追い込み婚

縁談36件/週、解決策はこれしかない!惚れさせてみろと、言いはしたがっ…! アテム生誕祭 2026年収穫期第三の月19日


「アテム、娶られろ!」
冥界の色んな制約を破り、瀬人はアテムに詰め寄った。





拒否はした。
その場で。冥界から連れ出される時。海馬邸で使用人に着替えさせられる時。3度は拒否をした。
しかし。
「海馬コーポレーション社長、海馬瀬人氏の婚約会見です。」
アテムは何故かその場に居た。

眩いフラッシュが一斉に焚かれる。
隣で瀬人は微動だにせず、口を開いた。
「本日付で婚約した。相手はここに居る。質問は受け付ける。」
簡潔すぎる発表に、会場が一拍遅れてざわついた。
アテムは横目で瀬人を窺ったが、冗談には見えない。元々この男に冗談を言う機能は搭載されていない。
質問の手が無数に挙がる。瀬人は最前列の記者を指した。
「お相手のお名前を伺えますか。」
「アテム。」
「ご職業は。」
「非公開。」
「失礼ですが、ご年齢は。」
「知らん。」
記者の側が手探りで質問を組み立てている間、瀬人は次の手を指す。
「突然のご発表ですが、馴れ初めをお伺いしても。」
「答える義務はない。」
全ての回答に即答していくが、噛み合わない。
質問は受け付けるのではなかったのだろうか。会場が一瞬、静かになった。
次の記者が、慎重に問いを選んで切り出した。
「ご結婚の決意に至る経緯について、何か一言。」
瀬人は僅かに目を細めた。
「業務上の最適化だ。」
質問の意味と回答は、やはり噛み合わない。会場が止まる。
「次。」
会場の隅、関係者席の末席で、遊戯はクリアファイルを取り落としかけていた。
遊戯はその日、海馬コーポレーションで打ち合わせがあり、社内に居た。会議室を出た所で人の流れに巻き込まれ、気付けば社長の婚約会見の会場の隅にいた。呼ばれた訳ではないが、もう抜けられなかった。
壇上の隣に、見覚えのある横顔があった。当然、ある、どころではなかった。
遊戯はファイルを胸に押し当てて、声を漏らした。
「え…うそ、海馬くんの婚約…相手って…。」
誰にも聞こえない音量だった。
壇上のアテムが、ふと、視線を寄越した。パチリと目が合うと、アテムが、僅かに眉を下げた。
瀬人が腕時計に視線を落とし、立ち上がる。
「時間だ。」
まだ質問の手が無数に挙がっていたが、瀬人は会場を見渡しもしなかった。広報担当がマイクに駆け寄り、後日改めて、と繰り返しているのを背に、瀬人はアテムの腕を取った。
置かれていた手が引き上げられ、アテムもすんなり立ち上がる。

関係者通路を歩きながら、アテムは思考していた。
──想定より、ずっとマズい。
顔を出せば終わると判断したのはアテム自身だった。だが、顔を出した先で「婚約者です」と全国に流されるパターンは、計算していなかった。
冥界の制約とは違う種類の、現世の制約。契約書でも掟でもなく、報道された事実が一人歩きするという類のものだ。
計算外。その単語が浮かんだ時点で、自分の認識の遅さを認めるしかなかった。

遊戯がスマホを握り直したのは、壇上から2人が退場した直後だった。
城之内が亀のゲーム屋の前で速報を見たのは、それから2分も経たない頃である。
「は!?」
街の大きな画面に映る婚約会見の切り抜きで、隣にいるのは、どう見てもアテムだった。
本田からの着信は、ほぼ同時に入った。
『おい、見たか。』
「見た。今見てる。」
『遊戯は。』
「分からねえ、連絡してみる。」
通話を切らないうちに、画面に遊戯からのメッセージが入った。
『海馬コーポレーションに居る。社長室に行く。』
既読を付ける前に、城之内は走り出していた。



社長室の扉が開いた時、まず感じたのは、空気の重さだった。
瀬人はデスクで、ディスプレイに目を通している。応接ソファに、アテムが腕を組んで座っている。2人の間に会話はなく、視線も交わっていない。
婚約した2人の部屋とは思えなかった。
もはや通夜だった。
「あの…海馬くん?」
最初に口を開いたのは遊戯だった。城之内と本田は、扉のすぐ内側で立ち止まったままだ。
瀬人は書類から顔を上げない。
「呼んだ覚えはない。」
「呼ばれてないけど…。」
遊戯の声は珍しく硬かった。
アテムはソファから動かない。視線だけ、入ってきた3人に向ける。
「久しぶりだな。こんな形で会うことになるとは。」
その声は、低かった。怒っているのか、疲れているのか。
城之内が、ようやく声を出した。
「…なあ、アテム…。」
「ん?」
「お前、何で…ここに居るんだ?」
アテムは少し考えてから、答えた。
「俺にも、よく分からない。」
「分からないって、何でだよ。」
城之内が思わずツッコむ。本田も眉を寄せた。
「お前、自分のことだろ。」
「そうだな。だが、分からない。」
アテムは真顔だった。本人としては誠実な回答である。
遊戯は、久しぶりに会えたアテムの顔をじっと見ていた。聞きたいことは山ほどある。冥界はどうとか、いつから現世に来ているのかとか。だが、そんな空気ではない。
仕方がないので、確認から入ることにした。
「…婚約、したんだよね?」
「したことになっている。」
「したことに、って。」
「事実関係として、成立しているらしい。先程な。」
城之内が頭を抱えた。
「お前…自分で婚約したのに『らしい』ってあるかよ。」
「俺は3度断った。」
「3度?」
「3度断った上で、ここに居る。」
本田が壁際で腕を組み、低く唸る。
「無理矢理かよ。」
「いや、それも分からない。罪なき使用人を相手に暴れる訳にもいかなかった。」
「海馬…。」
城之内が瀬人を睨んだ。だが瀬人は顔を上げない。聞いていない訳ではなさそうだが、応じる意思もないらしい。
遊戯が、慎重に次を尋ねた。
「えっと…馴れ初めは…?」
「海馬に聞いてくれ。」
分からないと言うアテムには、本当に説明できることがないらしい。
4人の視線が、一斉に窓際に向けられた。
瀬人は書類の次のページを表示した。
「業務上の最適化、と言った筈だ。」
「いや、それじゃ何も分かんねえよ!」
城之内の声に、瀬人はようやく顔を上げたが、眉一つ動かさない。
「縁談が、週平均36件だ。」
部屋の中の4人が、それぞれの姿勢のまま、固まった。
「秘書課が縁談書類の処理に専任を割いている。当該人員は本来、別の業務に充てられるべきリソース。」
瀬人は淡々と続けた。
「断りの書状の文面のテンプレートは現在、17種類運用。新規追加の議論が常時行われている。これは経営判断として看過できる事態ではない。」
誰も、声を出せなかった。
「合理的な解決策は、既婚状態の確立。以後、当該書類は受理せず返送される。経営資源は本来の用途に戻る。以上が経緯だ。」
沈黙が落ちた。
「…海馬くん、それで、もう1人のボクを?」
「他に適任は居らん。」
遊戯が、絶句する。
城之内が、絞り出すように言う。
「…理由が、それかよ。」
「合理的だ。」
瀬人は、それで説明は終わったと言わんばかりに、書類に視線を戻した。
アテムが、一度、深い息を吐いた。怒りでも諦めでもない。
──適任。
他の選択肢を検討した上で、選ばれた、ということになる。それが、何故か、胸の奥に小さく刺さった。
「日程の調整に話を移す。」
瀬人は書類のページを閉じ、別のフォルダを開いた。
「式典は来週末。会場、招待客リスト、神事を含む式次第、全て手配は完了している。招待状は明日中に発送される。」
アテムがカレンダーに目をやった。
来週末。
今日の日付から数えて、10日後だった。
「…海馬。」
「何だ。」
「日程が近すぎる。」
「結納でもしたいのか?先送りする理由はない。」
瀬人はそのまま、城之内、本田、遊戯の3人に視線を移した。
「心配はするな。アテムの晴れ姿だ。招待状は届く。」
その言葉に、城之内が反射的に背筋を伸ばしかけて、止めた。本田は壁から背中を離した。遊戯は、何を言われたのか遅れて理解した顔をした。
「貴様…俺の友人を、招待状で抱き込むな。」
「婚姻の招待状を送ることは慣例だ。」
瀬人は表情を変えない。
慣例。そこに、細い棘があった。
アテムは口を閉じた。
ここで「断る」と言うことは出来た。そうして、この社長室から出て行くことも、物理的には可能だった。3度断ったのだから、4度目に断ってもおかしくはない。
だが。
社長室への道すがら、すれ違った社員達。
最初の廊下で、歩いていた若い女性社員2人が、瀬人を見て、ほぼ同時に立ち止まり、深く頭を下げた。
それから1人が顔を上げ、隣のアテムを見て、僅かに目を見開いた。瞬きを1つしてから、改めて頭を下げ直した。そこに、形式の硬さはなかった。
エレベーターの前で、中年の男性社員が1人、書類を腕に抱えて待っていた。扉が開くが、2人を認めた瞬間、後ろに一歩下がって、深く礼をした。
瀬人がそのまま乗り、アテムも続いた。エレベーターの扉が閉まる前に、男性社員が「おめでとうございます」と言った。声は小さく、廊下に落ちて、扉に挟まれて消えた。
通りがかったフロアの廊下には、何人かの社員が立っていた。打ち合わせ帰りの集団だった。1人が2人に気付き、隣の同僚の袖を引いた。集団が一斉に道を空け、頭を下げた。その中の若い男性社員が、頭を下げたまま何かを言った。「おめでとうございます」と聞こえた。呟きのようだったが、間違いなく形を持っていた。
社交辞令の薄さが、どこにもなかった。あの声は本物だった。1人の本気の声は、10人分の儀礼よりも重みを持つ。
ここで「断る」と言って出て行く場合、出て行った後に、あの社員達が何を見ることになるか。
想像した結果、今すぐに断るという選択肢は、現状、取れないという結論が出た。
上手く切り抜ける方法を、考えるしかない。
顔を上げた時、瀬人と目が合った。
瀬人は、相変わらず無表情だった。だが、その目の奥に、ほんの僅かに、何かを見極めようとする色があった気がした。
瀬人は資料を整え、視線を落としたまま淡々と続けた。
「招待状の発送は明日中。詳細は秘書から各位に連絡する。以上だ。」
あまりにも事務的だった。婚約の話の終わりとは思えなかった。
アテムは、ソファから立ち上がった。
「海馬…お前、本気なのか。」
その声は、低かった。
「会見で発表しただろう。」
「正気か、と聞いているんだ。俺は、冥界の王だぜ?」
瀬人は顔を上げた。
「知っている。」
「知っていて、これか。」
「お前の身分は、本件の合理性に影響しない。」
アテムは一度、息を吸って吐いた。
遊戯、城之内、本田の3人は、扉の手前で立ち止まったまま、出るタイミングを失っていた。
アテムは机に手をつき、瀬人を見下ろした。
「なら、惚れさせてみろよ。」
瀬人が、視線を上げた。
「そしたら、婚姻でも何でもやってやる。」
アテムの声には、挑発の手触りがあった。
その事務処理能力で、感情を動かしてみろ。そんな、意地の悪い注文だった。
瀬人は、暫く動かなかった。
それから、小さく息を吐き、ゆっくり立ち上がった。
アテムの前まで、3歩。
扉の前の3人に、視線を向けないまま、瀬人は言った。
「出ていけ。」
遊戯が、息を呑む音がした。
城之内が一歩前に出かけた。
「お、おい海馬!お前、アテムに何をするつもりだ。」
瀬人は、初めてそこで僅かに口の端を上げた。
「望み通り、惚れさせてやるだけだ。」
そう言って、アテムの顎に手を掛け、額に唇を落とした。
軽く、しかし、一切躊躇いのない動きだった。
部屋の中の4人が、それぞれの姿勢のまま、静止した。
アテムは、額に触れた温度が離れていく感覚を、何処か遠くで受け止めていた。
最初に我に返ったのは、本田だった。
「…じゃ、じゃあ俺たちは、邪魔しねーから!」
言うが早いか、城之内の襟と遊戯の腕を掴み、扉の方へ引きずるように動いた。
「お、おい本田、待てって、お前っ…。」
「いいから、来い!」
遊戯は、振り返る暇もなかった。
扉が閉まる音がした。






扉が閉まった音が、空気の静止を一段と深くした。
部屋には、瀬人とアテムだけが残った。
額に触れた温度はもう離れていたが、感触だけがそこに残っていた。アテムはその場所を手で押さようとして、堪えた。
「惚れさせる、だと?」
「それで文句はないのだろう。」
アテムは机から手を離し、姿勢を戻した。声には、先程までの低さは無くなっていた。
「出来ると思っているのか。」
「出来ないとでも?」
短いやり取りは、決闘 (デュエル)の応酬に似ていた。暗黙の宣戦布告が成立した。

その日の夜、海馬邸の客間で、アテムは冥界に戻る決断をした。
現世に長く留まる訳にはいかなかった。元々、ちょっと顔を出せば終わると思っていた。1日近く不在である時点で、王宮は完全に異常事態と認識している頃だ。
冥界へ通じる回廊を開きかけた所で、背後から声がかかった。
「逃げるのか?」
振り向くと、瀬人が部屋の入口に立っていた。
アテムは、回廊の入口を開いたまま、瀬人を見た。
「お前が持ちかけたんだ。…用があるなら、お前が来な。」
挑発は反射だった。逃げるなど、あり得ない。
瀬人は、眉一つ動かさず、自分の上着を取りに行った。
戻ってきた時には、アタッシュケースを手にしていた。



冥界の宮殿の前に2人が降り立った時、王の不在を知らせる鐘は、まだ鳴り続けていた。
アテムが姿を見せた瞬間、衛兵たちの間に明らかな安堵の波が走り、それから一斉に頭が下がった。次に、神官が走ってきた。
「王、ご無事で!一体何処に…。」
「すまない。事情があった。」
「事情とは…。」
神官の視線が、アテムの隣に立つ瀬人を捉えた。その瞬間、神官の表情から一切の音が抜けた。
現世の人間が、王の私的な回廊を経由して、王宮の正面に立っている。これは事件である。
アテムは、神官の硬直を見て、判断した。
「執務に戻る。この男は俺の…客人だ。客間を1つ用意してくれ。」
「は、はい、しかし…、」
「説明は後だ。先に滞っている案件を片付ける。重要度の高いものから持ってきてくれ。」
神官は、一度だけ瀬人を見て、深く頭を下げて、走り去った。来た時よりも速い走り方だった。



アテムが王の執務室に着いた時、机の上には決裁待ちの書類が、不自然な高さに積まれていた。
少し不在にしただけで、こうなる。
アテムは溜息を1つ吐いて、椅子に座った。瀬人は、客間ではなく執務室の隅の長椅子に勝手に座り、アタッシュケースからタブレットを出して読み始めていた。
「客間を用意させた。」
「興味がない。」
噛み合わない。
アテムは諦めて、最初の書類に目を落とした。
神事の日程変更の許可、地方からの陳情、新たな魂の受け入れ手続きに関する合議報告、水利の調整、儀式用の油の調達経路の見直し。一つ一つは小さいが、王の決裁が要るものは多い。
集中して2時間ほど書類を片付けた所で、アテムは顔を上げた。
部屋の隅の長椅子は、空だった。

その頃、瀬人は、冥界の財務を司る部署の扉を叩いていた。
応対した若い役人は、現世の服装の長身の男を前にして、暫く言葉を失った。
「海馬瀬人だ。」
誰もが知っている、王の客人。自己紹介は必要ない。瀬人は当然のように続けた。
「王の婚約者として、冥界の財政の現状把握に来た。担当者を呼べ。」
婚約者、という単語が、初めて冥界の役所の空気に投下された。
若い役人は、走った。

その後、瀬人は順番に各部署を回った。
神事を司る部署では、年中行事の日程と必要な物資の流通について質問した。司法の部署では、王の決裁が必要な案件と不要な案件の区分について確認した。軍務の部署では、現状の人員配置や警備体制を聞いた。
全ての部署で、瀬人は自己紹介をした。
全ての部署で、最初は混乱が走り、次に説明が始まった。
誰1人として、現世の人間を相手に冥界の内政を説明することの異常性を、最初の30秒以上は維持できなかった。瀬人の質問は、あまりにも具体的で、あまりにも的を射ていた。
瀬人は、聞くべきことだけを聞き、世間話を1つもしなかった。
瀬人が王の執務室に戻ってきた時、その手には冥界の各部署から渡された資料の束があった。
アテムは書類から顔を上げ、その束を見て、それから瀬人の顔を見た。
「…何をしていたんだ。」
「現状把握だ。」
瀬人は、当然のように長椅子に座り直し、資料を整理し始めた。

午後も、ほぼ同じように過ぎた。
アテムは滞っていた公務を片付け続け、瀬人は冥界の各部署を回り続けた。
顔を合わせたのは、夕刻に瀬人が執務室の長椅子に戻ってきた時と、夜、アテムが王の私室へ戻る別れ際だけだった。
別れ際には、瀬人はアテムの王冠を外し、額に唇を落とした。
現世と同じ動きで、同じ温度で、同じ短さだった。それ以上のことは何もしなかった。
立ち去る瀬人の背中を見送りながら、アテムは廊下に立ち尽くした。

その夜、アテムは寝付けなかった。
いつ来られても、対応できるように構えていた。気配を察するために、半分だけ感覚を起こしたまま、目を閉じていた。
瀬人は来なかった。
明け方、ようやく短く眠った。
2日目の夜も、同じだった。額への口付け、それ以上は何もない。アテムは、また半分目を覚ましたまま夜を過ごした。
3日目の朝、執務室の机に向かいながら、アテムは自分が寝不足であることに気付いた。
書類の文字は2行ほど読み飛ばされていたし、同じ段落を3度読んだ。

あの男は、目的のためなら他人の事情など気にしない筈だ。
そう、アテムは思い返していた。
現世での仕事を放り出して冥界に来ている時点で、いつものこの男なら、アテムの執務室に踏み込んできて、自分のペースに引きずり込む。既成事実から入って来る可能性も大いにある。それが瀬人だった。
婚姻を迫って来た時の、あのめちゃくちゃな直進が、瀬人の標準だった。
今は、違う。
公務の邪魔をしない。私室にも来ない。額への口付けだけを、極めて事務的に置いていく。
どう出るつもりなのか、気にならないと言えば嘘になった。
アテムは寝不足の目を擦って、筆を置いた。
気にしている時点で、少し押されている、という感覚はあった。

その日の夜、瀬人が執務室の長椅子で資料に目を通しているのを、アテムは眺めていた。
灯火の油の匂いが、部屋に薄く満ちていた。
「海馬。」
書類から目を上げず、瀬人が応じる。
「何だ。」
「何を、考えている。」
瀬人は、資料のページを捲る手を止めた。
顔を上げ、アテムを見た。
灯火の光が、その目に沈んでいた。
「お前のことだ。」
その声には、皮肉も、揶揄も、駆け引きの色も、一切なかった。
アテムは、つい、瞬きを忘れた。

別れ際、いつものようにアテムの額に唇を落とした。
アテムが口を開いた。
「お前にしては、優しい手だな。」
その声には、揶揄が半分、それ以外の何かが半分、混ざっていた。
瀬人が、立ち止まる。肩越しに視線だけを寄越した。口の端が、僅かに上がっていた。
「襲われたかったのか?」
返答を待たずに、扉が閉まった。
アテムは机に肘を突いて、目元を片手で覆った。
覆った下で、自分の頬がほんの少し熱を持っているのを、感じないことにした。



翌日、執務室の机の上の書類の山が、目に見えて低かった。
報告が、要点だけになっていた。謁見の予定が、整理されていた。司祭団から上がってくる合議報告書は、結論が1枚目に書かれる形式に変わっていた。
決裁の判断が、半分の時間で済んだ。
夕方、まだ陽が高いうちに、アテムは最後の書類に印を捺し終えた。顔を上げると、瀬人が長椅子で資料を読み終え、こちらを見ていた。
茶を運ばせた。王専用の上等な茶葉が、湯気を立てて2人の間に置かれた。
茶を一口含んでから、アテムは溜息を吐いた。
「こんなにゆっくりしたのは久しぶりだ。…お前が居なければの話だがな。」
瀬人は茶器を傾けたまま、表情を変えない。
「喜べ。最低限、この状態は保たれる。」
アテムは茶器を口元で止め、訝しげに、瀬人を見た。
何かが、引っかかった。
茶を飲み終え、立ち上がる。

執務室を出て、廊下を並んで歩いた。
アテムが王の私室に戻るまでの、いつもの道のりだった。
角を曲がった所で、神官が2人、書物を抱えて歩いてきた。アテムを見て深く礼をし、続いて瀬人を見て、瀬人にも礼をした。
「海馬殿。」
年配の神官が、瀬人に向かって口を開いた。
「合議の報告書式、本日から変更してみました。書記団より、決裁が速くなり、書記の負担も減ったと、感謝の声が上がっております。」
「結論を先に置けば済む話だ。」
「長年の慣習で、誰も指摘しなかった点でした。」
神官たちは、もう一度深く礼をして、去っていった。
アテムは、足を止めなかった。
足を止めなかったが、歩く速度がほんの僅かに落ちた。
数歩進んでから、ようやく口を開いた。
「お前…。」
「何だ。」
「冥界の部署を回っていた時に、勝手に効率化をしただろう。」
「喜べ。」
瀬人は、隠す素振りもなく頷いた。
「現状把握、と言っていただろう。」
「把握した上で、改善できる点は改善した。担当部署の合意は取った。」
「合意…。」
アテムは前を向いたまま、目を細めた。
合意を取られた側の冥界の役人たちが、現世の人間を相手に何を考えていたのか、想像はつく。
王の婚約者と名乗る男に説明を求められ、説明する内に業務の無駄を指摘され、その指摘の的確さに頷いてしまった。頷いた瞬間に、改善案は実装に向けて動き出した。
最低限、この状態は保たれる。
なるほど。と、アテムは、理解した。
瀬人は、アテムの執務の時間を、構造的に短縮したのだ。冥界の組織を改修することで、王の業務時間そのものを削った。
王の私室の前まで来た時、アテムは扉に手を掛ける前に、瀬人を振り返った。
「海馬。」
「何だ。」
「こんなことで、俺の心を掴めると思っているのか?」
挑発の色を保とうとした声だった。
瀬人は、アテムの前に一歩、距離を詰めた。
近かった。アテムが顔を上げなければ、視線が合わない距離だった。
「その為の時間を、確保した。」
その声は、静かだった。
アテムは、扉の取っ手に掛けた手の力が抜けたのを感じた。
胸の奥で、何かが、また小さくざわりと音を立てた。今度は、無視できない大きさだった。
瀬人が、ゆっくりと身を屈めた。
いつものように、王冠が外され、額に唇が落ちた。
離れた。
離れた、と思った瞬間、瀬人の腕がアテムの背に回って引き寄せられた。
抱き寄せられ、瀬人の体温が伝わってきた。
その状態のまま、瀬人の唇が、もう一度落ちた。
今度は、頬だった。
アテムは、息を詰めた。
詰めている間に、瀬人の腕が解け、身を起こし、廊下を歩いて去っていった。
扉の前に、アテムは1人で立っていた。
頬に残った温度は、額のそれよりも、ずっと長く残った。
背中に回された腕の感触は、それより更に、長く残った。



朝、アテムは執務室に向かって歩いていた。
歩きながら、考えていた。
今夜、別れ際の口付けは、頬で止まるのか。それとも、もう1つ先に進むのか。額、頬、その先と来た時、自分はどんな顔で立っていればいいのか。挑発を返すべきか、何も言わない方が良いのか。
考え込んでいる時点で、既に瀬人の手の内に半分入っている、という自覚はあった。
だが、思考は止められなかった。
夜は、結局、また殆ど眠っていなかった。額と頬の温度が、目を閉じるたびに浮かんできたからだ。意識的に追い出そうとすればする程、鮮明になった。
寝不足の朝の光は、いつもより眩しかった。

執務室の扉を開けた。
長椅子は空で、まだ来ていないのか、と思った。
だが、机の上には既に今日の決裁待ちの書類が、整然と積まれていた。業務は始まっている。
アテムは椅子に座り、書類に手を伸ばした。
数時間が経ったが、長椅子は空のままだった。
昼前、定例の報告書を持って神官が訪れた。
アテムは書類から顔を上げないまま、聞いた。
「海馬は、また何処かの部署に?」
神官は、僅かに首を傾げた。
「海馬殿でしたら、本日早朝に、一度戻ると仰って出立されました。」
アテムは、筆の動きを止めた。
「…一度戻る?」
「現世のご公務があるとのことです。後程、再びお戻りになると伺っております。」
神官は、それだけ伝えて、深く礼をして去っていった。
アテムは、暫く書類を見つめていた。
筆を持ち直し、続きの一行を書こうとして、そのまま止めた。
一言、言って出ていけば良いものを。
最初に浮かんだのは、その言葉だった。
次に浮かんだのは、それは自分が言うべき台詞ではないだろう、という訂正だった。
その次に浮かんだのは、自分は何故、訂正までしているのか、という自問だった。
書類に視線を戻した。
一行、書いた。
集中は、戻った。
だが、午後を通じて、何度か視線が長椅子に流れた。流れた瞬間に、自分でそれを引き戻した。引き戻したことを意識した瞬間に、また流れた。
その繰り返しを、夕刻まで続けた。

夕方、最後の書類に印を終えた。
効率化された業務は、確かに、迅速に終わった。
茶を運ばせる、とは言わなかった。
今日は、2人分の茶を用意する理由がない。
アテムは執務室の窓の外を見た。冥界の夕陽が、宮殿の壁を赤く染めていた。
いつもなら、ここで瀬人が立ち上がり、廊下を並んで歩く時間が始まる筈だった。
歩く相手の居ない廊下を、アテムは1人で歩いた。
私室の扉の前で、足を止めた。
扉に手を掛ける前に、ほんの一瞬、自分が振り返るかどうかを、自分で確かめた。
振り返らなかった。
扉を開け、中に入り、閉めた。
額にも頬にも、何も触れなかった1日が、終わった。






現世の海馬コーポレーション本社、社長室。
瀬人は、いつも通りの時刻に出勤した。
婚約会見の後も、冥界帰りでも、瀬人の出勤時刻は変わらない。
秘書が用意した今日のスケジュールは、通常業務に戻っていた。会見後の問い合わせは広報部が引き受け、縁談書類は受理停止になり、想定された通り、業務は一段静かになっていた。
扉が、ノックもなく開いた。
「兄様。」
モクバが入ってきた。手にタブレットを持っていた。画面には、婚約会見の切り抜き映像が静止画で表示されていた。
瀬人は書類から目を上げない。
「何だ。」
「何だ、じゃないよ。」
モクバは机の前に立ち、タブレットを軽く掲げた。
「これ、どういうこと?いつの間に、こんなことになってたの?」
「会見の通りだ。」
「それは、見たけど。」
「他に説明はない。」
モクバは、暫く兄を見ていた。
いつもなら、ここでもう少し食い下がる所だった。だが、モクバは口を一度閉じ、改めて開いた。
「アテム、なんだよね。」
「そうだ。」
「ちゃんと考えての、ことなんだよね。」
瀬人は、初めて視線を上げた。
「考えていない決定を、俺がすると思うか。」
モクバは、息を吐いた。短く、納得というよりは、撤退の合図に近い息だった。
モクバは知っていた。兄とアテムの間には、自分や他の誰かが入れない領域があった。それが何で出来ているのか、モクバ自身にも言語化はできない。だが、知っていた。
ここでこれ以上聞いても、出てくる答えは「会見の通りだ」の言い直しになるだろう。それは分かっていた。
「…分かった。」
モクバは、タブレットを下ろした。
「ちゃんと、招待してね。」
「招待状は届いているだろう。」
モクバは、頷き、社長室を出ていった。
扉が閉まる音を聞いてから、瀬人は秘書席のインターフォンを押した。
「武藤遊戯を呼び出せ。」
「武藤様でございますね。本日、ソフトウェア開発部にお越しになっておられます。確認致しまして…。」
「社長室に通せ」
通信を切った。

遊戯が社長室の扉を叩いたのは、それからすぐだった。
扉を開けた時、遊戯はまだ訝しげな顔をしていた。先日の会見の隅で目撃した光景と、通夜のような2人の様子が、頭に残っている顔だった。
「海馬くん…?」
「来い。」
瀬人は既に上着を取って立ち上がっていた。
「えっ、ちょ、どこに…。」
「ゲーム開発に、俺が関わってやる。」
瀬人は、遊戯の脇をすり抜けて扉に向かいながら、続けた。
「お前が現在進行している企画だが、仕様の擦り合わせに無駄が出ている。俺が直接見れば、その時間が省ける。来い。」
遊戯は、社長室を出る瀬人の背中を慌てて追った。
「い、いや海馬くん、それは有り難いんだけど、急に何?」
「車を呼んである。」
駐車場で、瀬人は黒い車の後部座席を開けて、遊戯を先に乗せた。自分も乗り込んで、扉を閉めた。
車が走り出してから、遊戯は窓の外を見た。
見覚えのある道を、車は走っていた。だが、行き先は不明。
「…海馬くん、これ、どこに向かってるの?」
「衣装合わせだ。」
「…へ?」
「式の衣装合わせだ。お前の体格は、アテムに最も近い。代理として連れていく。」
遊戯は、口を半分開けたまま、瀬人の横顔を見た。
瀬人は、前を向いたまま、表情を変えなかった。

衣装室には、初老の仕立て師と、複数の助手が待機していた。
遊戯は、その日のうちに、何種類かの礼装を着せられ、向きを変えさせられ、袖の長さを測られ、襟の角度を直された。鏡の中で、自分とは違う、しかし自分と背丈の近い、見知った誰かの輪郭が、徐々に形を成していく。
瀬人は、椅子に座り、仕立て師と短いやり取りを交わしていた。襟の高さ、袖口の刺繍の有無、帯の幅、靴。判断は早く、迷いがなかった。
数時間後、瀬人が立ち上がる。
「大体把握した。下がっていい。」
仕立て師たちは深く礼をして退室して行った。
助手が遊戯の体から衣装を外していく。最後の一枚が外され、遊戯は自分の服に戻った。
全身が疲労していた。
控え室で水を飲みながら、遊戯はようやく、聞きたかったことを聞いた。
「海馬くん。」
「何だ。」
「これ、本当にアテムのためなんだよね?」
瀬人は、衣装合わせの記録を確認していた手を止めた。
「それ以外に何がある。」
答えは短かった。
遊戯は、その短さを、暫く吟味した。
言葉自体は、肯定だった。アテムのためだ、と認めている。だが、その肯定の仕方には、温度が一切なかった。事務的、と言うしかない。
会見で「業務上の最適化」と答え、社長室で「合理的な解決策」と説明し、ここで「それ以外に何がある」と返す。
全て、同じ温度だった。
2人の間には、誰にも入れない何かがある。
遊戯も、それは知っていた。
その男が、今、こうも事務的な言葉だけで身の回りを固めている。
もしかしたら、本当に、ただの事務処理として、アテムを選んでいるのかもしれない。「業務上の最適化」が、文字通りの意味なのかもしれない。
その可能性を、遊戯は完全には否定できなかった。
「…そっか。分かった」
遊戯は、水を飲み干した。
瀬人は、それ以上、何も言わなかった。



翌日、瀬人は予定通り冥界に戻ってきた。
執務室の扉が開いた音で、アテムは書類から目を上げた。
長椅子は、ずっと空席だった。それを、空席が埋まる瞬間に思い出した。
アテムは、空席を意識した自分を、瞬時に意識下に押し込めた。
「戻ったのか。」
声は、いつも通りの調子で出た。
「ああ。」
瀬人は手にタブレットを持っていた。それを長椅子の前の卓に置き、画面を立ち上げた。
「見ろ。」
画面には、礼装が並んでいた。
冥界の伝統的な王装に、現世の礼服の構造を取り入れた折衷の意匠。色違い、装飾違い、襟の形違い。仮縫いの段階のものを写真に収めた一覧だった。
数が多い。その全てを着ているのは、遊戯だった。
アテムは、画面をスクロールする手を止めた。
「…海馬。」
「何だ。」
「これは、何だ。」
「衣装だ。」
「いや、相棒のことを聞いている。」
「お前と体格が最も近い。代理だ。」
アテムは、画面から視線を上げた。
「相棒に、こんなことをさせたのか。」
その声は、低かった。
瀬人は表情を変えない。
「報酬は提示した。」
「報酬?」
「海馬コーポレーションとのゲーム開発に、俺が直接関わる。遊戯の企画は、仕様の擦り合わせに無駄が出ていた所がある。俺が見れば短縮できる。それと、衣装合わせの代理。等価交換だ。」
「相棒は了承したのか。」
「したから着ている。」
アテムは、長く息を吐いた。
遊戯の性格は知っている。
瀬人の提示は、遊戯にとっても確かに利益のある交換ではあるが、果たしてそう素直に頷いたかは疑問である。
それは、分かっている。自分の代わりに遊戯が着せ替え人形になった。それとは別に、片付かない感情が残った。
「相棒…。」
「マネキンと思え。」
やはり。この感情を瀬人に説明しても、瀬人はそれを「合理的な処理」と切り返すだろう。
「…悪いようにはしていない、ということだな。」
「していない。」
「分かった。」
アテムは、タブレットに視線を戻した。
画面の中の遊戯は、どの礼装でも、生真面目な顔で立っていた。

「いくつかは既に作らせているが、どれがいい。」
アテムは、画面の中を順に見ていった。
冥界の白地に、金の刺繍。現世の黒地に、深い藍の差し色。襟が立っているもの、肩が広いもの、袖が長く流れるもの。
目で選んでいる途中で、ふと、別のことに気付いた。
「作らせた、と言ったな。」
「ああ。」
「サイズは?いくら近くても、俺と相棒は別の存在だ。」
アテムは画面から目を上げ、瀬人を見た。
「先日、確認した。」
瀬人は、短く答えた。
アテムがパチリと瞬いた。
先日。確認。
それが指す範囲を、アテムは数秒で逆算した。
冥界に来てから、瀬人がアテムの体に触れた瞬間は、限られていた。額への口付け。頬への口付け。そして、その間に挟まれた、背に回された腕。
あの抱擁。
あの瞬間、瀬人の腕が、自分の背の何処に、どれくらいの長さで回ったか。
アテムは、思い出してしまった。
触れる距離まで引き寄せられた感触。伝わってきた体温。腕が解けていく時の、僅かに残った圧力。額に唇が落ち、離れ、そしてもう一度、頬に落ちた温度。
あれを、「サイズの確認」として処理していた。そう認めるしかない事実が、タブレットに並んでいる。
「…海馬…。」
アテムは、声の出し方を間違えた。低くしようとして、低くなりきらなかった。
瀬人は、その音を、聞き逃さなかった。
タブレットから視線を上げ、アテムを見た。視線が交わった。
瀬人は、何も言わなかった。
言わなかったが、口の端が、ほんの僅かに上がった。
勝者の笑みではなかった。もっと細い、しかし確実な、「気付いたな」と言いたげな笑み。
アテムは、タブレットに視線を戻した。
画面の一番上のものを、指で示した。
「これだ。」
ろくに見ていなかった。
瀬人は、それでいい、と頷いた。



翌日の夕刻、瀬人は再び長椅子に座っていた。
今度は、タブレットではなく、長方形の木箱を横に置いていた。艶のある、装飾の無い箱だった。
アテムは書類に印を捺しながら、視線の端でその箱を捉えていた。
最後の書類を片付けてから、初めて声を出した。
「それは何だ。」
「指輪だ。」
瀬人は箱を持ったまま立ち上がり、机の前まで歩いてきた。
箱を、机の上に置く。
「お前の指輪が要る。式までに決める必要がある。」
アテムは、筆を置いた。
「俺の意見を聞くのか。」
「ああ。」
「意外だな。」
声には、僅かに揶揄の手触りが残っていた。
「衣装も、招待客も、式次第も、全てお前が勝手に決めた。指輪も、勝手に決めそうなものだが。」
瀬人は、箱の留め金に手を掛けて、手を止めた。そして、アテムを見た。
「お前の装飾品は、ただの装飾品ではないのだろう。」
確認では無かった。アテムは、瞬きを忘れた。

冥界の王の装飾は、形式である前に契約だった。耳飾り、首飾り、指輪。それらは、装着する瞬間に意味を発する。
アテム個人の趣味ではなく、王が王として纏うことに意味があるものを選ぶ。
その仕組みを、現世の人間が理解している筈はなかった。
しかし、目の前の男は、たった一言で、その仕組みを射抜いていた。
瀬人は、箱の留め金を開けた。
箱の中には、内張りの黒い天鵞絨の上に、指輪が並んでいた。
数は、多かった。
最も手前の列には、装飾を一切削ぎ落とした、ベーシックなものが並んでいた。プラチナの一本線、金の細い帯、黒い金属の艶消し。シンプルさを極めた現世的な意匠。
その奥に、軽くカジュアルなものが並んでいた。小さな石が一つ嵌められたもの、表面に細かな彫りが入ったもの、二本の素材を編んだもの。
更に奥の列に、明らかに格の違うものが並んでいた。
冥界の王の装飾としても、見劣りしないと即座に判る類の物だった。重厚な台座、深い色の宝石、王の指の上で意味を持つ形に設計されたもの。色とりどりの石。それぞれが、何かを宣言する力を持つ石たちだった。
石の選定にも、形の意匠にも、迷いがなかった。
アテムは、箱に目を落としたまま、暫く動かなかった。
動けなかった、と言う方が正確だった。
現世の指輪と、冥界の装飾の文化。その両方を理解した上で、片方に偏らせずに用意された、選択肢の一群。
その全てを、揃えて来た。
「…海馬。」
「ああ。」
「これは、何時、用意した。」
「一昨日、現世に戻った日だ。」
アテムは、顔を上げた。
仕事に、衣装合わせに、移動。現世の1日は埋まっていた筈だった。
その合間に、これを揃えていたのか。
「…どれを選ばせるつもりだ。」
アテムの声は、少しだけ低かった。低く、なりきらなかった。あの日、執務室で聞いた自分の声と、同じだった。
瀬人は、答えなかった。
箱の一番奥、最も格の高い列の、中央に置かれた指輪を、指で示すこともしなかった。
ただ、箱の蓋を、開けたまま置いた。
全ての選択肢を、アテムの前に、平等に並べたまま。
「お前が選べ。」
その声は、静かだった。
アテムは、箱の中の指輪を、ゆっくりと見ていった。
一つ一つの石が、一つ一つの形が、自分のために選び抜かれていることが、見れば見るほど分かった。
胸の奥が、また音を立てた。
今度の音は、これまでの音の中で、最も大きかった。
アテムは、視線を上げず、口を開いた。
「…海馬。」
「ああ。」
「お前は……。」
言いかけた言葉を、アテムは飲み込んだ。
「考える。少し、時間が要る。」
「構わん。サイズは即刻直させる。」
瀬人は、箱をそのまま机の上に置いて、長椅子に戻った。
急かさなかった。






その夜、アテムは私室に戻ると、扉を閉めてから、長く息を吐いた。
寝衣に着替え、寝台の縁に腰掛けた。
眠るには、まだ早かった。
目を閉じると、机の上に開いたままの箱が見えた。閉じてもらってから戻る方が良かったかもしれない、と一瞬考えた。だが、開いたままにしてくれ、と頼んだのは自分だった。考えてみる、と言ったのも自分だった。
指輪のことを考えていたが、考えながら、別のことを考えていた。
明日も、瀬人は来るだろう。来た時、自分は何処に立っているだろうか。
考えるべきは指輪の方だ、と自分に言い聞かせた。言い聞かせても、思考は同じ場所に戻った。

翌日、アテムは執務室で書類を片付けながら、扉の音に意識の一部を割いていた。
書類は順調に消化されていた。手の動きは止まっていなかった。だが、扉が開く音がするたび、視線が一瞬、扉の方へ流れた。
神官の訪問。書状の受け取り。茶を運ぶ侍従。
瀬人ではなかった。
その都度、アテムは視線を書類に戻した。戻しながら、次の扉の音を、また待っていた。待っている、と認める瞬間はなかった。だが、書類の上を滑る筆先が、待つたびに一拍遅れていた。

夕刻、扉が開いた音と共に、瀬人が入ってきた。
いつもの時刻だった。何時もと同じ歩調だった。
アテムは、視線を書類に固定したまま、書き終えた一行に印を捺した。
そして、初めて顔を上げた。
その顔の上げ方が、自分でも、自然とは言えないものだった。早すぎず、遅すぎず、それは何度も計算した結果だった。
瀬人は長椅子に座り、いつものように資料を開いた。
2人の間に、いつもの夕刻の時間が流れた。
茶を運ばせ、2人で飲んだ。
アテムは、茶の温度を、いつもより長く味わった。

執務室を出て、廊下を並んで歩いた。
歩きながら、アテムは口を開かなかった。
いつもなら、何か一言、揶揄か挑発のある言葉を入れる所だった。今夜は、それをしなかった。
しないままで、瀬人の歩調と合わせて歩いた。
瀬人も、何も言わなかった。

王の私室の前まで来た。
アテムは、扉に手を掛ける前に、振り返った。
振り返るのが当然の流れであるかのように、体が動いた。目が合った。
瀬人は、いつもの距離で立っていた。
今夜は、アテムが、瀬人の方に半歩、近付いた。
近付いてから、自分が近付いたことに気付いたが、それでも、引き返さなかった。
瀬人の目が、僅かに細められた。
また、あの「気付いたな」とでも言いたげな動きだった。

瀬人が、身を屈めた。
いつものように、王冠が外され、額に唇が落ちた。
離れた。
瀬人の腕が、背に回った。
今夜は、アテムの体が、それに合わせて動いた。逆らわなかった。
瀬人の唇が、頬に落ちた。
頬に落ちた唇は、いつもより、ほんの僅か、長く留まった。
離れる時、アテムは息を詰めなかった。
ただ、目を伏せた。
瀬人の腕が解け、身を起こした。
いつもなら、ここで踵を返す筈だったが、今夜は、その前に瀬人が止まり、何かを確認するように、アテムを見ていた。
アテムは、目を伏せたまま、口を開いた。
「…明日、来い。決めておく。」
声は、低かった。
低かったが、低さの種類が、これまでとは違っていた。
挑発でも拒否でもなかった。
瀬人は、暫く、その低さを聞いていた。
「分かった。」
それだけ言って、廊下を歩いて去っていった。

扉の中に入り、扉を閉めた。アテムは、扉に背を預けた。
預けたまま、暫く動かなかった。
指輪を決めておくのは、万が一に備えてのことだと言い訳をする。
頬と背と額に、瀬人の温度の輪郭が、まだ残っていた。
残っているのを、今夜は、消そうとしなかった。



翌日の夕刻、瀬人はいつもの時刻に執務室に来た。
長椅子の前の卓には、昨日の箱がそのまま置いてあった。蓋は閉じてあった。
アテムは最後の書類に印を捺し終え、筆を置いた。
箱を引き寄せ、自分の手で蓋を開けた。
指輪の列を、改めて見た。
昨日、1人で考えた時間の中で、選択は既に決まっていた。選んだ理由を、自分でも何度か言い換えてみていた。一番納得のいく答えを、用意してあった。
箱の中の、奥の列。最も格の高い意匠の中から、1つを選んで、指で示した。
深い色の石が嵌った、重厚な台座のものだった。
「これだ。」
瀬人は、箱を覗き込んだ。アテムの指の先を確認した。
頷いた。
「分かった。調整に出す。」
それで会話は終わる筈だった。
いつもの瀬人なら、それで終わらせた筈だった。
アテムは、箱の蓋に手を掛けた。
掛けたまま、止めた。
ここで何も言わずに蓋を閉じれば、今夜は静かに終わる。それで明日も、式の後も、同じ夕刻が繰り返される。それで、自分は手の中の何かを言葉にせずに済む。
しかし。
アテムは、蓋に掛けた手を、そのまま下ろした。
顔は上げなかった。
箱の中の指輪に視線を落としたまま、口を開いた。
「海馬。」
「ああ。」
「お前が居れば…。」
一拍、置いた。
「…冥界は、より良くなる。」
瀬人は、長椅子から動かなかったが、視線の角度が、ほんの僅かに変わったのが、伏せた目の端で分かった。
「組織の改修、業務の効率化、各部署の連携の見直し。お前が回った所は全て、確実に改善した。担当者の声を聞いた。1人や2人じゃない。」
アテムは、指輪に視線を落としたまま、続けた。
「この国の運営は、長く、王の決裁能力に過度に依存してきた。それを、お前は分解した。」
言葉は、滑らかに出た。
昨日、用意した言葉だった。
アテムは、ここで、初めて顔を上げて瀬人を見た。
「お前と婚姻を結ぶことは、冥界にとって、大いに、利益になる。」
声は、平静だった。
瀬人は、暫く、動かないまま、アテムの目を見ていた。
その視線は、アテムの表情の何処かを探っていた。探りながら、もう既に答えを持っているのが、見ていて分かった。
それでも、最後まで言うことに決めていた。
言わなかった部分を、言ってしまわないために、言える部分を全て言う。
「だから、受ける。式の日に、俺は逃げない。指輪も付ける。お前との婚姻は、冥界の利益として、大いに、助かる。」
助かる、という言葉が、口から出た。
出た瞬間、アテムは、自分の選んだ言葉が、どれくらい透けているかを、自分で測った。
測った結果、これ以上、覆える布は無い、と判った。
瀬人は、まだ動かなかった。
やがて、ゆっくりと、長椅子から立ち上がった。
机の前まで、二歩。
昨日と同じ距離だった。
瀬人は、アテムの目の高さに合わせて、僅かに身を屈めた。
近かった。その距離で、瀬人は口を開いた。
「分かった。」
短かったが、その短さの中に、含めていない情報が、明らかにあった。
アテムは、瀬人の目を見た。
瀬人も、アテムの目を見ていた。
視線が交わっている時間が、いつもより、長かった。
その時間の長さの中で、アテムは、瀬人が全てを見抜いている、ということを、見抜いた。
つまり、瀬人もまた、自分が今、何を覆い隠しているかを、隠したまま受け取った、ということだった。
覆い隠す、という選択肢を選んだ時点で、瀬人もまた、覆い隠すべき何かを、抱えている、ということだった。
なるほど、抱えていた。
アテムは、心の中で、ようやく、その単語を使った。
最初から、抱えていた。
会見で「業務上の最適化」と言った時から、指輪の箱を全て開いて「お前が選べ」と言った時まで。
全部、覆っていた。今、見えた。
見えた瞬間、アテムは、自分の口元が、ほんの僅かに、緩むのを止められなかった。
瀬人の口元も、同じくらい、僅かに緩んだ。
互いに、それ以上は、緩めなかった。
言葉にしないという合意が、視線の交わりの中で、成立した。
それを知ったまま、何も言わなかった。

瀬人が、身を起こした。
「調整に出す。」
いつもの事務的な声に、戻っていた。
「ああ。」
アテムも、いつもの声に、戻った。
卓の上の箱を、丁寧に閉じる。閉じた音が、部屋に小さく落ちた。
箱をしまうと、瀬人は現世へ向かう。もう、式の日は目前まで迫っていた。





現世、式場。
会場の二階バルコニーから、城之内、本田、遊戯の3人は、下の通路を見下ろしていた。
招待客が次々と席に着いていく。海馬コーポレーションの幹部、海外の取引先、政財界の名前のある顔ぶれ。会見以来の婚約騒動の決着を、誰もが少しの緊張と共に見届けに来ている空気だった。
城之内は、何度目かの溜息を吐いた。
「…本当にやんのかな、これ。」
本田が、腕を組んだ。
「アテムの様子じゃ、最後まで分かんねえぞ。」
遊戯は、答えなかった。手元のプログラムを、無意識に擦っていた。
あの社長室で見たアテムの顔。衣装合わせで自分が立たされた鏡。それらが、まだ繋がりきっていなかった。繋がってくれた方が、安心だった。
「ボク、呼ばれてるから、行ってくるね。」
遊戯は2人と離れ、控室へ向かった。アテムが居るかは、分からない。





時刻が来た。
会場が静まった。
扉が開いた。

遊戯にエスコートされて、アテムが入場してきた。
現世と冥界を折衷した礼装は、仮縫いの段階で見たどの形よりも、本人の上で完成していた。襟の高さ、袖の流れ、帯の幅、腰の角度。全てが、アテムの体格と、王としての立ち姿の上で、寸分の狂いなく嵌っていた。
遊戯は、隣を歩きながら、アテムの横顔をそっと窺った。
アテムの口元には、ほんの僅かな、緩みがあった。
怒りでも、覚悟でも、諦めでもなかった。
強いて言えば、面白がっている、に近い表情だった。
バルコニーから見ていた城之内が、思わず本田の脇を肘で突いた。
「…おい、本田。あの顔、見ろよ。」
「見てる。」
「あれ、惚れたのか?」
声は囁きだった。2人で顔を見合わせた。

遊戯がエスコートを終え、自分の席に戻って来ると、城之内が小声で問い質した。
「遊戯、お前、隣歩いてただろ。どうだ。」
遊戯は、席に着きながら、暫く考えた。
「よく分からないけど…。」
もう一度、壇上のアテムを見た。
壇上で瀬人と並ぶ、その立ち姿を見た。
「楽しそうだね。」
遊戯の声は、静かだった。
城之内が、口を半分開けたまま、本田と顔を見合わせた。
本田が、笑う。
「…まあ、本人がそうなら、いいんじゃねえか。」
「だな。」
それ以上、何も言わなかった。
式は、滞りなく進行した。
誓いの言葉、指輪の交換、全て。一切の遅延もなく、一切の中断もなく、式は終わった。
退場するアテムの口元には、入場の時より、ほんの僅かに、緩みが増えていた。



その夜、海馬邸。
寝室の天井は、高かった。ベッドも、広かった。
アテムは、寝間着に着替え、ベッドの自分の側に身を横たえた。隣に、瀬人が同じく身を横たえていた。
今日は、式の当日だった。つまり、初夜と呼ばれる夜だった。
アテムは、目を開けたまま、天井を見ていた。
今度こそ心の準備を、するべきだろう、と判断した。判断したが、何を準備すれば良いのか、具体的なところは分からなかった。とにかく、何かが来た時に、過剰に動揺しないように、感覚の幾つかを先回りで落ち着けておくしかなかった。
時間が過ぎた。
隣の瀬人は、動かなかった。
動かないどころか、既に灯りを落とすつもりらしい。
アテムは、横目で隣を見た。
瀬人は、いつもの調子だった。寝具を整え、自分の枕の位置を直していた。
手を出す気配は、無かった。
アテムは、寝具の縁を握り直し、口を開いた。
「海馬。」
「何だ。」
「俺は今日こそ、手籠めにされるかと、思っていたが。」
瀬人は、灯りを落とす手を止めた。
顔を、アテムの方に向けた。
「されたいのか。」
アテムは、即答できなかった。
それが、やけに自分でも僅かに腹立たしかった。
数拍置いてから、慎重に、声を作った。
「いや。」
「…ほう。」
「疲れてる。それに、ここで、されるのは…大いに、困る。」
「大いに、か。」
選んだのは、無意識ではなかった。
瀬人がそれを聞いた瞬間、口の端が、僅かに上がったのが、暗がりの中でも見えた。
瀬人は、それ以上、何も追わずに、灯りを落とした。
「ならば、いい加減に、眠れ。」
囁くように言って、目を閉じた。
アテムは、目を閉じなかった。
暗がりの天井を、暫く見ていた。
考えていた。
この10日間で、瀬人が動かしたものを、順に思い返した。
冥界の組織や業務時間、衣装の手配、指輪の選定、式の進行。全て、10日という強行のスケジュールに、瀬人は乗せ切った。
──お前も大概だな。
アテムは、心の中で、そう呟いて、隣を見た。
瀬人は、既に呼吸が深くなっていた。
アテムは、暫くそれを眺めていた。
ベッドの中で、ほんの少しだけ、瀬人の方に身を寄せた。
寄り添った、と言う方が、近かった。
肩と肩の間に、半身分の空気が、残った。
目を閉じる。
「お前も、大概だな。」
今度は、口に出した。
眠っている瀬人を、起こさない音量で。
瀬人の呼吸がほんの一拍、変わったのを、アテムは目を閉じたまま感じた。
起きていたらしい。
だが、互いに、何も言わなかった。

暗がりの中で、2人の呼吸の間隔だけが、ゆっくりと揃っていった。
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