「そこからは、いっしょ。」と手を出すことは変わらなかった。
誰が教えたのでもない。訊いても、子供は分からないと言う。分からないけど、そうしたいのだと、火を見たまま言うのだった。
今年は5つの火が揺れていた。
子供は火を吹き消す前に、いつも少しだけ、時間を置く。
何かを数えているような様子だった。
窓の外を、夜が流れていく。街の灯り、遠い車の音、誰かの足音。世界のどこかで、同じ夜に、数を増やし続けている者がいるのかどうか。変わり続けている者がいるのかどうか。
そんなことなど、子供は知らない。
一息に、火を、吹き消した。
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