「アテム、娶られろ!」
冥界の色んな制約を破り、瀬人はアテムに詰め寄った。
拒否はした。
その場で。冥界から連れ出される時。海馬邸で使用人に着替えさせられる時。3度は拒否をした。
しかし。
「海馬コーポレーション社長、海馬瀬人氏の婚約会見です。」
アテムは何故かその場に居た。
眩いフラッシュが一斉に焚かれる。
隣で瀬人は微動だにせず、口を開いた。
「本日付で婚約した。相手はここに居る。質問は受け付ける。」
簡潔すぎる発表に、会場が一拍遅れてざわついた。
アテムは横目で瀬人を窺ったが、冗談には見えない。元々この男に冗談を言う機能は搭載されていない。
質問の手が無数に挙がる。瀬人は最前列の記者を指した。
「お相手のお名前を伺えますか。」
「アテム。」
「ご職業は。」
「非公開。」
「失礼ですが、ご年齢は。」
「知らん。」
記者の側が手探りで質問を組み立てている間、瀬人は次の手を指す。
「突然のご発表ですが、馴れ初めをお伺いしても。」
「答える義務はない。」
全ての回答に即答していくが、噛み合わない。
質問は受け付けるのではなかったのだろうか。会場が一瞬、静かになった。
次の記者が、慎重に問いを選んで切り出した。
「ご結婚の決意に至る経緯について、何か一言。」
瀬人は僅かに目を細めた。
「業務上の最適化だ。」
質問の意味と回答は、やはり噛み合わない。会場が止まる。
「次。」
会場の隅、関係者席の末席で、遊戯はクリアファイルを取り落としかけていた。
遊戯はその日、海馬コーポレーションで打ち合わせがあり、社内に居た。会議室を出た所で人の流れに巻き込まれ、気付けば社長の婚約会見の会場の隅にいた。呼ばれた訳ではないが、もう抜けられなかった。
壇上の隣に、見覚えのある横顔があった。当然、ある、どころではなかった。
遊戯はファイルを胸に押し当てて、声を漏らした。
「え…うそ、海馬くんの婚約…相手って…。」
誰にも聞こえない音量だった。
壇上のアテムが、ふと、視線を寄越した。パチリと目が合うと、アテムが、僅かに眉を下げた。
瀬人が腕時計に視線を落とし、立ち上がる。
「時間だ。」
まだ質問の手が無数に挙がっていたが、瀬人は会場を見渡しもしなかった。広報担当がマイクに駆け寄り、後日改めて、と繰り返しているのを背に、瀬人はアテムの腕を取った。
置かれていた手が引き上げられ、アテムもすんなり立ち上がる。
関係者通路を歩きながら、アテムは思考していた。
──想定より、ずっとマズい。
顔を出せば終わると判断したのはアテム自身だった。だが、顔を出した先で「婚約者です」と全国に流されるパターンは、計算していなかった。
冥界の制約とは違う種類の、現世の制約。契約書でも掟でもなく、報道された事実が一人歩きするという類のものだ。
計算外。その単語が浮かんだ時点で、自分の認識の遅さを認めるしかなかった。
遊戯がスマホを握り直したのは、壇上から2人が退場した直後だった。
城之内が亀のゲーム屋の前で速報を見たのは、それから2分も経たない頃である。
「は!?」
街の大きな画面に映る婚約会見の切り抜きで、隣にいるのは、どう見てもアテムだった。
本田からの着信は、ほぼ同時に入った。
『おい、見たか。』
「見た。今見てる。」
『遊戯は。』
「分からねえ、連絡してみる。」
通話を切らないうちに、画面に遊戯からのメッセージが入った。
『海馬コーポレーションに居る。社長室に行く。』
既読を付ける前に、城之内は走り出していた。
社長室の扉が開いた時、まず感じたのは、空気の重さだった。
瀬人はデスクで、ディスプレイに目を通している。応接ソファに、アテムが腕を組んで座っている。2人の間に会話はなく、視線も交わっていない。
婚約した2人の部屋とは思えなかった。
もはや通夜だった。
「あの…海馬くん?」
最初に口を開いたのは遊戯だった。城之内と本田は、扉のすぐ内側で立ち止まったままだ。
瀬人は書類から顔を上げない。
「呼んだ覚えはない。」
「呼ばれてないけど…。」
遊戯の声は珍しく硬かった。
アテムはソファから動かない。視線だけ、入ってきた3人に向ける。
「久しぶりだな。こんな形で会うことになるとは。」
その声は、低かった。怒っているのか、疲れているのか。
城之内が、ようやく声を出した。
「…なあ、アテム…。」
「ん?」
「お前、何で…ここに居るんだ?」
アテムは少し考えてから、答えた。
「俺にも、よく分からない。」
「分からないって、何でだよ。」
城之内が思わずツッコむ。本田も眉を寄せた。
「お前、自分のことだろ。」
「そうだな。だが、分からない。」
アテムは真顔だった。本人としては誠実な回答である。
遊戯は、久しぶりに会えたアテムの顔をじっと見ていた。聞きたいことは山ほどある。冥界はどうとか、いつから現世に来ているのかとか。だが、そんな空気ではない。
仕方がないので、確認から入ることにした。
「…婚約、したんだよね?」
「したことになっている。」
「したことに、って。」
「事実関係として、成立しているらしい。先程な。」
城之内が頭を抱えた。
「お前…自分で婚約したのに『らしい』ってあるかよ。」
「俺は3度断った。」
「3度?」
「3度断った上で、ここに居る。」
本田が壁際で腕を組み、低く唸る。
「無理矢理かよ。」
「いや、それも分からない。罪なき使用人を相手に暴れる訳にもいかなかった。」
「海馬…。」
城之内が瀬人を睨んだ。だが瀬人は顔を上げない。聞いていない訳ではなさそうだが、応じる意思もないらしい。
遊戯が、慎重に次を尋ねた。
「えっと…馴れ初めは…?」
「海馬に聞いてくれ。」
分からないと言うアテムには、本当に説明できることがないらしい。
4人の視線が、一斉に窓際に向けられた。
瀬人は書類の次のページを表示した。
「業務上の最適化、と言った筈だ。」
「いや、それじゃ何も分かんねえよ!」
城之内の声に、瀬人はようやく顔を上げたが、眉一つ動かさない。
「縁談が、週平均36件だ。」
部屋の中の4人が、それぞれの姿勢のまま、固まった。
「秘書課が縁談書類の処理に専任を割いている。当該人員は本来、別の業務に充てられるべきリソース。」
瀬人は淡々と続けた。
「断りの書状の文面のテンプレートは現在、17種類運用。新規追加の議論が常時行われている。これは経営判断として看過できる事態ではない。」
誰も、声を出せなかった。
「合理的な解決策は、既婚状態の確立。以後、当該書類は受理せず返送される。経営資源は本来の用途に戻る。以上が経緯だ。」
沈黙が落ちた。
「…海馬くん、それで、もう1人のボクを?」
「他に適任は居らん。」
遊戯が、絶句する。
城之内が、絞り出すように言う。
「…理由が、それかよ。」
「合理的だ。」
瀬人は、それで説明は終わったと言わんばかりに、書類に視線を戻した。
アテムが、一度、深い息を吐いた。怒りでも諦めでもない。
──適任。
他の選択肢を検討した上で、選ばれた、ということになる。それが、何故か、胸の奥に小さく刺さった。
「日程の調整に話を移す。」
瀬人は書類のページを閉じ、別のフォルダを開いた。
「式典は来週末。会場、招待客リスト、神事を含む式次第、全て手配は完了している。招待状は明日中に発送される。」
アテムがカレンダーに目をやった。
来週末。
今日の日付から数えて、10日後だった。
「…海馬。」
「何だ。」
「日程が近すぎる。」
「結納でもしたいのか?先送りする理由はない。」
瀬人はそのまま、城之内、本田、遊戯の3人に視線を移した。
「心配はするな。アテムの晴れ姿だ。招待状は届く。」
その言葉に、城之内が反射的に背筋を伸ばしかけて、止めた。本田は壁から背中を離した。遊戯は、何を言われたのか遅れて理解した顔をした。
「貴様…俺の友人を、招待状で抱き込むな。」
「婚姻の招待状を送ることは慣例だ。」
瀬人は表情を変えない。
慣例。そこに、細い棘があった。
アテムは口を閉じた。
ここで「断る」と言うことは出来た。そうして、この社長室から出て行くことも、物理的には可能だった。3度断ったのだから、4度目に断ってもおかしくはない。
だが。
社長室への道すがら、すれ違った社員達。
最初の廊下で、歩いていた若い女性社員2人が、瀬人を見て、ほぼ同時に立ち止まり、深く頭を下げた。
それから1人が顔を上げ、隣のアテムを見て、僅かに目を見開いた。瞬きを1つしてから、改めて頭を下げ直した。そこに、形式の硬さはなかった。
エレベーターの前で、中年の男性社員が1人、書類を腕に抱えて待っていた。扉が開くが、2人を認めた瞬間、後ろに一歩下がって、深く礼をした。
瀬人がそのまま乗り、アテムも続いた。エレベーターの扉が閉まる前に、男性社員が「おめでとうございます」と言った。声は小さく、廊下に落ちて、扉に挟まれて消えた。
通りがかったフロアの廊下には、何人かの社員が立っていた。打ち合わせ帰りの集団だった。1人が2人に気付き、隣の同僚の袖を引いた。集団が一斉に道を空け、頭を下げた。その中の若い男性社員が、頭を下げたまま何かを言った。「おめでとうございます」と聞こえた。呟きのようだったが、間違いなく形を持っていた。
社交辞令の薄さが、どこにもなかった。あの声は本物だった。1人の本気の声は、10人分の儀礼よりも重みを持つ。
ここで「断る」と言って出て行く場合、出て行った後に、あの社員達が何を見ることになるか。
想像した結果、今すぐに断るという選択肢は、現状、取れないという結論が出た。
上手く切り抜ける方法を、考えるしかない。
顔を上げた時、瀬人と目が合った。
瀬人は、相変わらず無表情だった。だが、その目の奥に、ほんの僅かに、何かを見極めようとする色があった気がした。
瀬人は資料を整え、視線を落としたまま淡々と続けた。
「招待状の発送は明日中。詳細は秘書から各位に連絡する。以上だ。」
あまりにも事務的だった。婚約の話の終わりとは思えなかった。
アテムは、ソファから立ち上がった。
「海馬…お前、本気なのか。」
その声は、低かった。
「会見で発表しただろう。」
「正気か、と聞いているんだ。俺は、冥界の王だぜ?」
瀬人は顔を上げた。
「知っている。」
「知っていて、これか。」
「お前の身分は、本件の合理性に影響しない。」
アテムは一度、息を吸って吐いた。
遊戯、城之内、本田の3人は、扉の手前で立ち止まったまま、出るタイミングを失っていた。
アテムは机に手をつき、瀬人を見下ろした。
「なら、惚れさせてみろよ。」
瀬人が、視線を上げた。
「そしたら、婚姻でも何でもやってやる。」
アテムの声には、挑発の手触りがあった。
その事務処理能力で、感情を動かしてみろ。そんな、意地の悪い注文だった。
瀬人は、暫く動かなかった。
それから、小さく息を吐き、ゆっくり立ち上がった。
アテムの前まで、3歩。
扉の前の3人に、視線を向けないまま、瀬人は言った。
「出ていけ。」
遊戯が、息を呑む音がした。
城之内が一歩前に出かけた。
「お、おい海馬!お前、アテムに何をするつもりだ。」
瀬人は、初めてそこで僅かに口の端を上げた。
「望み通り、惚れさせてやるだけだ。」
そう言って、アテムの顎に手を掛け、額に唇を落とした。
軽く、しかし、一切躊躇いのない動きだった。
部屋の中の4人が、それぞれの姿勢のまま、静止した。
アテムは、額に触れた温度が離れていく感覚を、何処か遠くで受け止めていた。
最初に我に返ったのは、本田だった。
「…じゃ、じゃあ俺たちは、邪魔しねーから!」
言うが早いか、城之内の襟と遊戯の腕を掴み、扉の方へ引きずるように動いた。
「お、おい本田、待てって、お前っ…。」
「いいから、来い!」
遊戯は、振り返る暇もなかった。
扉が閉まる音がした。
扉が閉まった音が、空気の静止を一段と深くした。
部屋には、瀬人とアテムだけが残った。
額に触れた温度はもう離れていたが、感触だけがそこに残っていた。アテムはその場所を手で押さようとして、堪えた。
「惚れさせる、だと?」
「それで文句はないのだろう。」
アテムは机から手を離し、姿勢を戻した。声には、先程までの低さは無くなっていた。
「出来ると思っているのか。」
「出来ないとでも?」
短いやり取りは、決闘 の応酬に似ていた。暗黙の宣戦布告が成立した。
その日の夜、海馬邸の客間で、アテムは冥界に戻る決断をした。
現世に長く留まる訳にはいかなかった。元々、ちょっと顔を出せば終わると思っていた。1日近く不在である時点で、王宮は完全に異常事態と認識している頃だ。
冥界へ通じる回廊を開きかけた所で、背後から声がかかった。
「逃げるのか?」
振り向くと、瀬人が部屋の入口に立っていた。
アテムは、回廊の入口を開いたまま、瀬人を見た。
「お前が持ちかけたんだ。…用があるなら、お前が来な。」
挑発は反射だった。逃げるなど、あり得ない。
瀬人は、眉一つ動かさず、自分の上着を取りに行った。
戻ってきた時には、アタッシュケースを手にしていた。
冥界の宮殿の前に2人が降り立った時、王の不在を知らせる鐘は、まだ鳴り続けていた。
アテムが姿を見せた瞬間、衛兵たちの間に明らかな安堵の波が走り、それから一斉に頭が下がった。次に、神官が走ってきた。
「王、ご無事で!一体何処に…。」
「すまない。事情があった。」
「事情とは…。」
神官の視線が、アテムの隣に立つ瀬人を捉えた。その瞬間、神官の表情から一切の音が抜けた。
現世の人間が、王の私的な回廊を経由して、王宮の正面に立っている。これは事件である。
アテムは、神官の硬直を見て、判断した。
「執務に戻る。この男は俺の…客人だ。客間を1つ用意してくれ。」
「は、はい、しかし…、」
「説明は後だ。先に滞っている案件を片付ける。重要度の高いものから持ってきてくれ。」
神官は、一度だけ瀬人を見て、深く頭を下げて、走り去った。来た時よりも速い走り方だった。
アテムが王の執務室に着いた時、机の上には決裁待ちの書類が、不自然な高さに積まれていた。
少し不在にしただけで、こうなる。
アテムは溜息を1つ吐いて、椅子に座った。瀬人は、客間ではなく執務室の隅の長椅子に勝手に座り、アタッシュケースからタブレットを出して読み始めていた。
「客間を用意させた。」
「興味がない。」
噛み合わない。
アテムは諦めて、最初の書類に目を落とした。
神事の日程変更の許可、地方からの陳情、新たな魂の受け入れ手続きに関する合議報告、水利の調整、儀式用の油の調達経路の見直し。一つ一つは小さいが、王の決裁が要るものは多い。
集中して2時間ほど書類を片付けた所で、アテムは顔を上げた。
部屋の隅の長椅子は、空だった。
その頃、瀬人は、冥界の財務を司る部署の扉を叩いていた。
応対した若い役人は、現世の服装の長身の男を前にして、暫く言葉を失った。
「海馬瀬人だ。」
誰もが知っている、王の客人。自己紹介は必要ない。瀬人は当然のように続けた。
「王の婚約者として、冥界の財政の現状把握に来た。担当者を呼べ。」
婚約者、という単語が、初めて冥界の役所の空気に投下された。
若い役人は、走った。
その後、瀬人は順番に各部署を回った。
神事を司る部署では、年中行事の日程と必要な物資の流通について質問した。司法の部署では、王の決裁が必要な案件と不要な案件の区分について確認した。軍務の部署では、現状の人員配置や警備体制を聞いた。
全ての部署で、瀬人は自己紹介をした。
全ての部署で、最初は混乱が走り、次に説明が始まった。
誰1人として、現世の人間を相手に冥界の内政を説明することの異常性を、最初の30秒以上は維持できなかった。瀬人の質問は、あまりにも具体的で、あまりにも的を射ていた。
瀬人は、聞くべきことだけを聞き、世間話を1つもしなかった。
瀬人が王の執務室に戻ってきた時、その手には冥界の各部署から渡された資料の束があった。
アテムは書類から顔を上げ、その束を見て、それから瀬人の顔を見た。
「…何をしていたんだ。」
「現状把握だ。」
瀬人は、当然のように長椅子に座り直し、資料を整理し始めた。
午後も、ほぼ同じように過ぎた。
アテムは滞っていた公務を片付け続け、瀬人は冥界の各部署を回り続けた。
顔を合わせたのは、夕刻に瀬人が執務室の長椅子に戻ってきた時と、夜、アテムが王の私室へ戻る別れ際だけだった。
別れ際には、瀬人はアテムの王冠を外し、額に唇を落とした。
現世と同じ動きで、同じ温度で、同じ短さだった。それ以上のことは何もしなかった。
立ち去る瀬人の背中を見送りながら、アテムは廊下に立ち尽くした。
その夜、アテムは寝付けなかった。
いつ来られても、対応できるように構えていた。気配を察するために、半分だけ感覚を起こしたまま、目を閉じていた。
瀬人は来なかった。
明け方、ようやく短く眠った。
2日目の夜も、同じだった。額への口付け、それ以上は何もない。アテムは、また半分目を覚ましたまま夜を過ごした。
3日目の朝、執務室の机に向かいながら、アテムは自分が寝不足であることに気付いた。
書類の文字は2行ほど読み飛ばされていたし、同じ段落を3度読んだ。
あの男は、目的のためなら他人の事情など気にしない筈だ。
そう、アテムは思い返していた。
現世での仕事を放り出して冥界に来ている時点で、いつものこの男なら、アテムの執務室に踏み込んできて、自分のペースに引きずり込む。既成事実から入って来る可能性も大いにある。それが瀬人だった。
婚姻を迫って来た時の、あのめちゃくちゃな直進が、瀬人の標準だった。
今は、違う。
公務の邪魔をしない。私室にも来ない。額への口付けだけを、極めて事務的に置いていく。
どう出るつもりなのか、気にならないと言えば嘘になった。
アテムは寝不足の目を擦って、筆を置いた。
気にしている時点で、少し押されている、という感覚はあった。
その日の夜、瀬人が執務室の長椅子で資料に目を通しているのを、アテムは眺めていた。
灯火の油の匂いが、部屋に薄く満ちていた。
「海馬。」
書類から目を上げず、瀬人が応じる。
「何だ。」
「何を、考えている。」
瀬人は、資料のページを捲る手を止めた。
顔を上げ、アテムを見た。
灯火の光が、その目に沈んでいた。
「お前のことだ。」
その声には、皮肉も、揶揄も、駆け引きの色も、一切なかった。
アテムは、つい、瞬きを忘れた。
別れ際、いつものようにアテムの額に唇を落とした。
アテムが口を開いた。
「お前にしては、優しい手だな。」
その声には、揶揄が半分、それ以外の何かが半分、混ざっていた。
瀬人が、立ち止まる。肩越しに視線だけを寄越した。口の端が、僅かに上がっていた。
「襲われたかったのか?」
返答を待たずに、扉が閉まった。
アテムは机に肘を突いて、目元を片手で覆った。
覆った下で、自分の頬がほんの少し熱を持っているのを、感じないことにした。
翌日、執務室の机の上の書類の山が、目に見えて低かった。
報告が、要点だけになっていた。謁見の予定が、整理されていた。司祭団から上がってくる合議報告書は、結論が1枚目に書かれる形式に変わっていた。
決裁の判断が、半分の時間で済んだ。
夕方、まだ陽が高いうちに、アテムは最後の書類に印を捺し終えた。顔を上げると、瀬人が長椅子で資料を読み終え、こちらを見ていた。
茶を運ばせた。王専用の上等な茶葉が、湯気を立てて2人の間に置かれた。
茶を一口含んでから、アテムは溜息を吐いた。
「こんなにゆっくりしたのは久しぶりだ。…お前が居なければの話だがな。」
瀬人は茶器を傾けたまま、表情を変えない。
「喜べ。最低限、この状態は保たれる。」
アテムは茶器を口元で止め、訝しげに、瀬人を見た。
何かが、引っかかった。
茶を飲み終え、立ち上がる。
執務室を出て、廊下を並んで歩いた。
アテムが王の私室に戻るまでの、いつもの道のりだった。
角を曲がった所で、神官が2人、書物を抱えて歩いてきた。アテムを見て深く礼をし、続いて瀬人を見て、瀬人にも礼をした。
「海馬殿。」
年配の神官が、瀬人に向かって口を開いた。
「合議の報告書式、本日から変更してみました。書記団より、決裁が速くなり、書記の負担も減ったと、感謝の声が上がっております。」
「結論を先に置けば済む話だ。」
「長年の慣習で、誰も指摘しなかった点でした。」
神官たちは、もう一度深く礼をして、去っていった。
アテムは、足を止めなかった。
足を止めなかったが、歩く速度がほんの僅かに落ちた。
数歩進んでから、ようやく口を開いた。
「お前…。」
「何だ。」
「冥界の部署を回っていた時に、勝手に効率化をしただろう。」
「喜べ。」
瀬人は、隠す素振りもなく頷いた。
「現状把握、と言っていただろう。」
「把握した上で、改善できる点は改善した。担当部署の合意は取った。」
「合意…。」
アテムは前を向いたまま、目を細めた。
合意を取られた側の冥界の役人たちが、現世の人間を相手に何を考えていたのか、想像はつく。
王の婚約者と名乗る男に説明を求められ、説明する内に業務の無駄を指摘され、その指摘の的確さに頷いてしまった。頷いた瞬間に、改善案は実装に向けて動き出した。
最低限、この状態は保たれる。
なるほど。と、アテムは、理解した。
瀬人は、アテムの執務の時間を、構造的に短縮したのだ。冥界の組織を改修することで、王の業務時間そのものを削った。
王の私室の前まで来た時、アテムは扉に手を掛ける前に、瀬人を振り返った。
「海馬。」
「何だ。」
「こんなことで、俺の心を掴めると思っているのか?」
挑発の色を保とうとした声だった。
瀬人は、アテムの前に一歩、距離を詰めた。
近かった。アテムが顔を上げなければ、視線が合わない距離だった。
「その為の時間を、確保した。」
その声は、静かだった。
アテムは、扉の取っ手に掛けた手の力が抜けたのを感じた。
胸の奥で、何かが、また小さくざわりと音を立てた。今度は、無視できない大きさだった。
瀬人が、ゆっくりと身を屈めた。
いつものように、王冠が外され、額に唇が落ちた。
離れた。
離れた、と思った瞬間、瀬人の腕がアテムの背に回って引き寄せられた。
抱き寄せられ、瀬人の体温が伝わってきた。
その状態のまま、瀬人の唇が、もう一度落ちた。
今度は、頬だった。
アテムは、息を詰めた。
詰めている間に、瀬人の腕が解け、身を起こし、廊下を歩いて去っていった。
扉の前に、アテムは1人で立っていた。
頬に残った温度は、額のそれよりも、ずっと長く残った。
背中に回された腕の感触は、それより更に、長く残った。
朝、アテムは執務室に向かって歩いていた。
歩きながら、考えていた。
今夜、別れ際の口付けは、頬で止まるのか。それとも、もう1つ先に進むのか。額、頬、その先と来た時、自分はどんな顔で立っていればいいのか。挑発を返すべきか、何も言わない方が良いのか。
考え込んでいる時点で、既に瀬人の手の内に半分入っている、という自覚はあった。
だが、思考は止められなかった。
夜は、結局、また殆ど眠っていなかった。額と頬の温度が、目を閉じるたびに浮かんできたからだ。意識的に追い出そうとすればする程、鮮明になった。
寝不足の朝の光は、いつもより眩しかった。
執務室の扉を開けた。
長椅子は空で、まだ来ていないのか、と思った。
だが、机の上には既に今日の決裁待ちの書類が、整然と積まれていた。業務は始まっている。
アテムは椅子に座り、書類に手を伸ばした。
数時間が経ったが、長椅子は空のままだった。
昼前、定例の報告書を持って神官が訪れた。
アテムは書類から顔を上げないまま、聞いた。
「海馬は、また何処かの部署に?」
神官は、僅かに首を傾げた。
「海馬殿でしたら、本日早朝に、一度戻ると仰って出立されました。」
アテムは、筆の動きを止めた。
「…一度戻る?」
「現世のご公務があるとのことです。後程、再びお戻りになると伺っております。」
神官は、それだけ伝えて、深く礼をして去っていった。
アテムは、暫く書類を見つめていた。
筆を持ち直し、続きの一行を書こうとして、そのまま止めた。
一言、言って出ていけば良いものを。
最初に浮かんだのは、その言葉だった。
次に浮かんだのは、それは自分が言うべき台詞ではないだろう、という訂正だった。
その次に浮かんだのは、自分は何故、訂正までしているのか、という自問だった。
書類に視線を戻した。
一行、書いた。
集中は、戻った。
だが、午後を通じて、何度か視線が長椅子に流れた。流れた瞬間に、自分でそれを引き戻した。引き戻したことを意識した瞬間に、また流れた。
その繰り返しを、夕刻まで続けた。
夕方、最後の書類に印を終えた。
効率化された業務は、確かに、迅速に終わった。
茶を運ばせる、とは言わなかった。
今日は、2人分の茶を用意する理由がない。
アテムは執務室の窓の外を見た。冥界の夕陽が、宮殿の壁を赤く染めていた。
いつもなら、ここで瀬人が立ち上がり、廊下を並んで歩く時間が始まる筈だった。
歩く相手の居ない廊下を、アテムは1人で歩いた。
私室の扉の前で、足を止めた。
扉に手を掛ける前に、ほんの一瞬、自分が振り返るかどうかを、自分で確かめた。
振り返らなかった。
扉を開け、中に入り、閉めた。
額にも頬にも、何も触れなかった1日が、終わった。
現世の海馬コーポレーション本社、社長室。
瀬人は、いつも通りの時刻に出勤した。
婚約会見の後も、冥界帰りでも、瀬人の出勤時刻は変わらない。
秘書が用意した今日のスケジュールは、通常業務に戻っていた。会見後の問い合わせは広報部が引き受け、縁談書類は受理停止になり、想定された通り、業務は一段静かになっていた。
扉が、ノックもなく開いた。
「兄様。」
モクバが入ってきた。手にタブレットを持っていた。画面には、婚約会見の切り抜き映像が静止画で表示されていた。
瀬人は書類から目を上げない。
「何だ。」
「何だ、じゃないよ。」
モクバは机の前に立ち、タブレットを軽く掲げた。
「これ、どういうこと?いつの間に、こんなことになってたの?」
「会見の通りだ。」
「それは、見たけど。」
「他に説明はない。」
モクバは、暫く兄を見ていた。
いつもなら、ここでもう少し食い下がる所だった。だが、モクバは口を一度閉じ、改めて開いた。
「アテム、なんだよね。」
「そうだ。」
「ちゃんと考えての、ことなんだよね。」
瀬人は、初めて視線を上げた。
「考えていない決定を、俺がすると思うか。」
モクバは、息を吐いた。短く、納得というよりは、撤退の合図に近い息だった。
モクバは知っていた。兄とアテムの間には、自分や他の誰かが入れない領域があった。それが何で出来ているのか、モクバ自身にも言語化はできない。だが、知っていた。
ここでこれ以上聞いても、出てくる答えは「会見の通りだ」の言い直しになるだろう。それは分かっていた。
「…分かった。」
モクバは、タブレットを下ろした。
「ちゃんと、招待してね。」
「招待状は届いているだろう。」
モクバは、頷き、社長室を出ていった。
扉が閉まる音を聞いてから、瀬人は秘書席のインターフォンを押した。
「武藤遊戯を呼び出せ。」
「武藤様でございますね。本日、ソフトウェア開発部にお越しになっておられます。確認致しまして…。」
「社長室に通せ」
通信を切った。
遊戯が社長室の扉を叩いたのは、それからすぐだった。
扉を開けた時、遊戯はまだ訝しげな顔をしていた。先日の会見の隅で目撃した光景と、通夜のような2人の様子が、頭に残っている顔だった。
「海馬くん…?」
「来い。」
瀬人は既に上着を取って立ち上がっていた。
「えっ、ちょ、どこに…。」
「ゲーム開発に、俺が関わってやる。」
瀬人は、遊戯の脇をすり抜けて扉に向かいながら、続けた。
「お前が現在進行している企画だが、仕様の擦り合わせに無駄が出ている。俺が直接見れば、その時間が省ける。来い。」
遊戯は、社長室を出る瀬人の背中を慌てて追った。
「い、いや海馬くん、それは有り難いんだけど、急に何?」
「車を呼んである。」
駐車場で、瀬人は黒い車の後部座席を開けて、遊戯を先に乗せた。自分も乗り込んで、扉を閉めた。
車が走り出してから、遊戯は窓の外を見た。
見覚えのある道を、車は走っていた。だが、行き先は不明。
「…海馬くん、これ、どこに向かってるの?」
「衣装合わせだ。」
「…へ?」
「式の衣装合わせだ。お前の体格は、アテムに最も近い。代理として連れていく。」
遊戯は、口を半分開けたまま、瀬人の横顔を見た。
瀬人は、前を向いたまま、表情を変えなかった。
衣装室には、初老の仕立て師と、複数の助手が待機していた。
遊戯は、その日のうちに、何種類かの礼装を着せられ、向きを変えさせられ、袖の長さを測られ、襟の角度を直された。鏡の中で、自分とは違う、しかし自分と背丈の近い、見知った誰かの輪郭が、徐々に形を成していく。
瀬人は、椅子に座り、仕立て師と短いやり取りを交わしていた。襟の高さ、袖口の刺繍の有無、帯の幅、靴。判断は早く、迷いがなかった。
数時間後、瀬人が立ち上がる。
「大体把握した。下がっていい。」
仕立て師たちは深く礼をして退室して行った。
助手が遊戯の体から衣装を外していく。最後の一枚が外され、遊戯は自分の服に戻った。
全身が疲労していた。
控え室で水を飲みながら、遊戯はようやく、聞きたかったことを聞いた。
「海馬くん。」
「何だ。」
「これ、本当にアテムのためなんだよね?」
瀬人は、衣装合わせの記録を確認していた手を止めた。
「それ以外に何がある。」
答えは短かった。
遊戯は、その短さを、暫く吟味した。
言葉自体は、肯定だった。アテムのためだ、と認めている。だが、その肯定の仕方には、温度が一切なかった。事務的、と言うしかない。
会見で「業務上の最適化」と答え、社長室で「合理的な解決策」と説明し、ここで「それ以外に何がある」と返す。
全て、同じ温度だった。
2人の間には、誰にも入れない何かがある。
遊戯も、それは知っていた。
その男が、今、こうも事務的な言葉だけで身の回りを固めている。
もしかしたら、本当に、ただの事務処理として、アテムを選んでいるのかもしれない。「業務上の最適化」が、文字通りの意味なのかもしれない。
その可能性を、遊戯は完全には否定できなかった。
「…そっか。分かった」
遊戯は、水を飲み干した。
瀬人は、それ以上、何も言わなかった。
翌日、瀬人は予定通り冥界に戻ってきた。
執務室の扉が開いた音で、アテムは書類から目を上げた。
長椅子は、ずっと空席だった。それを、空席が埋まる瞬間に思い出した。
アテムは、空席を意識した自分を、瞬時に意識下に押し込めた。
「戻ったのか。」
声は、いつも通りの調子で出た。
「ああ。」
瀬人は手にタブレットを持っていた。それを長椅子の前の卓に置き、画面を立ち上げた。
「見ろ。」
画面には、礼装が並んでいた。
冥界の伝統的な王装に、現世の礼服の構造を取り入れた折衷の意匠。色違い、装飾違い、襟の形違い。仮縫いの段階のものを写真に収めた一覧だった。
数が多い。その全てを着ているのは、遊戯だった。
アテムは、画面をスクロールする手を止めた。
「…海馬。」
「何だ。」
「これは、何だ。」
「衣装だ。」
「いや、相棒のことを聞いている。」
「お前と体格が最も近い。代理だ。」
アテムは、画面から視線を上げた。
「相棒に、こんなことをさせたのか。」
その声は、低かった。
瀬人は表情を変えない。
「報酬は提示した。」
「報酬?」
「海馬コーポレーションとのゲーム開発に、俺が直接関わる。遊戯の企画は、仕様の擦り合わせに無駄が出ていた所がある。俺が見れば短縮できる。それと、衣装合わせの代理。等価交換だ。」
「相棒は了承したのか。」
「したから着ている。」
アテムは、長く息を吐いた。
遊戯の性格は知っている。
瀬人の提示は、遊戯にとっても確かに利益のある交換ではあるが、果たしてそう素直に頷いたかは疑問である。
それは、分かっている。自分の代わりに遊戯が着せ替え人形になった。それとは別に、片付かない感情が残った。
「相棒…。」
「マネキンと思え。」
やはり。この感情を瀬人に説明しても、瀬人はそれを「合理的な処理」と切り返すだろう。
「…悪いようにはしていない、ということだな。」
「していない。」
「分かった。」
アテムは、タブレットに視線を戻した。
画面の中の遊戯は、どの礼装でも、生真面目な顔で立っていた。
「いくつかは既に作らせているが、どれがいい。」
アテムは、画面の中を順に見ていった。
冥界の白地に、金の刺繍。現世の黒地に、深い藍の差し色。襟が立っているもの、肩が広いもの、袖が長く流れるもの。
目で選んでいる途中で、ふと、別のことに気付いた。
「作らせた、と言ったな。」
「ああ。」
「サイズは?いくら近くても、俺と相棒は別の存在だ。」
アテムは画面から目を上げ、瀬人を見た。
「先日、確認した。」
瀬人は、短く答えた。
アテムがパチリと瞬いた。
先日。確認。
それが指す範囲を、アテムは数秒で逆算した。
冥界に来てから、瀬人がアテムの体に触れた瞬間は、限られていた。額への口付け。頬への口付け。そして、その間に挟まれた、背に回された腕。
あの抱擁。
あの瞬間、瀬人の腕が、自分の背の何処に、どれくらいの長さで回ったか。
アテムは、思い出してしまった。
触れる距離まで引き寄せられた感触。伝わってきた体温。腕が解けていく時の、僅かに残った圧力。額に唇が落ち、離れ、そしてもう一度、頬に落ちた温度。
あれを、「サイズの確認」として処理していた。そう認めるしかない事実が、タブレットに並んでいる。
「…海馬…。」
アテムは、声の出し方を間違えた。低くしようとして、低くなりきらなかった。
瀬人は、その音を、聞き逃さなかった。
タブレットから視線を上げ、アテムを見た。視線が交わった。
瀬人は、何も言わなかった。
言わなかったが、口の端が、ほんの僅かに上がった。
勝者の笑みではなかった。もっと細い、しかし確実な、「気付いたな」と言いたげな笑み。
アテムは、タブレットに視線を戻した。
画面の一番上のものを、指で示した。
「これだ。」
ろくに見ていなかった。
瀬人は、それでいい、と頷いた。
翌日の夕刻、瀬人は再び長椅子に座っていた。
今度は、タブレットではなく、長方形の木箱を横に置いていた。艶のある、装飾の無い箱だった。
アテムは書類に印を捺しながら、視線の端でその箱を捉えていた。
最後の書類を片付けてから、初めて声を出した。
「それは何だ。」
「指輪だ。」
瀬人は箱を持ったまま立ち上がり、机の前まで歩いてきた。
箱を、机の上に置く。
「お前の指輪が要る。式までに決める必要がある。」
アテムは、筆を置いた。
「俺の意見を聞くのか。」
「ああ。」
「意外だな。」
声には、僅かに揶揄の手触りが残っていた。
「衣装も、招待客も、式次第も、全てお前が勝手に決めた。指輪も、勝手に決めそうなものだが。」
瀬人は、箱の留め金に手を掛けて、手を止めた。そして、アテムを見た。
「お前の装飾品は、ただの装飾品ではないのだろう。」
確認では無かった。アテムは、瞬きを忘れた。
冥界の王の装飾は、形式である前に契約だった。耳飾り、首飾り、指輪。それらは、装着する瞬間に意味を発する。
アテム個人の趣味ではなく、王が王として纏うことに意味があるものを選ぶ。
その仕組みを、現世の人間が理解している筈はなかった。
しかし、目の前の男は、たった一言で、その仕組みを射抜いていた。
瀬人は、箱の留め金を開けた。
箱の中には、内張りの黒い天鵞絨の上に、指輪が並んでいた。
数は、多かった。
最も手前の列には、装飾を一切削ぎ落とした、ベーシックなものが並んでいた。プラチナの一本線、金の細い帯、黒い金属の艶消し。シンプルさを極めた現世的な意匠。
その奥に、軽くカジュアルなものが並んでいた。小さな石が一つ嵌められたもの、表面に細かな彫りが入ったもの、二本の素材を編んだもの。
更に奥の列に、明らかに格の違うものが並んでいた。
冥界の王の装飾としても、見劣りしないと即座に判る類の物だった。重厚な台座、深い色の宝石、王の指の上で意味を持つ形に設計されたもの。色とりどりの石。それぞれが、何かを宣言する力を持つ石たちだった。
石の選定にも、形の意匠にも、迷いがなかった。
アテムは、箱に目を落としたまま、暫く動かなかった。
動けなかった、と言う方が正確だった。
現世の指輪と、冥界の装飾の文化。その両方を理解した上で、片方に偏らせずに用意された、選択肢の一群。
その全てを、揃えて来た。
「…海馬。」
「ああ。」
「これは、何時、用意した。」
「一昨日、現世に戻った日だ。」
アテムは、顔を上げた。
仕事に、衣装合わせに、移動。現世の1日は埋まっていた筈だった。
その合間に、これを揃えていたのか。
「…どれを選ばせるつもりだ。」
アテムの声は、少しだけ低かった。低く、なりきらなかった。あの日、執務室で聞いた自分の声と、同じだった。
瀬人は、答えなかった。
箱の一番奥、最も格の高い列の、中央に置かれた指輪を、指で示すこともしなかった。
ただ、箱の蓋を、開けたまま置いた。
全ての選択肢を、アテムの前に、平等に並べたまま。
「お前が選べ。」
その声は、静かだった。
アテムは、箱の中の指輪を、ゆっくりと見ていった。
一つ一つの石が、一つ一つの形が、自分のために選び抜かれていることが、見れば見るほど分かった。
胸の奥が、また音を立てた。
今度の音は、これまでの音の中で、最も大きかった。
アテムは、視線を上げず、口を開いた。
「…海馬。」
「ああ。」
「お前は……。」
言いかけた言葉を、アテムは飲み込んだ。
「考える。少し、時間が要る。」
「構わん。サイズは即刻直させる。」
瀬人は、箱をそのまま机の上に置いて、長椅子に戻った。
急かさなかった。
その夜、アテムは私室に戻ると、扉を閉めてから、長く息を吐いた。
寝衣に着替え、寝台の縁に腰掛けた。
眠るには、まだ早かった。
目を閉じると、机の上に開いたままの箱が見えた。閉じてもらってから戻る方が良かったかもしれない、と一瞬考えた。だが、開いたままにしてくれ、と頼んだのは自分だった。考えてみる、と言ったのも自分だった。
指輪のことを考えていたが、考えながら、別のことを考えていた。
明日も、瀬人は来るだろう。来た時、自分は何処に立っているだろうか。
考えるべきは指輪の方だ、と自分に言い聞かせた。言い聞かせても、思考は同じ場所に戻った。
翌日、アテムは執務室で書類を片付けながら、扉の音に意識の一部を割いていた。
書類は順調に消化されていた。手の動きは止まっていなかった。だが、扉が開く音がするたび、視線が一瞬、扉の方へ流れた。
神官の訪問。書状の受け取り。茶を運ぶ侍従。
瀬人ではなかった。
その都度、アテムは視線を書類に戻した。戻しながら、次の扉の音を、また待っていた。待っている、と認める瞬間はなかった。だが、書類の上を滑る筆先が、待つたびに一拍遅れていた。
夕刻、扉が開いた音と共に、瀬人が入ってきた。
いつもの時刻だった。何時もと同じ歩調だった。
アテムは、視線を書類に固定したまま、書き終えた一行に印を捺した。
そして、初めて顔を上げた。
その顔の上げ方が、自分でも、自然とは言えないものだった。早すぎず、遅すぎず、それは何度も計算した結果だった。
瀬人は長椅子に座り、いつものように資料を開いた。
2人の間に、いつもの夕刻の時間が流れた。
茶を運ばせ、2人で飲んだ。
アテムは、茶の温度を、いつもより長く味わった。
執務室を出て、廊下を並んで歩いた。
歩きながら、アテムは口を開かなかった。
いつもなら、何か一言、揶揄か挑発のある言葉を入れる所だった。今夜は、それをしなかった。
しないままで、瀬人の歩調と合わせて歩いた。
瀬人も、何も言わなかった。
王の私室の前まで来た。
アテムは、扉に手を掛ける前に、振り返った。
振り返るのが当然の流れであるかのように、体が動いた。目が合った。
瀬人は、いつもの距離で立っていた。
今夜は、アテムが、瀬人の方に半歩、近付いた。
近付いてから、自分が近付いたことに気付いたが、それでも、引き返さなかった。
瀬人の目が、僅かに細められた。
また、あの「気付いたな」とでも言いたげな動きだった。
瀬人が、身を屈めた。
いつものように、王冠が外され、額に唇が落ちた。
離れた。
瀬人の腕が、背に回った。
今夜は、アテムの体が、それに合わせて動いた。逆らわなかった。
瀬人の唇が、頬に落ちた。
頬に落ちた唇は、いつもより、ほんの僅か、長く留まった。
離れる時、アテムは息を詰めなかった。
ただ、目を伏せた。
瀬人の腕が解け、身を起こした。
いつもなら、ここで踵を返す筈だったが、今夜は、その前に瀬人が止まり、何かを確認するように、アテムを見ていた。
アテムは、目を伏せたまま、口を開いた。
「…明日、来い。決めておく。」
声は、低かった。
低かったが、低さの種類が、これまでとは違っていた。
挑発でも拒否でもなかった。
瀬人は、暫く、その低さを聞いていた。
「分かった。」
それだけ言って、廊下を歩いて去っていった。
扉の中に入り、扉を閉めた。アテムは、扉に背を預けた。
預けたまま、暫く動かなかった。
指輪を決めておくのは、万が一に備えてのことだと言い訳をする。
頬と背と額に、瀬人の温度の輪郭が、まだ残っていた。
残っているのを、今夜は、消そうとしなかった。
翌日の夕刻、瀬人はいつもの時刻に執務室に来た。
長椅子の前の卓には、昨日の箱がそのまま置いてあった。蓋は閉じてあった。
アテムは最後の書類に印を捺し終え、筆を置いた。
箱を引き寄せ、自分の手で蓋を開けた。
指輪の列を、改めて見た。
昨日、1人で考えた時間の中で、選択は既に決まっていた。選んだ理由を、自分でも何度か言い換えてみていた。一番納得のいく答えを、用意してあった。
箱の中の、奥の列。最も格の高い意匠の中から、1つを選んで、指で示した。
深い色の石が嵌った、重厚な台座のものだった。
「これだ。」
瀬人は、箱を覗き込んだ。アテムの指の先を確認した。
頷いた。
「分かった。調整に出す。」
それで会話は終わる筈だった。
いつもの瀬人なら、それで終わらせた筈だった。
アテムは、箱の蓋に手を掛けた。
掛けたまま、止めた。
ここで何も言わずに蓋を閉じれば、今夜は静かに終わる。それで明日も、式の後も、同じ夕刻が繰り返される。それで、自分は手の中の何かを言葉にせずに済む。
しかし。
アテムは、蓋に掛けた手を、そのまま下ろした。
顔は上げなかった。
箱の中の指輪に視線を落としたまま、口を開いた。
「海馬。」
「ああ。」
「お前が居れば…。」
一拍、置いた。
「…冥界は、より良くなる。」
瀬人は、長椅子から動かなかったが、視線の角度が、ほんの僅かに変わったのが、伏せた目の端で分かった。
「組織の改修、業務の効率化、各部署の連携の見直し。お前が回った所は全て、確実に改善した。担当者の声を聞いた。1人や2人じゃない。」
アテムは、指輪に視線を落としたまま、続けた。
「この国の運営は、長く、王の決裁能力に過度に依存してきた。それを、お前は分解した。」
言葉は、滑らかに出た。
昨日、用意した言葉だった。
アテムは、ここで、初めて顔を上げて瀬人を見た。
「お前と婚姻を結ぶことは、冥界にとって、大いに、利益になる。」
声は、平静だった。
瀬人は、暫く、動かないまま、アテムの目を見ていた。
その視線は、アテムの表情の何処かを探っていた。探りながら、もう既に答えを持っているのが、見ていて分かった。
それでも、最後まで言うことに決めていた。
言わなかった部分を、言ってしまわないために、言える部分を全て言う。
「だから、受ける。式の日に、俺は逃げない。指輪も付ける。お前との婚姻は、冥界の利益として、大いに、助かる。」
助かる、という言葉が、口から出た。
出た瞬間、アテムは、自分の選んだ言葉が、どれくらい透けているかを、自分で測った。
測った結果、これ以上、覆える布は無い、と判った。
瀬人は、まだ動かなかった。
やがて、ゆっくりと、長椅子から立ち上がった。
机の前まで、二歩。
昨日と同じ距離だった。
瀬人は、アテムの目の高さに合わせて、僅かに身を屈めた。
近かった。その距離で、瀬人は口を開いた。
「分かった。」
短かったが、その短さの中に、含めていない情報が、明らかにあった。
アテムは、瀬人の目を見た。
瀬人も、アテムの目を見ていた。
視線が交わっている時間が、いつもより、長かった。
その時間の長さの中で、アテムは、瀬人が全てを見抜いている、ということを、見抜いた。
つまり、瀬人もまた、自分が今、何を覆い隠しているかを、隠したまま受け取った、ということだった。
覆い隠す、という選択肢を選んだ時点で、瀬人もまた、覆い隠すべき何かを、抱えている、ということだった。
なるほど、抱えていた。
アテムは、心の中で、ようやく、その単語を使った。
最初から、抱えていた。
会見で「業務上の最適化」と言った時から、指輪の箱を全て開いて「お前が選べ」と言った時まで。
全部、覆っていた。今、見えた。
見えた瞬間、アテムは、自分の口元が、ほんの僅かに、緩むのを止められなかった。
瀬人の口元も、同じくらい、僅かに緩んだ。
互いに、それ以上は、緩めなかった。
言葉にしないという合意が、視線の交わりの中で、成立した。
それを知ったまま、何も言わなかった。
瀬人が、身を起こした。
「調整に出す。」
いつもの事務的な声に、戻っていた。
「ああ。」
アテムも、いつもの声に、戻った。
卓の上の箱を、丁寧に閉じる。閉じた音が、部屋に小さく落ちた。
箱をしまうと、瀬人は現世へ向かう。もう、式の日は目前まで迫っていた。
現世、式場。
会場の二階バルコニーから、城之内、本田、遊戯の3人は、下の通路を見下ろしていた。
招待客が次々と席に着いていく。海馬コーポレーションの幹部、海外の取引先、政財界の名前のある顔ぶれ。会見以来の婚約騒動の決着を、誰もが少しの緊張と共に見届けに来ている空気だった。
城之内は、何度目かの溜息を吐いた。
「…本当にやんのかな、これ。」
本田が、腕を組んだ。
「アテムの様子じゃ、最後まで分かんねえぞ。」
遊戯は、答えなかった。手元のプログラムを、無意識に擦っていた。
あの社長室で見たアテムの顔。衣装合わせで自分が立たされた鏡。それらが、まだ繋がりきっていなかった。繋がってくれた方が、安心だった。
「ボク、呼ばれてるから、行ってくるね。」
遊戯は2人と離れ、控室へ向かった。アテムが居るかは、分からない。
時刻が来た。
会場が静まった。
扉が開いた。
遊戯にエスコートされて、アテムが入場してきた。
現世と冥界を折衷した礼装は、仮縫いの段階で見たどの形よりも、本人の上で完成していた。襟の高さ、袖の流れ、帯の幅、腰の角度。全てが、アテムの体格と、王としての立ち姿の上で、寸分の狂いなく嵌っていた。
遊戯は、隣を歩きながら、アテムの横顔をそっと窺った。
アテムの口元には、ほんの僅かな、緩みがあった。
怒りでも、覚悟でも、諦めでもなかった。
強いて言えば、面白がっている、に近い表情だった。
バルコニーから見ていた城之内が、思わず本田の脇を肘で突いた。
「…おい、本田。あの顔、見ろよ。」
「見てる。」
「あれ、惚れたのか?」
声は囁きだった。2人で顔を見合わせた。
遊戯がエスコートを終え、自分の席に戻って来ると、城之内が小声で問い質した。
「遊戯、お前、隣歩いてただろ。どうだ。」
遊戯は、席に着きながら、暫く考えた。
「よく分からないけど…。」
もう一度、壇上のアテムを見た。
壇上で瀬人と並ぶ、その立ち姿を見た。
「楽しそうだね。」
遊戯の声は、静かだった。
城之内が、口を半分開けたまま、本田と顔を見合わせた。
本田が、笑う。
「…まあ、本人がそうなら、いいんじゃねえか。」
「だな。」
それ以上、何も言わなかった。
式は、滞りなく進行した。
誓いの言葉、指輪の交換、全て。一切の遅延もなく、一切の中断もなく、式は終わった。
退場するアテムの口元には、入場の時より、ほんの僅かに、緩みが増えていた。
その夜、海馬邸。
寝室の天井は、高かった。ベッドも、広かった。
アテムは、寝間着に着替え、ベッドの自分の側に身を横たえた。隣に、瀬人が同じく身を横たえていた。
今日は、式の当日だった。つまり、初夜と呼ばれる夜だった。
アテムは、目を開けたまま、天井を見ていた。
今度こそ心の準備を、するべきだろう、と判断した。判断したが、何を準備すれば良いのか、具体的なところは分からなかった。とにかく、何かが来た時に、過剰に動揺しないように、感覚の幾つかを先回りで落ち着けておくしかなかった。
時間が過ぎた。
隣の瀬人は、動かなかった。
動かないどころか、既に灯りを落とすつもりらしい。
アテムは、横目で隣を見た。
瀬人は、いつもの調子だった。寝具を整え、自分の枕の位置を直していた。
手を出す気配は、無かった。
アテムは、寝具の縁を握り直し、口を開いた。
「海馬。」
「何だ。」
「俺は今日こそ、手籠めにされるかと、思っていたが。」
瀬人は、灯りを落とす手を止めた。
顔を、アテムの方に向けた。
「されたいのか。」
アテムは、即答できなかった。
それが、やけに自分でも僅かに腹立たしかった。
数拍置いてから、慎重に、声を作った。
「いや。」
「…ほう。」
「疲れてる。それに、ここで、されるのは…大いに、困る。」
「大いに、か。」
選んだのは、無意識ではなかった。
瀬人がそれを聞いた瞬間、口の端が、僅かに上がったのが、暗がりの中でも見えた。
瀬人は、それ以上、何も追わずに、灯りを落とした。
「ならば、いい加減に、眠れ。」
囁くように言って、目を閉じた。
アテムは、目を閉じなかった。
暗がりの天井を、暫く見ていた。
考えていた。
この10日間で、瀬人が動かしたものを、順に思い返した。
冥界の組織や業務時間、衣装の手配、指輪の選定、式の進行。全て、10日という強行のスケジュールに、瀬人は乗せ切った。
──お前も大概だな。
アテムは、心の中で、そう呟いて、隣を見た。
瀬人は、既に呼吸が深くなっていた。
アテムは、暫くそれを眺めていた。
ベッドの中で、ほんの少しだけ、瀬人の方に身を寄せた。
寄り添った、と言う方が、近かった。
肩と肩の間に、半身分の空気が、残った。
目を閉じる。
「お前も、大概だな。」
今度は、口に出した。
眠っている瀬人を、起こさない音量で。
瀬人の呼吸がほんの一拍、変わったのを、アテムは目を閉じたまま感じた。
起きていたらしい。
だが、互いに、何も言わなかった。
暗がりの中で、2人の呼吸の間隔だけが、ゆっくりと揃っていった。
