──と、心は軋んだ。
アテムは、最近、考え事をしている時間が増えていた。
正しくは、考えているというより、何も考えずに、意識が遠のくことが多い。
「ねえ、もう1人のボク。」
遊戯の声に呼ばれて、ふと意識が戻る。
何をしていたのか自分でも分からない。そんなことが増えていた。
テレビの画面に、記者会見の映像が映し出された。
見慣れた企業ロゴが目に入る。その前に立つ男が、流暢な英語で何かを語っているのが聞こえてきた。
低く落ち着いた声に、切れのある発音。
聞き慣れた声に、アテムは、はっとしたように視線を上げ、そのまま動けなくなった。
テロップが画面を流れていく。
《KaibaLand USA 計画発表》
文字の意味を追う余裕はなかった。
内容は見なくても分かる。夢のためにアメリカへ飛んで行ったのだと知っていたから。
なのに、目も、耳も、テレビから離れなかった。
遠い国で、現世の時間の中で、当たり前のように生きて、未来の話をしている好敵手。
話すことは特にないのだが、何となく、話をしてしておきたいと思った。
そんなアテムの背中を、遊戯が眺めていたことには気付いていなかった。
アテムがテレビから視線を外さなくなって、どれくらい経っただろう。
遊戯は何度か声をかけようとして、結局、やめた。
あの沈黙に、言葉を差し込んではいけないと分かっていたからだ。
ある夜。
机の上に、そっとメモが置かれた。
「…出来るだけ、早くね。」
それだけ言い残して、遊戯は心の奥へと引っ込んだ。これ以上は踏み込むものではないから。
残されたメモには、あいつの名前と、連絡先。
アテムはそれを見下ろして、しばらく動けずにいたが、指先でそっと文字をなぞった。
ペンの凹凸の感触が、やけにリアルだった。
メモの存在は、ずっと頭の片隅にあった。
それでも、アテムはどうしても連絡することが出来ずにいた。
ダイヤルをすれば何かが終わってしまう気がした。声を聞いてしまえば、戻れなくなる気がした。
それでも旅立ちの日は、容赦なく近付いて来るものだ。
残された時間を数えながら、期限は指の間から零れ落ちていく。
それが落ちきる直前になって、アテムは、連絡先の書かれたメモを片手に、端末を手にした。
冥界へ還ってからのアテムは、王としての務めを淡々と果たしていた。
裁き、定め、祈り、命の循環を見届ける。
それらはかつて当然だった役割。
そんな時間の中、時折、現世の人々の顔が脳裏をよぎることはあった。相棒こと遊戯は勿論、仲間たち。
だがそれらは、もう胸を締め付けるものではなく、遠い記憶として、心の隅に静かに置かれている懐かしさとなっている。
ある日、私室で書き物をしていた時のことだった。
手元にあった小さなパピルスの欠片に、アテムは無意識のまま、文字を走らせていた。
書き終えてから、指が止まる。そこに記されていたのは、かつて現世で何度も見詰めた、あの連絡先だった。
現世で持っていたメモと、あまりにもよく似ている。
サイズも、形も、配置も、更には迷った折り目の跡さえもそっくりだ。
アテムは小さく息を笑って、そのパピルスをそっと折り畳んだ。
そして、それを処分することも、燃やすこともせず、私室に置くことにした。
アテムが現世に干渉したのは、一度きりだった。
世界が、完全に闇に飲まれようとした、その瞬間に。
姿を現したのも短い時間で、出来たことは、ほんの僅かだった。
遊戯とは、少しだけ言葉を交わした。
「キミ、海馬くんに何を言ったの?」
不意に向けられた問いに、アテムは首を振る。
「いや、特に何も言っていないぜ?」
「…だったら、何でこんなに拗れているのさ。」
小言めいた声だった。責めているわけではなさそうだが、呆れたような、心配するような。
アテムは、それには答えなかった。
見回せば、意識を失って倒れている人々がいた。
そして、その中に、つい先程まで闘っていた瀬人の姿もあった。
動かない体。静かな呼吸。それでも、生きている。
アテムは、黙ってそれを見下ろして、視線を逸らした。
声をかけることも、触れることもなく、遊戯以外、誰とも会わないまま、再び冥界へ還ることにした。
「海馬くんに会っていかないの?」
「……あいつなら、大丈夫だ。」
そう答えて、背を向ける。
大丈夫でないのは、自分の方だと何となく思った。
冥界が、ざわついていた。
静寂の奥で、確かに波紋が広がっている。
何者かが侵入したのだと、すぐに分かった。
「来たか。」
思ったのは、それだけだった。
それ以上考えれば、何かがこぼれ落ちてしまいそうで、
アテムは思考を止めた。
人払いをして、誰も近づけず、玉座の間で、1人で待つ。
やがて、空気が変わる。瀬人が現れた。
記憶の中の像と変わらない姿、背筋の伸びた立ち方も、鋭い視線も。
ただ、ほんの少し、どこか楽しそうに見えた。
アテムは立ち上がる。
「…本当に来たのか。」
口元に浮かんだのは、好敵手としての笑みだった。自然な、いつも通りのそれ。
けれど胸の内は、ひどく複雑で、何を言えばいいのか、分からないでいた。
言葉が見つからない。
アテムは、瀬人の正面に立った。
言いたいことは、確かにある。聞きたいことも、あるはずだった。
けれど、それが何なのか分からない。
言葉にしようとした瞬間に、輪郭を失っていくようだった。適切な言葉が見当たらない。
瀬人は何も言わずに、デュエルディスクを押し付けてきた。
アテムは、当たり前のようにそれを受け取った。
決闘は、何戦か続いた。
勝敗に、以前のような意味はない。ただ、カードが動き、盤面が変わり、時間が流れる。
「次だ。」
デュエルディスクを構え直す瀬人を見た瞬間、アテムの胸に、じわりと何かが染み込んだ。
現世で当たり前だったもの。
対等で、容赦がなくて、逃げ場のない好敵手という関係。
それが、今ここにある。
アテムは、デュエルディスクを構えなかった。
ぼんやりと、瀬人の目を見詰めたまま立ち尽くしていた。
「早くしろ。」
声が届いたが、体が動かない。
──そこに居る。
それが急に現実味を帯びて、何かが、静かに決壊した。
気付けば、瀬人はデュエルディスクを構えた腕を下ろし、アテムの目の前に立っていた。
そして、何も言わず、何とも言えない顔でじっとこちらを見ていた。
その表情の意味が、アテムには分からなかった。
問いかけることも出来ず、ただ視線を返していると、瀬人が手を伸ばしてきた。
親指が、目元をなぞった。拭う、いや、確かめるような。
その瞬間、嫌でも理解させられた。
自分は、泣いていたのだと。
アテムは思わず息を詰めた。
「俺……。」
声に出たのは、それだけで、続く言葉はやはり見つからない。
言い訳も、説明も、必要なのかどうかすら分からない。
ただ1つ、分かることがあった。
今は、闘えない。
「今日は、もう……。」
それが決闘の終わりを意味することだけは、確かだった。
アテムは視線を逸らし、その場を離れようとした。
しかし、瀬人は、ついてきた。用があるのかないのかは分からない。
「少し分析していく。」
いつもの調子で、そんなことを言いながら。
結局、2人で連れ立って部屋へ向かう。
泣いたところを見られた事が、遅れて重くなってきていた。
涙はもう引っ込んでいるが、泣いたのは確かで、それはしっかり見られている。
気まずさ、という言葉では足りない。
部屋に戻っても、瀬人は何も言わなかった。
寛ぐ様子はない。先程のことに触れないが、そこにいる。
アテムは、何を話せばいいのか分からなかった。沈黙に耐えかねるように、茶を用意するよう従者に指示を出した。
湯気の立つ器を、瀬人の前に置く。
「まあ…ゆっくりしていってくれ。」
それだけ言って、向かいに座った。
瀬人は器に視線を落とした。
「ああ。」
それ以上、何も言わない。
茶の香りだけが、部屋に満ちていく。
瀬人は、しばらく何も言わずに座っていた。
茶に手を伸ばすこともなく、ただ器の縁を見つめている。
やがて、低い声が落ちる。
「アテム。」
名を呼ばれて、アテムははっと我に返った。
思考がどこかへ逸れていたことに、今さら気付く。
瀬人は視線を上げないまま続けた。
「言いたいことがあるのなら、言え。」
──言いたいこと。
アテムは言葉を探したが、何1つ思い浮かばない。
胸の内に何かはあったが、やはり形にはならなかった。
仕方なく、逃げるように返す。
「…お前こそ。」
それを聞いた瀬人は、ほんの僅かに口角を上げた。
「俺が話すのか?お前が姿をくらませた時から、今までの話を聞きたいのか。」
淡々とした口調。
怒りや責めるような様子は、そこにはないが、アテムは視線を伏せた。それに関しては、自分が悪い。
何も言わず、何も残さず、現世を去った。
「それは……すまなかった。」
それ以上の言葉は続かない。
瀬人は、その謝罪にも表情を変えなかった。
代わりに、指先を動かす。
「それで、これは何だ。」
その指に挟まれていたのは、小さな紙切れ。
使い古され、折り目のついた、連絡先の書かれたパピルス。
アテムの胸が、静かに締め付けられる。
私室に置いたはずのものだ。
時々、無意識に眺めていたそれを、出しっぱなしにしていた。
瀬人は、紙に書かれた数字を一瞥しただけで、視線を戻す。
「お前は何も言わずに消えた。だが、連絡をしようと思えば出来た。」
並べられる事実に、アテムは何も言えない。
現世を去る直前、端末を手に取り、メモを握り締めていた。
だが、結局、電話をかけることが出来なかったのだ。
それを、今ここで言葉にする術がない。
沈黙が落ちる。
瀬人は、その紙を指に挟んだまま、アテムを見ている。
逃げ場はない。しかし、責められて、追い詰められている感覚もない。
アテムは、ようやく息を吐いた。
「……出来なかった。」
理由も、言い訳もない。自分でも理由が分からなかったから。
瀬人は、初めてその言葉を真正面から受け取るように、アテムを見て、紙片を机の上に置いた。
指先が離れ、まるで役目を終えたかのように、それは静かに伏す。
「出来なかった、か。」
低く反芻するように呟いてから、瀬人は顔を上げた。
「ならば……今は出来るのか?」
その一語で、空気が変わる。逃げ場を塞ぐようで、1つだけ残された道。
アテムは息を詰めた。
胸の奥で何かが軋む。
冥界での日々、王としての役割、当たり前になった静けさ。
それらが、一瞬で意味を失いそうになる。
言葉が、すぐには出てこない。
瀬人は腕を組み、アテムの答えを待っている。
アテムは視線を落としたまま、拳を握り締めた。
出来なかった。
あの時は。
だが、そのままで良いとも思っていない。
「……分からない。」
アテムが絞り出すように言う。
「出来るかどうか、分からない。だが…。」
そこまで言って、また言葉が詰まる。
瀬人の視線が、逸れない。
「だが?」
促す声は、低く、静かだ。
アテムは、ようやく顔を上げた。
「ここに、お前が居る。それで…。」
喉が詰まる。続きを言えば、何かが決定的に壊れる気がした。
瀬人は、その沈黙を肯定も否定もしない。
「俺は…。」
静かに口を開く。
「出来るかどうか分からない相手を、追い詰める趣味はない。」
一拍置いて、ふっと息を吐いた。
「だが、出来なかったままで、終わらせる気もない。」
瀬人は立ち上がり、アテムの前に立つ。
距離は近いが、触れない。
「選べ。今ここで、何もしないか、それとも──」
一瞬、言葉を切る。
「俺を見るか。」
アテムの心臓が、大きく脈打った。
決闘でも、王としての務めでもない。
ただ、瀬人を見るという選択。
答えはまだ出ないが、視線だけは逸らさなかった。
アテムは、瀬人の目を、正面から見詰め返した。
そして、しばらくの沈黙の後、視線を逸らさないまま、言った。
「……見るのは、やめる。」
瀬人の眉が、僅かに動く。
「お前の姿は、ずっと見てきた。…見るだけを、やめたい。選びたいんだ。」
静かな声だった。
だが、今度は逃げてはいない。
「選んでいいなら、今度は、お前が俺を見てくれ。」
瀬人は、一瞬だけ黙ったあと、鼻で笑った。
「俺に命令するな。王にでもなったつもりか?」
その言葉で、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
アテムの肩から力が抜けた。小さく息を吐く。
「俺は、王だぜ。」
ただ、思い出しただけの声音。
瀬人は、その顔をじっと見た。強がりでも、虚勢でもない。
「……厄介な男だな。」
低く呟いて、瀬人は少し、距離を詰める。
アテムは、もう、視線を逸らさなかった。
「いいだろう。」
その一言で、何かが確定する。
「見てやる。俺は逃げない。分析もなしだ。」
瀬人の視線が、正面からアテムを捉える。
王でも、好敵手でもない。1人の人間として。
「お前も、目を逸らすな。」
アテムは、ゆっくりと頷いた。
言葉はもう要らない。
ここで交わされたのは、約束ではない。
冥界の静寂が、温度を持ったように感じた。
アテムは、無意識に手を伸ばしていた。
そこに居ると分かっていても、触れなければ実感できなかったから。
指先が、瀬人のコートの端に触れるた瞬間。
「動くな。」
低い声と同時に、手首を取られた。
抗う間もなく引かれ、視界が近づき、次の瞬間には、瀬人の腕の中に収まっていた。
抱き締められている、囲われている。
確実に「ここだ」と示す距離で、体温が、じわりと伝わる。
アテムは、思わず力を抜いた。抵抗する理由が、見当たらなかった。
耳元で、瀬人の鼓動が聞こえる。規則正しく、強く、静かだ。
「…安心したような顔をするな。」
呆れたような声。
「こんなところで気を抜くのか。」
皮肉の筈なのに、突き放す気配はない。
腕は緩まらない。アテムは、額を瀬人の胸に預けた。
「…安心しているんじゃない。」
「ならば何だ。」
「…戻ってきた気がする。」
言葉にした瞬間、自分で驚く。
王としてではない、役割でもない。ここに居るだけ。
瀬人は何も言わなかった。
しばらくの沈黙のあと、ようやく口を開く。
「言いたいことは、それだけか?」
問い詰める声音ではない。
今度は逃げ道も、時間稼ぎも与えない、静かな問い。
アテムは、しばらく黙ったまま、瀬人の衣を軽く掴んだ。
子どもじみた仕草だと分かっていても、やめなかった。
「聞いてやる。言え。」
そして、ようやく。
喉の奥に引っかかっていた言葉を、吐き出す。
「──会いたかった。」
たった、それだけ。
長い沈黙の後で、ようやく許された、本音。
瀬人の腕が、少しだけ強くなる。
「……それを言うのに、随分と遠回りをしたな。」
声は低い。
だが、そこに嘲りはない。
アテムは、目を閉じた。
「そうだな。」
現世から、ずっと。随分遠回りをしたものだ。
それでも今は、王ではなく、好敵手でもなく、選んだ結果として、ここにいる。
夜は、何事もなく更けていった。
言葉は、それ以上増えなかった。
瀬人の腕は離れず、アテムも身を起こさない。
互いに動かないまま、ただ、呼吸だけがゆっくりと重なる。
冥界の静寂は深く、現世のように時間を刻む音もない。
それでも、確実に、夜は流れていた。
アテムは目を閉じたまま、瀬人の体温を数える。胸に当たる鼓動。背に回された腕の重さ。指先が、ほんの僅かに動く気配。
触れている。それだけで、いい。
王である必要も、好敵手である理由も、今は、どこにも要らない。
「…眠らないのか?」
瀬人の声が、低く落ちる。
「眠ってしまったら、消えそうだ。」
正直すぎる答えに、瀬人は何も言わなかった。
ただ、腕に込める力を、ほんの僅かに強めた。
やがて、冥界の空が淡く変わり始める。薄い、夜明けだ。
だが、確実に「朝」だと分かる色。
アテムは、ゆっくりと目を開けた。
世界は変わっていない。
瀬人も、そこにいる。触れている体温が、まだ在る。
「…夜が明けた。だからと言って、何かが終わる訳ではない。」
瀬人の言葉は、淡々としている。
アテムは、小さく息を吐く。
「……ああ。」
それだけで、充分だった。
何も交わさず、何も約束せず、ただ、同じ朝を迎えた。
それだけで。
