陽が落ちきる前。青く沈んだ空。
ユギは窓際から扉へ、扉から机へ、机から窓際へ。もう何度目か分からない移動を繰り返していた。
書きかけの書簡は机の上で乾き、署名の手前で止まったままだ。夕方から、ずっとその有様だった。
足音はいつも前触れがない。
やがて、徐に扉が開く。
「待ってたぜ、セト。」
セトは外套の留め具を外しながら、ユギの方を見もせずに言った。
「知っている。」
それだけだった。
セトを迎え入れ、ユギは扉を閉めに行く。もう慣れたもので、鍵をかける手は落ち着いている。数ヶ月前は、少しだけ震えていた。
セトは既に椅子に腰を下ろしていた。長身が部屋を狭く見せる。それはこの部屋に馴染んだ風景でもあり、馴染まない風景でもあった。
白薔薇の指揮官が赤薔薇の王子の隠れ家にいるのだ。それは、この数ヶ月の異物として、ユギの中にあった。
「茶を…。」
「いらん。」
ユギは笑った。毎回そう言う。しかし、毎回手をつけるのだ。
向かい合って座った。
窓の外で、山へ帰る鳥が一度だけ鳴いた。
「街へ出る話だが…。」
セトが切り出した。
外へ出ようと言いつつ、約束はまだしていなかった。
「次に来る時だ。陽が高い内に。」
「お前が、昼間に。」
「問題があるか?」
立場を考えれば、問題しかなかった。白薔薇の指揮官が、亡命中の赤薔薇の王子と昼の街を歩く。
だが、セトはそういう問題を問題として扱わない。
逢瀬を重ねる内に、ユギはセトのことを理解してきていた。
「いや、ないな。」
ユギはそう答えて、自分も茶を一口飲んだ。
セトが立ち上がって、ユギの椅子の後ろに回った。背後から肩に手が置かれる。ユギは目を閉じた。
もう、馴染んだ重さだった。
「お前は…。」
セトが耳元で低く囁く。
「俺がいない間、何をしているんだ?」
「書簡を書く。後は、お前を待つ。」
「待つだけか。」
「悪いか。」
セトは答えなかった。代わりにユギの頭を引き寄せて、こめかみに口づけた。短かった。それから髪に一度顔を寄せて、また離した。
ユギは目を開けた。窓の外はもう暗かった。
セトが外套を取る。扉のところでユギを振り返って、何も言わずに出ていった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、鍵をかける。その手は、やはり落ち着いていた。
陽はまだ高く昇りきっていない。空気には、まだ朝の冷たさが残っていた。
街の通りに、人が増えていることに、角を曲がってから気づいた。
「行列か。」
セトが呟く。
沿道には、人が集まり始めていた。子供を抱き上げる母親や、跪く老人、十字を切る商人。皆が、同じ方向を見ていた。
「そうか、今日は聖遺物が運ばれる日か。」
ユギは歩を緩めた。引き返す選択肢もあったが、セトは止まらなかった。人混みを縫って進む背中に、ユギは少し遅れてついて行った。
行列の先頭が見えた。
白い布を纏った神父たちが、聖遺物を納めた箱を捧げ持っていた。香が焚かれ、聖歌が低く響く。沿道の人々が次々と跪いていく。麦穂の波のようにも見えた。
ユギのすぐ側で、老婆が泣いていた。両手を組み、何度も何度も頭を下げている。何を願っているのか、または祈りなのかは分からない。だが、全く分からないわけではない。失った誰かのことか、治らない病のことか、明日のパンのことか。
少し離れた場所では、若い母親が幼い子供を高く抱き上げていた。聖遺物が見えるようにと。子供は何も分かっていない顔をしていたが、母親の必死さは伝わってくる。
行列が、目の前を通り過ぎていく。
「…くだらん。」
セトはもう行列の先を見ていたが、ユギは行列を見たままだった。
「いや、彼らには救いが必要なんだ。」
自分の声が思ったより静かだったことに、ユギは少し驚いた。
「救いか。」
セトはユギの方を見ない。沿道で泣いている老婆に視線を移した。
「あれが救われると、本気で思っているのか。」
ユギは答えなかった。答えられなかったのではない。答えが2つあったからだった。
救われない。
本当のところでは、あの老婆の願いは届かないと思っていた。聖遺物に力があろうとなかろうと、失ったものは戻らないし、治らない病は治らない。それをユギは知っている。
それでも、彼らには縋るものが必要なのだ。手を伸ばす先、それがなければ生きていけない人間がいる。それも、ユギは知っている。
「お前の言いたいことは理解しているつもりだ。」
興味のない声だった。ユギの内側にあった2つの答えが、どちらも宙に浮いたまま、置いていかれた。
行列が通り過ぎると、人々は立ち上がり、また日常に戻っていく。
何事もなかったかのように。
セトはもう、次の通りへ向かって歩き始めていた。
「行くぞ。」
「…ああ、うん。」
ユギは少し遅れて、その背中を追った。
隠れ家に戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。
ユギが扉を開けると、すでに茶の支度が始まっている気配があった。ジャンが廊下の奥から顔を出す。
「お戻りでしたか。今、茶をお持ちいたします。」
ユギの古い従者で古くからランカスターに仕えている。亡命に同行した数少ない者の1人で、髪に白いものが増えてきた頃だ。とはいえ、その手の動きは変わらない。
セトは椅子に腰を下ろしていた。外套を脱ぐ仕草に、ジャンへの警戒は欠片もない。ジャンの方もそうだった。王子の客人として遇している、ただそれだけのこと。
セトの正体を、ジャンは知らない。
茶器が運ばれてきた。3人分。ジャンは自分の分は別にして、控えの椅子に腰を下ろした。
時たまこうして同席することを、ユギが許している。ジャンはそれを知っている。
「ご友人とお出かけになるとは、珍しいことで。」
ジャンが言った。穏やかな声だった。
「珍しいか。」
「ええ。殿下がそんな風に楽しみにされていらっしゃるのは、随分と久しいものです。」
我が事のように、嬉しそうだ。
ユギは茶器に視線を落とした。セトは何も言わない。
「殿下は小さな頃、よく城を抜け出されましてね…。」
ジャンが続けた。ユギに向けてではなく、セトに向けて。客人を退屈させまいとする、ちょっとした昔話だった。
「厩番の倅と森に入って、日が落ちてもお戻りにならない。城中が大騒ぎですよ。やっと見付けました時には、川で魚を捕まえようとされて、ずぶ濡れで…。」
「ジャン。」
ユギが小さく止めた。ジャンは笑った。
「失礼を。ですが、あのやんちゃな殿下が、こうしてご立派になられた。お仕えしてきた甲斐がございました。」
その声には、誇りがあった。長年仕えてきた者の、揺るぎないものが。
セトは茶を一口含んだ。
「今も、大して変わらん。」
「セトまで…。」
「良いことですね。お代わりをお持ちしましょう。」
ジャンはそう言って、飲み終えた自分の茶器を手に、下がっていった。扉が閉まり、穏やかな足音が廊下の奥へ消えていく。
「…くだらん。」
セトが漏らした。
ユギは茶器を置きかけた手を止めた。聞き間違いではなかった。
「……何だと。」
「長く仕えた、それが何の価値になる。」
ユギの中で何かが追いつかない。
「セト、お前は今、何を。」
「時間に意味などない。長く何かをした。それだけのことだ。」
セトは茶器の中を見ている。
「そこに価値があると思っているのは、あれの自己満足にすぎん。」
ユギは立ち上がった。
「ジャンの何十年を、お前は。」
「知っている。」
セトが顔を上げて、ユギを見た。
「知っているが、それとこれとは別の話だ。」
ユギは何かを言いかけて、止めた。続きの言葉を見つけられなかったのではない。
この問答を続けても無駄だと分かっていたからだった。
廊下の奥から、ジャンが茶器を運んでくる足音が聞こえてきた。穏やかな、いつも通りの足音だった。
ユギは黙って座り直した。
セトも、もう何も言わなかった。
ジャンが茶のお代わりを置いて、もう一度、静かに下がっていった。
今度こそ、部屋には2人だけになった。
ユギは茶器に手を伸ばさず、黙ったままテーブルの木目を眺めていた。視線は落ちているが、何を見ているわけではない。頭の中でずっと、同じ言葉が回っている。
──時間に意味などない。
ジャンの何十年。長くお仕えしてきた、と微笑んだ顔。そのジャンが今、何も知らずに茶を運んできた。湯気の立つ、いつも通りの茶を。
「ユギ。」
耳元で、セトの声がした。
いつ立ち上がったのか、ユギは気付かなかった。セトはもうユギの後ろに立っていた。肩に手が置かれる。馴染んだ重さだった。
そのままユギを立たせて、寝台の方へ導く。寝台に背中が触れて、セトが上から見下ろしてくる。
セトの表情は、いつもと変わらず甘かった。
数ヶ月の間、何度も見た顔だった。指揮官の顔でも、旅人の顔でもない、ユギだけが知っている顔。
その顔のままで、少し前にジャンを「自己満足」と切り捨てた人間だった。
セトが顔を近付けてくる。
ユギは、思わず横を向いた。
自分でも気付かないうちに、顔を背けてしまっていた。
「ユギ?」
セトが止まった。怪訝そうな声だった。いつも通りの、静かな声。
驚いたのは、ユギも同じだった。視界の端に寝台の天蓋の柱がある。
「…時々…お前が、遠く感じるんだ。」
声が、自分のものに思えなかった。
「目的のために生きているんだろ。お前の一族が、ずっと探してきたものを探して、お前は…。」
言葉が続かなくなった。何を言いたいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、セトがそこにいるのに遠いということだけが、はっきりしていた。
セトはユギの上から動かなかった。少し間があった。
「…目的か。」
セトの声は、変わらなかった。
「そんなものに、価値などない。」
ユギは目を閉じた。
セトはそう言うだろうと分かっていた。分かっていて、聞いたのだ。それでも、何かが違っていてほしかったのかもしれなかった。
寝台の上でセトの重みが少しだけずれた。離れたわけではなく、ただ、ユギの様子を見ている。
ユギは、何も返せなかった。
「ユギ。」
また、名を呼ばれた。返事を求める声ではなかった。ここに居るということを伝える声だった。
ユギは目を開けなかった。
セトが、ユギの上から身を起こし、そのまま寝台の縁に腰掛ける。ユギの髪に触れた手は、それでもやはり、甘かった。
「また来る。」
セトが言った。
「静かな場所へ…。また外へ連れ出してやる。」
ユギは目を開けて、セトを見上げた。
セトの顔は、いつも通りだった。何も変わっていない。ユギが避けたことも、遠いと言ったことも、そのまま受け取った上で何も変わらない。
ユギは小さく頷いた。
セトは身を屈めて、ユギの唇に軽く口づけた。短かった。馴染んだ速度で、馴染んだ温度で。
それから立ち上がり、外套を取った。扉のところで一度こちらを見て、何も言わずに出ていった。
鍵をかけに行く気力は、すぐには戻らなかった。
セトは約束通りに来た。
数日後の午後だった。
目的地である森は、隠れ家から馬で半刻ほどの場所にあった。フランスの内陸、見張りの少ない森だ。落葉樹の葉はまだ青く、頭上で日差しを遮っている。
馬を下りて、並んで細い道を歩いていた。
セトはいつも通りだった。先日ユギが避けたことも、遠いと言ったことも、続きの話題に上らせない。
気にしていない。そういう男だった。ユギが切り出さない限り、セトの方から触れることはない。
ユギは時々セトを見上げた。隣を歩く横顔は、何も変わっていない。
──目的か、そんなものに価値などない。
あの声が、ユギの中でまだ消えていなかった。
セトの目的に価値がないのなら、セトが今ここでユギの隣を歩いているこの時間は何なのか。ユギは答えを探していた。探しながら、答えが見つからないことにも気づいていた。
足元の枯れ枝を、ユギは無意識に踏んでいた。普段のユギなら避ける枝だった。
「ユギ。」
セトの声が、いつもより低かった。
それが警告だと、ユギが理解したのと、刃が空を切ったのは、ほぼ同時だった。
考え事のせいか、ユギの反応が遅れた。
横から飛んできた刃が、ユギの肩を掠める筈だった。掠めなかったのは、セトの腕が間に入ったからだった。セトの剣は、既に抜かれていた。受け流す音、金属が打ち合う高い音。
ユギはセトから離れ、周囲の気配を探りながら、下がった。下がりながら、自分の遅れを認識した。普段なら、難なく避けられた。
襲撃者は1人だった。
黒い外套、覆面、痩せた体格。男は再び距離を詰めてきた。セトの剣がそれを迎えた。
応酬は長くなかった。
セトは強い。ユギは知っている。指揮官として戦場に立つ男の動きが、護衛のそれと違うことも知っている。男の剣がセトの外套に掛かった一瞬を、セトは見逃さなかった。次の踏み込みで男の脇腹を抉り、男は膝をついた。
セトは剣の切っ先を男の喉元に当てた。
「誰に雇われた。」
男は荒い息のまま、覆面の下で笑った気配があった。
「誰にも…雇われてなどいない。」
血が口の端から流れていた。
「赤薔薇の王子…貴様らが、戦を始めなければ…。」
男の声が震えていた。
「俺の村は、焼かれた。妻も、子も。お前を殺すために、俺がどれだけ…どれだけ鍛錬を積んできたか…くそ、その意味が…。」
ユギは動けなかった。男の言葉の中身が、ユギの中に入ってきていた。村が焼かれたこと。妻と子。自分が何の関わりもないとは、ユギには言えなかった。
「貴様の努力に、何の価値がある。」
セトが言った。
低い声だった。怒りも軽蔑もない、ただ事実を述べる声。
「お前の村は焼かれた。妻も子も死んだ。それは起きたことだ。お前が何年をそこに費やそうと、起きたことは変わらん。」
セトは剣を引かなかった。
「その何年に意味があったと思っているのは、お前の自己満足にすぎん。」
男の目が見開かれた。
何か言い返そうとしたのかもしれなかった。だが言葉にはならなかった。セトの剣が一息に動いて、男はそれきり動かなくなった。
森は、再び静寂に包まれた。
ユギは立ち尽くしていた。
セトが、男の外套で、無造作に剣を拭っていた。それから剣を鞘に収めて、ユギを振り返った。
「怪我はないな。」
「…ああ。」
「戻るぞ。」
セトは短く言った。
ユギは頷いた。歩き出すセトの背中を、少し遅れて追った。
森の道を戻りながら、ユギは何度も振り返りそうになって、振り返らなかった。
森から戻ってからは、しばらく言葉少なに過ごした。
ジャンが運んできた茶を、ユギは半分ほど飲んだ。セトは既に飲み干していた。日が傾いて、窓の外の光が長くなっていく。
ユギは時々セトを見て、何かを言いかけては、言わなかった。セトの方も、その様子を見ていたが、特に促すことはなかった。
陽が落ちきってから、セトが立ち上がった。
ユギの手を取った。いつもの馴染んだ仕草だった。ユギは引かれるまま立ち上がり、寝室へ向かった。
ユギの反応は、薄かった。
拒んではいない。手を引かれれば歩く、扉が開けば入る、寝台に腰を下ろせと促されれば腰を下ろす。ただ、全ての動作が、半拍ずつ遅れていた。
セトはそれに気付いていた。その上で、何も言わずに進めていた。
ユギの隣に腰を下ろして、セトが髪に触れた。
「ユギ。」
返事はなかった。
セトはそれ以上、続けなかったが、手はユギの髪に触れたままだった。
寝室は静かだった。風が、窓を鳴らした。
「……セト。」
ユギが口を開いた。
「この時間に、意味はあるのか。」
セトの手は止まらなかった。髪を梳く動きは、変わらず続いていた。
「俺は、ここに居たいから居る。」
セトの声は、低く、迷いがなかった。
「それだけだ。」
ユギは目を伏せた。聞きたかった答えだったのか、聞きたくなかった答えだったのか、自分でも分からなかった。
セトに意味があると言ってほしかったわけではない。ユギは、セトをそういう男だと知っている。
だから、意味があると嘘をついてほしかったわけでもなかった。
ただ、「居たいから居る」と言うその声に、何かが含まれていてほしかったのかもしれなかった。
ユギは、のろのろと顔を上げた。
「なら、"満足"はしているのか。」
セトの手が、髪の上で止まった。
少しの間があった。口元が弧を描く。
「……大いに。」
ユギは、セトを見た。
セトの表情は、ユギが知っているいつもの顔だった。指揮官の顔でも、旅人の顔でもない、ユギだけが知っている顔。
その顔のままで、セトは「大いに」と答えたのだ。
意味はない。価値もない。長くいたことが何かを生むわけでもない。そして、目的があるからここにいるのでもない。
どれを取っても、セトが「くだらん」と切り捨ててきたものに、この時間は当てはまらないということだ。
セトは、満足している。
ユギは、ようやく息をついた。
セトの手が、また動き始めた。髪から首筋へ、ゆっくりと下りていく。ユギは目を閉じなかった。セトを見ていた。
「セト。」
「何だ。」
「…俺も、同じなのかもしれない。」
セトが、少し笑った気配があった。声には出さなかったが、ユギには分かった。
ユギを寝台へ倒す手は甘く、馴染んだ重さだった。
