1
街灯の間隔が疎らな夜道を、アテムは特に急ぐでもなく歩いていた。冷えた空気が頬に当たる。懐かしい感触だった。冥界にも空気はあるが、こうした夜の冷気、地上の夜が持つ鋭さはない。
服装については考えていなかった。考えるべきだったかもしれないが、現世に降りる際に何かを選ぶ余地はなかったし、気付いたら王での装束のままここに立っていたのだから。冥界の王の衣装は夜の中でも白さを保っていて、目立つことは目立つだろうが、今は深夜に近く、人通りもない。
どこへ向かうかは、ほぼ自動的に決まっていた。
遊戯の家。亀のゲーム屋。
他に行き場所はないし、帰る場所として最初に浮かんだ場所だった。一応、アテムにも、この時刻では迷惑になるかもしれない、という考えはあった。しかし一晩だけ頼めば、遊戯は快く受け入れるだろう。それはアテムには疑いようがない事実として確信できた。
問題はその後をどうするかだが、それは明日考えればいい。
なぜ自分が現世に戻ってきたのかは、アテム自身にも分からなかった。気づいたら戻っていた。召喚された感覚もなく、望んで戻った感覚もない。
冥界の王としての自分は今も存在しているのか、それとも今夜だけ抜け出してきたのか。それさえも判然としないのだが、考えて答えが出ることと、考えても出ないことがある。
前方から車のライトが近づいてきたので、道の端に寄った。深夜に白装束の人間が道路を歩いていれば運転手が驚く、という程度の配慮はある。通り過ぎると思った車が止まった。
「アテムか?」
低い声に、アテムは振り向いた。
車の後部座席の窓から、瀬人が顔を覗かせていた。
アテムは数秒、その顔を見た。
「海馬?」
「何故現世にいる。」
問いは単刀直入だった。挨拶もなく、驚いた様子もない。もっとも、らしいと言えばらしい。
「分からない。」
「分からんだと?」
「気付いたら居たんだ。お前こそ、こんな時間に何をしているんだ?」
「帰宅だ。俺の帰宅時間にお前が口を挟む必要はない。」
言いながら、瀬人の視線がアテムの装束を上から下まで動いた。
「……その格好のまま歩いていたのか。」
「誰も見ていない。」
「今、俺が見ている。」
アテムは黙った。
車から降りる気配もなく、窓から顔だけ出した状態で、瀬人は暫くアテムを見ていた。アテムも車を見ていた。ヘッドライトが道路を照らしていて、どこかで虫が鳴いていた。
「どこへ向かっていた。」
「相棒の家だ。一晩世話になろうと思っていた。」
公園の時計は深夜帯を指している。
「迷惑は承知している。」
瀬人は何か言いかけて止めた。言いかけた言葉が何かは分からなかったが、少しの間があった。
「…乗れ。」
アテムは瀬人を見た。
「部屋なら余っている。遊戯を深夜に叩き起こすよりは合理的だろう。」
「それもそうだな。」
アテムはドアに手をかけた。ロックが外れた。
車の中は暖かかった。革のシートの感触に沈む、それが、自分が確かにここにいるということを教えてくる。
ドアを閉めると、車はすぐに動き出した。
「なぜ戻ったのか、本当に分からんのか。」
瀬人は前を向いたままで、アテムも前を向いた。夜の街が窓の外を流れていく。
「分からない。お前には分かるか?」
「知ったことか。」
「なら、同じだ。」
短い沈黙が落ちた。気まずい沈黙ではなかった。
「明日、考える。今夜は借りを作る。」
「貸しだ。」
「どっちでも同じことだろ。」
「借りはお前が持つ。貸しは俺が持つ。別の話だ。」
アテムは少しの間、それを考えた。
「……そうだな。」
瀬人は答えなかった。
窓の外では夜が続いている。アテムは背もたれに体を預けた。冥界の王の衣装が、高級な革シートの上で少しばかり場違いに広がっていたが、それについて瀬人は何も言わなかった。
海馬邸に着くと、使用人が1人、玄関で待っていた。深夜に見慣れない客を迎えても表情を動かさない辺り、この家の訓練の徹底ぶりが見えた。
「客室を一部屋用意しろ。」
「かしこまりました。」
それだけで話は済んだ。
案内された部屋は広かった。アテムが今まで泊まった場所の中で(現世での記憶という意味で)最も広い部類に入るだろう。調度品の趣味については判断を保留することにした。
瀬人は扉の前まで来て、「必要なものがあれば使用人に言え」とだけ言って立ち去ろうとした。
「海馬。」
「何だ。」
「……いや。」
アテムは少し考えて、礼を言った。
瀬人は一瞬だけ間を置いたが、「貸しだ」と繰り返して、今度こそ行ってしまった。
部屋の中で、アテムは装身具を外し始めた。
指輪、腕輪、腰に巻いた飾り帯。外すたびに卓上に置いていく。金と宝石が積み重なっていく様は、並べてみると相当な量なのだが、アテムは気にしない。
扉の前に瀬人が立っていたのは、アテムが耳飾りを外し終えた頃だった。
入ってきたわけではない。廊下に面した扉は開いたままにしていたので、通りがかりに目に入ったのだろう。
瀬人は止まって、アテムが装身具を外す様子を眺めていた。何かを言うわけでもなく。
アテムも気付いていたが、気にしなかった。
瀬人の頭の中で何かが計算されているのが、アテムには何となく分かった。この辺りは長い付き合いの勘というやつだ。
やがて瀬人は、独り言のような口調で言った。
「よく無事だったものだな。」
アテムは腕輪を外しながら振り向いた。
「何がだ?」
「その飾りだ。」
瀬人は顎で卓上を示した。
「夜道をあの格好で歩いていれば、目をつけられる。お前がオカルトな力を使わなければ、という前提はあるが。」
アテムは卓上を見た。金の首飾り、腕輪、複数の指輪。冥界の王の正装として当然のものだったが、言われてみれば現世では確かに目立つ。
「…考えていなかった。」
「だろうな…。」
瀬人の声に、責める色はなかく、少し意外だった。アテムが現世に居た頃の瀬人なら、確実にもう少し嫌みを足していただろう。
冥界で会った時の瀬人は、礼儀というものを度外視した物言いをしていた。それはそれで瀬人らしかったが、今夜は、何というか、言葉の余分な部分が削れている。
遊戯のもう1人の人格だった頃のアテムに向けていた態度より、明らかに当たりが良い。
あれは闘争としての関係であり、今夜は違う、ということを、瀬人なりに処理しているのかもしれない。
アテムは最後の指輪を外して、卓上の小山を眺めた。
「一応聞いておくが…眠れるのか。お前は今も冥界の王なのか、それとも…。」
「分からない。」
「今夜は分からんことが多いな。」
「そうだな。眠れるかどうかは、眠ってみなければ分からない。」
「そうか。」
瀬人はそれ以上追わず、今度こそ廊下に消えた。
アテムは扉を閉めて、天蓋のついたベッドを見た。
眠れるかどうか分からないまま横になって、気付いたら朝だった。
食堂への廊下で、モクバとすれ違う。
「あ、アテムだな!おはよう!」
モクバは驚きを一瞬で飲み込んで、朝の挨拶に切り替えた。この切り替えの速さは弟として兄に近しいのかもしれない。
「おはよう、モクバ。」
「もう出るとこだから、ゆっくりしていって!」
そう言って走り去っていった。
食堂に入ると、瀬人がコーヒーを飲んでいた。
タブレットで何かを読んでいたようだったが、アテムが入ってきた気配に視線を上げた。読んでいたものをテーブルに置く。
「眠れたか。」
「大体眠れた。」
「そうか。」
アテムが席につくと、間を置かずに使用人が来た。食事が運ばれてくる。パンと、卵料理と、温かいスープ。アテムの前に静かに並べられた。
「食べられるのか。冥界でも食事をするのかどうかは知らんが。」
「する。」
アテムはスープに手を伸ばした。
「食べないわけではない。」
口をつけると、熱さと塩気が広がった。アテムは暫く何も言わずに、スープを飲んだ。
冥界の食事は、悪いわけではない。存在するのかしないのか曖昧な食事だが、空腹を満たすという目的は果たす。しかし現世のそれとは、何かが根本的に違う。
素材の味がし、温度がある。飲み込んだ後に、体の中に確かに何かが残る感じがある。
「美味い。」
気づいたら声に出していた。
瀬人はコーヒーカップを持ったまま言う。
「当然だ。」
その声の中に何かが混じっていた。
今度はパンに手を伸ばした。瀬人はコーヒーを飲んだ。
食堂に朝の光が入ってきていた。
「今日、これからどうするつもりだ?」
「とりあえず、還り方を考える。還れないなら、還れないで何か考える。」
「なぜ戻ったのかはまだ不明なままか。」
「分からない。」
「そうか。」
瀬人はそれ以上聞かなかった。
アテムはパンをちぎって食べた。冥界よりも美味しかった。それは確かなことだった。
翌朝。
「昨日は何を思いついた。」
食堂に入ってきたアテムに、瀬人はタブレットから目を上げずに聞いた。
アテムは席についた。使用人が昨日と同じように食事を運んでくる。今朝は昨日より少し品数が多かった。昨日の食べっぷりを見ていたのだろう。
「……実は」
アテムは言いかけて、止まった。
瀬人がそこでタブレットから目を上げて、アテムの表情を見た。
前日と比べて、何かが明らかに違った。こめかみのあたりの力が抜けている。目の奥に緊張がない。
要は、間の抜けた顔をしていた。
「帰りたくなくなってしまったんだ。」
アテムは少し気まずそうに言った。
瀬人はタブレットを置いた。
「…1日でか?」
「1日で。」
アテムはスープに視線を落とした。どこか言い訳を探しているような間だった。
「考えてみれば…」
アテムは話し始めた。言い始めてから止まれなくなったような口調だった。
「エジプトでは、大体は王になるために…なるまでの過程が大変だったが…なったと思ったら闘いだった。しかも死んだ。現世でも大体闘っていた。ずっと闘っていた。記憶もなく名前もなく、それでも闘っていた。冥界へ行けた時は、ようやく休めると思ったんだ。」
「思った、ということは?」
「王をやらされることになっていた。冥界の王だ。職務がある。判断しなければならないことがある。下す裁定がある。」
瀬人は何も言わなかった。
アテムは続けた。
「昨日は何もなかった。誰も何も求めてこなかった。温かい食事が三度出て、昼間は眠った。それだけだ。」
言いながら、アテムの表情が僅かに緩んだ。昨日を思い出しているのだろう。その顔は、瀬人が冥界で見たものとも、闘争の場で向かい合ったものとも、全く違った。
闘いを重ねた存在の顔ではなかった。
単純に、よく眠った人間の顔だった。
「1日で堕落したのか。」
「…否定はしない。」
アテムはパンに手を伸ばした。
瀬人は暫く、アテムを見ていた。
冥界まで行かなければこの男と決闘はできない。あの場所へ行くことの、手続きの煩雑さと代償を考えると、そう簡単に出来ることではない。しかしここにいれば、いつでもできる。
海馬邸の部屋は余っている。食費が1人分増えたところで困る規模の家ではない。使用人もいる。
アテムは今、ここで卵料理を食べている。昨日より心持ちゆっくりとした手つきで。
「今日の午後は空いている。」
瀬人は言った。
アテムが顔を上げた。
「決闘だ。のんびりしていたなら腕が鈍っているだろう。確認してやる。」
「冥界でも決闘はしてただろ?というか、大体それしかしてない。」
「ここでやれ。」
アテムは少しの間、瀬人を見た。それからまた視線をテーブルに戻して、スープを一口飲んだ。
「…勿論だ。」
短い沈黙があった。
窓から朝の光が入ってきていた。昨日と同じ光だった。
アテムはパンをもう一枚取った。
2
現世へ来て1週間。外へ出る理由が、なかった。
食事は出る。眠れる。決闘の相手がいる。読みかけの本がある。それで1日が終わる。翌日も同じだ。それで済んでいた。
カードだけは、気になっていた。
海馬邸には当然のようにカードが潤沢にあった。箱単位で購入されたものが、開封されないまま積まれていることもある。遠慮なく使っていいとは言われていたが、それとこれとは別の話だった。自分でパックを選んで、自分で開けたかった。それはデュエリストとして、根本的な部分の話だ。
瀬人に言うと、「カードショップに行け」と言い、現代の服を手配した。
レザーパンツと、黒いシャツと、上にはおる薄手のジャケット。
現代の服を着るのは、現世で闘っていた頃以来だった。鏡で確認して、まあこんなものだろうと思った。
「シルバーはあるか?」
瀬人が箱を指差す。好みのものを腕に巻いていく。
最後に再度鏡を見た。冥界の王の衣装より動きやすいことは確かだ。
カードショップは、海馬邸からそれほど遠くなかった。
アテムは店に入り、パックが並んだ棚の前に立った。
1週間ぶりの屋外は、思ったよりも人が多かった。店内も同様だが、誰も特別な視線を向けてこない。不審な格好ではないのだから当然だ。
「あれ?」
後ろから声がした。聞き覚えのある声だった。
振り向くと、遊戯が立っていた。城之内克、本田も一緒だった。3人とも、アテムを見ていた。
遊戯の目が、みるみる大きくなった。
「アテム!?」
「静かに……。」
小声で言ったが、もう遅かった。
「なんでっ!」
「え、いや、待て!」
「本物?本物だよね?」
と、口々に、3人が同時にアテムの周囲に集まった。
シンプルに声が大きかった。店員がこちらを見た。他の客もこちらを見た。
そして、追い出された。
店の外で、4人は路上に並んだ。
遊戯はまだ目に涙をためていた。城之内は興奮冷めやらぬ様子で、本田は頭を抱えていた。
「いつ来たんだ!?」
「1週間前だ。」
3人が固まった。
「1週間…」
遊戯がゆっくり繰り返した。
「1週間、ここにいたの?」
「居た。」
「なんで連絡しなかったんだ!」
城之内の声がまた大きくなった。
「普通、遊戯んとこに行くんじゃないのか?なんで…。」
「夜だったし、迷惑だろうなと。」
「迷惑じゃないよ!全然迷惑じゃない、むしろ…1週間、じゃあどこにいたの?どうやって過ごしてたの?」
アテムは少し考えた。
どう言えば正確か、という問題があった。
「大体が、海馬邸で、休暇?」
かなり長い間があった。
「…………」
本田が何か言いかけてやめた。
「海馬邸……って、あの、海馬の?」
と城之内がゆっくり言った。
「他に海馬邸があるか?」
「いや…。」
城之内が遊戯と顔を見合わせた。
「そんな気の利いた人間じゃないだろ、あいつ。」
「泊めてもらっている。」
「休暇って言った?キミが?海馬くんの家で?」
「おかしいか?」
「おかしいというか…。海馬くんが…、ちょっと意外で。」
「お前達そんなに仲良かったか?」
本田が首を傾げた。
アテムはその問いを、少しの間考えた。
仲が良い、という表現が正確かどうか。
しかし考えてみれば、親切にされている。それは確かだ。
深夜の道路で拾われた。部屋を用意された。食事が出た。服を手配された。何も要求されなかった。決闘の相手はしてくれる。1週間、何かを強いられることもなく、ただ過ごさせてもらっている。
敵意もなかった。嫌みは言うが、それは通常運転だ。
「仲は悪くないぜ。むしろ、親切だと思う。」
城之内が空を仰いだ。
「海馬が、親切……。」
「受け入れがたいか?」
「受け入れがたい。」
城之内は即答した。
遊戯は何か、少し違う表情をしていた。驚いているというより、何かを納得しているような、あるいは納得しながら別の何かを考えているような顔だった。
「良かった。」
「何が?」
「キミが、ちゃんとしたところにいて。良かった。」
アテムは遊戯を見た。
遊戯は笑っていた。泣きそうで、笑っている顔だった。
「せめてこれからは連絡してよ。」
「分かった。」
「で」と城之内が切り替えた。「何買いに来たんだよ。一緒に選んでやるよ」
「パックだ。自分で引きたかったんだ。」
4人で店内に戻った。
店員がこちらを見たが、今度は静かに棚の前に並んだ。
アテムはパックを1つ手に取った。隣で城之内が別のパックを持ち上げて「こっちの方が当たり多いぞ」と言い始めた。本田がそれに異議を唱えて、遊戯が笑った。
1週間前まで、こういうものがなかった。
冥界にも、もちろんなかった。
アテムはパックを2つ、かごに入れた。
海馬邸に戻ると、玄関で使用人が出迎えた。
「お帰りなさいませ。」
「ただいま。」
自然に出た言葉だった。アテムはそのことについて特に深く考えないことにした。
部屋に戻って、買ってきたパックを開けた。
城之内の言う「当たりが多い方」は、実際に当たりが多かった。1枚、気になっていたカードが出た。アテムはそれを暫く光にかざして眺めた。いい引きをした日は、気分が違う。これはデュエリストとして普遍的な感情だと思う。
夕食の時刻になって食堂へ行くと、珍しく瀬人がいた。
仕事が早く終わったのか、あるいは今日は在宅だったのか。アテムが席につくと、瀬人は手元の書類から目を上げた。
「どうだ、外は。」
「カードが1枚、いいのが出た。」
「それ以外は。」
「皆に会った。」
瀬人の目が少し動いた。
「遊戯か。」
「カードショップで。偶然な。」
アテムはスープに手を伸ばした。今日の夕食も良かった。1週間で、食事の水準に対して舌が肥えてきている。これも一種の堕落かもしれない。
「連絡を取りたいと思っているんだが、何か方法はあるか?」
瀬人は食事をしながら、少し間を置いた。
「後で部屋に来い。」
それだけで話は終わった。
夕食の後、アテムは瀬人の部屋に行った。
瀬人の部屋は、アテムが使っている客室よりさらに広かった。仕事用のデスクと、そこに積まれた書類と、壁際に並ぶモニター。生活感はあまりなかったが、人が確かにここで時間を過ごしているという密度があった。
瀬人はデスクの引き出しから何かを取り出して、アテムに向けて差し出した。
薄い板状のものだった。
「使い方は分かるか?」
「大体は知っている。相棒達が使っているのを見ていた。」
アテムは画面を操作した。連絡先の一覧が開いた。
武藤遊戯。城之内克也。本田ヒロト。
アテムは一覧を見た。特に何も言わなかった。
この街でそれが出来る人間を、アテムは1人しか知らない。個人情報というものは、海馬瀬人の前ではあってないようなものだろう。そういう男だとは分かっていた。
なので、スルーした。
「ありがとう。」
「使い方が分からなければ使用人に聞け。」
「聞かなくてもできる。」
「そうか。」
アテムはもう一度連絡先の一覧を見た。3人の名前は、きちんと漢字で入力されていた。
部屋を出て、廊下を歩きながら、アテムは画面を開いた。まず遊戯を選んだ。
文字を打つよりも、声の方が早い。発信すると、数回の呼び出し音のあと、「もしもし?」と声がした。
「相棒?」
「もう1人のボク!?誰かと思って…、あ、もしかしてスマホ持ったの?」
「今日から持った。」
「良かった。これで連絡取れるね。城之内くんたちにも教えていい?」
「勿論。今日は会えて良かった。」
「うん。また会おうね。」
電話を切って、アテムは廊下に立ったままもう一度画面を見た。
着信履歴に遊戯の名前が残っていた。
今日は良い日だった、とアテムは思った。カードの引きも良かったし、仲間にも会えた。スマホも持てた。
自室に戻って、当たりのカードをもう一度眺めた。
明日も、特に何もない1日になる予定だった。
3
事の発端は、アテムがもっと刺激が欲しくなったことだった。正確には、「カードを買い、あとは、スマホで遊べることが色々あるらしい。」などだ。それを瀬人に告げたのは、夕食の席だった。
瀬人は暫くアテムを見た。
「現世に来て何週間だ。」
「3週間ほどだ。」
「なるほど。」
「堕落した、とは思っている。」
アテムは認めた。認めることに特に抵抗はなかった。
瀬人は何かを考えるように少しの間黙っていた。それから、
「来い」と立ち上がった。
書斎のデスクで、瀬人はノートパソコンを操作しながら淡々と言った。
「証券口座だ。」
「証券?」
「株、為替、先物。相場を読んで売買する。勝てば現実の利益になる。」
「相場を読む。」
「お前は読み合いなら得意だろう。決闘で見ている限りでは。」
瀬人はアテムを見た。
アテムは少し考えた。これは、新手の刺激である。
「これは仮想だが現実だ。画面の中の数字だが、動くのは本物の金だ。理解できるか?」
「大体。」
「元手はある程度入れておいた。好きにしろ。溶かしても俺は知らん。」
「読み合いなら、得意だ。」
瀬人は口座の情報をアテムのスマホに送って、それで終わりにした。
アテムは相場が得意だった。
当然かもしれなかった。読み合いの精度と、感情に流されない判断力。相手が人間であれ市場であれ、大きくは変わらなかった。流れを読み、動くべき時と待つべき時を見極める。欲を出しすぎない。
資産は着実に増えた。
増えた資産でカードを買い、スマホのゲームに課金し、遊戯に勧められた動画を見て、また相場を眺めた。
引きこもり気味になった。
海馬邸の外に出る理由が、また薄くなっていた。
カードショップで会ってから2週間後、遊戯から連絡が来た。
「皆で集まらない?」
待ち合わせ場所は、駅前の広場だった。アテムは早めに着いて、ベンチに座ってスマホでチャートを眺めていた。今日の午前の動きが少し気になっていた。
「アテム!」
遊戯が走ってきた。城之内と本田が後ろに続いていた。
「待ったか?」
「いや、早めに来ていただけだ。」
アテスはスマホをポケットにしまった。
「何見てたの?」
「チャートだ。」
「……チャート?」
3人が顔を見合わせた。
近くのファミレスに入って、4人で席についた。
飲み物が来たところで、城之内が聞く。
「で、最近どうなんだ?海馬邸で何してるんだ、毎日。」
「大体は…食べて、眠って、決闘して、あと、資産運用?」
間があった。
「……資産、運用。」
本田がゆっくり繰り返した。
「株だ。相場を読む。そういうものを教えてもらった。」
「海馬くんに?」
「そうだ。」
「なんでそういう話になったんだ…。海馬の野郎…。」
城之内が怪訝そうな顔をする。
「さらなる資産運用のためだ。要は遊ぶ金が欲しくなった?」
言い方が壊滅的だったが、アテムが投資という遊びを覚えたらしいことは理解した。
また間があった。今度は先程より長い間だった。
「……遊ぶ金。」
「カードをもっと買って、相棒に教えてもらったゲームがあって、資産運用をするんだ。」
遊戯が「えっボクのせい?」という顔をした。
「そのために株を…。」
「読み合いなら得意だ。」
城之内がテーブルに肘をついた。
「待ってくれ。整理するぞ。お前、冥界の王だろ?」
「そうだ。」
「冥界の王が現世でのんびり株やって遊ぶ金作ってんのか?」
「現状はそうなっている。」
城之内は天井を仰いだ。本田は頭を抱えた。遊戯だけが、困ったような笑顔のまま「アテム……」と言った。
「正気か?」
城之内はまだ信じられないといった顔をしている。
「至って正気だ。」
「正気の冥界の王がすることじゃない。」
「休暇中だ。」
「休暇の期間はどのくらいを想定しているんだ?」
本田が聞くと、アテムは若干目を逸らした。
「…未定だ。」
「未定。」
「還りたい理由が、今のところない。」
遊戯がまた「アテム……」と言った。今度は少し違うトーンだった。呆れているのか、笑っているのか、あるいは別の何かなのか。
アテムはメニューを手に取った。
「何を食べる?俺は大体決めているぜ。」
「早っ、何で決まってるんだ。」
城之内が覗く。
「来る前にメニューを調べた。」
本田が「もう完全に現代人だ……」と呟いた。
遊戯がとうとう噴き出した。笑い始めると止まらないらしく、城之内につられて城之内も笑い出した。本田が「笑えるか、これ」と言いながら笑っていた。
アテムはメニューを見ながら、3人が落ち着くのを待った。
悪くない昼だと思った。
ゴールドは良かった。
値動きが穏やかで、急騰も急落もしない。長い時間をかけて確実に価値を保つ。数千年前から人が金を求めた理由が、チャートを眺めていると感覚として分かった。アテムはちょこちょこと買い足した。他にも株、為替、いくつかの債券に手を出した。どれも悪くなかったが、ゴールドだけは別の親しみがあった。
元手を返そうと思ったのは、含み益が元手を上回ったあたりだった。
夕食の後、アテムは瀬人に「元手を返す」と言った。
瀬人は書類から目を上げた。
「要らん。」
「受け取ってくれ。筋の問題だ。」
「面倒だ。その口座はお前のものだ。俺の資産管理の手間を増やすな。」
「……そうか。」
「そうだ。」
瀬人はまた書類に目を落とした。アテムは暫くそこに立っていたが、それ以上何も言われなかったので、部屋に戻った。
返せなかった元手は、翌日また相場に投じた。
現世生活約1ヶ月。
アテムは数えていなかったが、ある朝食の席で遊戯からメッセージが来て、「現世に来て1ヶ月だね」と書かれていたので知った。そういえばそうだ、と思った。
冥界に還る気配は、自分でも感じなかった。
還れないのか、還らないのか、その境界もまだはっきりしなかった。
しかし、正直に言えば、あまり気にしていなかった。今日の相場が気になっていたし、昨日届いたカードのパックをまだ半分しか開けていなかった。
家主から「出ていけ」と言われたこともなかった。
言われる気配もなかった。
モクバはよく観察していた。
兄のことは、昔からよく見てきた。それが弟の役割だと思っていたし、実際に必要なことでもあった。海馬瀬人という人間は、自分のことを自分で話さない。
アテムが来てからの1ヶ月で、モクバが確認したことがある。
兄はアテムに親切だった。
部屋を用意した。服を手配した。スマホを渡した。口座を作った。何も要求しなかった。決闘をした。食事の場に同席した。「出ていけ」と言わなかった。
それぞれは、合理的な説明がつくことかもしれない。部屋は余っている。服がなければ外に出られない。スマホがなければ不便だ。
しかしモクバには分かった。兄はアテムに親切にしていた。それは意図的ではなく、気付けばそうなっていた、という種類の親切だった。
そしてアテムはそれに、実に自然に甘えていた。
悪意なく、遠慮なく、しかし感謝はしながら。冥界の王が現世の海馬邸で株をやってゴールドを買い足している。その事実のおかしさを、当の本人たちが全く気にしていない。
昔の2人なら、考えられなかった。
モクバが過去に見ていた兄ともう1人の遊戯は、会えば決闘をして、それが終わっても火花を散らしていた。闘争としての関係だった。相手の存在を認めながら、それでも激しく拒絶し合っていた。あの緊張は本物だったし、モクバはそれを否定しない。
しかしあれが全てではなかったのかもしれない、とも思う。
兄はアテムを追い出さないし、アテムは還らない。
2人とも、特に説明しなかった。
モクバは朝食の席で、兄がコーヒーを飲みながら向かいのアテムに「今日の午前のゴールドの動きを見たか」と聞いているのを聞いた。アテムが「見た、お前はどう読む」と返すのを聞いた。
昔の2人なら、考えられない会話だった。
モクバはトーストを食べながら、その会話を聞いていた。
兄は親切で、アテムはそれに甘えている。
悪いことではないと、モクバは思っていた。
海馬コーポレーションの応接室は、いつ来ても整然としている。
遊戯はソファに座って、出てきたコーヒーに手を伸ばした。約束の時間より少し早く着いたので、モクバを待っていた。
新しいゲームの構想をまとめたファイルは、鞄の中に入っている。今日はその話を持って来ていた。海馬コーポレーションとの協力関係は、アテムが来る前からある。
モクバが入ってきた。
「お待たせ、遊戯。」
「ありがとう、モクバくん。海馬くんは元気?」
「うん。今は別の打ち合わせ中だ。」
「そっか。良かった。」
遊戯はファイルを取り出した。2人でページをめくりながら、暫く仕事の話をした。モクバは飲み込みが早く、要点を的確に拾う。兄に似ている、と遊戯はいつも思う。
ひとしきり話が終わって、コーヒーを飲む間があった。
「アテムも、元気?最近メッセージは来るんだけど、だいたいゴールドの話か、カードの話か、ゲームの話で。」
「元気だよ。」
とモクバは言うが、その言い方が、少し平坦だった。
遊戯はモクバを見た。
「……何か、あったの?喧嘩とか?」
「喧嘩はしてない。」
「じゃあ…?」
モクバは少しの間、コーヒーカップを見ていた。何かを整理しているような間だった。
「遊戯はさ…。財布が同じで、帰る家が同じで、お互いに親切にしたり甘えたりしてて、楽しいことを一緒にやってる関係って、何だと思う?」
遊戯は答えようとして、止まった。
「……何、それ。」
「兄様とアテムのことなんだけど。」
「え。」
「毎朝同じ食卓で、株の話とかカードの話とかしてる。兄様が手配したスマホをアテムが使ってる。アテムの口座は兄様が作った。アテムがゴールドを買い足すのを兄様が横で見てる。」
遊戯はモクバが1つ言うたびに、頭の中に絵が浮かんだ。
「先週は2人でカード開けてた。箱で買ったやつ。」
「……うん。」
「仲が悪いとかじゃない。むしろ普通に、何か、普通なんだよ。それが。」
モクバは溜息を吐いた。
短い溜息ではなかった。1ヶ月分くらいの重さがある溜息だった。
「何なんだろうな、あの2人。」
遊戯の頭の中で、何かがゆっくりと形を取り始めた。
財布が同じ。帰る家が同じ。親切にして、甘えて、楽しいことを一緒にやる。
それって、と、思いかけて、止めた。
いや、でも、と思った。
あの2人が、という前置きが、その先の言葉を複雑にした。あの2人が、という事実が、結論をするりと逃げていく。しかし逃げた結論はどこかに着地しようとしていて、着地しようとしている場所は、薄っすらと見えていた。
しかし確認する勇気はなかった。
「モクバくんは、困ってる?」
何とかそれだけ言った。
「困ってはいない。2人とも別に不幸そうじゃないし。ただ…。」
「ただ?」
「見ていると何かが疲れる。」
遊戯にはその疲れが、少し分かった気がした。
はっきりしないものをずっと見ていると、輪郭を探そうとして目が疲れる、そういう疲れ方だろう。
「そっか。」
「遊戯も同じ顔してる。」
「え。」
「さっきから。」
遊戯は自分の顔に触れる。そういう顔をしているつもりはなかった。
「してないよ。」
「してる。」
2人は少しの間、コーヒーを飲んだ。
窓の外には、童実野町の街並みが広がっていた。その中のどこかに海馬邸があって、今頃アテムはチャートを眺めているか、カードを並べているか、あるいは昼寝をしているかもしれない。
2人とも、それ以上その話はしなかった。
しかし遊戯の頭の中には、モクバの言葉がそのまま残っていた。
財布が同じで、帰る家も同じで、相手に親切だったり甘えていたり、楽しいことを一緒にやる関係。
帰り道、ぼんやりとそれを考えた。
考えながら、結論には触らないようにした。
その夜、遊戯はアテムにメッセージを送った。
「今日、海馬コーポレーションに行ったよ。」
「モクバに会ったんだろ?」
「うん。元気そうだった。」
少し間があって、
「ゴールドが少し動いた。いい引きだった。」
と来た。
それに笑って、「良かったね」と返した。
既読がついて、それきりになった。遊戯はスマホを置いて、天井を見た。
いい引きだった、とアテムは言った。
アテムがそういうことを言うようになったのは、現世に来てからだ。冥界の王が、いい引きだった、と言う。
遊戯の頭の中で、もやもやは答えを出さないまま、静かに居続けた。
4
「大会がある。」瀬人が夕食の席で言った。
「大会?」
「M&Wの公式大会だ。来週の日曜に開催する。」
アテムはスープを飲みながら聞いた。
「一般の参加者向けだがな。」
「そうか。」
「日曜だ。出るか?」
アテムは少し考えた。日曜。市場が休みの日である。
「出る。」
瀬人はコーヒーカップを置いた。
「パスポートの手配は俺がする。」
話は早かった。
大会当日は晴れていた。
勿論、現代の服で会場に入った。ジャケットの上にデュエルディスクを装着して、デッキを確認する。組み直したのは3日前で、今の状態には満足していた。
1回戦から、アテムは丁寧に闘った。
相手のデッキ傾向を数手で読み、展開を予測し、最短ではなく最も確実なルートで勝ちに行く。市場の読み合いと本質は変わらない。相手の手を推測して、次の動きを先読みして、逃げ道を塞ぐ。
2回戦、3回戦と進むにつれて、ギャラリーが増えていった。
無名の初参加者が、淀みなく勝ち上がっていく。それだけで目を引く。アテムは特に気にしなかった。決闘に集中していた。
決勝は、よく練られたデッキを使う相手だった。つまり、一番楽しい試合だった。それでも、最後の読み合いでアテムが上回った。
優勝した。
問題はその後だった。
インタビュアーが来た。1人ではなかった。
「今日の大会を振り返って一言。」
「序盤から相手のデッキを読むことに集中した。」
「決勝の山場はどこだったと思いますか?」
「相手が手札誘発を温存していると判断した3ターン目だ。そこで動きを変えた。」
「公式大会は初参加ですよね。普段はどこでどんな練習を?」
「海馬邸で実践だ。」
どよめきが起きた。アテムは少し首を傾けた。
「海馬、とは海馬コーポレーションの海馬社長のことですか?」
「そうだが?」
「どのようなご関係で。」
「決闘をする関係だ。」
また違うトーンのどよめきが起きた。
「普段はどこにお住まいで?」
「海馬邸だ。」
今度のどよめきは、また違う種類だった。
質問が増えた。
嘘をつく理由はないので、アテムは1つずつ答えた。しかし答えるたびに次の質問が来て、記者の数も増えていた。カメラが複数向いていた。
いつ終わるのか、分からなくなってきた頃、人が割れた。
「以上だ。」
瀬人の声だった。
アテムの手首が掴まれて、引かれた。
アテムは素直についていった。記者たちが何か言っていたが、瀬人は振り返らなかった。廊下を進み、スタッフ用の扉を開けて、中に入る。
扉が閉まると、外の声が遮断されて、やっと静かになった。
「余計なことを言いすぎだ。」
瀬人はアテムの手首を放した。
「聞かれたから答えただけだ。」
「だろうな。」
「嘘をつく必要もない。」
瀬人は何か言いかけて、止めた。
アテムは自分の手首を見た。まだ掴まれていたような感触が少し残っていた。
「結果は当然だな。俺が出ていない。」
「お前らしいな。市場が休みの日は有効に使えた。」
「不満はないのか?」
「ない。楽しかった。」
廊下の外でまだ人の声がしていた。スタッフが動いている音がする。瀬人は腕を組んで、扉の方を一度見た。
「暫くここにいろ。片付いたら出る。」
「分かった。」
アテムは壁に背を預けた。デュエルディスクの重みが腕にある。優勝した実感は、静かになって初めて少し来た。
「次の大会も出るか?」
「市場が休みなら。」
そうアテムは答えた。
瀬人は短く息を吐いた。呆れているのか、それ以外なのか、判断がつかない音だった。
瀬人が仕事を終えて戻るまで、その廊下に立っていた。
5
テレビをつけるのは、昼食の後の習慣になっていた。ニュースを流しながらスマホでチャートを確認する。どちらかが気になれば片方に集中する。特に気にならなければ両方を流し見する。現世に来て1ヶ月半ほどで、そういう過ごし方が定着していた。
画面が切り替わって、童実野町の商店街が映った。
リポーターが何か話していて、アテムはスマホから目を上げた。
「日本各地で話題のターメイヤですが、童実野町にも先月オープンした店舗が連日行列を作っています。」
画面に、丸いコロッケのようなものが映った。
ソラマメと香草を合わせて揚げたもの。外は薄く固く、中は緑で柔らかい。
アテムはテレビを見た。スマホを置いた。外出することにした。
現代の服に着替えて、財布を持った。財布の中には、持たされたカードもあるが、利確して引き出した現金もある。使い道に困っていたわけではないが、これほど明確な使い道は初めてだった。
海馬邸を出て、商店街の方向に歩いた。
テレビが言っていた通り、店はすぐに分かった。行列があったからだ。アテムは列の最後尾についた。
列はゆっくり進んだ。前に並んでいる人たちが、楽しそうに話している。アテムは前を向いていた。
店の近くまで来ると、揚げた香草の匂いがした。
アテムは少しの間、その匂いを吸い込んだ。
数千年前の記憶というのは、普段はそれほど明確には来ない。冥界でも現世でも、過去は過去として置かれている。しかし匂いというのは特殊で、嗅覚はどこか別の経路を通って来るのか、気づけば記憶の中の場所に引き戻される。
アテムは瞬きをした。
今は童実野町の商店街だった。
順番が来て、注文をした。受け取ったものは、記憶の中のものと見た目がよく似ていた。
一口食べた。
完全に同じではなかった。香草の配合が少し違うし、揚げ油も違うかもしれない。しかしそれで良かった。完全に同じである必要はない。
美味かった。
アテムは歩きながら食べた。
海馬邸に戻って、財布をしまう時にレシートが出てきた。
丁寧に折り畳まれた小さな紙。広げると、注文した品目と金額が並んでいる。
一番下に、小さな文字で発行元が記載されていた。
「海馬コーポレーション」
アテムはレシートを見た。
もう一度見た。
童実野町の商店街に最近出来たターメイヤの店。日本各地で展開している。
海馬コーポレーションが、日本でターメイヤを展開している。
アテムは暫くそれを考えた。考えながら、これは聞くべきことなのか聞かなくていいことなのかを判断しようとした。
夕食の席で、瀬人はコーヒーを飲んでいた。
「ターメイヤを食べた。」
瀬人が目を上げた。
「商店街に店があった。」
「そうか。」
特に何でもない口調だった。
「レシートに海馬コーポレーションと書いてあった。」
「出店許可は出した。日本市場への中東食文化導入の実証実験だ。収益は副次的なものだ。」
アテムは瀬人を見た。瀬人はコーヒーを飲んだ。それ以上何も言わなかった。
実証実験。収益は副次的。
アテムはそのレシートをまだ持っていた。何となく財布の中にしまった。
「美味かった。」
「そうか。」
その後、運ばれてきた夕食を食べた。
アテムは今日のターメイヤのことを考えた。香草の配合が少し違ったこと、それでも美味しかったこと、レシートの一番下の文字のこと。
瀬人は何も言わなかったが、それはやはり通常運転だった。
ターメイヤの店には何度か通っていた。やはり好物は良いものだ。
そして今度は1人ではなく、遊戯、城之内、本田の3人を呼んだ。
4人で列に並んで、4人で受け取って、4人で商店街のベンチに並んで座った。
「これか、うめぇな。」
「そうだろ?」
「エジプトの料理なんだっけ。」
「中東全域にあるらしい。エジプトにもあったぜ。」
「お前の故郷の味ってやつか。何か、いいな。」
城之内と本田が次々話しかける。
遊戯は黙って食べていたが、「美味しい」と言った。「素朴なのに、食べ飽きない感じ」
「そうだ、それなんだ。」
4人で暫く食べた。商店街は人通りがあって、どこかの店から音楽が流れていた。空は晴れていた。
「そういえばお前、最近ここよく来てるんだろ?」
本田が言った。
「たまに来ている。」
「すごいな、脱・引きこもりおめでとう。」
本田が笑う。
「引きこもっていたつもりはなかったんだが。」
「海馬邸から1週間出なかったんだろ、最初。」
「用がなかったからな。」
「それを引きこもりという」と本田は断言した。「でも今はちゃんと出てきてる。めでたい。」
「おめでとう」と遊戯も笑った。
「お前が食べ物に釣られるとはな。」
城之内も笑う。
「冥界の王がなあ。」
「釣られたという自覚はある。」
「自覚があるのか。」
「ある」とアテムは言ってから、少し考えた。「ただ…」
「ただ?」
「釣られたのが、ターメイヤだったのか。」
アテムは手の中のものを見た。
「それとも、最初から仕掛けられていたのか。」
3人がアテムを見た。
「仕掛けた相手に心当たりがあるのか?」
「1人いる。」
城之内が盛大に笑い出した。
「もしかして海馬が?わざわざ?」
「実証実験だと言っていた。」
「言い訳かよ。」
城之内は笑いながら言った。
「照れ隠しだな。」
「海馬が照れ隠しをするか?」
「しないとも言い切れないだろ、最近の話を聞いてると。」
アテムはターメイヤを一口食べた。
仕掛けられたとしたら、実に綺麗な仕掛けだった。海馬コーポレーションが展開する店が童実野町に出来る。テレビで紹介される。アテムが見る。食べたくなる。外に出る。
考えすぎかもしれない。実際に実証実験なのかもしれない。
しかし瀬人は、偶然に頼む人間ではない。アテムはそれをよく知っていた。
遊戯は何も言っていなかった。
アテムは遊戯を見た。遊戯はターメイヤを食べながら、どこか遠い目をしていた。何かを考えているような、考えないようにしているような、判断のつかない表情だった。
「相棒。」
「え、あ、なに?」
「美味いか?」
「美味しいよ」遊戯は笑った。少し急いで笑ったように見えた。「すごく美味しい」
「そうか。」
城之内と本田はまだ笑いながら話していた。海馬が童実野町に店を出したのは引きこもりを外に出すためだとか、さすがに買いかぶりすぎだとか、でもあの海馬だからとか。
遊戯はその会話を聞きながら、また少し遠い目をした。
今日は晴れていて、ターメイヤは美味く、仲間と並んでベンチに座っている。
「また来よう。」
アテムは言った。
「うん」と遊戯が頷く。今度の笑顔は自然だった。「また来よう」
モクバから連絡が来たのは、夜だった。
遊戯のスマホに短いメッセージが届いた。
「やっぱり何とかした方がいいよな。」
遊戯は即座に返した。
「ボクもそう思う。」
「何か考えてる?」
遊戯は暫く考えた。考えながら、自分が何を考えようとしているのかを整理した。財布が同じで、帰る家が同じで、親切にして甘えている、あの2人を、言葉にできる何かにするための方法。
「ある。」
そう遊戯は返した。
「聞かせてくれ。」
作戦は単純だった。
遊戯が、アテムの見ている前で、瀬人にアプローチをかける。アテムがそれを見て、自分の気持ちに気付く。
「お粗末すぎないか?」
流石にモクバも引いた。
「でも他に思いつかなかったんだ。」
「まあ、やってみるか。」
機会は思ったよりすぐに来た。
海馬コーポレーションで打ち合わせがあり、終わった後に瀬人本人が顔を出した。アテムも、今日はなぜかモクバに呼ばれてついて来ていた。
「俺は行く。」
そう、瀬人が言いかけた。
「海馬くん。」
遊戯が声をかける。
「何だ。」
遊戯は瀬人に向かって、練習した通りに少し上目遣いになった。笑顔を作った。
「今日の打ち合わせ、すごく助かったよ。海馬くんがいると、話が早くて。」
「当然だ。」
「頼りになります。」
瀬人は僅かに眉を動かした。それだけだった。
「それだけか?用がないなら帰れ。」
瀬人は、通常運転だった。
遊戯は笑顔を保ちながら、横目でアテムを見た。
アテムは遊戯を見ていた。
不思議そうな顔をしていた。首が少し傾いていた。
「……相棒?大丈夫か。調子が悪いのか?」
「え、何で?」
「何か変だぜ?」
「変じゃないよ。」
「目の開き方がいつもと違う。」
「そんな所、見ないでよ。」
モクバは、後ろで小さく頭を抱えていた。
海馬邸に帰ってから、夕食の後、アテムはソファに座ったまま、今日の遊戯のことを考えていた。
頼りになります、と言った。
上目遣いで、笑顔で。
アテムはその場面を反芻した。遊戯があれをやった意図が分からなかった。反応はつれなかったが、遊戯はいつもと様子が違った。
なぜあれをやったのか。やった結果、何を期待していたのか。
考えていくうちに、1つの仮説が浮かんだ。アテムは少しの間それを検討した。そして、試してみることにした。
瀬人は書斎にいた。
ノックをすると「入れ」と返ってきたので、アテムは扉を開けた。
瀬人はデスクで書類を見ていたが、顔を上げた。
「何だ。」
アテムは瀬人の前まで歩いた。
「こないだの大会の件で、礼を言っていなかった。段取りをつけてくれた。おかげで出られた。」
「それがどうした?」
瀬人は言いかけた。
アテムは遊戯がやった通りに、少し上を向く角度を変えた。
「頼りにしている。」
瀬人の手が止まった。
書類を持ったまま、止まって、アテムを見た。
「……。」
それから、瞬き2つ。
アテムはそれを見た。
見て、今日の遊戯がやったことの意味が、輪郭を持って浮かび上がってきた。
遊戯は瀬人に対してやった。
瀬人は遊戯には反応しなかった。
アテムがやると、反応した。
アテムは暫く黙って立っていた。
瀬人も黙っていた。書類を持ったまま、視線をアテムから少し外していた。
「用はそれだけか?」
声が、普段より低かった。
「そうだ。」
「なら、出ていけ。」
「うん。」
アテムは書斎を出た。
廊下を歩きながら、先程の瀬人の瞬きのことを考えたて、自分が今、どういう状態なのかも考えた。
胸の辺りに、普段とは違う何かがあった。名前をつけるとしたら何になるのか、アテムにはまだ分からなかった。
ただ、悪いものではなかった。
翌朝、遊戯にメッセージを送った。
「昨日のは、そういうことだったか。」
暫くして返事が来た。
「……どこまで分かったの?」
「大体。」
既読のまま、暫く返事がなかった。
それから「アテム、鈍くなかったんだね。」と来た。
アテムはスマホを置いた。窓の外では朝が始まっていた。
6
「大体分かった」と送ったのは本当だった。しかし大体は、大体でしかなかった。
アテムは自室のソファで、昨日からのことを整理していた。
遊戯が瀬人にアプローチをかけた。瀬人は反応しなかった。アテムが同じことをすると、瀬人は反応した。つまり瀬人は、遊戯ではなくアテムを見ている事は分かった。
しかし、遊戯がなぜあれをやったのか、という部分の解釈は、アテムの中で盛大にズレていた。
遊戯は瀬人が好きだ。だから瀬人にアプローチをかけた。しかし瀬人はアテムを見ている。遊戯はそれに気付いていない。
大体、そういうことだ。アテムはその結論に至った。
至って、暫く動けなかった。
遊戯が、瀬人を好きだ。
瀬人は、アテムを見ている。
アテムは、瀬人が自分を見ていることを、悪いとは思っていない。むしろ昨夜の胸の辺りの感覚を思い返すと、それは明確に悪いものではなかった。
つまりアテムは、遊戯と
「……。」
アテムは溜息を吐いた。
遊戯と次に会った時、アテムは普通にしようと思っていたが、普通にできなかった。
「アテム、今日のターメイヤ…」
「そうだな。」
「え、まだ何も言ってないけど?」
「ん、そうか。」
遊戯がアテムを見た。
「何か、変じゃない?」
「変じゃないぜ。」
「変だよ。」
アテムは遊戯から目を逸らした。10代の少年の視線を避ける王。情けないとは思った。しかしどうしようもなかった。
遊戯の顔を見ると、瀬人にアプローチをかけていた遊戯の顔が重なった。
それが重なると、昨夜の書斎の場面が来た。胸の辺りの感覚が蘇る。
「キミさ、本当に大丈夫?」
「大丈夫だ。」
全く大丈夫ではなかった。
埒が明かなかった。
1人で考えても同じところをぐるぐるするだけで、出口が見えない。誰かに話すべきだという結論に至った。しかし誰に話すのか、という問題があった。
モクバは瀬人の弟だ。城之内と本田は、話すと大騒ぎになる。
アテムは暫く連絡先一覧を眺めた。
1人、候補があった。
遊戯から聞いていた番号だった。仲間内で唯一の女。
アテムは電話をかけた。
「アテム!久しぶり、どうしたの?」
「相談がある。」
「相談?」私でいいの、という驚きが声に混じっていた。「もちろんいいけど。」
アテムは話した。
遊戯が瀬人にアプローチをかけたこと。瀬人はアテムにしか反応しなかったこと。自分が遊戯と恋敵になってしまったかもしれないこと。
話し終わると、笑い声が来た。かなり盛大な笑い声だった。
「杏子?」
「ごめん、ごめんね、でも…」笑いながら言っていた。「アテム、私、遊戯と付き合ってるんだけど。」
アテムは沈黙した。
「……?」
「彼氏彼女。もう2年くらいになるかな。」
「…それは。」
「遊戯が海馬くんを好きなわけないじゃない。それは絶対、別の意図があったんだよ。」
杏子はまだ笑っていた。
アテムはスマホを持ったまま固まっていた。
遊戯は瀬人を好きではない、何故なら杏子がいる。
では遊戯が瀬人にアプローチをかけたのは。
「……最初から。」
「多分ね。」
杏子は言った。笑いが落ち着いて、少し優しい声になっていた。
「アテムは遊戯のことが心配だったんでしょ?恋敵になったかもって悩むくらい。」
「それは…。」
「それがどういうことか、自分で考えてみて。」
アテムは考えた。遊戯を恋敵だと思って困った。
なぜ困ったのかを、もう少し正確に辿ると。
「そういうこと…なのか?」
「そういうことだと思う。」と杏子は言った。
「で、海馬くんはどうなの」
「まぁ、その…。」
また笑い声が来た。今度は短かった。
「じゃあ大丈夫じゃない。頑張れ。」
電話が切れた。アテムはスマホを膝の上に置いた。
窓の外は夕方になっていた。
瀬人が自分を見ている。自分は瀬人に見られなくなるのが嫌だ。
これを言葉にすると何になるのか、今度はわりと、分かった。
遊戯にメッセージを送った。
「杏子と付き合っているなら先に言ってくれ。」
すぐに返事が来た。
「言ったら作戦がバレるじゃないか。」
それから少し間があって、
「どこまで分かった?」と来たので
「大体全部」と送った。
また間があった。
「アテム!」
それだけ来た。
文字から遊戯の声が聞こえるようだった。
アテムはスマホを置いて、天井を見た。
全部分かった。後は、どうするかだった。
ノックをすると「入れ」と返ってきた。
瀬人の部屋に入ると、デスクで書類を見ていた。いつもと同じ光景だった。アテムは扉を閉めて、デスクの前まで歩いた。
瀬人が顔を上げた。
「何だ。」
「話がある。俺達は、どうすべきかだ。」
瀬人は書類を置いて、アテムを見た。
「……どういう意味だ。」
「俺達のことだ。」
「俺達?」
「俺と、お前だ。」
アテムの表情は、真顔だった。
「現状に不満があるのか?俺はないが。」
「俺もない。」
「では何が問題なのだ?」
「不満はないが、どうすべきかを決めていない。それが問題だ。」
「何を決める必要がある。」
「だから…。」
「現状のままでは困るのか?」
アテムは口を閉じたが、瀬人は続ける。
「食事をして、眠って、決闘をして、市場を見て。それ以外でも何でも出来る。何がしたい。」
「分からない。」
「分からないのか。」
「分からないが、どうにかすべきだと思う。」
瀬人はアテムを見て、何秒か、沈黙した。
「……意味が分からん。」
瀬人は言った。
「俺も、うまく説明できていない。」
「…だろうな。」
アテムは椅子を引いて、デスクの前に座った。座ることを許可も拒否もされなかったので、そのまま居座る。
「順を追って話す。」
「好きにしろ。」
アテムは全て話した。
遊戯がアプローチをかけていたこと。瀬人が反応しなかったこと。自分が同じことをすると反応があったこと。遊戯が瀬人を好きなのだと勘違いしたこと。杏子に連絡して、全部勘違いだったと分かったこと。
それから、自分の感情について、分かる限りを話した。
瀬人がアテムを見なくなるのが嫌だと思ったこと。その嫌だという感情が何なのかを考えたこと。考えて、分かったこと。
話しながら、自分の感情を声に出すのが思いのほか難しいと気付いた。
瀬人は途中で口を挟まなかったし、書類にも手を伸ばさなかった。
アテムが話し終えると、少し考えてから言った。
「…大体分かった。」
「大体か。」
「大体だ。」
瀬人が立ち上がって、デスクを回ってアテムの前に来たので、アテムは座ったまま瀬人を見上げた。
「お前の言い分は分かった。」
声が、普段より少し低かった。
「…試してみるか?」
「試す?」
「変わらないだろうがな…大体は。」
その意味を問う前に、瀬人の手がアテムの腕に触れて、引き寄せられた。
立ち上がる形になったアテムと、瀬人の距離が、急に縮まった。
瀬人がアテムの顔に、自分の顔を近づけた。そして、触れる直前で止まった。
「異論があるなら言え。」
息がかかる距離で、声は静かだった。
アテムは瀬人を見詰めた。近い距離で見る瀬人の目は、真剣で、試しているのではない。
「ない」
そう答えた。
変わらないだろうがな、と瀬人は言った。
大体は、その通りだった。
翌朝も食事は出て、市場は動いて、決闘の相手がいた。
ただ、1つだけ変わったことがあった。
朝食の席で、瀬人がコーヒーを飲みながら何かを読んでいた。アテムが席についた時、瀬人は何も言わなかった。しかし読んでいるものから、一度だけ目を上げた。たったそれだけ。
大体、変わらなかった。
