ライオン
陽光を浴びて無邪気に跳ねる獣たちの声が響く。アテムは、その眩しさに目を細めながら、少年のように視線を彷徨わせていた。
かつてのナイルの王は、現世という異邦において、ただの好奇心に満ちた背中を見せている。
瀬人は、その背を数歩後ろから眺めていた。
それは、決して埋まることのない時間の距離を、視覚的に測るような行為だった。
ふと、アテムが振り返る。
「海馬、ライオンが居ない。」
その問いは、宮殿で交わされた会話の再現のように響く。
瀬人は足を止める。数秒の、重く乾いた「魔」が横たわる。
「バーバリライオンか。あれは、滅んだ。」
瀬人の声には、同情も感傷もない。ただ、図鑑の頁をめくるような冷徹な「事実」があるだけだった。
それはアテムの記憶の風景を彩っていた象徴そのものだが、今の世界には、その血筋を継ぐ野性はもうどこにも存在しない。
再び、長い「魔」が2人の間に落ちる。
「そうか……。」
アテムは、数秒だけ目を閉じた。
その瞼の裏には、砂塵に霞むかつての王都や、滅びゆく王朝の最後の光景が、セピア色の残像として流れていたのかもしれない。
目を開けた時、その表情は寂しげではあったが、凪いだ海のように穏やかだった。
「Hey Siri バーバリライオンについて教えてくれ。」
現代の魔術が、無機質な音声でかつての王の友の「絶滅」を語り始める。
瀬人はそれを、表情一つ変えずに眺めていた。
王の孤独と、科学の無機質さ。
そのコントラストの中に、瀬人は、同じ次元にありながら全く別の「時」を生きていることを再確認していた。
ボッキンパラダイス
巨大なモニターの前に、2人は並んで座っていた。再生ボタンは既に押されている。
画面の中では、妙に明るい音楽と共に、不自然に笑顔の男女が何かをしている。
「……。」
「……。」
アテムは、僅かに目を細めた。
真剣に見ている。
見極めようとしている。
だが。
「……海馬。」
「なんだ。」
「見えない。」
瀬人は視線を動かさず答えた。
「仕様だ。」
「仕様…。」
画面の中央。
肝心な部分だけが、四角いノイズで覆われている。
不自然なほど、正確に。
「これは……何かを隠しているのか?」
「隠しているな。」
「何故だ。」
「公開出来ないからだろう。」
アテムは黙った。
公開出来ない。
つまり。
「……高度な文明、か。」
「違う。」
即答だった。
だがアテムは聞いていない。
画面の中では、城之内が以前叫んでいた言葉が、そのまま再生されていた。
『今夜はお楽しみ』
アテムはその言葉を思い出す。
お楽しみ。
大人。
文明。
全てが、一本の線で繋がる。
「海馬。」
「何だ。」
「これは、大人になるための映像なのか。」
瀬人は、初めて視線を横に向けた。
そして一拍置いて、
「違う。」
と答えた。
「無意味な映像だ。」
沈黙。
アテムはもう一度画面を見る。
ノイズ。
笑顔。
不自然な動き。
意味。
意味を探してみた。
理解しようとしてみた。
王として。文明を知る者として。
そして、
「……分からない。」
と、正直に言った。
その声には、敗北感はなかった。
ただ、未踏の領域を前にした者の静かな認識だけがあった。
瀬人はリモコンを取り、停止した。
画面が黒になる。
「理解する必要はない。」
「そうなのか。」
「ああ。」
アテムはしばらく黒い画面を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「……なら、これはまだ、俺には早いんだな。」
瀬人は否定しなかった。
ただ、
「そういうことにしておけ。」
とだけ言った。
アテムは納得した。
完全に納得した。
数秒後。
「海馬。」
「何だ。」
「パンツは理解した。」
「……そうか。」
「だが、これはまだだ。」
瀬人は答えなかった。
ただ、2度とこの映像をアテムに見せることはない、とだけ決めた。
冥界の円盤、あるいは新しき友
冥界の王宮に、ルンバが来た。アテムは初めてルンバを見た。丸くて平たくて動いている。
「何だこれは。」
「掃除道具だ。」
アテムは床に置かれたルンバを見下ろした。ルンバはアテムの足元を避けて動いた。
「賢いな。」
「そうでもない。」
「俺を避けたぜ?」
「障害物を避けているだけだ。」
アテムは少し傷ついた顔をした。
翌朝。
瀬人が廊下を歩いているとアテムがルンバを追いかけていた。
「何をしている。」
「観察だ。」
「神官どもに仕事をしろと言われていなかったか。」
「動き方に法則がある。」
ルンバが壁に当たって方向を変えた。アテムが頷いた。
「見ろ、また変わった。」
「見ていない。」
「見ろ。面白いぜ。」
「見ない。」
瀬人は冥界の執務室へ向かったが、アテムはルンバの後を歩き続けた。
昼前、セトが報告書を持って現れた。
「王は。」
侍女が答える。
「ルンバと一緒に回廊を歩いておられます。」
「何周目ですか。」
「7周目です。」
セトは手帳を開いた。
「業務日誌を更新します。」
「何と?」
「観察研究、継続中。」
夕方。
瀬人が執務室を出ると、廊下のルンバが止まっていた。充電が切れたようで、隣にアテムが座っていた。
「動かなくなった。冥界で死者を出してしまった。」
「死んでいない。充電が必要なだけだ。」
「どうする?」
「電気を補充する。」
「…電気。」
アテムは少し心配そうに充電切れのルンバを見ていた。
「死んだのか?」
「死んでいないと言った。」
「動かないぜ?」
「充電すれば動く。そこに置け。」
「そうか。」
アテムがルンバを充電台に乗せると、ランプが光った。
「光った。」
「充電中だ。」
「生きてるのか。」
「機械だ。」
アテムは満足そうに立ち上がった。
「明日、また観察することにする。」
「仕事をしろ。」
「観察も仕事だ。」
「違う。」
翌朝、セトが手帳を開いた。
「観察研究、第2日目に突入。」
「帰れ。」
「業務日誌に記録します。」
「記録するな。」
冥界の廊下を、今日もルンバとアテムが歩いている。
金魚すくいの話
「海馬。」「何だ。」
「あれは何をしているんだ?」
「金魚すくいだ。」
「金魚をすくうのか。」
「そうだ。」
「なぜすくうんだ?」
「祭だからだ。」
アテムは屋台の前で立ち止まった。
じっと見ている。
「やってみたいのか。」
「……やってみてもいいか?」
「勝手にしろ。」
アテムはポイを受け取った。
真剣な顔をした。
「これで金魚を捕るんだな。」
「そうだ。」
「分かった。」
アテムは水の中に手を突っ込んだ。
ポイを使わずに素手で。
「……アテム。」
「捕れた。」
金魚が手の中にいた。
店のおじさんが固まった。
「ポイを使え。」
「ポイより手の方が確実だ。」
「そういう遊びではない。」
「遊びなのか、これは。」
「そうだ。」
「何故遊びでわざわざ不便な方法を使うんだ?」
瀬人は答えられなかった。
店のおじさんは金魚を袋に入れて渡した。
アテムは満足げに袋を持った。
「文明は不思議だな。」
「……。」
「ポイを使う意味は分からないが、楽しかった。」
「そうか。」
「また来たい。」
「次はポイを使え。」
「考えておく。」
翌年、アテムはまた素手で捕った。
プリン
「海馬。」「何だ。」
「プリンだ。」
アテムがレジ袋を下げていた。中身は透けていて、3個セットのプリンだった。
「見れば分かる。」
「3つある。」
「見れば分かる。」
「なぜ3つなんだ?」
瀬人は答えなかった。アテムはプリンを取り出し、光に透かすようにして眺めた。
「お前の分と、俺の分で、2つだ。3つ目は…何者だ?」
「……予備だ。」
「プリンに予備という概念があるのか?」
「存在することにしておけ。」
アテムは暫く考えて言った。
「食べていいか?」
「……どれをだ。」
「3つ目を。」
「お前の分は?」
「俺の分は俺の分で、3つ目は別だ。」
瀬人はこめかみを指で押さえた分かってはいたが、いつまで経っても屁理屈だけは常に一人前だった。
「好きにしろ。」
アテムは満足そうにプリンを2つ取り出した。
「海馬。」
「まだ何かあるのか。」
「お前の分もいいか。」
「……好きにしろ。」
アテムは全て食べた。
サブスク
「海馬。」「何だ。」
「俺は今、何かに殺されかけている。」
瀬人はパソコンから顔を上げた。アテムはスマホを両手で持ち、画面を睨んでいる。その指は震えていた。
「画面を見せろ。」
差し出されたスマホには、見覚えのある動画配信アプリの解約ページが表示されていた。「本当に解約しますか?」の下に、特典一覧、視聴履歴、おすすめ作品のサムネイルがずらりと並んでいる。
「解約しようとしたら、こいつが俺を引き止めてくるんだ。」
「引き止めてどうした。」
「最初は『本当に?』だった。次は『今やめると損をする』だった。3回目で『あなたへの特別オファー』を出してきた。」
「押したのか?」
「押した。」
画面には、月額そのままで視聴上限が消えるプランの確認画面が表示されていた。アテムの顔は真剣だった。
「無制限になった。俺は勝った。」
「お前は負けた。」
「何故だ。」
「無制限の代わりに、超過分は別料金だ。下に書いてある。」
アテムは画面に目を凝らした。極小の文字で、視聴時間に応じた追加課金の規約が記されていた。
「……読めない。」
「読む気がないだけだ。」
アテムはスマホを瀬人に押し付けた。
「お前が読め。」
「俺の契約ではない。」
「俺の契約はお前の管轄だ。」
「いつそうなった。」
「今だ。」
瀬人はため息を吐き、スマホを受け取った。設定画面を3度タップして、解約ボタンの本当の場所を見つけ出す。アテムはその手元を食い入るように見ていた。
「…簡単じゃないか。」
「お前が見つけられなかっただけだ。」
「もう、次の月から来るな。」
アテムが画面に文句を言う。
「来ないようにした。」
アテムはスマホを受け取り、画面を確認して満足げに微笑んだ。
「海馬。」
「次は何だ。」
「お前がいなかったら、俺は今頃、王の財宝より高い動画配信料を払っていたかもしれない。」
「大袈裟だ。」
「大袈裟じゃないぜ。あれは王を狙う罠だった。」
瀬人は何も言わず、パソコンに視線を戻した。古代エジプトの王は、現代のサブスクリプションという新手の敵に、危うく屈するところだった。
到達の静寂
冥界の薄明かりの中、瀬人は静かに立っていた。アテムはその前に、いつもの堂々とした姿で立っている。
だが、今は、ほんの少しだけ目元が柔らかく、呼吸も心なしか浅く弾んでいる。
「…久しぶりだな、海馬。」
声は抑えて、しかし、どこか安心したような音を含んでいた。瀬人は薄ら微笑みながら、距離を詰める。
「勝手に消えておいて何を言っている。」
アテムの瞳がキラリの光る。いや、光っているというより、心が温かさに溶けているようだった。
「だが、お前は来た。…俺、お前に会いたくて…。」
一歩、また一歩と、瀬人が近付くたびに、アテムの心臓は鼓動を早めた。
「触れたい…触れてもいいか?」
アテムの手が、そっと瀬人の腕に触れる。
もう触れている。
しかし、瀬人は無言で頷く。息が重なるほど近い距離だ。
アテムはその胸に頭を預け、体の力を抜いた。瀬人も、柔らかく肩を抱き寄せ、2人だけの時間に溶けていく。
冥界の静けさが、甘い呼吸と心臓の音だけを映し出す。
「お前がいる。これで充分だ。」
瀬人は低く囁き、アテムも、それに答える代わりに身を委ねた。
永遠のように流れる甘い時間。闘いも、義務も、誰も邪魔を出来ない。2人だけの世界で、互いの温もりを確かめ合った。
冥界の静寂は、2人の吐息だけを映している。
瀬人の手がアテムの腰に回り、その指先は王の装束の上からでも確かな温もりを探る。
「…いいんだな?」
「…ああ、待っていたんだ。お前を、ずっと。」
アテムの声は低く、少し震えていた。
瀬人はアテムを優しく抱き寄せ、唇を重ねる。初めは軽く、しかしすぐに深く絡むようなキスに変わっていた。
アテムは身を任せ、瀬人の温もりを全身で感じ取る。
掌でアテムの背を撫で、指先で金の装飾をなぞる。アテムの肌は、光を吸い込むように滑らかで、触れるたびに心臓が高鳴った。
「…海馬…。」
声を上げずに堪えているアテムを、瀬人は抱き締めたまま、耳元で囁く。
「怖がる必要はない。俺が、お前を離すことはない。」
その言葉に、アテムは全てを預ける。闘いに明け暮れた日々、伝えられなかった想い、押さえ込んでいた感情。全てを吐き出すように、体を密着させる。
冥界の闇の中で、体温と呼吸が溶け合い、互いの存在が唯一無二の安心へと変わる。
瀬人の指が髪をかき分けて、首筋に触れるたびに、アテムは小さく震えた。
「──。」
瀬人の声は、強く、柔らかく、確かに響いた。
アテムはその胸に顔を埋め、答えるように小さな声を返す。
「…俺も、海馬….。」
2人だけの世界は、誰も、何も、邪魔はできない。
ただ、互いの温もりに溺れ、甘く、静かに、夜は深まっていく。
冥界の闇の中で、瀬人の手がアテムの体を丁寧に探る。王の装束の下に隠れた温もりに触れると、アテムの呼吸は浅く早まる。
「…欲しいのか?」
瀬人の低い声に、アテムは躊躇したが、すぐに震える声で答えた。
「…うん…海馬…。」
その一言で、瀬人は迷わずアテムを抱き上げ、柔らかい寝台の上に横たえる。指先は丁寧に装束の端を外し、肌に触れる。滑らかな肌に触れるたびに、アテムは小さな声を漏らす。
「…海馬…。」
瀬人はその声に笑みを浮かべ、唇をアテムの首筋に落とす。甘く、熱を帯びたキスが次々と重なり、アテムの体は瀬人に応えるように反応する。
「怖がるな。全て、俺のものだ。」
その言葉に、アテムは力なく身を預け、全身で瀬人を感じる。指先の感触、唇の熱、息遣い。全てが混ざり合い、2人だけの世界に染まっていく。
身体を重ね、互いの温もりに溺れる中で、アテムの瞳には安心と快楽が混ざった光が宿る。
「…会いたかった…。」
瀬人もまた、アテムを抱きしめながら答える。
「…そうか…。」
冥界の静寂は、甘く濃密な呼吸だけに支配されていた。互いの存在を全身で感じ、深く、激しく、そして優しく、夜は永遠のように続いていくのだった。
朝日が冥界の窓から差し込む。光は柔らかく、2人を包み込むように温かい。瀬人の腕の中で、アテムはまだ穏やかに眠っている。
瀬人は静かにアテムの肩に手を回し、その寝顔を見つめる。
王としての威厳も、冥界の王としての孤高さも、今のアテムにはない。ただ目覚めたばかりの少年のような柔らかさだけがあった。
「…起きたのか、アテム。」
瀬人の囁きに、アテムの瞳がゆっくりと開く。淡い光に照らされた瞳は、夜とは違う穏やかな色を湛えていた。
「…おはよう、海馬。」
まだ眠たそうなその声を聞きながら、瀬人は微笑みを浮かべる。指先でアテムの金の前髪をそっと撫で、額に軽く触れる。
アテムもまた微笑み、手を伸ばして瀬人の胸に触れる。体温が伝わり、静かな幸福感が包む。
「…安心、するんだ…。」
瀬人はその言葉に唇を重ね、軽く頬にキスを落とす。甘く、優しく、そして確かな絆を感じさせる朝のひととき。
冥界の静けさの中、互いの存在を確かめ合う。過去の戦いも、孤独も、何もかもを超えて、今はただ、2人だけの穏やかな時間があった。
「暫く…このままでいるか。」
「…うん。」
抱き合いながら迎える朝は、新しい日々の始まり。静かで優しい時間が、冥界の光の中で穏やかに流れていった。
