海馬瀬人が来る。
冥界では、今ではもう当たり前のことで、住民の間では、もはや天気の話に近い扱いになっていた。
だがしかし、である。
「今日もいらしてるわ。」
「あら、ほんと。」
「相変わらず、顔がお綺麗ね。」
大通りの市場の女達が、ちらちらと眺めながら囁き合っていた。
その視線の先を歩く、1人の男。
明らかに冥界の素材とは違う白いコートを翻して歩いていくのが瀬人の通常運転だった。しかも、別に、市場に何か用がある訳ではなく、王宮への最短経路が市場を通るから通っているだけである。
それでも、しかし、である。
瀬人が通るいつものルートは、いつの間にか掃き清められているのだった。
それだけではない。
例えば果物屋は一番艶のある果実を店先の瀬人の目線の高さに並べ直す。他の店も似たようなものだ。勿論、買いはしないと全員が知っているのに、綺麗に並べている。
そんな涙ぐましい市場の者の努力に、当の本人は気付いていなかった。
瀬人の認識では、冥界の大通りの市場とは掃き清められているものであり、店先とは整っているものだと既に認識しているからだ。
世界は常に自分に対して最適化されているべきであって、実際にそうなっている場合、そこにノイズはなく、当然のこととして受け取られるというだけの話だ。
整えられた道中は、冥界の標準仕様である。瀬人の中では、そう認識されていた。
瀬人を追うのは、何も市場だけではない。
王宮では、神官が薄い板を掲げていた。
「瀬人様。この電卓という板のおかげで、仕事が進みます。」
周囲の神官達が、感嘆の息を漏らす。掲げられているのは、実際は電卓ではなく小さめのタブレットである。
当然、今まで冥界にはそんなものはなかった。
最初にアテムが電卓機能を使って「電卓」と呼んだのが、そのまま定着した。
瀬人がそれを財務の神官に渡したのは、何度目かの訪問の時だった。
理由は単純である。王の業務の内で、計算に費やされる時間がかなりのウェイトを占めていた。そこを削れば、アテムの手が空き、手が空けば、決闘 の時間が増える。
──つまり、それは自分のためだった。
だが、神官達はそう受け取らなかった。
「王の御公務を、あれほど気に掛けてくださる御方は居りません。」
「しかも見返りを一切求められない。」
だがしかし、違った。
求めているし、受け取っている。決闘の時間という見返りを、瀬人は毎回きっちり回収していた。
だが、神官達の目には、王と客人が間合いを取って真剣に向き合う時間は、見返りではない何か別の特別なものとして映っていた。
このようにして、冥界から海馬瀬人への好感度は、やたらめったら積み上がっていった。
「王。」
ある日の公務の終わりに、年嵩の神官が進み出た。他の神官達も、心なしか背後に整列していた。
何故か、神官達の目は皆、電卓を手に入れた時のようにキラキラと輝いていた。
「王、伴侶をお取りになるなら、今かと存じます。」
アテムは、眉を上げて書きかけの筆を止めた。
「……何の話だ?」
「王は、御在位より長きに渡り、御独りであらせられます。」
封印込みなら、数字にすると、3000年と少しはある。神官は、長い方の数字を採用したらしい。
神官の声には、気遣っているような温度感があった。神官達は、本気で、王の行き遅れを心配しているらしかった。
「民も、案じております。」
「民も?案じなくてもいい。」
「あの御方なら、と申す者が、大変多く……。」
「……。」
あの御方が誰のことなのかは、聞くまでもなかった。
冥界で最も好感度が高い者に、心当たりはあった。
アテムは口を開きかけて、閉じた。
あの好敵手に一言、忠告しておくことはできる。もっとも、もし忠告したとして、聞くような男ではないが。
しかし、民と神官の、混じり気のない善意から推されているのが厄介だった。善意を無下にする言葉を、アテムは王として持ち合わせていない。
かといって、双方に何も言わずに放っておけば、どうなるのかも何となく分かっていた。
冥界全体をあげて、海馬瀬人の囲い込みが始まるだろう。そんな簡単に囲い込まれるとも思えないが。
アテムは、置かれているパピルス束を見た。今日の分は、妙に薄かった。
「ん?今日の書類……。」
「本日は瀬人様の御来訪の日と伺いましたので、王の御公務は調整いたしました。」
神官は、実に良い笑顔で答えた。
囲い込みは、もう、始まっているらしい。
その次の来訪の日、瀬人がまず案内された先は、いつもの客間ではなかった。
離宮の一室だった。庭があった。
砂の庭である。冥界にも一応水はあるが、この庭に引く程はないのだろう。代わりに、細かい砂が細く流れ落ち、竹に似た管に落ちていく。どういう原理か不明だが、砂で鹿威しを動かしていた。
カポン。
乾いた音がした。
水のない砂の鹿威し。
バージョンアップした枯山水。
日本の様式が、どこからか、何のためかは分からないが、古代エジプトの冥界に移植されていた。
庭に面した部屋には、向かい合わせに席が設えられていた。低い円卓には菓子があり、上座も下座もない配置だった。
公務を終えて後からやって来たアテムは、席に着いてから何かに気付いた。
これは知っている、日本の様式で、しかも、見合いの席だった。
仲人が席を整え、当人達を向かい合わせると、頃合いを見て、決まった事を言って出ていくのだと知っていた。
恐らく、電卓で調べたのだろう、とアテムは思った。
侍従が、茶を運んできた。
2つの器を、邪魔にならない場所に置き、深く礼をした。
「では、後は若いお2人で。」
本当に言った。
本当に去っていった。
長く独り身と言いながら、若いの定義に3000歳は含まれるのかと疑問はあった。だが、問題はそこではない。
アテムは、器の湯気の向こうの瀬人を見た。瀬人は既に茶を一口含み、庭の砂の流れを眺めている。この様式には、気付いていない。それも当然だろう。この男の辞書に見合いという文字などないに違いない。神官達には残念だが、あっても「非効率」の一語で処理されている筈だ。
気付いていたら卓袱台返しが発生する可能性があるが、そんな気配はない。
気付いているのは、この場で自分だけ。
アテムは、茶を持つ手に静かに力を込めた。
カポーン。
鹿威しが、鳴った。
「どうするつもりだ?」
瀬人が、庭を見たまま言った。
アテムは、顔を上げた。
「……何がだ。」
「この状況をだ。茶を運んだ男の台詞、席の配置、この庭。お前の国の連中は、縁談を組んでいる。」
気付いていた。
アテムの中で、何かが差した。光だった。
この状況をおかしいと認識している人間が、自分以外にも居た。つまり、仲間である。仲間が居れば、対抗できる。神官達の善意の包囲網に、内側から穴を開けられる。
「海馬、お前も気付いていたのか。それなら、話は早い。彼らに悪気はない。だが、正面から断ると角が立つ。まずは……。」
「その必要はない。」
「……は?」
瀬人は、茶器を置いた。
「結論は出ている。」
庭の砂は、原理不明のまま音もなく流れていた。
「お前が俺の前に立つのなら、形式は問わん。」
アテムは、目を丸くして、それからじとりと瀬人を見た。
「問わん、って、お前……それ……。」
「夫婦でも何でも、お前が俺の前に立つシステムが恒久的に確保されるのならば、名目は何でも構わんと言っている。連中の縁談は、その仕組みとして機能する。ならば利用しない理由はない。」
決闘者の理屈だった。徹頭徹尾、決闘者の理屈だった。通常運転だ。
そして、この男の中では、それで全ての筋が通っているのだった。正気で言っているということだ。
──つまり、それは自分のためである。
仲間では、なかった。寧ろ、爆弾だった。
包囲網の、最後の望みだった。しかも一番内側の。
カッポーン。
鹿威しが、もう一度鳴った。
光は差した。差しただけだった。
救いの絶たれる音は、やはり乾いていた。
その後のことは、何もかもが早かった。
どういう経路でか、神官達には「王が御自ら射止められた」と伝わっていた。誰も見ていない筈の密室の会談が、翌日には既にそういう事になっていた。
準備は、着々と進んだ。
衣装が仕立てられ、式次第が組まれ、王宮のテラスの手摺りが磨き直された。民への布告が出た日には、市場では果物屋が店の全部の果実を艶のある順に並べ替えたという。誰に見せるためなのかは、誰も考えていなかった。お祭り騒ぎとはそういうものだ。
アテムは、その全てを、執務室から眺めていた。
止める手立ては、既に検討し尽くしていた。王命で止めれば、民と神官の善意を王が無下にする形になる。瀬人に断らせようにも、当の瀬人が包囲網の核である。
残る懸念は、1つだった。
瀬人は、形式は問わんと言った。だが、あの時点で、この速度を想定していたかどうかだ。次に来た時に、王宮が婚儀一色に染まっているのを見て、話が違うと激怒するのではないか。今度こその、卓袱台返しが起こる。
そうだ、激怒してくれれば、まだ止めようがあるのだから。
そんなことを考える程度には、アテムはまだ正気だった。
次に瀬人が来た日は、やはり婚姻の儀の当日だった。
王宮へ続く道は、朝から民で埋まっていた。冥界の花が撒かれ、どこかで歌が始まり、別の場所で別の歌が始まり、途中で合流して大きな塊になった。
瀬人はというと、意外にも怒らなかった。
用意された冥界の白い婚礼装束を、通常運転の顔で着ていた。着付け担当に「そこは留めるな、動きが制限される」と指示まで出していた。
アテムは、隣室でその声を聞きながら、理解した。
囲い込みは、完了したのだ。
民に、神官に、この国の善意の全部に、あの海馬瀬人が、囲い込まれた。もう誰にも止められない。自分にも。
儀の刻限が、来た。
王宮のテラスに、2人が並んで立った。
眼下の広場が、割れるような歓声で満ちた。花が投げられ、テラスまで届かずに落ち、それでも投げられ続けた。
神官が背後で、婚姻の宣下を読み上げていく。古い言葉だった。かなり長い言葉だった。
その声を聞きながら、アテムは、隣を見ずに、口を開いた。
「……お前、本当に良かったのかよ。」
今更だった。宣下は、もう半分まで進んでいる。それでも、聞いておかなければならなかった。都合のいい仕組みに乗っただけの男が、この歓声の中に立っている。
本当に正気なのかどうか。それが最後までどこかに蟠りを残していた。
瀬人は、民の方を見たまま、答える。
「お前が俺の隣に立つのも悪くないと思っているだけだ。」
周囲の私語が、少し大きくなった。
アテムは、宣下の続きを、聞いていなかった。
前、ではなかった。
あの東屋で、この男は確かに「前に立つのなら」と言った。決闘者として、フィールドを挟んだ向こう側の話をしていた。
しかし、今のは、違う。
隣、と言った。
──つまり、それは誰のためだったのか。
「なんだ……前じゃなかったのかよ。」
アテムは、隣に居る瀬人の腕を取った。
広場の歓声が、空の高さまで上がった。
