現世、海馬邸。
冥界へ通じる回廊が閉じるのと同時に、エントランスの使用人達が一斉に頭を下げた。
「奥方様、お帰りなさいませ。」
アテムは、こういった扱いなら神官達で慣れていた。整列にも、揃った声にも、軽く挨拶をして応えた。
エントランスの端には、見知った顔、磯野が控えていた。
「瀬人様より、明日のレセプションのご予定をお届けに参りました。」
磯野は書面を差し出して、開始時刻や会場、同伴など、段取りを読み上げた。
「衣装は先週ので構わないって伝えてくれ。」
でなければ、際限がない。
「畏まりました。そのようにお伝えいたします。」
磯野は深く礼をして、本社へ戻っていった。
アテムは、側に控えた使用人に向き直った。
「厨房に伝えてくれるか。今夜は軽めでいい筈だ。」
「しかし……。」
「あいつは帰るのが遅い夜は、量を食べないからな。足りないって言ったら俺が握り飯でも作ってやるから安心してくれ。」
「承知いたしました。」
奥方様、という呼称は、誰が決めた訳でもなく、言い始めたのが誰なのかも定かではない。
式が終わって以降、冥界から通ってくるアテムを、この邸の者達が、いつの間にかそう呼んでいたのだ。
アテムも、特に訂正はしなかった。
王と呼ばれるのも、奥方と呼ばれるのも、同じようなものだからだ。
これもまた、慣れたものだった。と、いうことにした。
翌日の夜、ホテルの大広間。
海馬コーポレーション主催のレセプションは、政財界の重鎮達で埋まっていた。
瀬人は、入場に際して、アテムに腕を差し出した。
アテムは、その腕に軽く軽く添えた。
入場が終われば、手は自然に離れ、各々動く。
それが、2人のいつものパターンだった。
会場に入ると、やはり2人は別々に動いた。
いつものように、瀬人は取引先の役員たちに囲まれ、アテムも、招待客の間を回った。
それでも、互いの位置だけは、常に何となく把握していた。
アテムが挨拶を交わして回っていると、会場の隅に、老人が1人で立っていた。
見覚えがある。事前に見せられた招待客リストを記憶から引っ張り出す。確か、取引先の会長だった。
リストを見せながら、合併交渉が半年、止まっている相手だと瀬人が言っていたのを、覚えている。
アテムは、給仕からグラスを1つ受け取り、老人の隣に立った。
「飲み物はどうだ。」
老人は、隣に立った小柄な人物を見下ろし、それから、それが誰であるかに気付いて、僅かに背筋を伸ばした。
「これは…奥方様。」
「アテムで、構わないぜ。」
老人に新しいグラスを渡し、空のグラスを受け取ると、それは給仕に返した。
それから、アテムは老人の視線の先を追った。
会場の中央では、若い経営者たちが瀬人を囲んでいた。
「賑やかなのは、あまり?」
「歳を取ると、ああいう輪の速度に、ついていけませんでな。」
老人は、苦笑した。
「昔は私も、あの真ん中に居たものですが。」
「今は、外から見ているのか。」
「そうです。外から見るだけでも、色々なものが見えます。見え過ぎて、口を出したくなる。まあ、出すと、それはそれで疎まれることもありますがね。」
アテムは、少し笑った。
「分かるな、それ。」
「…奥方様が、ですか。」
「玉座も、似たようなものだ。」
老人は、瞬きをした。
それから、ゆっくりと、話し始めた。
話は、事業のことではなかった。跡を継がせた息子の普段の様子や昔話、それから、まだ小さい孫が可愛いこと。孫については、話の速度が確実に一段は上がっていた。
会社や仕事の話は、最後まで出なかった。
アテムは、会長ではなく、ただの孫馬鹿の話を聞いていた。
王の執務の大半は、聞くことである。3000年前も、今も、それはあまり変わらない。
歓談の時間が終わる頃、楽団の音が変わった。
ダンスの時間だった。
人垣が割れて、瀬人が会場を横切ってきた。アテムの前で止まり、手を差し出す。
アテムは、その手に自分の手を重ねた。
フロアの中央で、曲が始まった。
最初の一歩で、瀬人の眉が、僅かに動いた。アテムのステップに、淀みがなかったからだ。
「…誰に習った。」
「モクバだ。」
「モクバ?」
「お前は忙しいだろ。」
アテムは、前を向いたまま答えた。
式の後、瀬人の居ぬ間に、海馬邸の広間でモクバに教わった。冥界の王が現世の社交ダンスを覚える理由なんて、1つしかない。口にはしないけど。
瀬人も、それ以上は聞かなかったので、分かったのだろう。
その代わりに、ターンを支える手が、少しだけ丁寧になった気がした。
フロアの周囲では、徐々にざわめきが減っていった。グラスを持つ手が止まり、視線の集まる先はホールの中心に向かっている。
長身の社長と、小柄な伴侶。身長差のある2人の姿が、動きの中で1つの形に纏まっていた。
どこかで、シャッターの音がした。
1つでは、なかった。
帰りの車で、瀬人が聞いた。
「あの会長と、何を話していた。」
「孫の話だ。」
「…それだけか。」
「それだけだ。」
瀬人は、それ以上聞かなかった。
1週間後、半年止まっていた交渉が動いたと、磯野が伝言を届けに来た。
レセプションの写真は、数日のうちに経済誌の表紙になった。
ダンスの1枚だった。
向かい合う2人の間に、切り取れる隙がなかった。
見出しは、「世紀の婚姻」。
SNSには、国外の言語のコメントが並んだ。読めない文字でも、感嘆していることだけは分かった。
世界は、うっとりと、2人を眺めていたのだった。
数日後の昼、アテムは海馬コーポレーション本社に居た。
社の慈善事業に奥方の名義が要るとかで、書類に署名をしに来ていた。
用が済んで、エレベータの前まで来た所で、後ろから声が掛かった。
「アテム!」
モクバだった。タブレットを小脇に抱えて、駆け寄ってくる。
「来てたんだ。言ってよ。」
「署名だけだから、すぐ還る。」
「ふうん。…あ、そうだ。」
モクバは、少し声を落とした。
「社内でさ、奥方様の評判、すごいよ。」
「そうなのか?」
「レセプションの写真を広報が持て余してるくらいだ。どれも絵になりすぎて、社外に出す1枚が選べないんだってさ。」
「1枚は、表紙になっていたな。」
「あれは向こうが勝手に載せたやつだよ。…ダンス、ちゃんと踊れてたみたいだな。」
「師匠がいいからな。」
モクバが、笑った。
「写真なら、海馬のを出せばいいだろ。」
「兄様のは、睨んでるのしかないから。」
モクバが真顔で言うので、今度はアテムが吹き出した。
エレベータが来た。
モクバは、扉が閉まる前に、一言だけ言った。
「兄様のこと、よろしくね。」
「ああ。」
アテムは、当然のことのように頷いた。
頷いてから、扉の閉まった鏡面に映る自分を見て、当然、と言い切れるのかどうか、一瞬だけ、自信が揺れた。
夜の海馬邸は、静かだった。
夕食を共にし、それぞれの仕事を片付け、寝室に入る。
ここまでは、何の問題もない。
会話も、普通に続く。冥界の政務の話、会社の話、モクバの話。どれも、夫婦の会話としては、艶っぽくはないが、普通に成立している。
問題は、灯りを落としてからだった。
主寝室のベッドはかなり広く、2人で入っても、距離を取れる広さがある。
その広さの中で、2人は、真ん中に寄って眠る。
正確には、真ん中で、手を繋いで眠る。
正確もなにも、たったのそれだけだった。
表紙を飾り、世界を溜息で満たした2人。だが、内実はこの有様だった。
夫婦になって、ひと月が経っていた。にもかかわらず、初夜や蜜月どころか、この有様だったのだ。
瀬人は、時折、先へ進もうとした。
灯りを落とす前、アテムの額に口付ける。ここは、いつも通り過ぎる。
唇が離れ、次に頬へ落ちる。ここも、まだ通る。
問題は、その先だった。
頬から唇が離れる、その僅かな間合いで、アテムの体は硬くなる。
肩が僅かに上がり、顎が引かれて、寝具の縁を握った指には力が入る。
だから瀬人が、そこで止まる。
10日で婚姻の全てを押し切った男は、頬から先の数センチを、ひと月かけても、まだ越えずに待っていた。
無理に超えるものではないというのもある。
アテム自身は、自分の体の反応に、説明が付けられずにいた。
冥界では王である。現世では奥方である。どちらの顔も、完璧に運用できている。
出来ていないのは、このベッドの上でだけだった。
額は、いい。頬も、もう慣れた。
だが、その先の気配が近付くと、体が勝手に構える。
決闘 なら、どんな窮地でも呼吸は乱れなかった。
邪神とも渡り合った。闇とも戦った。
頬から先の数センチが、それらよりも、ずっと、攻略出来ずにいた。
瀬人は、急かさなかった。
硬くなったアテムを見て、溜息を吐くでもなく、笑うでもなく、ただ手を握り直して、灯りを落とす。
「寝ろ。」
それだけ言って、目を閉じる。
握られた手の体温だけが、一晩中、そこにあった。
ある夜は、繋いだ手の指が、いつもより深く絡んでいた。どちらが先に絡めたのか、朝には分からなくなっていた。
別の夜は、目が覚めると、繋いだ手が解けて、代わりに互いの肩が触れていた。
アテムは、動かなかった。動けば、触れているのが偶然でなくなる気がした。
瀬人の呼吸は、深かった。眠っているようだった。眠っているなら、肩が触れているのは、偶然のままでいられる。
アテムは、そのまま目を閉じた。
朝、先に起きた瀬人が、触れていた肩について、何か言うことはなかった。
偶然は、偶然のままでいい。意識すると、それはもう故意になる。
昼、海馬コーポレーション本社。
署名の追加が1枚あるというので、アテムは再び本社に呼ばれていた。
用を済ませて廊下を歩いていると、前を行く若い社員2人の会話が、耳に入った。
「そういえば今日、22日ですよ。」
「22日が何なの?」
「夫婦の日です。毎月22日。」
「11月のあれじゃなくて?」
「11月22日は、いい夫婦の日。毎月の22日は、普通の夫婦の日らしいです。」
「普通の夫婦の日って、何ですか。」
「さあ…。普段用、ですかね。」
「何それ。」
社員2人は、笑いながら角を曲がって行った。
アテムは、歩調を変えなかったが、頭の中では今日の日付を確認していた。
7月22日。
普段用。
その用途が、妙に、残った。
帰りの車で、アテムは窓の外を見ていた。
普段用の、夫婦の日。
特別な日ではない。毎月ある。
つまり、仮に何かを試みて、上手くいかなかったとしても、来月がある。
王の決断は、退路の確認から始まる。
──いや、待て。
アテムは、自分の思考に、自分で待ったをかけた。
上手くいかない、とは何だ。何を、試みるつもりだ。
綺麗なセルフツッコミだった。問いは立てたが、答えは既に決まっていた。
窓の外を、以前と少し変わった現世の街並みが流れていく。
アテムは、目を閉じてシートに背を預けた。
邪神と渡り合った時より、覚悟に時間が掛かっていた。
その夜。
夕食は、いつも通りだった。会話も、いつも通りだった。
寝室に入り、寝巻きに着替え、ベッドに上がる。ここまでも、いつも通りだった。
瀬人が、灯りに手を伸ばす。
いつもなら、その後に、額への口付けが来る。
今夜はそれよりも早く、アテムが動いた。
ベッドに手を突いて、身を乗り出し、瀬人の唇に、自分のそれを、短く重ねた。
触れて離れるまで、数えられる秒数にも満たなかったが、瀬人は、静止した。
灯りに伸ばした手が、途中で止まっていた。
10日で婚姻を押し切り、冥界の組織を作り替え、どんな会見でも眉1つ動かさなかった男は、口付け1つで静止していた。
アテムは、身を引いて、いつもの位置に座り直した。
心臓は、走っていた。だから、声だけは平静になるように務めた。
「ふ…夫婦の日、だそうだ。」
「……。」
「毎月、22日が、そうらしい。」
「…そうか。」
瀬人の声は、いつもより、少し遅かった。
その間を、アテムは、聞き逃さなかった。
してやったり。走らされていた心臓が、少しだけ、溜飲を下げた。なお、走らせたのは自分であることは棚に上げている。
少し間があったが、瀬人は灯りを落とした。
暗がりの中で、腕が伸びてきた。
そのまま背に回り、引き寄せられた。
いつもの、手を繋ぐ距離ではなかった。肩が触れ、額が瀬人の首元に着く距離だった。
してやられた、と思ったが、逆らわずに、身を寄せておいた。
瀬人の心音が、速かったので、それを聞いてイーブンにすることにした。
自分のものが、同じくらいの速度で走っていたから。
「…海馬。」
「何だ。」
「お前の心音、うるさいぜ。」
「お前のものがな。」
どちらも、否定はしなかった。
夫婦になって、約1ヶ月。初夜にすら、まだ遠い。
今夜、繋いだのは、手ではなかった。
暗がりの中で、2人の心音は、暫く、揃わなかった。どちらのものも、速すぎた。
揃わないまま、少しずつ、ゆっくりになっていった。
ゆっくりになった頃、どちらからともなく、眠りが来た。
朝まで、腕は、解けなかった。
翌朝、磯野は、いつも通り玄関前に車を回して、上司を待っていた。
エントランスから、2人が出てきた。
奥方が見送りに出るのは、「こちらにいるのなら」いつものことだった。別居ではないのだろうが、姿が見えない時もまあそこそこある。
しかし、磯野はそのことについては気にしていなかった。
いつもと違ったのは、距離だった。
玄関先で立ち止まる2人の間が、いつもより、半歩程、近かった。
何か特別な言葉が交わされた訳ではないし、手も触れていない。ただ、ほんの少しだけ、何かがいつもより近い気がした。
何が近いのか、とまでは言えないが。
かといって言うような事でもない。いつも通り、後部座席の扉を開けた。
乗り込む上司の口元は、心なしかいつもより穏やかに見えた。
それについても、何が、とは言えなかったし、言うような事でもない。
車が、走り出す。
バックミラーの中、上司の奥方は車が門を出るまで、玄関先に立っていた。
その立ち姿は、やはり、完璧な奥方だった。
